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『手法』について/土屋公雄《底流》 藤井 匡

2017-06-11 10:06:49 | 藤井 匡
◆土屋公雄《底流》橋脚、コンクリート、鉄/380×360×300cm/1991年

2005年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 35号に掲載した記事を改めて下記します。


『手法』について/土屋公雄《底流》 藤井 匡


 土屋公雄《底流》は、老朽化した橋脚と、その間に詰め込まれたコンクリートの粉砕材から構成される作品である。これは、山口県宇部市の中心部を流れる真締川の、最も河口側に架かっていた真締川大橋の一部が使用されている。経年変化した素材を、時間を蓄積したものと見なし、その時間的な意味を保持させたまま、「任意なかたちに再構成」(註 1)したものである。
 こうした提示方法では、作品は形態として見られる前に、意味として伝達される。元々、水の流れていた橋脚の間が粉砕材で塞がれるのは、蓄積された時間が流れ出さないようにしたとの印象を与える。また、此岸と彼岸とを結ぶという橋の象徴的な意味と、この橋が所有する時間とが折り合わされ、過去と未来とを繋ぐ意味が出現することになる。
 そして、作品に対面する者はその時間の中に自らが含まれることを感じ、自らの生を重ねることになる。つまり、「人の心の中で言葉以前の存在への追憶を呼び起こす」(註 2)のである。その結果、作品は本来は忘却されるはずの記憶を留める、記念碑的な性格を有することになる。
 真締川大橋は1942年に完成、半世紀の間に使用された後、1991年の架け替え工事に伴って解体された。この50年間の経過によって、コンクリートは変色し、エッジ部分にも傷みが生じている。また、海に近い場所ゆえに貝殻の付着が見られ、存在した場所の特異性をも伝達することになる。
 ただし、こうした時間は、「言葉以前の存在」ゆえに、「語られるもの」としての歴史とは異質である。例えば、この橋の欄干は、戦時中に金属供出されている。それ自体は新聞に掲載された事件であるが、ブロンズの彫刻(顕彰像)が〈出征〉と称されて供出されたような、政治性を読みとることはできない。欄干の供出とは、象徴的なものではなく、単に事実として読まれるだけである。それゆえに、作品の呼び起こす記憶は、その土地に限定されるものではなく、普遍性を帯びるのである。
 古びた素材が蓄積する時間とは、匿名のものである。それは、歴史ではなく、歴史として語られることのないもの、歴史から排除されるものを提示する。そして、その提示のためには制作者が前面に出るのではなく、素材自体の存在感が現れる形式が相応しい。こうした作品は、作者という主体が創造するのではない。素材の意味に基き、過度に手を加えることなく、それを「再構成」することになるのである。
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 こうした土屋公雄の作品では、まず展示される土地に行き、次ぎに素材を探し、それから制作する開始するという手順を経ている。
 素材としては、例えば、《底流》に用いられた橋脚や、《その時》(神戸市、1992年)での構築物(神戸市長田区・日本住宅都市整備公団鷹取団地)の廃材など、鉄筋コンクリートなどの産業廃棄物が発見されている。また、《永劫》(フランス・リモージュ、1990年)では廃墟となった石積みの家屋から調達され、《石造の暦》(イギリス・グライズデール、1991年)では古い石垣を解体した石を塔の形に積み直した作品となっている。
 これらには、時間の経過を内包した廃材を使用すること、元の素材のイメージが消去されない程度に加工を抑えること、垂直軸を意識させる形態や幾何学形態を用いて記念碑的な性格を与えることなど、どの作品にも見られる共通す点が指摘できる。それらは、不変の枠として制作前から決定されていると考えられる。しかし、こうした手順で制作を行う場合、作品の姿は現地で材料を探した後からでしか決定できないのである。
 実際、《底流》においても、「古い橋脚が使用できる」という条件を前提に展覧会の出品が決定されたのではない。順序からいえば、最初に作品像が未定のまま出品が決められ、その後で橋を解体する工事現場を発見し、結果的に今見るような作品が制作されたのである。時間を逆に辿れば、論理的に展開したように見えるが、時間順に考えれば、先のことが不透明なままで制作が進行していったことが分かる。作品が現在の姿となったのは、偶然的な出来事が連なった結果なのである。
