まさか日本でカルチャーショックを!

日本で技術者→中国広東省にて日本語教師→日本で技術者復帰→技術者+?
旧題名:まさか私が日本語教師に!(NO.3)

さてどうなる?

2017-02-16 16:32:42 | 帰国後の就職
明日面接がある。
もしそれをパスしたとすれば、2013年1月に思ったことが成就することになる。

2012年12月下旬に数年内の日本本格帰国を決意した。
そのリミットは当時のパスポートで中国就労ビザを更新、滞在可能な日とした。
そのパスポートは2016年10月までであり、最大限いたとしても7月までとした。
なぜならば春季学期の終了が6月末であるので。

それでもできれば2016年春節までには帰れれば…と思っていた。

2014年2月の1年半ぶりの一時帰国はそれまでで一番長い3週間を超えるものであった。

すっかり弱った父親とやはりそれなりに年を取った母親の姿を見たこと、自分もいいかげんに日本に戻りたいと思ったことが帰国への想いに拍車をかけた。

両親の姿を思いながらも、学生と同僚が待っている中国に戻ったのが2014年2月下旬。

私の想いと上司の学校精算の想いが重なったのがその一月後。
かくして3月下旬にはその夏の帰国を決めた。

やはり規模の小さな学校にとって、2012年夏から秋の尖閣問題は痛かったのであった。

帰国に向けて部屋の物の処分を始め、就職活動も始めた。

帰国までにいくつの機関に声を掛けたことであろうか。

7月下旬に帰国してすぐ日本語学校の面接に。
しかし模擬授業の日を迎えることはなかった。

それから中国との取引のある会社に応募。
書類選考落選の通知もなかった。
(オファーかけたのならば、落選の連絡ぐらいして欲しいものである…。)

途中3回の大ぎっくり腰を挟み、さらには就職活動が思った通りに進まず、以前の業界に戻ることを決意したのは9月になってすぐ。

ただまったく同じことを選んだわけではなく、今までよりはかなり高い世界を選択。

4日には面接を受け、下旬からの就職を決めた。
その会社では以前の業界の仕事を1年数か月と一応国際的なことに関係する仕事を1年弱行った。

で辞めたのは2016年12月末だが、某転職サイトには夏から情報をあげていた。

(今現在転職サイトは5つ使っている。)

12月初旬に日本語学校へ応募、今年になってハローワーク物件の通訳案件、転職サイトのもの3つに応募し、さらにひとつ予備候補がある。

もちろん転職サイトからの引き合いは驚くほど多い。
とはいえ中には「数撃ちゃ当たる」的な企業もあるし、条件が合わないものも多い。

それでも一番経歴の長い業界であれば、今頃かなりいい会社に決まっていたであろう。

それだけある業界における私の経歴と資格は光っている。

だができれば戻りたくない。
日中外で仕事をし、夜中にパソコンに向かう生活をするだけの体力はなくなっている。

それにできるだけ両親のそばにいたい。

しかしその業界であっても、ある職種であればとても興味があり、やってみたいと思っている。

それが2013年1月に考えた職種なのである。

そしてその資格までもを持っているのは、20代後半の社会人学生時代の寝不足の中で、(将来その関係で中国行きを夢見て)仕事と学業の合間に勉強したからである。

また、当時好んで、率先して担当していた仕事と大きく関係している。

もしこれに受かれば、おそらく定年数年前までは日本語教育でお金をもらうことはないであろう。

純粋に中国関連ばかりの仕事をすることもないであろう。

そうなるとこのブログもまた路線変更するしかない。

(思ったよりもこのブログを楽しみにしていてくださる方が多く、止めたくても止められないので続いていたりする…。)

決戦は金曜日。

コメント
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