鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

本佐倉城~マムシ注意?

2018-08-31 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 7 月 7 日 ( 七 夕 の 節 句 )

午 後 1 時 3 1 分

千 葉 県 佐 倉 市

京 成 本 線 大 佐 倉 駅



七夕のこの日に向かった城は、本佐倉城【国指定史跡】です。

京成本線成田方面に進みます。
佐倉城【佐倉市指定史跡】の最寄駅・京成佐倉駅から、さらに1駅。



佐倉の街中を抜け、一気にひなびた風景に変わり、大佐倉駅に到着。
駅舎なんてものはない、田舎の無人駅です。



いちおう自動改札はあるんですね。
そして・・・



続100名城スタンプは、改札を出た脇にあるようですね。
管理面での問題はないのか、疑問に感じるところではありますが、



121番、本佐倉城!
絵柄はわかりません・・・登城してからのお楽しみ、といったところ。

そして本佐倉城のパンフレットなんかも備え付けられて・・・
こんなとってつけたような駅には、本佐倉城に関するパンフレットは一切ありませんでした。



大佐倉駅のそばにある、名所旧跡の地図。
一方の地図は北の方角が上になっているのに対し、もう一方は北の方角が下になっています。
本佐倉城の場所を予習せず、またパンフレットをゲットできなかった私にとっては、駅にある周辺図はかなり重要な情報です。
これらを見ることによって、軽く混乱してしまいました。

力強い相棒のアイフォンさんでルートを確認し、私は城へ向かいます。



駅の改札を出てから即踏切を渡り、線路の向こう側へ。
そのまま線路沿いの道を歩きます。

途中右手にある麻賀多(まかた)神社を通り過ぎ、



田んぼの風景が現れたら、本佐倉城まではあと少し。
路傍にある立看板にしたがって進んでいきます。



ビニルハウスの向こうにある丘が、本佐倉城【国指定史跡】。



公道を離れ、立看板のさし示す方向へ。



なにやらノボリが立っているようです。



描かれている家紋は月星
本佐倉城の城主であった千葉氏の家紋です。
それにしても草ぼうぼうですね・・・。

この草ぼうぼうの空間は、東光寺ビョウという郭なのだそうです。
「とうこうじビョウ」ってなんだかヘンなネーミングですが、これは幕末に記された書物の記載をそのまま使用しているのだそうです。
東光寺という寺院があったのかな~と思わせるのですが、発掘調査から寺院の痕跡は発見されなかったそうです。
まったくもって謎の呼び名なのだとか。

おやおや、何やら立て看板がありますね・・・。



「マムシ注意」!!!

いやいやいやいや、こんなところ絶対入りたくないって!
私はスネークが大嫌いなのです。
ただでさえ草地に入るのはイヤなのに、マムシが出るとあっては・・・。



東光寺ビョウの上にそびえているのは、東山虎口
どうやらこのあたりから中に入れそうですね。



むむっ、この草地・・・。
ここから入るのはやめよう。



アイフォンさんのお力をお借りして、別のルートから本佐倉城に入れないか探索してみました。
しかし、この日の気温は真夏日
みるみるうちに体力を消耗していきました。




午 後 3 時 4 4 分

千 葉 県 印 旛 郡 酒 々 井 町

酒 々 井 町 中 央 公 民 館


道すがら大型スーパーで休憩を取りつつ、歩き続けてたどり着いたのは、





酒々井町中央公民館です。



ここでも続100名城のスタンプが手に入れられるようです。
傍らには本佐倉城に関する資料の展示もあります。
パンフレットも豊富にあります。
登城する前にここから行けばよかったかな・・・。



中央公民館にある酒々井町のジオラマ
町制施行85周年を記念して作成されたものだそうです。



京成本線(当時は京成成田線)の南にある本佐倉と表示されている丘が、かつての本佐倉城でした。



涼しい涼しい中央公民館で鋭気を養い、外へ。
再び本佐倉城へ!


