鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

名胡桃城・前編~目と鼻の先

2019-03-24 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 0 5 分

群 馬 県 沼 田 市

J R 沼 田 駅



沼田駅の待合室で、味噌パンバウムクーヘンを頬張りながら、電車を待っていました。



沼田駅はLED発車標がないのでわかりづらいですが・・・
こんどの電車は、11時12分発 上越線 普通電車 水上行きです。



電車は定刻どおりに発車し、



後閑駅で下車しました。
駅名標でもわかるとおり、沼田からたったの1駅。
沼田城から見ればまさに目と鼻の先のところに、今回登城する名胡桃城があったのです。



【今回の乗車記録】

JR東日本 沼田駅 3番線 11時12分発
上越線 普通 水上行き 4両
後閑駅 1番線 11時17分着

*所要時間 5分
*移動距離 5.2km
*運賃 18きっぷ使用(使用しない場合、190円)




午 前 1 1 時 1 9 分

群 馬 県 利 根 郡 み な か み 町

J R 後 閑 駅




無人駅のわりには駅舎が立派な後閑駅
1日平均乗車人数も785人(2017年度)もおり、後閑駅を管理しているはずの水上駅の2倍以上なのです。
(ちなみに水上駅の2017年度の1日平均乗車人数は、385人)

私以外にも、夏休み中の学生と思われる者どもが多く下りて行きましたが、それらは皆路線バスに乗って行ってしまいました。
どうやら、後閑駅から歩いて名胡桃城へ向かおうというのは私一人だけのようです。

後閑駅から名胡桃城へ行ける路線バスは存在しないようなので、意を決して足を踏み出します。





河岸段丘の高台にある後閑駅からの眺め。
ここからあっちへ向かうんだというのが一目でわかります。

駅ロータリーからの道路と、駅前を進む幹線道路・群馬県道61号との交差点には、みなかみ町役場があります。
この交差点を過ぎると、河岸段丘を下る坂へ。



後閑駅から約150メートル。
「月夜野」を示す青看が立っていますが・・・



小さいながらも存在感のある案内看板があります。
名胡桃城への道は、基本的にこの看板に従って進んでいきます。
なので青看を無視して、交差点を左へ曲がります。


しばらくは道なりです。



わき目を振ると、向かいの山肌に立っている看板が見えます。
ああ、あの山の方に向かっていくんだな・・・なかなかキツそうだ・・・。
それにしても、どこまでこの道を歩いていくんだろう・・・不案内な非地元民の私が不安を感じ始める頃、



あと1.9kmの案内看板が立っています。
不安を払しょくする、じつに絶妙なタイミングです。

看板は赤地に真田の六文銭
名胡桃城さんも、沼田城さんと同様、真田の城であることを前面にアピールしているようですね。

 

先ほどから見えていた高規格そうな道路が、眼前に現れます。
ここにもしっかり案内看板が立っているのでこれに従い、ガード下を通らずに右折します。



100メートルほどで、次の分かれ道。
案内看板を見てもちょっとばかり迷うかもしれませんが、細い上り坂の方を進んでいけば正解です。
名胡桃城まではあと1.4kmともう少しですが、ここからがちょっとキツいです。



国道17号月夜野大橋に合流します。
対岸の河岸段丘へと上っていくため、この橋は終始上り坂になっています。



向こうに見えるのは沼田の街と、赤城山



眼下には利根川が流れています。
道は上りでキツいですが、心地よい眺望を楽しむことができます。



対岸から見えていた看板、やはり名胡桃城のものだったようですね。



月夜野大橋を渡り終えても、上り坂は続きます。
道路は崖と森に挟まれ視界は不良、もうひと踏ん張りといったところです。
この日の気温は31℃、水分補給が欠かせませんね。
月夜野大橋から名胡桃城までは民家も自販機も一切ないため、夏場の水分は必ず確保しておきたいところです。



進行方向右側の森が開け、名胡桃城の曲輪と思われる空間が見えてきました。
向こう側には真田六文銭ののぼりも立っていますね。
あと少しです!




午 前 1 1 時 5 9 分

名 胡 桃 城 址


月夜野大橋から続く長い坂を歩くこと20分弱。



右手に、復元された名胡桃城址【群馬県指定史跡】が現れました。
そしてそのそばにある、なんだかモダンな建物・・・



名胡桃城址案内所に到着しました!



