まさか日本でカルチャーショックを!

日本で技術者→中国広東省にて日本語教師→日本で技術者復帰→技術者+?
旧題名:まさか私が日本語教師に!(NO.3)

名古屋とラジオと映画と転勤

2019-05-28 22:00:17 | 行動計画 & 積極的思考
そのラジオ局にはとても期待していた。
だが、最初は(一部の番組を除き)面白さを感じなかった。
もちろんこの面白さは笑いだけを指しているわけではない。

であるので、2017年の朝晩の通勤の一部で社用車を使えるときは他の局を聴いていた。

だが、2018年の春頃に聴いてみた。
そうしたら、朝晩共にはまってしまった。
おまけにバラエティー番組だけでなく、その局の趣旨でもある昼間の番組も大好きである。

2019年今年の4月からはオールマイカー通勤。
家を出るとき、ラジオからカーナビのMP3やMP4等で外国語の勉強をしている。
これは3月までも駅に行くまではそうであった。

だが、この2か月は途中からそのラジオ局に切り替える。

ある曜日のある時間帯。
パーソナリティーのその方の声の微妙な変化から感動することがある。
私はその瞬間に幸せを感じる。



この2か月早く帰宅できている。
そこでけっこう様々な勉強ができている。
しかし、本日はまず吉本ばなな氏のある短編小説を読んだ。
途中登場人物の男性の描写にボロッと泣きそうになった・・・。

私は少女時代がけっこう好きなのだが、その中でも一押しの方がいる。
この5月になってからその一押しの方が主演の吉本ばなな氏原作の映画を見た。

映画の中で(韓国ドラマでその演技力の凄さを良く知っている)その方とある男性の演技に圧倒された。
そしてロケ地は愛知県に長く住んでいる私が良く知っている数々の場所。
その中にはある意味私にとって思い出の場所も含まれていた。

主演女優の凄さといくつかの私の思い出が重なったその映画。
ある場面でドキッとした。

私の過去の出来事を思い出したのであった。
そのストーリーとは関係ない私の過去の出来事を。
映画や原作と同じ部分であるのは「誰にも言ったことがない内容」であるということ。

そう、本当は私も言って楽になりたいのである。
もちろん誰にでも言える内容ではないのだが。

偶然は必然。
そんな考えさせられる作品に出逢うことも幸せのひとつ。



名古屋という街。
遊びでも、ある勉学でも、仕事でも通っていた時期がある。
私が中国という外国にはばたくきっかけを作ってくれた街でもある。



話は変わる・・・。
帰国後の私は仕事上の出没エリアがかなり広がった。
そうなると、日本全国の方々と仕事をすることになり、今までよりも勉強になった。

もちろん中国にいた頃は、日本人も含めて、実に様々な地域出身の方々と接していた。
それはそれでとても勉強になった。

だが、帰国してからの約5年間もとても私のためになった。

しかし、来月からの私はほとんど自分の地元と言っても良い場所へ飛ばされることになる。
(変な表現をしてみたが、ずっとそれを願っていたのである!)


私は今でも思いっきり外国かぶれである。
ただこの機会にしばらく心が離れていた地元を満喫しようと思っている。
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私の得意技は「力技一本!」

2019-05-26 20:44:08 | 授業全般(日本語)
海外ロケが含まれる日本映画や他国との合作映画から聴こえてくる外国語。

もちろん中国語普通話は(わからない言葉があったとしても)だいたい内容を理解できる。

だが韓国語も(日本語や中国語普通話、中国語南方方言から)漢字語がなんとなく理解でき、それが字幕と概ね合っていたりすることがあるから不思議である。
(もちろん字幕は意訳されていることもあるけれども。)



良く中華圏のテレビ番組を見る。
そうすると、アニメや歌などの影響により、日本語を聴いて理解できる方が多いことに気がつく。

アニメや歌。(ドラマや映画も含む)
これは注目すべきところ。

だが、しかし・・・。

私自身は勉学や仕事の忙しさから1992年以降のアニメや流行した歌の一部を知らなかったりする。
これは中国で日本語教師をするうえで、けっこう困ることがあった。



話を無理やり引っ張ってみた。

私がプロとしてお金をもらえる職業は日本語教育だけではない。

だが、どんな職種にしても、自分が知らなかったり、詳しくはない物事に遭遇することがある。

そのとき、どのようにして切り抜けるべきか。

時間がある場合、知っている方に教えを請うたり、自分で調べることもできる。
だが、そうでない場合は・・・。

まあ、教室の場合、多少自分の予定を変え、時間を作り、それを学習者に説明していただいたり、歌っていただくという方法もある。

私もけっこう教案にはこだわる。
(教案を記すとは書いておりません!)

