鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

福知山城登城・前編~麒麟の天守

2020-04-12 | 城郭【続日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 十 九 日 ( 土 )

午 前 九 時 四 十 一 分

京 都 府 福 知 山 市

J R 福 知 山 駅







兵庫県北部地方の荒天のため予定を変更し、やってきた福知山。



駅に併設している観光案内所で、レンタサイクルを借りることとします。
借用料は2時間までで400円で、以後1時間ごとに100円増しとなります。
上の画像では、観光案内所の職員殿が私の乗るべき自転車に空気入れをしておられますなぁ。
また手荷物も1点300円で預かってくれるので、ここでも装備を最小限にして出かけることとしました。



今回の自転車。
カゴのところに、なにやら「忍タマ乱太郎」を想像させるようなゆるキャラがふたりいます。



登城前ではありますが、観光案内所の中に続100名城スタンプが設置してありますので・・・



158番、福知山城!
押印に大失敗してしまいました・・・・・・。
絵柄は、実物を見るまでもなく天守であろうことが一目瞭然ですね。
どこからの画角なのか、今回もじっくり探してみることとしましょう。



自転車にまたがって福知山の街へ繰り出すと・・・・・・無情の雨。
但馬地方の荒天は、隣接する京都丹波地方にもその影を落としていたようですね。
それでも小雨程度で済んでいたことは、幸いなことでした。

福知山駅北口に面する京都府道24号・福知山停車場線をひたすら東に進みます。



福知山市役所に差しかかると、 小天守【外観復元】と大天守【外観復元】が並立する姿が目に入ってきました。



歩道ギリギリに立つ「福知山城」の石標が見えたら、あと少し。
福知山城沿いを流れる法川という小さな川を渡り、



城門のような何か?が建っているゆらのガーデンというところに駐車場&駐輪場があるので、ここで自転車を降りました。




午 前 十 時 五 分

福 知 山 城 公 園


駅から自転車で走ること約15分、福知山城公園に到着しました。



公園の入口から本丸へと続く昇龍橋という橋を渡ります。
法川をもう一度渡河することになりますね。



昇龍橋の中央から望む福知山城。
う~ん、市役所側からのほうがなんとなく画になるような気がしますね。



古めかしい石垣です。
石垣は当時のものが現存しているということで、福知山市によって史跡に指定されています。
石垣が城郭に造営され始めた時期、すなわち明智光秀さんが活躍していた時期のものだそうです。



頭上の門は釣鐘門【模擬】というそうです。
時刻を知らせる梵鐘でも釣り下がっていたのかもしれませんが、外観は城門というより寺院の鐘楼といった感じです。

それよりも、下にある赤い矢印
「転用石」を指し示しています。
転用石とは、石垣に用いられる石材の不足を補うために、石臼や石仏など他の石製のものをもってきて補ったものをいいます。
この矢印が指している方向を見ると・・・



これ、転用石なのかな???
なんだか腑に落ちないまま、天守の方に向かいました。



光秀時代の豪放な野面積みの石垣です。
この石垣をたどって歩いていくと、



本丸に到達。
大天守とご対面です。



何らかの石碑と、「福知山歩こう会」のベンチがあるこの地点。
ここから大天守を見ると・・・

 

158番、福知山城! のような画となります。
・・・・・・う~ん、返す返す押しミスが痛い。


福知山城ははじめ横山城といい、在地の国人・塩見氏により室町時代に築城されました。

戦国時代になり織田信長による天下布武が推し進められると、丹波国の国人たちはこれに敵対。
信長は明智光秀に命じて丹波国の征討を開始し、光秀は天正7年(1579年)までにこれを平定しました。
丹波国平定後、光秀は横山城を福智山城と改名し、娘婿の明智秀満を城代とし、また石垣を造成するなどの大改修を行いました。

