鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

松本城~美しき天守

2011-01-10 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 1 2 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 6 時 5 5 分

長 野 県 松 本 市

国 宝 ・ 松 本 城



松本市内のファミレスを出た私は、松本城【国指定史跡】へと歩きました。
到着すると・・・真っ暗。
さすがに早朝では、ライトアップの照明は落とされているようでした。
松本城の入口前にあるコンビニで、週刊誌を立ち読みしながら夜明けをじっと待ちました。

そして6時55分ごろ、空が白く明るくなってきたので、城周辺を散歩することとしました。



まずは天守のほうには向かわず、二の丸のほうへ。



二の丸御殿跡
藩政が行われる場所で、かつ藩主の住まいであった場所が、御殿です。
もとは本丸に御殿があったようですが、焼失したため、二の丸に新たに御殿が建てられたそうです。
以後、幕末まで藩政が行われていました。

 

二の丸と三の丸を隔てる太鼓門【再建】。
二の丸の外を囲う外堀の土橋上にあって、一の門が高麗門、二の門が櫓門となっていて、一二の門の間の空間が包囲されている枡形構造となっています。
もとは太鼓楼が築かれており、時刻の合図、登城の合図などの発信源として重要な役割を果たしていたそうです。


そして・・・天守群とご対面。
天守群は本丸に建っていますが、早朝では本丸に立ち入ることができません。
二の丸から、内堀ごしに天守を仰ぎ見ます。



まずは、内堀南東から。



内堀真向かいからの天守群。
松本城の写真でよく見る画角ですね。



西側からの天守群。



内堀にかかる朱塗りの橋・(うずみ)の橋
ここからの天守群も、写真でよく見る画角とあって秀逸ですね。


天守閣をじっくり眺める以外にやることはありません。


1時間後・・・。



相変わらずの美しい天守。
天守群は5棟の建物から成っております。

一番右、赤い欄かんがついているのが月見櫓【国宝】。
その隣、2層の建物が辰巳附櫓【国宝】。
中央、高くそびえ立っている大天守【国宝】。
一番左にある、3層の建物が(いぬい)小天守【国宝】。
画像からは見づらいのですが、大天守と乾小天守の間には渡櫓【国宝】があります。

そしてこの天守群は、カラスが空を舞おうとする姿に似ていることからから、松本城は「烏城」とも称されます。
その美しさは、西の「白鷺城」姫路城のそれとは対になっているようですね。



本丸に入れる時刻は、8時半。
それまで、美しい天守を眺めつつ、信州の寒さとの闘いに身を震わせていました。




午 前 8 時 3 0 分

黒 門 が 開 門


松本城の黒門【再建】。



待ちに待った開門時刻。



松本城に到着して約1時間半、ようやく本丸に入ることができました。


松本城は、元を深志城といい、戦国時代には守護の小笠原氏の支配に属していました。
しかし当主・小笠原長時の代に、甲斐の武田晴信(信玄)が侵略してきました。
長時は追放され、深志城は武田氏の支配下となります。

武田信玄の死後、跡を継いだ子の勝頼長篠の戦いで大敗。
その後織田信長による侵略が始まり、天正10年(1582年)天目山の戦い(甲斐国)にて滅亡。
甲斐・信濃は一時的に織田領となります。

直後、信長が本能寺で斃れると、そのどさくさで徳川家康がこの地を攻め取り、小笠原長時の子・貞慶が城主に返り咲き、名を松本城に改めました。

徳川家康が豊臣秀吉に帰順すると、家康は関東に転封となり、小笠原氏もこの地を去りました。
後を受けたのは、もと家康の重臣・石川数正(かずます)でした。

石川数正と子の康長の代に、城下町・松本が形成され、「烏城」ともうたわれる天守が築かれました。
石川康長はのちに江戸幕府により改易されてしまいますが、その後の6氏21藩主の治世を経て、天守は400年の風雪に耐えて現存しています。




天守の中へ。
入場料は、松本市博物館との共通券で600円。(※旅行当時)
松本城は博物館との共通券しか売っていないようです。
時間の関係上、博物館はスルーしなければならないのですが・・・。


松本城は、戦乱の世がまだ完全には終息していなかった時代の城なので、優雅な姿とは裏腹に、内部はじつに実戦的な構造となっています。



急な階段に、低い天井。
特に4階から5階へ上がる階段は、傾斜が60度、1段の高さが約40センチと、かなり上りにくくなっています。
時間帯によっては、この急な階段を先頭に天守内の渋滞が発生するのです。
ただ、今回は早朝ということもあり、観光客が少なかったので、ゆっくりと城内を巡ることができました。

逆に、最上階へ続く階段は、重臣のみが上るものとされ、途中に踊り場があり傾斜も緩やかになっています。



3階は唯一窓がありません。
このため実際は6階建ての大天守は、外観では5層となっています。
この空間は外から見えないので、戦時にはここに兵を隠して敵を待ち受けるための構造でした。
天守の構造をさす時に「●層▲階」と表しますが、この数にズレがある場合はこういった武者隠しの階があることになります。



最上階の天井には、松本城を護る神「二十六夜神」が祀られています。



大天守の最上階から下りました。
こちらは月見櫓の内部。
他の棟が閉鎖的なのに対し、月見櫓は三面が開放できます。
この月見櫓と隣りの辰巳附櫓は、天下泰平の世となった江戸時代に増築されました。


天守の中では、鉄砲などの展示がありました。
当時の私にはあまり興味が湧くこともななかったので、割愛。
「馬上筒」という騎馬隊用の鉄砲も展示されていたのですが、案外馬上筒はデカかったです。
あれを扱う騎馬鉄砲隊はさぞ大変だったでしょう。



外に本出ました。



本丸には「清正公駒つなぎの桜」という桜の木が立っています。
城主・石川康長が、加藤清正に馬を贈るため、馬2頭を桜につないだといいます。

康長「貴殿に馬を贈るため、それがしが2頭選び申した。
  どちらか貴殿のお気に召すほうを連れて帰られよ」
清正「貴殿じきじきに選んだ馬をそれがしごときの眼で選ぶは無礼。
  2頭とも選ぶのが礼儀というものでござろう」

清正はチャッカリと、石川さんから馬2頭を譲り受けてしまったそうな。



100名城スタンプは、本丸の事務所にありました。



29番、松本城!
失敗してしまった・・・。






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