・・・本佐倉城へは、マムシが出なくなる秋冬にリベンジすることにしましょう。





第73回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記~重大過失

2018-08-26 | 鬼ヅモ同好会


2 0 1 8 年 8 月 1 8 日 ( 土 )

午 後 8 時 0 0 分 ご ろ

横 浜 市 某 所

よ ね 氏 宅



平成30年の盆休み。
平成最後の夏であり、さる御方のウン十代最後の夏でもあるのですが、相も変わらず麻雀に興じます。

夏の大会は会員諸兄の勤務事情により、さらに昨年は私の引越しが重なり、長らく開かれていませんでした。
私がママチャリで国道16号を1周した2014年8月以来、4年ぶりとなります。



この日はすでに大会も終わり、大会会場に残っていたのはよね先生と私のみ。
翌日のお昼には、よね先生は湯河原の旅館へ。
私はその前の早朝に、城めぐりをすべく出立。
互いの旅の話に花を咲かせつつ、出立の手はずを調えていました。



大会は・・・・・・




8月16日の夜、いや17日の0時半から開始して4試合。
8月17日の夜から18日の3時ごろまでで10試合闘った結果、今回の優勝はよね先生でした。
おめでとうございます!




さてこのスコア、1箇所だけ明らかにおかしいところがあります。
間違っているとかではありません、麻雀のルールに照らし合わせると「おや?」という所が1箇所。
それは第10試合目。

麻雀の点数設定で、ウマ(順位ウマ)というルールがあります。
試合終了時の順位によって点数を加減するもので、鬼ヅモ同好会では1位が+10pts、2位が+5pts、3位は△5pts、4位は△10ptsという、いわゆる「ゴットー」を採用しています。(鬼ヅモ同好会麻雀規約第85条)


すなわち2位と3位のスコアは、常に10pts以上の差があるはずなのです・・・。


なぜこうなってしまったのか・・・その謎を解き明かすべく、時計の針を戻してみることとしましょう。




2 0 1 8 年 8 月 1 7 日 ( 金 )

午 前 0 時 す ぎ


すでに会場に入っている会長、よね先生と私。
4人目の面子であるたか先生の到着を待ちわびていました。

日付が変わり午前0時、ほぼほぼ終電の時刻にたか先生はやってきました。



午前0時半ごろ、ようやく戦端が開かれることに。
この日は仕事帰りの強行軍でやってきたたか先生に配慮し、4試合で終了ということにしました。



その4試合目、第1の事件は起こりました。

この試合はよね先生の独壇場という展開。
他の三者から点棒をかき集めて、試合終了となりました。

しかし、ここでよね先生が点数申告をミスしていたことが発覚。
手持ちの1万点棒を見逃していたようです。

(点数申告義務違反)
第78条 最終局の点数申告において、実際の持ち点より少なく申告し、虚偽の申告を明示させた競技者は、競技終了時に、差額を他の競技者に均等分割して支払うものとする。
 2 前項の分割による剰余は、点数第一位の競技者に帰属する。


こういったケースに対して、鬼ヅモ同好会麻雀規約は第78条に規定が設けてあります。
こんなルールもあったなぁ~なんて感想も出るくらい久しぶりのケースでしたが、とにかくこの規定が適用されることに。
よね先生にとっては想定外の1万点支出となりました。




2 0 1 8 年 8 月 1 7 日 ( 金 )

午 後 6 時 0 0 分 ご ろ


鬼ヅモ同好会御用達の太田屋さんで、おそばをいただきます。
そうそう、おそば屋さんのそば茶をいただくのも、なかなかの至福のときですねぇ・・・



そば茶じゃなくて麦茶でした。



こういった軽度の過失案件はともかく・・・
会長、たか先生が召し上がったのは、特別メニューの鱧天せいろ
「鱧」はちゃんと「はも」と読み、さらなる過失事件は阻止。



私はひさびさに鴨せいろをいただきました。
鴨だしの利いたつけ汁がなんとも美味。
それとは対照的な、ねぎの甘いこと。おいしゅうございました。

よね先生はいつもどおり天ざるそばでした。



近所の「7」で食料品を買って会場へ戻り、闘いを再開したのは午後7時前でした。




午 後 1 0 時 1 0 分 ご ろ

第 8 試 合 最 終 局


第8試合は点数がほとんど横一線。
私がトップではあったものの、点差は1,000点にも満たない接戦。
立直でもして不発であったならば、逆転を許すことになってしまいます。



むむむ・・・これは立直はかけられん・・・ツモって三暗刻を期待するしかないか・・・。

しかし心待ちにしていた九索・四萬は引けず、六筒を打牌して放銃してしまいました。

「上家の六索であがれたよ」



なんと! 一盃口のパターンを完全に失念していました。
平和・一盃口で、上々なあがりではありませんか。
第2の重大過失により、私はこの試合トップから最下位へ。
点数にして約20,000点の損失を計上したのでした。




