たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大畑才蔵考23 <大畑才蔵翁頌功祭に参列して><才蔵空白の30年を少し考えてみる>+補筆

2019-04-22 | 大畑才蔵

190422 大畑才蔵考23 <大畑才蔵翁頌功祭に参列して><才蔵空白の30年を少し考えてみる>+補筆

 

先週、仕事でブログを書く余裕がないと思い、1日の休筆を告知しました。ところが、体調不良となり、途中午前中なんとかしのぐと午後にはダウンして夜は早々に寝床に就く状態となりました。昨日までとてもブログを書く気力もありませんでした。 

 

今日は夕方になっても体調が安定していて、書けそうなので、タイピングを始めました。

 

花の写真も撮りました。が、ちょっと作業するだけの気力が残っていないので、今日は止めときます。書いているとまた調子が悪くなりそうな雰囲気になっていますので、要領よくまとめたいと念じています。

 

先週土曜日朝、快晴の空が広がる中、紀ノ川中流域にある粉河寺で、大畑才蔵翁頌功(しょうこう)祭が行われました。10年に1度で、9回目と言うことですから90年続いているのですね。小田井と藤崎井の両土地改良区が主催して行われ、大勢の方が参列していました。

 

粉河寺中門の手前、左側に大畑才蔵翁の頌功碑が大正1412月に建立されたとのことです。先般の歴史ウォークでもこの碑を見ましたが、大きく立派なもので、それだけ地域の人たちが敬意を表したのでしょう。

 

法要と言うことで、管長さんほか2名の僧侶、3名で行われました。私は、大畑才蔵ネットワーク和歌山の会長が所用で参列できなかったので、代役で参列しました。最前列でしたので、管長さんの読経の声が小さなところから大きく響くところまで、よく聞こえてきました。粉河寺は天台宗ということで、密教的な点では真言宗と少し似ているかなと思いつつ、お経の中身とか抑揚とか少し違うなと思いながら聞いていました(信仰心があまりないのでそういうところに関心がふとわきます)。

 

管長さん、ちょうど日あたりのよい場所でしたので、汗だくだくで読経されていて、なんども頭の汗をぬぐっていました。私はというと、ちょうど木陰でしかもそよ風がいい具合にずっと吹き抜けてくれ、気持ちよく過ごすことができました。なにか申し訳ない気分になりましたが、おかげで私の体調はそのときとてもよかったです。葉桜の樹の下でしたが、才蔵翁を偲ぶには最適でした。

 

ところで、才蔵について、55歳から20年間、紀州藩における灌漑事業をはじめ農地調査、農業指導、年貢徴収法の立案など、農政全般の実務を担ってきたことはよく知られたことです。この頌功祭も、小田井、藤崎井という大灌漑事業を成し遂げた功績を顕彰しようということだと思います。

 

他方で、才蔵が高野山金剛峯寺の内偵役を紀州藩から任命され、30年近くその任にあったことは知られているものの、才蔵自身が後半の人生と異なり、わずかしか記録が残されていないこともあり、あまり研究されていない部分で、古代でいう空白の5世紀とかというのを、あえて空白の30年と評してみようかと思うのです。

 

才蔵が内偵役になったのは、橋本市編纂の『大畑才蔵』所収「高野山品々頭書」では、寛文9(1669)となっています(それ以前との記述をどこかで読みました、後記の南紀徳川史もそのような前提?)。その職を退いたのがいつかは定かではないように思えます。

 

他方で、「南紀徳川史巻第一」の中で「大畑才蔵は・・・寛文四年より正徳五年まで五十二年間、郡方に勤務。かの有名なる小田堰・藤崎堰を開鑿(かいさく)。」とあります。これは明治期に作られたものですから、どのような資料に基づいたか明らかでないものの、紀州徳川家当主・徳川茂承によって編纂されたものですから、紀州藩の資料によっている可能性も否定できません。才蔵の記録には時折、元号の誤記があったり(あるいは謄写時に誤り?)奉行名が存在しないと思われるものもあり、才蔵の勤務期間についても慎重に検討されてよいと思っています。

 

どうも前置きが長すぎて(その代わり書いているうちにフラフラしていた頭が少しだけすっきりすると言う功罪半ばする?)、なかなか本題にたどり着けません。

 