【今回の移動記録】



JR後閑駅 11時19分発
国道17号・月夜野大橋経由
名胡桃城址案内所 11時59分着

*所要時間 40分
*移動距離 2.7km
※GoogleMapさんは奇怪なルートを表示していますが、町道(白い道)から国道17号(黄色の道)へは直接進入できます。
 距離もそれほど大きくはないのですが・・・・おかしいですね~。



炎天下を40分近く歩いた私は、まずは涼を求めて案内所の中に入ります。

案内所は名胡桃城を「天下統一のきっかけとなった城」として紹介する資料館になっております。
名胡桃城自体はそれほど歴史の長くない、小城といっても差し支えないくらいのものなのですが、それでもコンテンツはなかなかに力が入っております。

100名城スタンプも案内所にあるので、まずは押印させていただきましょう。



115番、名胡桃城!
今回の絵柄はどの画角なのでしょうか、それを確かめながら登城するとしましょう。


名胡桃城は、天正7年(1579年)武田勝頼の家臣であった真田昌幸によって築城されました。
当時武田家は、内紛の末に家督を継いだ上杉景勝と同盟を組んだばかりであり、その過程で敵対関係となった北条氏政の領有する沼田城を攻略するための前線基地として名胡桃城は築かれたのです。
その後昌幸は、調略をもって沼田城の攻略に成功します。
武田家の滅亡後に独立した真田家は、沼田城奪還をめざす北条家の軍勢をことごとく退けていきました。

天正15年(1587年)関白となった豊臣秀吉は、大名間の私闘を禁ずる惣無事令を発布しました。
さらに天正17年(1589年)いわゆる沼田裁定がなされ、沼田城を含む沼田領の3分の2が北条家、名胡桃城を含む3分の1が真田家の所領とされました。

このとき真田昌幸は、「名胡桃が祖先墳墓の地であるから、せめてこの地だけでも真田に残してほしい」と偽りの主張をしたといいます。
そしてその狙いは、「沼田の者たちは、目の鼻の先にある名胡桃城を目障りに感じ必ず手を出してくるので、そこで堂々と戦を仕掛けて沼田ごと奪い返す」というものだったそうです。


裁定後、北条家は沼田城に猪俣邦憲を、真田家は名胡桃城に鈴木重則を、それぞれ城代として配置しました。
11月3日、猪俣は鈴木の配下を調略し、偽の伝令で鈴木をだまして上田城へと誘導し、その間に名胡桃城を占拠してしまう事件が起きました。
鈴木は岩櫃城に着いたところで計略にはまったことを覚り、恥じて自害してしまいました。
この名胡桃城占拠事件は、猪俣が独断で行ったといわれていましたが、最近では猪俣の上官にあたる北条氏邦の意向があったというのが有力となっています。

真田昌幸はただちに徳川家康を通じて豊臣秀吉に訴えました。
秀吉は天正18年(1590年)3月に軍勢を出立させ、北条家を降伏させました。
沼田領はすべて真田家のものとなったため、不必要となった名胡桃城は廃城となりました。



名胡桃城の資料、パンフレットなどもひと通り頂戴し、



小粋なクリアファイルもいただきました!
名胡桃城さんの好感度もググッと上がってきております!



名胡桃城攻略記念ということで、スタンプをおふたつ。
ちょっと薄くなってしまいましたが・・・ひとつは本郭にある名胡桃城址之碑
もうひとつは・・・ゆる~い真田六文銭ですねぇ。


最後に、涼しい案内所の中で・・・「城攻め」



名胡桃城攻略!
さらに小川城(みなかみ町)と、浅貝寄居城(新潟県南魚沼郡湯沢町)も攻略できました。



名胡桃城占拠事件の当事者、猪俣邦憲さんと鈴木重則さん。
あと、沼田城を築城した沼田顕泰(あきやす)さん。

・・・・・・沼田城で「城攻め」するの忘れてた!