本能寺の変の後の山崎の戦いで光秀が敗死すると、福知山城は羽柴秀吉の軍勢によって攻略されました。
秀吉は自身の養子である羽柴秀勝(信長の四男)、杉原家次(秀吉の正室・寧々の伯父)を福知山城に置き、彼らが相次いで病没すると、小野木重勝を城主としました。
秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いで重勝は西軍についたために切腹させられ、福知山は有馬豊氏に与えられました。
有馬豊氏は福知山城を改修し、現在残る姿としました。

有馬豊氏は元和6年(1620年)に久留米藩に加増移封し、岡部稲葉松平の各氏の統治の末、寛文9年(1669年)6月に朽木稙昌が福知山に入り、以後明治維新まで朽木氏が城主となりました。





大天守の入口側に回りました。



大天守に隣接する続櫓と、小天守
その足元には・・・



豊磐井(とよいわのい)という大きな井戸があります。
深さは50メートルもあり、現在も水をたたえており、その水深は37メートルもあるそうです。
名称は朽木氏初代城主・稙昌の父・稙綱の神号「豊磐稙綱命」にちなんでいます。



その隣りには朝暉(あさひ)神社が鎮座していて、朽木稙綱が祀られています。
稙綱は旗本として将軍・徳川家光に仕えて功績を挙げ、常陸国(茨城県)土浦3万石に加増されています。



大天守の中は福知山市郷土資料館となっており、福知山城関係の史料が展示されています。
入場料・大人330円を支払い、中へ。



明智光秀画像のレプリカ。
よく見る光秀の肖像画ですが、実物は大阪の岸和田にあるそうです。



明智光秀家中軍法【福知山市指定文化財】のレプリカ。
こちらは福知山市内にある御霊(ごりょう)神社に実物が保管されています。
御霊神社は、祭神の宇賀御霊大神(うがのみたまのおおかみ)(お稲荷さん)とともに、明智光秀が合祀されています。

 

大天守最上層からの眺め。
市内を流れる由良川は、舞鶴市で日本海に注ぎます。
たびたび氾濫していた由良川の流れを改善したのも、明智光秀によるものだといいます。
丹波地方では光秀の善政がいきわたっていたため、謀反人の汚名があったとしてもなお、光秀は民衆に慕われていたようです。
光秀の御霊神社への合祀は、江戸時代中期に城主となった朽木氏によるものです。




おおぅ・・・

明智軍の精鋭であっただろう足軽さんに見送られ、天守を出ました。





竹田から出石へ・・・

2020-04-12 | 鉄道の旅


令 和 元 年 神 無 月 十 九 日 ( 土 )

午 前 七 時 四 十 三 分

兵 庫 県 朝 来 市

竹 田 城 跡 料 金 所



竹田城の登城を終え、料金所まで戻ってきました。
これより山を下り、JR竹田駅へ。



約15分で登山道ゲートまで到達。



最後の坂道もなかなかに急なので、油断なく下りていき・・・



無事にふもとの城下町までたどり着くことができました。
夜明け前に来たときはわかりませんでしたが、路傍の水路ではコイたちが悠然と泳ぎまわっていたんですね。



竹田の城下町、竹田寺町通りを後にして・・・



竹田駅に戻ってきました。
夜明け前はよく見えませんでしたが、こちらも城下町の雰囲気にあった風情ある駅舎ですね。




午 前 八 時 六 分

J R 竹 田 駅




駅の中にも、100名城スタンプが設置されていました。
夜明け前に着いたときには、ここを見落としていたようです。



竹田駅からは、手荷物を預けてある和田山駅まで戻ります。
わずか1駅の播但(ばんたん)のたびが始まります。





8時18分、播但線の朱色の車両・キハ40形2046番がやって来ました。





竹田の城下町を潤す円山川に沿って、朱色の列車は進みます。







やがて川が遠ざかり、



代わって山陰本線の線路が合流してくると、終点まではあとわずかです。




午 前 八 時 廿 四 分

J R 和 田 山 駅


わずか6分の播但線の旅の末、



和田山駅に到着しました。



待合室前にあるコインロッカーで、手荷物を回収し、次なる地へ向かいます。



次なる地・・・・・・当初の計画では、兵庫県北部にある出石(いずし)城・有子山(ありこやま)の予定でした。

出石の城下町に出石城があり、その背後にある有子山の頂上に有子山城があります。
室町時代後期に有子山城が築城され、時代が経過して安土桃山時代に城の機能をふもとに下ろした出石城が築かれた関係で、この2城はセットで扱われることが多いようです。
続100名城の選定でも、「出石城・有子山城」が162番となっています。