午 後 1 1 時 1 0 分 ご ろ

第 1 0 試 合 最 終 局


疑惑の第10試合。

この試合はよね先生が頭ふたつ抜け出す優勢、たか先生が後に続くという状況でした。
そして最終局、よね先生がサクっとツモ和了。
順位はこのまま変わることなく、試合終了・・・のはずでした。

ここでまたも点数申告漏れが発覚します。
今回はたか先生、5千点棒の見逃しだったようです。

(点数申告義務違反)
第78条 最終局の点数申告において、実際の持ち点より少なく申告し、虚偽の申告を明示させた競技者は、競技終了時に、差額を他の競技者に均等分割して支払うものとする。
 2 前項の分割による剰余は、点数第一位の競技者に帰属する。


鬼ヅモ同好会麻雀規約第78条、今大会2度目の適用です。まさに前代未聞。

(1)最終局前に申告された点数が真正な点数であるとみなす。
(2)その後申告より多く点数を有していたとしても、当該競技者の点数は申告されたものを基礎として計算される。
(3)申告された点数と実際の点数との差は、他の競技者に均等分配される。

今回は、(3)の均等分配が精算前に行われると順位が変わってしまうケース。
しかしイレギュラーな点数の変動を抑制する傾向にある当同好会では、(2)と(3)の間に精算をはさむという手法を選択したのです。
その結果、申告点をベースにして2位はたか先生、3位が私となったわけです。
最後に申告点と実際の店の差を分配したので、なんとも不思議なスコアが生じたのです。




2 0 1 8 年 8 月 1 9 日 ( 日 )

午 後 2 時 1 0 分 ご ろ

戦 場 に て




私は横浜の地を離れ、遠き異国の戦場に身を置いていました。



第73回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記 完


大久保二郎

2018-08-14 | グルメ


2 0 1 8 年 7 月 7 日 ( 七 夕 の 節 句 )

午 前 1 1 時 0 3 分

千 葉 県 習 志 野 市

京 成 大 久 保 駅



平成最後の七夕です。

この日は津田沼の美容院で散髪し、ついでに城でも行こうかな・・・
というわけで、京成本線で東に向かっていました。



京成津田沼駅からわずか1駅、京成大久保駅
コリアンタウンじゃない大久保の地で、ひさしぶりにガッツリ食事をしようじゃないか~ということで、



京成大久保駅で下車。
駅から出たら、右へ歩きます。
(画像では、左の方向へ進みます)



商店街「ゆうろーど」に入ります。
垂れ幕で「東京ヤクルトスワローズ 小川監督を応援しています!」とありますが、小川淳司監督の地元は習志野なのだそうです。



東邦大学への近道に入りましょう。



つき当たりの丁字路で左折します。



午前11時15分、この日のランチをいただくお店に到着しました。



ランチ・・・というより、闘いの場? 「ラーメン二郎」京成大久保店です。



開店してわずか15分なのに、この行列!
店内はそれほど広くはないので中には入れず、外でお待ちということになります。


時刻は正午を回り、ようやく店内へ。
券売機で味噌小ラーメン(800円)を購入します。

「味噌二郎」が食べられるのは、私の知る限りではこちらだけだと思います。
(私が知っている「二郎」は、品川と松戸と守谷と大久保だけなんですけどね)
あと、お店を切り盛りしているのがオーナーご夫妻ということもあり、店内の雰囲気がほかの「二郎」と比べると殺伐としてない、柔和な感じがします。
はじめて「二郎」に挑戦される方には、京成大久保店は大いにおすすめできると思います。

午後12時15分ごろ、席に着座。
このときに、購入したプラスチック製の食券をカウンターに置くのですが、私はここで100円玉を追加して置きます。
今回いただくのは、味噌小豚ラーメン(900円)。
味噌ラーメンや味噌つけ麺の豚増しは、それ自体の食券がないので、100円玉を追加するという方式になっています。


午後12時24分ごろ、オーナーの奥様より「ニンニク入れますか?」と問われました。
さあ、呪文を唱えます。

「ニンニク、ヤサイ、アブラでお願いします」

午後12時26分。



眼前に現れた味噌小豚ラーメン・ニンニクヤサイアブラ増しです!
野菜はキャベツ3・モヤシ7の割合で、野菜増しにするとコニーデ(成層火山)のような盛り付けに。
あまりオーバーな増やし方はなさらないようですね。
脂増しも、然り。



天地返し(上にある野菜と下にある麺の位置を逆転させること)をした後です。
野菜の下に隠されていた豚の塊が、その姿を現します。
豚が野菜の上ではなく下に隠れているように盛られるのも、「大久保二郎」の特徴かもしれません。