ここまで来てようやく己のミスに気付いたのですが・・・それは置いといて、まずは名胡桃城をじっくりと検分しましょう。
この案内所にはコインロッカーはなかったのですが、係の紳士に尋ねたところ、手荷物を預かってくださいました。


名胡桃城さんの好感度がまたも上昇したところで、城址を検分すべく、暑い暑い外へと出ました。





沼田の街ブラ

2019-03-24 | お散歩


2 0 1 8 年 8 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 2 0 分

群 馬 県 沼 田 市

沼 田 小 学 校 前



沼田公園を出て、市街地を歩きます。



校門が冠木門になっている沼田小学校
ここが、かつて沼田城の大手門があったところなのだそうです。
関ヶ原前夜、軍勢を率いる真田昌幸と、城主真田信幸の留守を預かる妻・小松姫が、ここを挟んで緊張感ある問答を繰り広げたんでしょうね。


この大手門跡からのびる大手道を歩き、JR沼田駅へと戻っていきます。
駅へ戻る途上、小松姫のお墓があるようですので、そこにも寄り道したいと思います。




大手道の脇に立っている、神明宮常夜燈【沼田市指定重要文化財】。
もともとは、現在の沼田駅から上る滝坂の中腹あたりに立っていたそうです。
嘉永5年(1852年)12月に竣工したものですが、明治40年(1907年)12月に現在地に移築されました。


大手道と国道120号の交差点。



今回の旅で、おみやを買おうと決めていたお店です。



萌えキャラが出迎える、洋菓子工房「樫の木」に入ります。

ここのバウムクーヘンは全国的に有名らしく、作家の吉本ばなな女史は「世界一うまい」と絶賛しているのだとか。
なるほど、ドイツ語で「木のケーキ」という言葉のとおり、年輪を重ねていった樫の木のように重厚なバウムクーヘンが、ショウケースに並んでいますね。

そしてバウムクーヘンの中でも一番人気のものが、外側がチョコでコーティングされたチョコレートバウムクーヘンだそうな。
私もチョコレートバウムを求めたのですが、残暑厳しい時節。
チョコのコーティングは無残にも溶けてしまうことでしょう。
そのためチョコレートバウムは販売していないようで、



プレーン・バウムクーヘン(1,300円)を購入いたしました。
一番小さいサイズながら贈答用のものを選んだので、中が見えないですね~。

私もすぐに味見がしたかったので、



170円の切れ端を買いました。
沼田駅に着いたら、さっそく食べてみようと思います♪



大手道から国道120号に曲がります。



いつしか市街地を抜け、河岸段丘を下る坂に差しかかります。
この坂は、遊覧坂というそうです。



沼田駅への分かれ道。
このまま曲がらなければ遊覧坂、曲がれば滝坂に入ります。







遊覧坂と滝坂が分岐する交差点は、利根川方向を見下ろす絶景スポットになっていました。



坂の上から約80メートルの高低差を下り、



JR沼田駅に到着。



あ! 小松姫のお墓参りを忘れてしまいました。

小松姫のお墓がある正覚寺は先ほどの交差点の崖上にあって、遊覧坂からは階段をつたって行けば容易に行けたようでした。



沼田駅のそばにあるコンビニで、



味噌パンなるものを買ってみました。



味噌パン・・・意外とうまい!
パンはもちもちとした食感で、中に入っているお味噌とよく合います。
お味噌はしょっぱいものではなく、味噌団子や味噌まんじゅうで使われている、甘いタイプのもの。
そういえば、味噌まんじゅうも上州名物でしたね。

バウムクーヘンは・・・しっとりうまし!
開封してまず感じるのは、芳醇なアルコールの香り。
リキュールがふんだんに使われているようで、甘みにも品が感じられました。



「真打ち」を味わうのが楽しみです♪



沼田駅の待合室でこの日のランチを食し、電車の到着を待っていました。
沼田の街で、沼田の城で、やり忘れたことがあるのを、このときの私はまだ知らなかったのです。





沼田の建もの探訪

2019-03-24 | 教会・洋館


2 0 1 8 年 8 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 9 時 4 9 分

群 馬 県 沼 田 市

沼 田 公 園



沼田城の本丸から外れた、沼田公園の一画。

 

古民家の方は、生方(うぶかた)家住宅【国指定重要文化財】で、沼田の市街地から移築されたものです。
洋館の方は、旧土岐家住宅洋館【国登録有形文化財】で、こちらは東京の渋谷から移築されたものだそうです。

 (※旧土岐家住宅洋館は、沼田の市街地へ移築するため、平成30年9月に閉館しました)

