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『手法』について/前田哲明《Untitled2003》 藤井 匡

2017-03-11 14:26:32 | 藤井 匡
◆ 前田哲明《Untitled2003》鉄、(Mixed media) 355×519×300cm
撮影:桜井 ただひさ

2003年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 28号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/前田哲明《Untitled2003》 藤井 匡


 かつて、前田哲明の作品は〈制作に向き合う作家本人の〈身体〉性がまずあり、その〈手〉という機能的なツールを通してこそ、物と空間〈場〉がはじめて結び合う〉(註 1)と評されたことがある。それは、作品と展示空間とが密接に結びつきながらも、作品と空間とが同義ではないことを指示している。制作と展示とは分離されており、完結性をもつ作品を核とする空間が構築されることを意味するのである。
 この場合、見る者にとっては、作品世界が受容すべきものとして、作者から一方的に与えられるのではない。〈作者-作品〉の繋がりと〈作品-鑑賞者〉の繋がりは分離されており、二つの体系の連続性は保証されない。見る者は〈作者-作品〉の外部に位置し、見る行為に主体性を発揮する存在としてあり続ける。
 だた、最新作の《Untitled2003》では、この事情は多少異なる。それは、作者が〈私が最近の制作の中で、常に念頭に置いていることに、「空間」へのはたらきかけがあります。〉(註 2)と言うように、制作現場から展示現場での作業により重きが置かれることから派生する。ここでは、見る者と作品との関係が作者によって予め織り込まれるため、作者にとっての作品と見る者にとっての作品が一致する方向へと進む。つまり、〈作者―作品―見る者〉と連続する関係を生み出していくようになるのである。
 だが、それでもなお前田哲明の作品は、作者と見る者が同一の作品世界を共有する予定調和性からズレている。見る者は、作者が描く世界像を一律に体験することはないのである。それは、作者側からすれば、主体的な意志によって作品との関係形成を試みるような見る者を受容することを示す。ここに、作者の一貫した志向を見ることができる。

 《Untitled2003》は、八本の鉄柱を立てた間に、天井から瓦の破片を天蚕糸で吊した作品である。柱の形態は、四~五枚を重ねた薄い鉄板を焙りながら、円筒形の型に巻きつけて成形される。このとき、斜めに巻かれていくことから、表面には螺旋状の運動感が表出される。そして、瓦片がその間を埋めるため、八本の柱は一体のもの(相互に関係づけられたもの)として捉えられ、柱の運動感は空間全体で体現されることになる。
 この柱の表面には全て、熔接棒を熔かした痕跡が残される。こうした手作業から生み出される表面には機械的な規則性は発生しない。そのため、各々の箇所の全てに固有性が開示され、見る者は表面を逐一目で追うように導かれるのである。
 さらに、表面の中にも二種類の制作方法が使用されており、体験される事象はさらに複雑化される。入口側の四本では、熔接跡がそのまま残される凸状の表面であり、内から外へ向かうボリューム(量)をもつ。対照的に、奥側の四本は熔接を行った後にそれを研磨することで凹状の表面をつくり、外から内へ向かう方向性を把握させるマッス(塊)となる。量と塊という、部分と全体とが即応する彫刻上の基本認識に則ることで、作者の仕事に通底する、空間の核として存在する求心性が獲得されるのである。
 しかし、この作品では表面と空間との関係が前景化されるため、作品は閉じられた表面による完結体ではなく、遠心的に周囲と繋がるものになる。この場合、見る者に対して、作品は世界像を受動させる在り方を開示することになる。
 それは第一に、表面と空間との分節箇所を反復的に提示して、作品と空間との関係を強化することによる。鉄板は螺旋形に加工される際に、複数枚が完全に一致せずに隙間が生じるため、板材の四方(表面の限界)が多数出現するのである。ここから、彫刻→空間という成立順序の前後関係は解消され、両者が接する場所が意識されることになる。
 第二に、柱の長さを展示空間の床面から天井までの高さに一致させることで、展示空間への従属性をもたらす。第三に、柱の内部に入れられた足場用のジャッキベースに表面を支持させ、視覚的には自立するための垂直性から解放する。第四に、重力に対して自らを支えるに不安を抱かせる薄い鉄板が使用されることで他律的な性格を付加する。
 こうして、空間との関わりにおいて、作品の自己完結性は解体されていくことになる。併せて、螺旋形に連続する表面が、必然的に見る者の位置を移動させる。このため、作品は瞬時に即物的に把握されるのではなく、複数の体験を総合することで出現するのである。

