たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

働き方の多様性と公正さ(2) <オリンピック選手と公正・自由と?)>

2018-02-18 | 働くことを見直す

180218 働き方の多様性と公正さ(2) <オリンピック選手と公正・自由と?)>

 

昨日に続いて、フリーランスの自由な活動、成長と公正なあり方を検討してみたいと思います。

 

ところでフリーランスといっても、いろいろな形態があって、それぞれの形態によって問題点が異なるでしょうし、今回の検討会報告書では一般的なアプローチにとどまっていますが、いずれは個別的な検討がなされる旨も指摘があったと思います。

 

ところで、いま冬季オリンピックが毎日の話題をさらっていますし、多くの人に感動を与えていることも確かですね。で、そのオリンピック選手、彼ら彼女らも立派なフリーランスですね。

 

ではウィキペディアで、確認してみましょうか。

フリーランス(英: freelance)は、特定の企業や団体、組織に専従しておらず、自らの才覚や技能を提供することにより社会的に独立した個人事業主もしくは個人企業法人である。>

 

日本では自由業、自由職業、フリーランスと言われているようですが、例として次のような形態があがっています。

 

<国税局では自由職業の例として、医師、弁護士、作家、俳優、職業野球選手、外交員、大工を挙げている[1]。>ま、国税局の取り扱いですから、これを前提に、独禁法上の適用対象として検討するのは問題があるでしょう。ただ、医師(開業医)も弁護士もフリーランスといっても明白な間違いとはいえないでしょう。

 

実際、弁護士報酬について、昔は日弁連で統一基準をつくって、各弁護士がおおむねその報酬基準にしたがって算定していましたが、公取委から公正取引を害するおそれを指摘され、それ以降は各弁護士が個々に報酬基準を作っています。といっても多くの弁護士は昔の日弁連基準にほぼ依拠したものでやっていると思いますが。

 

開業医の場合、以前各地の医師会で参入障壁を事実上設けていて、地域内に一定以上の医師が増えることや近隣に同種科のある病院・診療所があると事実上の距離制限を設けていたことがあったとうかがったことがありますが、さて現在はどうなんでしょう。

 

さてフリーランスの種類に戻ります。ウィキペディアでは以下の通りです。

              報道・放送・マスメディア分野については

フリーアナウンサー

フリー俳優・声優

フリーナレーター

フリーライター

フリージャーナリスト

評論家

    芸術分野について

俳優、ミュージシャンなど事務所と契約、もしくはフリーランスの芸能人

作家、翻訳家、ライターなどの著述業

画家、イラストレーター、アニメーター、漫画家、書家、写真家など美術関係

デザイナー

キュレーター

通訳

著作権エージェント

    技術職(技術者)・研究職

大工、電気工事士など一人親方の技術者

レコーディング・エンジニア

プログラマ、SEなどITエンジニア

在野の研究者(大学や研究機関の正職員ではない者)

    スポーツ

プロ野球選手

JRA所属騎手

プロレスラー

    農林水産業

      他の農家や漁師から労働を請け負う農家・漁師

      林業

      猟師

その他は省略

 

ここで、少しスポーツ分野について取りあげてみたいと思います。プロ選手といえば野球選手がわが国では代表格ですが、サッカー、バスケット、アメフト、など多いですね。ではアマチュア選手はというと、これまた一定の場合はフリーランスですね。アマからプロに変わる例も少なくないですが、オリンピック選手は結構いますね。

 

で、<人材と競争政策に関する検討会報告書>(検討会報告書と略称します)で取りあげているオリンピック選手についてのEUでの違反例がありますので、具体的なイメージを理解するのに役立つのではと思い引用します。

 

昨年128日のEU委員会のプレスリリースです。

「欧州委員会は,国際スケート連盟(ISU)が、ISUが承認していないスピードスケート競技会に参加した選手に対して厳格なペナルティー(無期限追放を上限とする)を課すことは競争法(欧州機能条約101)違反と決定し,ISUに対し. 90日以内に,違法行為を取りやめることを命じた。

欧州委員会は,問題となったISUの規則について,正当な目的(1SU自身の経済的利益はこの目的から明示的に除外)のみに基づき,また,その目的の達成に必要かつ適切(inherent and proportionate) な内容となるよう, 廃止又は修正することにより命令を純行可能としている。」

 

国際スケート連盟ISUの規則が定めた専属性の規定について、ISUの目的に必要かつ適切なものといえない不当なものとして、選手に参加する競技会の制限を定めて、それに違反した場合の制裁措置をとることを競争法違反としたのですね。

 

いま高木選手、小平選手などの活躍で話題のスピードスケートの世界ですが、この国際スケート連盟(ISU)というのは名称からすると、各国の国内スケート連盟が所属しているのではないかと思いますが、そうなると日本人選手もその規則の適用を受けているのでしょうか。

わが国ではこれまで独禁法をアマチュア選手に対する関係で適用した事例はないのではないかと思うのですが、今後は可能性がでてきたのではないかと思うのです。

 

これは要するに、「専属義務」という拘束条件が公正といえるかの問題だと思われます。

 

