西千葉から、登米、南三陸町のことを思うとき、少し胸が苦しくなる。もし 自分が同じ状況にあったとき、なにを想い日々を過ごし生きるのか、 誰の助けも借りず、今日を生きるために頑張るのか、 少しだけ冷静になり困難に立ち向かい頑張るのか・・・どうだろうか、 動揺して後になって考えると 何をしてたのかと反省するような行動になるのか、 わからない。 千葉市がアメリカ軍の爆撃機で焼夷弾攻撃を受け焼きつくされたとき、私は「4歳4ヶ月」記憶はほとんどないが、あそこに、ここにと頼れる人を頼りに、こじきのような生活をしたのではと、6歳で小学校に入学したときに住んだところが、焼け出された家族と満州から引き上げた家のない人たちだけが住む「軍隊の宿舎」でした。そのときの貧しさを語ることはできない。 状況は違うが 東日本大震災被災者の皆様と似ていることがあるのではと、 4歳4ヶ月の子供はどのように生きるのだろうか、
それから66年が過ぎる。 家がなくても貧しくても生きてこれた。私に何があったのだろうか、 「人間の持つ生きる力を信じたい。」 海保まこと
それから66年が過ぎる。 家がなくても貧しくても生きてこれた。私に何があったのだろうか、 「人間の持つ生きる力を信じたい。」 海保まこと