そうなれば、出石城だけ行って、スタンプをゲットしておしまい!というわけにはまいりません。
当然ながら、有子山城にも登城してはじめて162番は完結というべきでしょう。
しかしここで重大な問題が発生していました。

兵庫県北部、大雨警報発令。

山登りには大敵の雨、それも大雨が降るというのです。
これによって、当初の計画は修正を余儀なくされました。

たとえ大雨だとしても、出石城には行こう。
出石城は平城だから、雨でも行けないことはないだろう。
有子山城は・・・残念だが、登城は断念せざるを得まい。
有子山城の登城時間を穴埋めできる、ほかの城が近くにないだろうか・・・・・・?



ここだ!
和田山から山陰本線一本で行ける、福知山城
本日のお宿がある鳥取からは逆方向になってしまいますが、福知山城も平城だし、駅から離れていないので、登城時間もそれほどかからないはずです。



今度の電車は、8時54分発 山陰本線 普通電車 福知山行きと決まったところで、待ち時間を利用して駅周辺をぶらりとしましょうか。



山陰本線の線路の向こうにある建物は、旧和田山駅機関庫だそうです。
明治45年(1912年)に機関庫として建造され、その後車両整備工場に転用され、平成3年(1991年)まで現役だったそうです。
現在は屋根がなくなってしまい、ただ朽ち果てるのを待つ廃墟のようですね。



1・2番ホームからの機関庫。
長期間風雨に晒されながらも、煉瓦造りの機関庫は健在のようですね。
屋根の部分を見てしまうと、かなり残念なのですが・・・。





8時54分、福知山行きの電車がやってきました。






山陰本線は山川を縫うように進み、



9時41分、定刻どおり福知山駅に到着しました。



【今回の乗車記録】

JR西日本 竹田駅 2番のりば 8時18分発
[J]播但線 普通 和田山行き 1両ワンマン
和田山駅 5番のりば 8時24分着

和田山駅 1番のりば 8時54分発
[E]山陰本線 普通 福知山行き 2両ワンマン
福知山駅 5番のりば 9時41分着

*所要時間 1時間22分 (移動時間 52分 待ち時間 30分)
*移動距離 36.3km
*運賃   秋の乗り放題パス使用(使用しない場合、680円)





竹田城登城・最終章~日本のマチュピチュ

2020-04-12 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 十 九 日 ( 土 )

午 前 七 時 十 分

兵 庫 県 朝 来 市

竹 田 城 二 の 丸



早朝の竹田城【国指定史跡】。



北千畳三の丸を経て二の丸まで到達しました。

この日の竹田城の天候は霧、晴れ、曇り、霧、小雨・・・と、寸刻ごとに目まぐるしく変わっていました。
二の丸にいらっしゃった監視員のおじさまと話をしたところ、
「このあとは雨が来そう」「今日は雲海は見られない」
とのことでした。

竹田城といえば、雲海の上に浮かぶ「天空の城」として知られています。
その姿が見られないのは残念ですが、それを差し引いてもなお魅力的な竹田城。
「日本のマチュピチュ」と謳われる竹田城を、じっくりと堪能していきます。


二の丸のお次は本丸
竹田城が築かれた虎臥山の頂上であり、それぞれの郭が一望できるところです。



本丸の突端にある天守台に上がります。



天守台から望む、北側の郭。
本丸に近いほうから二の丸三の丸、そして北千畳と下っています。



天守台から望む、南側の郭。
本丸に近いほうから南二の丸、そして南千畳と続きます。
この景色が竹田城最高のものとされており、人をして「日本のマチュピチュ」と言わしめるのです。
この日は残念ながら雲がまばらにかかっていましたが、天候に恵まれると・・・