再び「高野山品々頭書」に戻りますが、ここで才蔵は、内偵役として選ばれた理由らしきこととして、自分がいる学文路(かむろ)が高野山の麓に位置し、当時は主たる高野道の出入り口に当たり、行き交う人を見聞して見張ることができるといった趣旨のことが書かれています。たしかに学文路は高野街道を経て紀ノ川を渡り高野山に登る入り口に位置しますから、出入りする人物、、物資を探ることはできますね。しかし、それだけで才蔵が選ばれたとは考えにくいと思うのです。

 

そもそも才蔵の系譜がなにかを感じさせます。甲斐武田が元祖でしたか、南北朝時代には日高郡に城郭を構え湯川氏として足利公方に仕え、天文二年(1533年)学文路に移った後大畑姓になり、関ヶ原合戦にも出陣したものの、徳川政権になってからは慶長十二年(1606年)には才蔵の祖父が庄屋になり、以後代々続いているようです。

 

学文路という場所はとても興味深い場所です。交通の要衝でもあり宿場などもあったと思われますが、紀ノ川の氾濫源で割合肥沃な農地が広がっていたのではないかと思います。江戸時代の石高が村ごとに残っていて、意外とあります。その中心は紀ノ川左岸で安田島(あんだじま)といわれる平坦なところです。明治35年の地形図でも川岸周辺は桑畑となっているものの、現在南海高野線の軌道があるところまで田んぼが広がっていました。

 

元禄五年(1692年)の元禄高野裁許は行人方の寺院千カ所の廃寺、行人600人ほどの追放などの大処分が行われたわけですが、それはいくら江戸から寺社奉行が500名を連れてやってきても、数日間の審理でその判断を行うことは不可能でしょう。内偵役の才蔵らが綿密な個々人の罪状を調査していないとできないことではないかと思うのです。

 

才蔵の家系を見れば、長年武士として武勇をあげ、由緒のある武家として家系を誇っていたと思われるのです。最近のドラマで武家の娘という台詞が評判でしたが、江戸初期農民身分に自ら転じた大畑家としても、藩士に劣らない家系という誇りを教育・躾などで維持していたのではないかと推測できます。

 

当然、才蔵も農民であっても紀州藩士に比肩する以上の能力をもっていたことをうかがえます。彼が指摘する年貢徴収法に関する記述などは藩士のあり方をも指導するような内容に思われるのです。そのような彼だからこそ、行人という当時は武勇に長けた人たちが跋扈していた中でも調査ができたのではないかと推測するのです。

 

で、高野山内の紛争自体、そもそも秀吉が、そして家康が、高野山に与えた21000石の領域がグレーであったからではないかと思うのです。紀ノ川以南が安堵されたとも言われますが、それなら学文路はなぜ紀州藩領なのか不思議です。なぜ徳川政権が学文路を高野山領にしなかったか(私の知る限り南岸では唯一の例外ではないでしょうか)。

 

他方で、北岸(右岸ですね)は紀州藩領ですが、高野山の支配が及んでいなかったとは言えないと思うのです。秀吉に高野山領を安堵させた応其上人は、南岸にある平谷池(へいだにいけ)、風呂谷池、宮谷池の修復等を行ったほか、北岸でも岩倉池、引の池(ひきのいけ)、畑谷池(はたたにいけ)など、多くの修復、築堤の土木工事を行っています。紀州藩領内でのため池事業を高野山のトップ(聖派ともいわれていますが、領地自体は行人派が半分以上を支配)である応其上人が行ったかとなると、やはり高野山支配が紀州藩領内に及んでいたとみるのが自然ではないでしょうか。

 

元々、官省符荘や静川荘など高野山領が北岸側にもありましたし、徳川政権、ましてや徳川頼宣が藩主になって以降も、行人派を中心に従来の荘園支配的な事実上の勢力を維持していた可能性があるかなと思っています。

 

他方で、水争いは江戸時代に入ってもたとえば桛田荘と静川荘との間で度々起こっています。その一例が慶安三年(1650年)賀勢田荘絵図です。その後も両者の間繰り返し訴訟沙汰になっています。

 