入館料は、どちらも100円です。
生方家のほうは、別棟の資料館の入館料も込みとなっています。



まずは、旧生方家住宅へ。
生方家は、真田家が領主であった時代から続く沼田藩御用達の薬種商だったそうです。
商店街の街角に「ふぢや」という店を構えていましたが、街角の「ふぢや」なのでいつしか「かどふぢ」という屋号になったそうです。



まずは板の間
家族と、番頭などの上級使用人がここにたたずんでいたそうです。
通常の客との接待も、いろりをはさんだ場所で行われていたそうです。




隣りが下店
板張から畳が敷かれランクアップしています。
こちらは常連客の接待が行われていたそうです。



その隣りが上店
こちらは主人の部屋であり、また上級常連客の接待をしていた部屋だそうです。
表側にあって光が差し込んでくるのは、下店、上店のふたつだけ。

 

二の間・三の間
主人の家族や上級使用人が寝食する部屋だったようです。
ここまでは自然光が入ってきますが・・・

 

その奥の四の間・五の間
こちらは下級の使用人が寝食していたようですが、自然光はほとんど入ってきません。
それもそのはず、この家はぬりごめ壁の手法、すなわち部屋のすべてが土壁で覆われ窓がないのです。
ぬりごめ壁の手法は、寒さの厳しい東北地方によく見られるそうです。



2階には窓が1箇所しかなく、その窓も厳重な格子で覆われています。



古民家内の解説パネルですら、「住居よりむしろ牢獄を連想する」と表記している始末。
さらにさらに、ぬりごめ壁の手法が採られる意味として、防寒のほかに「嫁、使用人の逃亡防止の配慮」と記載されています。
使用人はともかく(これでも相当ブラックではありますが)、嫁まで逃亡するほどだったのでしょうか・・・。
なんとも闇の深い古民家です。





お次は、旧土岐家住宅洋館へ。
土岐家というのは、あの「美濃のマムシ」に国を盗られてしまった土岐さんの一族なのです。


土岐氏は清和源氏の血を引く名門で、鎌倉時代から戦国時代まで美濃守護の職にありました。
しかしその本家は、「美濃のマムシ」斎藤道三の下剋上にあって没落してしまいます。

支流のひとつに、明智氏があります。有名なのは明智光秀さんですね。
その一族の明智定明は、「マムシ」の国盗りによる動乱に巻き込まれ、美濃を追われることになります。
母が三河の菅沼氏の出であったことから、永禄7年(1564年)に三河の大名・徳川家康に仕えました。
天正18年(1590年)家康が関東に移ると定明もこれに続き、下総国守谷(茨城県守谷市)1万石の所領を与えられました。
定明は豊臣秀吉のすすめに従い、自家の姓を「明智」から本流の「土岐」に戻しました。

寛保2年(1742年)土岐頼稔(よりとし)が、沼田藩3万5千石の大名となりました。
以後、土岐氏は12代、約120年にわたり沼田を治め、明治維新を迎えました。



明治政府による版籍奉還により、土岐家は沼田を離れて東京に移住し、子爵に列せられました。
この住宅は、土岐章子爵が関東大震災後に渋谷に建てたものを、沼田に移築したものです。
震災後の建物であることから、耐震技術が施されているのだとか。



土岐家住宅洋館は、大正末期から昭和初期に見られるドイツ郊外の別荘風住宅だそうです。
どのへんがドイツ~なのかというと、2階の外壁とか、屋根から浮き上がっている半円の窓、俗にいう牛の目窓とかがそうなのだというのです。


1階テラスの重厚な石柱、玄関や三連窓の装飾、玄関ホールのステンドグラスなど、近代的な印象を受けます。



こちらは1階の応接室
3方向が窓になっている開放的な空間です。



応接室の暖炉
子爵の顔写真もひかえめに置いてあります。



2階への階段。
親柱にはぶどうをモチーフとした装飾が施されています。



2階には和室があります。
こちらはもっぱら私的な空間だったようです。


さてこの旧土岐家住宅なのですが、私が訪問した日より約1週間後の9月3日に、閉鎖されてしまいました。
老朽化による取壊し・・・などではなく、沼田公園から沼田の市街地へと移築工事をするようです。