満腹になると真っ先に敵に回る豚を、最初に味わいます。
そしてスープを吸ってしまう前に、麺を味わいます。
いつものとおり、10口を過ぎると闘いになっていきます。
そして・・・



完食です!
味噌二郎、やはりうまいです! 10口までは。
スープも飲めと? 無理です。



己の体に、十分すぎるほどの栄養を流し込み、この日の城攻めに向かいます。





小机城・後章~竹に護られし空堀

2018-08-12 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 5 月 6 日 ( 日 )

午 前 1 1 時 3 1 分

横 浜 市 港 北 区

小 机 城 址 市 民 の 森



最初の続100名城は、横浜市内にある小机城です。



西郭(本丸)から、東郭(二の丸)へ移動中。



土橋を経て、東西両郭の間、南北に細長く横たわるつなぎの郭に進みます。



土橋から南方を望むと、掘りの深い見事な空堀が走っています。
画像左側がつなぎの郭、右側が西郭。
つなぎの郭の方が高地にあって、より南側にせり出しているかのようです。



つなぎの郭に到着。
郭の南側には、矢倉跡の表示が立っています。
この周囲は・・・



本丸・つなぎの郭間の空堀。高い・・・。



こちらは二の丸・つなぎの郭間の空堀です。



つなぎの郭の先っちょです。
見ているだけで血沸き肉躍る・・・見事な空堀。



つなぎの郭を出て、



東郭(二の丸)へ。



ここで非常事態発生!
私のおなかがちょっとばかり悲鳴をあげてきました!



退却~
城内にトイレはありませんが、城自体があまり大きくないので難なく戻れました。

ですが・・・このトイレ、せまい。
背に腹は代えられず中で用を足そうとしますが、電灯のスイッチが見当たらない。
外では練習に来ていた野球少年たちでワイワイとにぎわう中、私は携帯をライト代わりにして用を足すハメに。

そうそう、せっかく小机城に来たんだ。



小机城、制覇! そして・・・



篠原城も制覇!
篠原城は小机城の支城でした。



非常事態を乗り切った私は二の丸に戻る前に、空堀の中に入ることにしました。

 

 



登城してきた旅人と比べると、空堀の規模がよくわかりますね。




遊歩道に戻って、東郭へ。





見事な竹林。
鎌倉の竹寺とちがうのは、ここが市民公園になっていて少年少女でにぎわっているので、幽玄さはあまりかんじられないところ。




東郭(二の丸)に到着。



東郭にも櫓台があったようです。
櫓台は、東郭を取り巻く土塁に連続して設置されていました。





東郭(二の丸)は、西郭(本丸)よりも広いようです。
案内看板にもありましたが、東西両郭でどちらが本丸だったのかは現在もよくわかっていないのだそうです。
元は東郭が本丸で、北条氏が改築して西郭が本丸になったという説が有力なのだとか。




東郭の足元には、見事な竹林の間を遊歩道が通っています。
こちらは東郭・つなぎの郭間の空堀の北側にあたります。



東郭から下る階段を、孟宗竹が貫いて伸びています。



空堀を進む遊歩道。
左は東西両郭をつなぐ土橋へ続き、右は空堀を進んで西郭へと続きます。





雰囲気ある竹林の中を歩いていきます。



西郭へと続く上り階段ですが・・・



ここからの画が、スタンプの絵柄に用いられているようですね。



少年たちが野球の練習をしている西郭(本丸)に到達しました。



西郭を後にしますが、



まだ「富士仙元」というところが残っています。



案内にしたがって進むと・・・城を出てしまいました。



第三京浜のガード下を進み、



うぅ・・・階段を上らされるのか。



JR横浜線のトンネル、その上には小机城の出丸が残っているようです。



約100段の階段を上ると、分かれ道。



木の陰で目立たない道を進むと、



小高い丘のてっぺんにある富士仙元に到達しました。



第三京浜の向こう側に、小机城の西郭がよく見渡せます。



丘からの眺望と、丘を流れる涼風で身を癒し、小机城の登城はこれにて終了。





小机城・前章~竹寺ならぬ竹林?

2018-08-12 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 5 月 6 日 ( 日 )

午 前 1 0 時 3 4 分

J R 新 横 浜 駅



GW麻雀大会が終わり、会員諸兄が横浜を後にしていきます。
千葉県民の私もそのひとりなのですが、このまままっすぐ家に帰るような私ではありません。



やってきたのは、新横浜駅
東海道新幹線の全列車が停車する一大ターミナルです。

ここから目指すのは・・・西です!