 《Untitled2003》では彫刻的な要素が存在する一方、インスタレーション的な要素も見受けられる。この二つが背反せずに存在する両義性によって、作品は特徴づけられる。これは、作品が観念的に組み立てられたのではなく、作者の経験を基に生じたことを示している。
 前田哲明は以前から展示空間を占有する大型の彫刻を制作してきた。ただし、それは〈私の中で「もの」というものが「空間」以上にウエートを占めていました〉(註 3)と言うように、単体あるいは単体の組み合わせで成立するもので、空間の方が従属的に扱われてきた。《Untitled2003》は、この点においては、大きく性格を変えている。
 例えば、この約一年前に制作された《Untitled 01-B》は、歪みをもつ多数のアクリル板をH鋼で繋ぎとめた、強い一体性を所有する作品である。見る者は単体としてある作品の外側に位置するため、作品世界に対して客観的な視点を想定することができる。このとき、作品と見る者とは分離されている(個と個とが対峙する)ゆえに、作品を他者として扱い得る。
 しかし一方で、二つの作品で不変の性格も見受けられる。四方の壁に対しての距離は《Untitled 01-B》と同様であり、この点からは同様の体験がもたらされる。底面積も高さも展示空間のほとんどを占有する大きさゆえに、見る者には壁沿いに歩く幅が残されるのみであり、作品と距離を置くことはできない。そのため、単体としての彫刻でありながらも空間にも意識が向かうのである。このとき、身体的な受動性が強く与えられるため、自己と対象とを完全に分離して把握することは難しくなる。
 こうした作品を視野に入れるならば、《Untitled2003》の彫刻的要素とインスタレーション的要素は以前から多少のウエートを変えただけのものであることが分かる。「もの」から「空間」への移行は明確なシフトチェンジではなく、むしろ連続した展開として了解されるのである。
 《Untitled2003》では、空間への比重が加算されるとしても、空間自体が彫刻に先行するのではない。以前の作品と同様、〈手〉を経た作品を通して空間が確認されるのである。

 《Untitled 2003》は床面と天井面とを取り込む――単体の彫刻でも通常この方向に視点は設定されない――ものの、側面の四方までを統制することはない。それは、柱の螺旋運動が垂直方向だけに制限されることと軌を一にし、見る者を作品世界の外側に留まり続けるように規定する。ここには、作品と見る者の関係を作者サイドから静的に固定するのではなく、両者共を主体として扱おうとする志向が存在する。
 この志向が一貫したものであることは、作者が初期から作品タイトルとして「Untitled(無題)」を使用してきたことにも窺われる。作品世界と見る者とを一義的に繋ぐことを願うならば、これほど不適当な名称はないだろう。ここでは、両者が共有すべきイメージを作者が事前に方向づけることが回避されるのである。
 作者が提示するのは、作品とは見る者に対自的に見出される存在であり、それを通して見る者自身が対自存在であることの自覚を促す関係の形成である。それは、作者の自我と見る者とが、あるいは見る者の自我と作品世界とが一致する保証が何もないようなコミュニケーションを生み出す。
 この作品が発表された個展はRESONANCE(共鳴)と名づけられたものである。それは、作者が規定する作品世界から、見る者を演繹する態度からは生じない。そうした観念的な「見る者」は自分に擬した表象でしかないのだから。共有すべきものが予め想定されていない場所にいる「見る者」によって、作品世界が基礎づけられることから可能となるものである。それは、自己と世界とが想像的に同一視される自己中心性とは無縁なものである。
 共有すべきイメージが前提とされない以上、両者が繋がることに根拠はない。その上で交感が生じた時にこそ、それはRESONANCEと呼ばれるものとなる。

註 1 高島直之「〈モノ〉の同一性と〈場〉の非同一性―前田哲明の仕事―」ときわ画廊個展パンフレット 1998年
  2 作者コメント「前田哲明展」チラシ ギャラリーGAN 2003年
  3 前掲 2



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