日は変わって5月。
所は変わってJR本八幡駅付近です。
国道14号千葉街道、市川市役所のすぐそばに、一の鳥居とともに葛飾八幡宮の参道がのびます。
京成本線の踏切を越え、二の鳥居をくぐると、八幡宮の境内です。
境内の脇にある市川市民会館の駐輪場に自転車を止め、参拝開始です。
公孫樹並木に覆われた境内を歩いていきます。
そうそう、「公孫樹」と書いて「いちょう」と読むんです。
なんだか三国志にこんな名前の武将がいそうな気もしますねぇ。
「いちょう」というと、「銀杏」と漢字表記されるのが一般的ですが、本稿ではあえて「公孫樹」と書いていきます。
公孫樹並木の先に待ち受ける門構え。
両脇に随身が鎮座する随神門【市川市指定文化財】です。
「随身」とは近衛府に所属する警護の官人、現在でいうところのSPにあたります。
随身の像が門の両脇に奉納され、神域を保護する門のことを「随神門」といい、この場合の随身は「随神」と表記されます。
この随神門は、もともとは上野寛永寺の末寺の仁王門であったそうで、以前は随神ではなく仁王像が安置されていました。
明治政府の神仏分離により、この門が葛飾八幡宮のものとなり、仁王像は別所に移されて随神が奉納されて現在に至っているそうです。
随神門をくぐって中に入ると、もうひとつ門構えがあります。
そして左側には源頼朝公駒どめの石があります。
平家を打倒すべく伊豆で挙兵した頼朝は、石橋山の戦いで一敗地にまみれ、安房国まで逃れます。
ここで千葉
葛飾八幡宮を参拝して戦勝と武運長久を祈願しました。
このときに頼朝の馬がこの石に前脚を掛け、ひづめの跡を残したといいます。
私も頼朝公にあやかって、武運長久を祈願します。
「チャリで無事に横浜に着きますように」
「鬼ヅモ大会、たまにゃ~優勝させてくださいな」
寛平年間(889年~898年)に宇多天皇の勅命で、石清水八幡宮より
祭神は
神功皇后は仲哀天皇(日本武尊の子)の皇后で、仲哀天皇が若くして崩御された後に天皇の位を60年以上!!も代行されました。
皇后はご懐妊の身のまま出兵して海を渡り、戦わずして新羅を屈服させ、さらに百済と高句麗に朝貢(貢物を献上する)を約束させました(三韓征伐)。
三韓征伐の帰り、筑紫国宇美(備前国宇野とも)でご出産されました。
その子が応神天皇です。
応神天皇は第15代の天皇で、歴史学上での存在が確実視されている最初の天皇とされています。
神功皇后が薨去されてから天皇の位につきました。このとき天皇の御年、71歳!!
新羅が百済を圧迫していたときに軍を派遣して百済を援け、百済より多くの民が渡来しました。
日本書紀によると、在位41年目の111歳!!!!で崩御され、子の仁徳天皇が後を継がれました。
なお玉依姫尊は、神霊を宿す女性・巫女一般をいい、固有名詞ではありません。
本殿での祈願のあとは、境内を散策します。
葛飾八幡宮の御神木・千本公孫樹【国指定天然記念物】です。
この公孫樹の根元を見ると、複数の木がまるで束になって一本の木をなしているようにも見えます。
また根回りは10.2m、目通りは10.8mと、上の方が少し太いのも、「千本」のように見える要因になっています。
この公孫樹は千本ではなく一本です。
かつて落雷にあって折れた太い幹を囲うように、多数の枝が根元から合着して立ち上がっています。
またこの公孫樹は雄株なので、銀杏は落としません。
神社なのに鐘楼があります。
これも随神門と同様、神仏分離前にあった寺院の名残です。
境内末社をひととおり。
まずは鐘楼の前にある厳島社。
次に富士塚&浅間神社。
そのとなりは八坂社。
さらに尾上稲荷社。
最後に葛飾天満宮です。
このあたりに本宮の鳥居が立っていて、裏参道の入口となっています。
二の鳥居付近まで引き返しました。
時刻は午前9時52分。
これから横浜へ・・・行く前に、私はもう1ヶ所市川市内で寄り道をします。
※「勧請」
ほかの社の祭神の神霊を分けて、別の神社にうつすことをいいます。
※「摂社」「末社」
本社の管理に属する別の社を「摂末社」といいます。そして、
(1)本社の祭神の后神や御子神など、関係ある祭神が祀られている社
(2)本社の祭神の荒ぶる魂を祀る社
(3)本社が遷る前に、当地で祀られていた祭神を祀る社
(4)その他、特別な由縁がある社
に当てはまる場合は「摂社」、当てはまらない場合は「末社」といいます。
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