この事実がわかったのは、沼田訪問から約半年後のこと。
当時は閉鎖直前で、訪問できたのがかなりラッキーだったということなど知る由もありませんでした。



ふたつの対照的な沼田の建物を探訪し、私は沼田公園を後にしました。





沼田城・後編~争奪の的

2019-03-24 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 9 時 1 1 分

群 馬 県 沼 田 市

沼 田 公 園





沼田城址である沼田公園へ。



観光案内所で、早々にスタンプをゲットしました。
これで帰ることはなく、沼田城を本格的に登城していきます。




「本丸跡」の石標が立っています。
沼田公園は、かつての本丸を主として整備された公園なのです。
こちらはオミナエシの花壇になっているようですね。
園内は色とりどりの花々に囲まれていて、城址であることを忘れさせられますね。







沼田城のシンボルとなっている、本丸の鐘楼【復元】。
真田信幸(信之)の長男・信吉が城主のころに建てられ、鐘も鋳造されたそうです。
現在ここに吊り下げられている鐘はありません。
信吉が鋳造させた鐘は現存していて【群馬県指定文化財】、市内の中央公民館に保管されているそうです。


鐘楼からさらに進むと、



往時の石垣に囲まれた一画。



狭い通路に崖が迫っており、撮影するのもひと苦労です。



沼田城で石垣がよく残っているこの場所は、本丸西櫓台の跡だそうです。



櫓台の上に植わっているのは、樹齢400年以上の御殿桜と呼ばれているヒガンザクラ



鐘楼もチラ見できますよぉ。



先ほどのチラ見箇所から回り込んできました。
西櫓に上るための石段が備え付けられていたんですね。
これらの石垣や石段は、真田氏の時代から残っているものだそうです。

 

スタンプの画角は、間違いなくココです!





西櫓台をひと回りしてきました。


沼田城の最奥、捨曲輪へ。
こちらは沼田氏時代の沼田城の本丸にあたります。



崖っぷちにあるひとつのいわくありげな石。
平八石といい、真田昌幸によって謀殺された沼田平八郎景義の首が据えられ、首実検が行われたそうです。



そのそばには、平八郎をワナにはめた真田昌幸その人が・・・。
今でこそ「真田の城」!と掲げる沼田城ですが、真田の城になるまでは山内上杉→北条→長尾・上杉→北条→武田(真田)→織田(滝川)→北条→真田→北条→豊臣(真田)と主が目まぐるしく変わっているのです。


沼田城は、天文元年(1532年)ごろに沼田顕泰(あきやす)により築城され、以後は北関東の要衝として上杉、北条、武田といった諸勢力の争奪の的となります。
顕泰は関東管領・上杉憲政の家臣でしたが、河越夜戦で上杉方が大敗したのを機に主家が没落していくと、沼田氏も北条氏康に飲み込まれてしまい、北条綱成の二男・康元が城主となります。
長尾景虎(上杉謙信)が関東に遠征してくると、沼田城は長尾軍が落とし、城代が置かれました。
天正6年(1578年)上杉謙信死後のお家騒動・御館の乱が起きると、北条氏政が沼田城を制圧、金子泰清らを城代としました。
このとき上杉は武田と同盟を結んだ(甲越同盟)ため、武田勝頼真田昌幸に沼田城攻略を命じます。
天正8年(1580年)真田昌幸は金子泰清を調略し、また叔父の矢沢頼綱の軍勢を遣わし、沼田城を無血で占拠しました。

このとき沼田氏の当主であった平八郎景義は、北条軍などの助勢を得て沼田城の奪還をめざして兵を挙げました。
情勢不利と見た真田昌幸は、景清の伯父であった金子泰清を遣わして、沼田城におびき寄せます。
城内に誘われてしまった景義は、泰清らによって殺害されてしまったのです。
こうして沼田氏は滅亡しました。


天正10年(1582年)甲州征伐で武田が滅亡すると、真田は織田信長に下り、沼田城は信長の重臣である滝川一益の臣・滝川益重のものとなります。
しかし本能寺の変で武田遺領が混乱すると、真田は北条氏政に下り、さらに徳川家康に鞍替えします。
北条と徳川が和睦し、その条件に沼田城の割譲を徳川が承諾すると、真田は徳川から離反し上杉景勝に鞍替え。
徳川の第1次上田合戦などの侵略をことごとく退けます。
天正17年(1589年)関白豊臣秀吉による沼田裁定で、沼田城は北条に属することとなったものの、北条の反豊臣姿勢が改まらなかったため、天正18年(1590年)小田原征伐により北条は滅亡。
沼田城は真田昌幸の嫡男・信幸に与えられました。
信幸は沼田城を大きく改修し、本丸には5層の天守が建てられたそうです。

