たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

医療とAI <AIが病理診断 専門医不足カバー>を読んで

2017-03-21 | 医療・介護・後見

170321 医療とAI <AIが病理診断 専門医不足カバー>を読んで

 

今日は久しぶりに朝から雨。といっても小雨というか、小糠雨というか、いや雨など降っていないというか、いろいろかもしれません。異国の中では、この程度の湿りを雨と表現しないか、あるいはそう感じない感覚もあるように思うのです。でも日本人は、雨に対して敏感で多様な表現を、絵画や和歌、詩などさまざまな分野で示してきたように思います。

 

それはともかく今日も午前、午後と相談があり、いろいろ調査に出かけたりで、いつの間にか夕方が近づいてきました。本日のブログテーマを何にしようか考えないと、と思いつつ、安直に見出しの一面記事を取り上げることにしました。

 

実は毎日大阪版では「認知症で困らない社会に」というタイトルで、日本医科大学特任教授の北村伸氏のエッセイが掲載されていて、私が先日取り上げた疑問とほぼ似たような内容を指摘されていましたので、これを再度取り上げようかと思ったのですが、ウェブ情報では見つからなかったので、別の機会にすることにしました。

 

ただ、一言付け加えれば、バリアフリー化を推進する声が高まっているのはいいのですが、身体障害者用のスロープなど、それ自体はいいことですが、見えるバリアについて少し偏重していないか気になっています。認知症対策など、見えにくい分野はどうも見捨てられていないか、あるいは意識改革が進んでいないのではと思ったりしています。

 

その点、以前も取り上げたように、北村氏が指摘しているように、認知症には多様な症状があります。他方で、交通事故との因果関係が明確でないですし、疫学的調査もされているとはいえないと思われる段階で、今回の改正道路交通法は、バリアフリー化の流れに逆行するおそれも感じています。この点は、これからもよく議論を尽くしてもらいたいと思っています。

 

さて、見出しのAIの医療分野での進化に入る前に、今日から始まる囲碁世界大会こそ、AI棋士と日中韓のトップ棋士との戦いで、その力量が遺憾なく発揮されることを期待したいと同時に、井山棋聖のそれを上回る力を見たいものです。

 

さて毎日一面は、がん大国シリーズの一つとして、病理医の不足をとりあげ、AIがこの分野で進展することを期待する内容です。病理医というと、普段私たちのような患者側の人間にとってあまりお目にかかることがなく、仕事も人と直接対面することも少ない、結構、きつい作業を強いられつつも、その検査結果で病気の有無、がん等の進行段階を決定するわけで、最後の決め手を提供する重要な仕事だと思うのです。

 

ところが、先に述べた仕事の内容のせいもあるのでしょうか、人気がなく、不足気味と言うことのようです。それでは折角、主治医が生検したりして細胞採取しても、直ちに結果が判明できず、診断が遅れることにもなりかねないことは記事にあるように予想できます。

 

大量の画像の認識、識別判断は、AIがもつディープランニングで得意の分野というのも理解できますし、ましてやその診断の基礎となる大量に発行される雑誌や文献を即座に読み取り整理・解析し、事例に当てはめる作業も可能になるというのも、なんとなくわかります。

 

そうなるとほとんどはAIが代替して病理診断結果を作成してしまうと思いそうですが、当分は(あるいはずっと?)病理医の診断の補助として役立つということのようです。ま、膨大な画像データや文献データから、おおよその病態を識別するといったことになるのでしょうか。最終的には病理医が自己の判断で決定するということでしょうか。

 

まだこのあたりの状況はよく分かりませんが、いずれにしても、AIは病理医を含めさまざまな医師の診断の補助としてはますます必須のものになるように思われるのです。

 

そこで人間としての医師の役割は、今後どうなるのかという点を少し考えてみたいと思います。素人の考えですから、当たるも八卦当たらぬ藻八卦でしょう。

 

以前、医療事件を取り扱ったとき、本来なら病理に回して最終診断をすべきなのを怠ったか否かが争点の一つになったケースがあります。私自身、人間の細胞が60兆でしたか、その器官・部位でも膨大な細胞の数で、その一部を採取して病理検査しても、当該器官全体の病態を見極めることは病理では困難であると思っています。生検すること自体が身体への侵食ですから慎重にすべきであるとともに、その前提の検査は適宜適切に行う必要があったのに、それが行われていたかが争われ、その過失が問われた事案でした。

 

病理に行く前に、適切な検査・診断が行われていないと、病理医を増やしても、直ちに問題解決とはなりません。そして病理医に回ってくる対象はほんの一部です。それを画像診断が迅速に出来るようになったからと言っても、まだまだ適切な診断がそれだけで有効に出来ることにはならないと思うのです。

 

また、別の事案で、生検自体が問題になったことがあります。生検の結果、その部位に多大な後遺症が残ったというものです。生検はマニュアル通りやれば、手技では問題になることは少ないと思いますが、患者は個々特性があり、微妙に違います。そのときの体調や精神状態もあったかもしれません。重大な後遺症が発生するような危険は、おそらくAIの知見がかなり進化したとしても、容易に予測することも困難と思われますし、生検や手術を行うまでに到るのは、当分先の話かもしれません。まったくありえない世界ではなくなると私は思っていますが。そのとき誰が責任を負うかといった問題より、AIの将来の可能性をどこまで認めるか、これも慎重に検討しておく必要があると思うのです。

 

国家試験合格を目指すという記事については、それはそれほど遠い将来ではない時期に達成する目標ではないかと思うのです。他方で、では医師はどうなるのかについて、<「AIの開発が進んでも、医師が不要になることはない。医師は患者の体の状態や職業など一人一人の情報も加え、総合的に診察する。AIは医師と同じレベルを目指すのではなく、画像の判読の手助けなど、医療者の負担軽減の役割を担っていくことになるだろう」>

 

そうですね、医師は人としての能力をより求められるのではないかと思うのです。それは患者個人について、体全体を診るというだけでなく、その家族関係や背景事情も斟酌する、問診するといった、ある意味「赤ひげ」ごとき能力が求められるかもしれません。むろん、AIを十分に補助手段として使いこなせることも求められるでしょう。

 

とはいえ、AIに頼らない、まさに「赤ひげ」そのもののような医師の存在も今後基調になるのではないかと思うのです。そういえば少し前のNHKサキどりで、瀬戸内海の孤島で活躍するパイロットドクターが紹介されていました。

 

彼は以前は飛行機の曲芸までやっていた経験があり、今は外国製の船に乗って荒波ですいすいと島周りをしたり、あるいは水上飛行機を使って島巡りをして、巡回診療を行っています。そのパイロットとしてのテクニックはとても魅了させるものです。それ以上に島に入って、各家を回っていき、80代や90代の高齢者の患者を診る様子は、それ以上に魅了されてしまいました。なんとも自然な会話でやりとりし、江戸時代までの診療風景はこんなものであったかもと想像したくなるほどです。まさに現代版赤ひげ先生です。

 

AIはこれからも進化し続けるでしょう。でも日本の過疎地で、AIの利用が可能になったとしても、この赤ひげ先生のような気持ちがなければ、過疎地の診療は成り立たないでしょう。そういう医師がこれからも増えていくことを期待したいです。


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