検討か報告書では、各種の問題となる行為の一つとして「専属義務」を取りあげています。上記にあげたフリーランスでも歌手、俳優、スポーツ選手などが時折移籍をめぐって問題となりニュースになることがありましたが、その専属義務です。

 

報告書では、専属義務を直ちに禁止というのではなく、次のような3つ観点から独禁法上問題になることを指摘しています。

 

自由競争減殺の観点からは.発注者が役務提供者に対して.発注者が自らへの役務提供に専念させる目的や.役務提供者の育成に要する費用を回収する目的のために合理的に必要な(手段の相当性が認められる)範囲で専属義務を課すことは.直ちに独占禁止法上問題となるものではない。)」

この点は、歌手などの育成に相当額の費用を投じる現在のプロダクションが行う専属契約自体を直ちに違反とみているのではないことを示しています。ただ、その目的との間で合理的な必要な範囲という限度を設けて釘を刺している点です。当然の内容ですが、実効性があがるものかは、これから具体的なガイドラインがどのようになるかにかかっていると思います。

 

次に

競争手段の不公正さの観点からは.発注者が役務鑓供者に対して義務の内容について実際と異なる説明をする.又はあらかじめ十分に明らかにしないまま役務提供者が専属義務を受け入れている場合には.独占禁止法上問題となり得る。」

これまた契約法の原理に即した内容で、消費者法の世界ではすでに確立している(実際は守られていないため、詐欺商法が横行するわけですが)内容です。フリーランスの中でもスポーツ選手や歌手などとりわけ高い能力を要求される職業の人は、その能力向上に邁進して契約条件なんか気にしない人が以前はほとんどだったのではないでしょうか。そのため問題が生じやすかったと思いますが、最近は、こういった契約意識が高まってきていますので、改善されつつあるとはいえ、契約できるかという場合には弱い立場であることが普通ですから、このような説明義務の明確化は必須でしょう。

 

最後に

優越的地位の濫用の観点からは、優越的地位にある発注者が課す専属義務が不当に不利益を与えるものである場合には.独占禁止法上問題となり得る。」

この優越的地位とはとか、不当な不利益とかは、今後にまわしたいと思います。

 

だいたい一時間となりましたので、今日はこれでおしまい。また明日。


農と人と天地(1) <宇根豊著『農本主義のすすめ』>に触れながら

2018-02-18 | 農林業のあり方

180218 農と人と天地(1) <宇根豊著『農本主義のすすめ』>に触れながら

 

少し暖かさを感じる気候になってきたように感じます。今朝も外を見ると、野鳥のさえずりが甲高くなってきたように感じます。春の訪れを彼らも感じつつあるのでしょうか。眼下の谷戸に広がる柿畑では、小さな煙がたなびいています。農家が冬の間に落ちた枝(結構自然に落下します)や落葉を集めて、こじんまりに野焼きをしています。長閑な風景ですが、初春が間近になると見かける景色です。

 

落葉・落枝だけでなく、増えすぎた枝はや、伸びすぎた枝も剪定しますので、そうなると枝の量は相当なものになり、一カ所に集めて焼いたりすると、炎上することもあるでしょう。でも普通の農家はそんなことをせず、枯れ草なども一緒にして、いくつもに分けて焼きますので、たなびく煙は地上高くあちこちで生まれます。青空の中にこういう白煙をのんびり見るのも気持ちの良いものです。

 

ところで、農村、山村には人がどんどん減っていき、高齢者ばかりで、限界集落とか、消滅危機集落?とか、それに似た表現で、改善策をいろいろ考えられているように思います。この話はいつからでしょう。おそらくそういった認識はもう40年近く前からあったのではないでしょうか。

 

さまざまな支援事業・補助事業など対策が講じられてきたと思いますが、その傾向はとまることなく、現在もその趨勢は続いていると思います。

 

高齢になった後も、そこに住み続けるのはなぜでしょう。子どもや孫たちがいる都会(といっても辺鄙な場所から車でいける程度の距離にある市町村の分譲地があるようなところ)で一緒に暮らせばいいのにと家族は思うのに、不便でも住み続けている姿が時折放映されます。彼ら彼女らは、もっぱらこじんまりと畑作をしながら自立して生きているように思うのです。

 

私自身、真の?高齢者になったら、そういった場所で暮らしてみるのもいいなと思っています。それが農と人と天地とが一体で、余生を暮らすにはちょうどよい環境になるのではと思っています。病気になったらどうするかとか、それは自然の采配にまかすのが最適かなとも思っています。できるだけ病気にならずに暮らすにも、私流の自然農的生活で健康も維持できるのではないかと考えています。

 

都会的生活ができないことへの欲望はほとんど皆無に等しいかもしれません。そういえばターナーの絵画展が京都文化博物館で昨日から開催されると今朝の毎日記事が報じていましたが、都会にはこういった魅力が一杯ですね。たしかに私も、昔図書館の美術書でしか見たことがなかった多くの絵画、とくにターナーについては、ルーブル美術館でか、メトロポリタン美術館で見たかのか、思い出せませんが、それを見た瞬間、圧倒されてしまいました。そういった感激はやはり原画を直接見ないと得られませんね。あるいはオペラや観劇などなど。