秀吉死後に起きた関ヶ原の戦いで、真田昌幸・信繁は西軍に、真田信幸は東軍に分かれることとなります。
東軍が勝利し、昌幸・信繁父子が九度山に流されると、上田の所領が信幸に与えられました。
このとき上田城は徹底的に破壊されたため、信幸は沼田を本拠とし、名を「信之」に改めました。
信之が松代に加増移封となっても、沼田は真田家の所領のままに据え置かれました。

信之の長男・信吉は父に先だって死し、次男の信政が本家を継いで2代藩主となり、沼田領は信吉の子・信直が領有しました。
しかし信政が死ぬと、隠居していた信之の決定で、信政の子・幸道が継ぐこととなりました。
これに信直が異を唱えましたが、幕府の裁定で幸道が後継と定まり、また沼田藩が分離することとなりました。
沼田藩の藩主となった信直は、松代藩との対抗意識もあって、家格を高めるために石高を大きく見積もったのでした。
そのため沼田藩が課せられた賦役は重い負担となり、これを重税を課することで対応するなどの悪政を敷いたため、天和元年(1681年)には磔茂左衛門の直訴もあって、ついに沼田藩は取り潰されてしまいます。

天和2年(1682年)沼田城は幕命により破却されることとなり、堀も埋められてしまいました。

この後沼田藩は本多、黒田、土岐の各氏が治めることとなりますが、城の復興はなされないまま、明治を迎えたのでした。



捨曲輪の崖っぷちからの眺め。



標高1,123メートルの三峰山
その左後ろに見える・・・



この日は雲に隠れてしまいましたが、谷川岳がそびえています。



利根川が造り出した、河岸段丘の台地を見下ろします。
画像中央から少しだけ左上、対岸の丘陵地・・・



この丘に名胡桃城があります。
沼田城からは、直線距離で5kmも離れていない近さ。
沼田裁定では、名胡桃城は真田方とされており、沼田の北条方からすればさぞかし目障りな城だったことでしょう。
ときの城主もそう思ったのでしょう・・・これが大きな戦乱を招くことになるのですが、それはまた、別の話・・・。



本丸に戻ります。



かつては5層の天守があったこの場所には、真田信幸・小松姫夫妻像が置かれています。


徳川家康が関白・豊臣秀吉に帰順すると、秀吉は真田昌幸を家康の与力大名につけました。
これまでに度重なる抗争を繰り返してきた徳川・真田両家は、関係を緊密なものとすべく、真田信幸小松姫の婚姻を取り交わしました。
小松姫は、家康の重臣で猛将の本多忠勝の娘でしたが、これを家康の養女としたうえで信幸に娶せたのです。

関ヶ原の戦い前、真田家は昌幸と信繁が西軍に、信幸が東軍につくこととなりました。
昌幸の軍勢は居城の上田に戻る際、信幸の居城・沼田城に立ち寄って宿を求めました。

 昌幸「孫の顔を見たくなったので、沼田城に入れてくれんか」

これに対し城に留まっていた小松姫は、昌幸が沼田城を奪取する計略があると見てとって、

 小松「この城はわが夫の城、夫の許しがなければ、たとえ義父様といえどもお城に入れるわけには参りませぬ」

小松姫の抗戦の構えにさすがの昌幸も引き下がり、沼田城近くの正覚寺で軍勢を休ませることとしました。
その翌日、小松姫は護衛を引き連れて昌幸に面会し、孫の顔を見せたのでした。
これには昌幸も「さすがは本多忠勝の娘だ」と感心したのだそうです。





現代的によみがえった夫妻に別れを告げ・・・



本丸御門跡へ。



池ですか???

いえいえ、こちらは本丸堀の名残なのだそうです。
右側にはしっかり石垣が残っていますが、真田家が幕府に提出した城の絵図面によると、この本丸堀だけ石垣が施されていたのだそうです。



遺構はあまり残っていませんが、多くの物語に彩られた沼田城。
沼田城自体の登城はこのあたりで終了なのですが、沼田城を語る上でかかせないもうひとつの城・・・



そこまで行ってはじめて、沼田城・コンプリート!といえるでしょう。
次に向かうのはまさにこのお城なのですが、それは・・・もう少し先のお話です。