新横浜駅から乗車する電車は、



JR横浜線 各駅停車 橋本行きです。
進む方向は、一応西です。



新横浜駅から西へ1駅、小机駅で下車しました。


【今回の乗車記録】

JR東日本 [JH16]新横浜駅 6番線 10時40分発
[JH]横浜線 各駅停車 橋本行き
[JH17]小机駅 1番線 10時43分着

*移動距離 1.7km
*運賃 133円(IC運賃)



小机駅の改札を出たところ、



改札口のほぼ正面に「小机城址までのご案内」が掲示してあります。
なるほど、小机城までのアクセスは容易なようですね。



小机駅の南口に出ました。
駐車場のとなりに城郷小机地区センターがあります。
100名城スタンプ・・・じゃなくて続100名城スタンプは地区センター内にあるということで、



入口ロビーの片隅にて、



祝・続100名城、初スタンプ!
125番、小机城!

スタンプの絵柄が、なかなか繊細に描かれているようですね。
100名城から続100名城になって、スタンプにも進化が見受けられます??

「小机城址ガイドマップ」という冊子をゲットして、地区センターを後にしました。





「ご案内」のルートにしたがって、小机城址市民の森に向かいます。
大通りを離れ、横浜線の踏切を渡ると、



こんな案内が現れるので、これにしたがって左へ。
第三京浜道路のガードの手前で曲がって、



人の家の横を通るのでちょっぴり不安になりますが、この道が小机城に続いています。
ここいらの人家が建っている場所は根古谷といい、城主の館や家臣の屋敷が建っていたそうです。
平時はふもとの屋敷に住まい、戦時になると城に登るというスタイルだったようです。

城内の立派な竹林が、住宅地のすぐ近くまで繁茂しているのがわかります。




小机城址市民の森の入口。これより登城開始!
脇には公衆トイレがあります。非常時の際はこちらへ。



小机城の縄張りです。
城域はそれほど広くはなく、1時間ほどもあれば全体を見て回ることができそうです。
城域の西側を第三京浜が貫いているため、一部の遺構は失われています。



それにしても立派な竹林です。
鎌倉にあるミシュラン★★★のお寺さんにも引けを取らない、幽玄な雰囲気??
これだけ竹が生えていると、タケノコの収穫もなかなかのものだろうな・・・



ここでタケノコ掘りをやったら、警察に通報されるそうです。



急な勾配の遊歩道を上っていくと、空堀に挟まれた土橋があります。



土橋右側の空堀。なかなかに深いです。



模擬冠木門をくぐると、西郭(本丸)です。



冠木門の脇にちょこんと立っている「小机城址」の碑



西郭(本丸)は、地域住民の憩いの場になっているようです。
この日は少年野球の練習場になっていました。
普段から野球の練習場になっているようで、バックネットも備え付けられています。


西郭にあった立看板。



小机城の築城年代は明らかになっていませんが、おそらくこの地域が拓けた12世紀以降と考えられています。
当時この地は上杉氏の勢力下にあったので、上杉氏によって築城されたのではないかと考えられています。
文明7年(1475年)山内上杉家の家臣・長尾景春が上杉家の家宰の地位をめぐって反乱を起こすと(長尾景春の乱)、景春方だった小机城は扇谷上杉家の家宰・太田道灌に攻められて落城しました。
道灌は小机城を拠点にして、江戸城の攻略を図ったといいます。
やがて関東は北条氏の勢力下に入っていくと、小机城はしばらく放棄されていたようですが、大永4年(1524年)北条氏堯(うじたか)北条氏康の弟)が城主となり、城代・笠原信為により再興されます。
小机は江戸城玉縄城などの城を結ぶ位置にあったため、内政軍事の両面で重要な役割を果たしたそうです。
天正18年(1590年)の小田原征伐では北条家の諸城が攻撃されましたが、小机城は攻撃を受けることはなかったようです。
北条氏が滅亡し徳川家康が関東に入ると、小机城は放棄されて廃城になったようです。




立看板をもうひとつ。往時の小机城の縄張想定図です。
西郭(本丸)は土橋部分を除いて空堀で囲まれ、また本丸自体も土塁で囲まれています。
そして土橋の反対側の空堀は土塁で挟まれたかたちとなっていて、北条家特有の二重土塁の構造になっています。

・・・・・・が、少年野球軍団に阻まれて、土橋の反対側の空堀は見られませんでした。残念・・・。



土橋側の土塁。思ったほどに高くは積み上がっていないようですね。
空堀の淵にあるので高く積み上げる必要がないからなのか、あるいは公園化のために遺構が毀損しているためなのか・・・?