「ハイソフトキャラメル」のカードに採用されている、雲海に浮かぶ竹田城が見られるのです。
このカードの画角は、本丸を取り巻いている平殿という郭の東側からのものと思われます。
現在は安全性確保と遺跡保護のために竹田城の管理が厳しくなり、ビニルシートによる通路や柵による立入禁止エリアが設定されています。
このカードの撮影スポットは崖ギリギリの場所のため立入禁止となっていて、同じ画角を撮ることはできません。

 

スタンプの絵柄も南側の郭を描いたものですが、こちらの画角は天守台の脇からのものです。
本丸から平殿東側へ下る石段の脇からのものです。


平殿の東側は立入禁止区域となっています。
南側の郭へは平殿の東側を通るのが近道なのですが、そこが通れないためいったん二の丸三の丸に戻ります。



桜の木が立っているところが、三の丸と平殿の境界です。
桜の木の先にそびえるのが本丸と天守台、その手前の低い石垣が造成されているのが二の丸です。



平殿を取り巻く石垣。
日が当たらない北側なので、ぎっしりと苔が生しています。
この下は崖、こんなところに巨大な石垣が造られたのが驚嘆に値しますね。





平殿に入りました。
本丸を取り巻く石垣を見ては足を止め、見ては足を止め・・・。



西側に続く虎口の跡。
その先は花屋敷と呼ばれていた郭に続きます。
ここは芝生が生えている・・・ということは、立入禁止区域となっています。

本丸から二の丸、三の丸、北千畳と続く北東の郭。
本丸から南二の丸、南千畳と続く南東の郭。
本丸から平殿、花屋敷と続く西の郭。
竹田城の縄張は、本丸を中心とする3枚のプロペラのような形をしています。





平殿の南側から、



南二の丸へ。



進路が常にかぎ状に曲げられていて、石垣の配置がまことに絶妙です。





振り返ると、平殿と本丸の石垣がそびえ立っています。
なかなかの威圧感です。



南二の丸。



こちらは南千畳へと続く通路。
言い換えれば、南二の丸へと上るための虎口ですね。



南二の丸からの眺望。
一段低い右脇は正門の枡形虎口となっています。
通常、枡形虎口はその四方を城門や城壁で包囲されていますが、こちらの枡形虎口は崖側に城壁はなかったようです。
向こうに見える本丸の石垣の威容を、攻め込んできた軍勢に見せつけるかのような構造になっているようですね。



正門を形成する石垣。
通路はかなり狭くなっていますね。





正門の枡形虎口から望む、本丸の石垣群。ただただ圧巻・・・。





正門跡を経て・・・



南千畳という広い郭へ。



振り返って正門跡を見ると、石垣がこれでもか!と迫ってくる感じ。



正門から少し離れると、石垣群が凛としてそびえ立っているかのようです。



正門脇の石垣。
ひときわ大きい石がはめ込まれています。
権力の象徴である鏡石です。

石垣の構造は、自然石をそのまま用いた野面(のづら)積みですが、穴太(あのう)という技術者集団が手がけたので穴太積みとも呼ばれます。
穴太は現在の滋賀県大津市内、比叡山のふもとに位置しているので、穴太衆はもともとは寺院の石工を任されていました。
その高い技術を買われ、織田信長安土城築城の際に石垣の構築を手がけ、それ以降多くの城郭の普請を手がけることになったのです。
竹田城の石垣も穴太衆が手がけたものとされており、彼らの高い技術をもって、400年以上たった今でも石垣がそびえ立っているのです。




広い南千畳まで来たら、竹田城とはそろそろお別れです。



南千畳から竹田の城下町を眺めます。



城下町のさらに南側。
向かいの山は立雲峡です。



この天空城の画は、立雲峡からのものです。
この日は雲があまりかからなかったのですが、それでも竹田城を存分に味わうことができました。
私としては大満足です。




アディオス、竹田城・・・・・・!

 

南千畳虎口から帰り道へ。



階段を下って、



舗装道に出ます。
ここを左に曲がって約100メートル歩き、スタート地点の料金所に戻っていきました。