 

でもいまはTVで見るだけでも満足です。いや、それさえなくても、身のまわりの自然風景で十分かもしれません。

 

ある意味都会的魅力に魅せられる精神が失せているというか、それ以上に、たとえばへんりー・D・ソローが著した『森の生活』のような情景というか生活に魅力を感じるのかもしれません。

 

と前口上がまたまた長くなりましたが、最近何冊か読んでいる宇根豊氏の著作は、同世代と言うこともあり、私と違って長く本格的に農の道を歩んでこられた方ということもあり、同じ意見ではないですが、共感するところが少なくないので、彼の著作の一つ『農本主義のすすめ』を通じて彼の思想を学びながら、少し考えてみようかと思っています。

 

今回はその第一回目と言うことで、最初の序章「生の蹂躙」について、簡単に素描してみようかと思います。

 

宇根氏は、資本主義社会における農のあり方を追求しているように思えます。それは、資本主義とは整合し得ない、農業は農とは異なる、それは農本主義であり、天地自然に活かされるあらゆる生命とムラという共同体の中でのみ成立するというのでしょうか。

 

まず、「生の蹂躙」では、百姓という基本軸でものをみて、現代社会はおかしいというのです。

 

いま農家の数が激減し、高齢化も進んでいて、これに対処するため、若い力を発揮して成長産業としての農業、農村社会を変えようと、TPPをはじめ、農業の効率化、生産規模の拡大などなどの施策が目白押しです。それは宇根氏には資本主義的発想であり、農業であっても、農ではないというのです。

 

そして現在の農村、農地景観について、次のように冷徹な視線を投げかけています。

「弥生時代にこの村で農が始まってから、いちばん百姓の気持ちが萎えて、いちばん農地が荒れ、いちばん里の風景が壊れ、いちばん生きものが少なくなっている時代なのかもしれません。百姓のくらしがよくなり、村が栄えると思ってやって来たことが、根本的に間違っていたのではないかと、感じる毎日です。」と

 

なぜここまで悲観的に感じるのか、理解できない人も少なくないでしょう。私は農村生活をしてみて、少なからずそういった印象を受けた一人です。ある意味、機械化が進み、圃場整備などで田んぼの規格も碁盤の目のように整理され、そこを縦横に走る農道も、また水路もアスファルトないしコンクリート化して、一見するときれいです。ま、いえば化粧がしっかりされたTVや映画に登場する俳優のように。それも多くが望んだ結果かもしれません。

 

宇根氏は、その先達である橘孝三郎の表現をいくつも引用して、農というもののあり方を追求しています。

 

「農は資本主義に合わない。なぜなら天地自然を相手にしているからである。」

また

「人聞は天地自然のめぐみを、農を本として受けることなしに生存しえなかったのであり、未来永劫にそうであろう。」と。

 

私がこれまで何度か引用したことのある渡辺京二著『逝きし世の面影』からも明治期前後の農村風景を忠実に描写した異邦人の指摘も引用して、当時の農のあり方、百姓の生き方を捉えようとしています。

 

「本人は自然が好きだ。ヨーロッパでは美的感覚は教育によってのみ育み形成することが必要である。ところが日本の農民はそうではない。日本の農民にあっては、美的感覚は生まれつきのものなのだ。たぶん日本農民には美的感覚を育む余裕がヨーロッパの農民よりもあるのだろう。というのも日本の農民はヨーロッパの農民ほど仕事に打ちひしがれてはいないからだ。(ヒューブナー)

 

「日本人は何と自然を熱愛しているのだろう。何と自然の美を利用することをよく知っているのだろう。安楽で静かで幸福な生活、大それた欲望を持たず、競争もせず、穏やかな感覚と慎しやかな物質的満足感に満ちた生活を何と上手に組み立てることを知っているのだろう。(ギメ)

 

しかし、現在でも百姓の心を持ち続けようとしている人たちは、厳然として存在します。彼らには、それは労働でもなく、フリーランスでもなく、それらとは異なる生としての営みなのではないかと思うのです。

 

宇根氏は、友人が父親の百姓として過ごす様子について語る話の後、次のように描いています。

「百姓仕事に没頭していて、気がつくと日も傾いています。時の経つのも忘れ、家族のことも忘れ、まして経済性や生産性などの意識はどこにもありません。こうしたもっとも百姓らしい境地を、「労働時間」の概念は興ざめなものにしてしまいます。農の一番豊穣な世界を抱きとめるのではなく、捨ててしまえと奨励されているかのようです。」

 

私は、ほんのわずかの間、自然農としての稲作づくりをしました。そのときの気持ちは半ばですが、上記のようなものでした。

 

序章くらいをまとめるつもりでしたが、スピードがあがらず、今日は中途半端ですが、このへんでこのテーマは終えます。もう一つのテーマについて昨日連載しようと思ったのが電年することになりかねませんので、昨日のテーマに移ります。