小机城の縄張想定図を見ると、主要な曲輪がふたつ存在することがわかります。
西側が本丸、東側が二の丸とされています。
しかしながら、北条家の支配下になる前は東の二の丸しか存在しなかったそうです。
北条家によって小机城が西郭が増築されて本丸となった、とされています。



本丸と二の丸を結ぶつなぎの郭を経由して、二の丸へと向かいます。






ちょっとだけ関宿城

2018-08-04 | 城郭【その他】


2 0 1 8 年 4 月 1 5 日 ( 日 )

午 後 3 時 5 5 分

千 葉 県 野 田 市

関 宿 城 博 物 館



逆井城【茨城県指定史跡】から、利根川を渡って千葉県へ戻りました。
時刻は午後4時前と、城を訪れるには時すでに遅しの感はありましたが、あえてもう1城へ。

千葉県野田市関宿(せきやど)
チーバくんのお鼻の先っちょにあるのが・・・



千葉県立関宿城博物館です。







博物館の建物は、かつての関宿城にあった御三階櫓をもとにしているのだそうです。
残っている古い記録をもとに外観復元をしたようで、江戸城富士見櫓【現存】を模しているようです。
しかしその記録が少なく、また立地もかなりずれているので、お城業界では模擬天守(史実に基づかない天守)とされています。




開館時間は午前9時から午後4時30分までで、入館終了時刻は午後4時までとなっています。
タッチの差でなんとか中に駆け込んだ、そんな感じでした。

関宿の地は、利根川江戸川が分岐する水運の要衝地。
そこで展示も、関宿城・関宿藩と、関宿の水運に関する内容となっています。


閉館まで30分弱。
今回は展示を軽く見るだけとして、御三階櫓の最上階へ。



最上階から北東を望みます。
関宿城の城門が移築現存している逆井城は、だいたい10km弱の距離です。



北西方向。
銚子で太平洋に注ぐ利根川と、東京湾へと注ぐ江戸川が分岐しています。
関宿城は分岐した江戸川を阻むかのように築城されていて、水上交通の要衝となっていました。


関宿城は、長禄元年(1457年)、古河公方家臣・簗田(やなだ)成助によって築城されたとされています。

天文15年(1546年)の河越夜戦に勝利した北条氏康が台頭し、古河公方家への圧力を強めていました。
天文21年(1551年)、古河公方・足利晴氏は北条氏の圧力に屈し、北条氏綱の娘との間に生まれた義氏に家督を相続させられてしまいます。
永禄元年(1558年)には北条氏の画策により、足利義氏が関宿城に移り、かわりに城主だった簗田晴助には古河城が与えられることとなりました。

北条氏康は関宿城を重要視し、「関宿城を抑えることは、一国を得ることに等しい」と評していたそうです。

永禄3年(1560年)になると越後の長尾景虎(上杉政虎・謙信)の軍勢が越山し関東を席巻、翌永禄4年には小田原城を攻めました。
このとき景虎は、北条氏の血を引く義氏を追放します。
景虎は小田原の攻略が成らないまま兵を退き、鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉家の家督を継いで「上杉政虎」と名乗ることとなり、越後へと帰還します。

政虎の帰国後は、北条氏康が関東を奪還していき、簗田晴助を関宿城に戻しました。
その後北条氏は数度にわたり関宿城を攻め、天正2(1574年)簗田持助はついに開城、以後は北条氏直轄の軍事拠点となりました。

天正18年(1590年)の小田原征伐で落城。
関東は徳川家康の所領となり、家康は異父弟・松平康元を関宿城主としました。
以降、久松松平・能見松平・小笠原・北条・牧野・板倉などと主を目まぐるしく変えることとなります。
久世氏が城主のときに明治維新を迎え、廃藩置県により廃城となりました。





御三階櫓から南方を眺めます。
まあるい樹木が2本植わっているあたり・・・



このあたりが、かつての関宿城本丸だったところです。



博物館の外にある看板より。
治水の必要から江戸川の水流を変える工事を行ったため、関宿城の遺構は多くが取り壊されることとなったのです。



お次は関宿城の遺構をつぶさに拝見・・・といきたかったところですが、時間の都合でこの日は ジ・エンド。