 そのため、上に挙げた四つの作品でも分かるとおり、同一の枠から出発するとしても、日本と西欧では制作した作品の姿は大きく異なることになる。この違いは、発見した素材がコンクリートか石かという違が生み出している。ただし、それは主体による選択の問題ではなく、両者の都市構造の違いによるのである。
 石造建造物が希で、解体と構築とを繰り返す日本においては、近代建築で一般的に用いられる素材が使用されることになる(日本で制作された屋内の作品に関しては、主に木造家屋を解体した後の木材が使用されている)。一方、西欧の場合は、より長い時間を蓄積した素材が導入される。それぞれの作品の制作に際して「日本向けの作品」や「西欧向けの作品」の制作が特に意図されたのではない。都市構造に関する文化的な差異が自動的に反映されているのである。
 また、日本の二つの作品が近代的な都市整備を背景にもつ展覧会であり、西欧の二点が森林保護のトラスト運動を背景に設置されたという違いも影響する。実際、《底流》と《その時》という、1990年代前半の日本で発表された二つの作品は、何よりも、公共事業工事が乱発された時代の産物なのである。
 ここでも、作者の視線は、文化的差異を導き出し、それを語る(称揚する/保護する)ことには向けられていない。主体がどのように考えようとも、結果としてそうあらざるを得ない事実が露呈されるのである。作者のスタンスは、その善悪や功罪を語ることではなく、事実を事実として提示することに限定されるのである。
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 本文の最初に記した《底流》の説明(言葉)には、相応の説得力があると思われる。それは、言葉が作品自体の視覚的印象に裏付けられているからである。仮に、この二つが乖離するならば、作品を語る言葉は恣意的な「後付け」としてしか読まれない。言葉と視覚的印象との一致は、彫刻の内容と形式とが矛盾なく一致することを意味するのである。
 それは、制作において、構想から完成までが淀みなく、直線的に進行したことを想像させる。つまり、構想が明確に掴まれた後に、それを具体化したものがこの作品であるという風に。だが、この説明が示すのは、作品の全てではなく、説明可能な部分だけに過ぎない。他ならぬ「これ」が素材として選ばれたことは、論理的には説明できないのである。
 狭義の制作についてならば、作者は、作品の制作から完成までの全過程を見渡せる立場に立つことができる。だが、廃棄物を再構成するという方法は、その立場を背理に導く。そこから、作品は作者の内部ではなく、外部との関係によって決定されることが前景化するのである。
 つまり、橋によって「過去と未来を繋ぐ」ことを意味する作品だとしても、それは作者の内部からは現れるものではない。橋脚を素材として発見するという偶発的な出来事を抜きにして、作品の成立はあり得ないのである。
 こう考えるならば、「今、僕が見つめているものは、きっと僕を見つめているのだと思った」(註 3)という言葉には、主体-客体や能動-受動には回収できない、重層的に影響を与えるようなインタラクティブな関係が読みとれる。そして、主体ではなく関係を重視することが、作者も素材も作品もが従属する世界を開示するのである。
 ここでは、場所の記憶を表象する彫刻も、それを作品に表象させる彫刻家も、同じく、有限的で一回的な現実に含まれることになる。作者は、作品であれ、時代であれ、その全体像を見渡せる場所に立つことはできない。素材を探す行為が「自分の生きてきた時代とはどんな時代なんだろうと自分の中で確認する」(註 4)となるのは、先を見通すことのできない場所で生きるという態度から導かれるのである。


註 1 作者コメント『宇部の彫刻』宇部市 1993年4月
  2 作者コメント『都市と現代美術-廃墟としてのわが家』世田谷美術館 1992年6月
  3 前掲2
  4 インタビュー『Chiba Art Now '02 かたちの所以』佐倉市立美術館 2002年11月



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