秀吉の刀狩りは、高野山では断行されていませんでした。そのため元禄高野裁許の時、初めて多くの刀槍などが押収されたのです。

 

小田井開削の条件は、やはり高野山の中世的荘園支配から抜け出したときにはじめて可能になったのではないかと愚考するのです(誰もそんなこと言っていないようです)。

 

もう一つ、小田井を選んだのは、地形的条件のみならず、庄屋であった才蔵だからできたのではないかと思うのです。小田井の左岸(南岸)は広大な氾濫源であり、学文路の田畑があるところです。堰が新たにでき、もし洪水が発生しやすくなると考えれば、農民は決して認めないでしょう。それを説得し理解させたのは、庄屋としての人徳、力量をもつ才蔵だったからではないかとも思うのです。

 

フラフラした頭の中でしたが、とりあえず最初ふと考えたものの一端に触れることができました。いずれ資料を踏めてもう少し整理して書いてみたいと思います。

 

今日はこれにておしまい。また明日(と思っています)。

 

補筆

 

普段は読み返さないのですが、少し内容に手入れしました。昨日はふらふらで書いてしまったことと、書きたいことが抜け落ちていたので、今朝少し補筆します。

 

一つは領地支配と水争いです。水争いは、まさに農民、つまりそこを支配するムラがその権限をもっていて、領主といえども上意的に一方的に決められませんでした。江戸時代においても、水争い、訴訟は、果てしなく続いており、そのような記録が全国で残されています。紀ノ川筋でも少なくない裁許記録があります。紀ノ川北岸に関して言えば、灌漑用水源は小田井、藤崎井ができるまでは、和泉山脈麓につくられた多くのため池、南行して紀ノ川に注ぐ多くの小河川しかなく、小氷期を迎えた江戸初期から中期は気候変動の影響をもろにうけて水の枯渇リスクに晒されていたと思われます。

 

17世紀は紀州徳川家も藩主になって容易にこの水争いに対応できず、その中で中世以来の高野山行人派が農民の背後で蠢いていた可能性があるのかなと思うのです。元禄高野裁許では、学寮派と行人派の宗教規則を巡る争いが江戸初期からなんども江戸の寺社奉行で訴訟沙汰になっていたことの最終的な解決として、位置づけられていますが、その一面だけではないと考えるのです。やはり紀州藩の領地支配の妨害への対応という側面を無視できないと思うのです。

 

そう思う一つは、赤穂浪士事件でも喧嘩両成敗が当時の通念であったことが事件の背景とされていますが、この元禄高野裁許も行人方だけの片面的処断で、しかも廃寺、流罪など極刑に匹敵する厳罰であり、本来なら忠臣蔵的な話が生まれてもおかしくないじょうきょうだったと思われるのです。そうでなかったのは、紀州藩はじめ周辺での世論操作がうまくいったのかもしれません。あるいは高野山のそれまでの横やりがひどかったのかもしれません。たとえば佐倉惣五郎のような義人として、戸谷新右衛門の高野山による不当な年貢徴収に対する戸谷新右衛門の強訴事件も一つの例でしょうか(これははたして史実かは記録が鮮明ではありませんが、伝承が残るくらいですから高野山支配に問題があった可能性を示唆します)。

 

もう一つ、学文路の位置について、うっかり九度山との関係を落としました。真田幸村・信繁が大阪城冬・夏の陣まで滞在していた九度山は、学文路の隣です。というか、幸村が居所にした九度山は高台にあり、農地はあまりなかったと思われます。崖下の低地であり氾濫原であった学文路の農家が農産物を提供したりして、幸村との交流があったかもしれないのです(これは推測というよりほんの可能性です)。九度山の百姓の中には幸村について大阪の陣に参じた人も少なくなかったともいわれています。大畑の先祖は関ヶ原の戦陣には参加していますが、大阪城の戦陣には参加していていないようです。ただ、大畑としては、幸村が抱えていた忍び?というか有能な家来の出入り行動をつぶさに知り得たのではと思うのです。同じ甲斐武田ですし、もしかしたら大畑家の先祖の方が位も上だったかもしれません。

 

書いてみましたが、やはりすっきりしません。しっかり記録に当たって整理してから、再構築の必要がありますね。

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