だが、教案には時間によって捨てても良い部分が存在する。
というより、いざとなったら捨てる部分も足す部分も考えておく。


10代だとか、20代だとか、30代などは関係ない。
学習者の中には私たちよりも様々な知識を持っていらっしゃる方がいる。

それを授業で活用するのも良いのではなかろうか。
もっとも一日1課で授業を進めるとなると、長く時間を割くわけにはいかないけれど。
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青い空 白い雲 身障者マークによりスマートキー誤作動

2019-05-22 21:29:33 | 行動計画 & 積極的思考
実家の都合にて有給休暇。

一日かかると思っていたが、半日もかからずに帰宅。

数十分後、母親の買い物のために車を出した。

その前に付けてあった身障者マークを外し、車に乗り込むためにドアを開けようとした。

2枚の裏を重ねあわせた身障者マークがズボンのポケットに入っているスマートキーの辺りに来た瞬間、突然(開錠してあった)ドアにロックがかかった・・・。

見事であった。

スマートキーの微弱電波を拾って、開錠し、エンジンをかけ車を盗むという手口があることは知っている。

だがステッカーの磁力だけで、スマートキーに影響を与えるとは思ってもみなかった。


世の中の多くのことには波動がかかわっている。


夕方、ウォーキングをした。
アイフォンで音楽を聴きながら。

曲が장미여관の“로만”(韓ドラ『ミセン』…“미생” 2014年 tvN )に差し掛かったとき、ふと空を見上げた。

そのとき、目に見えない存在を感じた。
そしてその歌の歌詞が心に響いた。

ちなみに私の韓国語能力は以前中国で韓ドラを見ていたときからあまり変わっていない。

初級の途中に過ぎない。

だが、なぜかこの歌の歌詞が心に突き刺さった。

しかし、マイナスの意味ではない。
良い意味、前向きな意味で突き刺さったのであった。

ひとつの夢が消えたという終章。
だが、それは新たな夢を実現させるための序章でもある。


ドラマ『ミセン』
奇しくも私が新たな仕事に就いた2016年春節頃に中国朝鮮族の友人から教えてもらったドラマであった。

私が就いた新たな仕事。
知らないこと、初めてのことばかりで苦労はあった。
それでも楽しかった。

しかし、その秋にそこから去ることを選んだ。
とても良い仕事であったのだが。

自分が好きな仕事だから、とても合っている仕事だから、世間の方々が応援してくださる仕事であるからといって、それが必ずしも自分の人生を豊かにしてくれるとは限らない。


現在の仕事。
とても日本経済に役立っている。

私はどこかで外国や外国人と関わっていたい。
だが、現在の仕事も多くの方々に支持されているという現実。

それをこなしていけば、いつか望む世界に戻れる(迎え入れてくださる)のかもしれない。


私は完全に目に見えない何かに活かされている。
本日病院にお連れした私の某親族も。


本日も妹が動いてくれる予定であった。
だが、私は無理やり有給休暇を取った。

妹も自分のことや自分の家のことで大変であるのだから、長男の私が動けるときは私が動くべきだと思うので。

実際、私と父親ではぶつかることが多過ぎるのだけども・・・。
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夢と現実のはざまで現実の大切さに傾くおじさん

2019-05-19 18:38:02 | 行動計画 & 積極的思考
この4、5年ぐらいずっと願っていた虫のいい話がある。
ところが今年の3月になってそれが実現するかもしれないことを知った。
そして最近やっと実現した。

簡単にいえば、「誕生日プレゼントに※※が欲しい」という他愛もない話。
だが、それが実現するにはいくつかのことが重ならなければならないのである。

誕生日プレゼントとは記したが、私の誕生日はもっと前。
ただ、送ってくださった方の行動が決して遅かったわけではない。

言いたいことは「何かが実現する時期は多少遅れることもある」ということ。

実際に我々が生きてゆくうえでの様々な計画が当初の予定通りに進むとはいえないのである。
予定より早く進むこともあれば、予想もしない出来事からかなりの擦り合わせが必要になることもある。

計画には様々なものがある。
その中でけっこう思う通りにならないのが我々個人の行動計画。

私自身諦めたり、後回しにした夢も多い。
しかし、逆に実現してきた夢も多い。

この違いはいったい何なのであろうか。

本日の日曜日。
実家の用事がなかったので、朝一で自分の用事をこなし、その後はお外でお勉強。

そのお勉強の後であれこれ考えたのが、今年の受験スケジュール。

違うブログにも記したが、実際これはまだ決まっていない。
ただもうしばらくすれば、6月から夏場の自分の動きがはっきりとする。

まあそれはともかくとして・・・。

本日お勉強の合間に昨年あと数点で落ちた某試験の問題を少々解いてみた。
これは昨年「二度と受けない」ことを決めている。
ただ昨年の夏から秋にかけてかなり真剣に勉強したのに、合格できなかった理由を知りたかっただけのこと。

二度と受けないというのはある意味天の意思を感じるので。

その世界にいた私が何度受けている。
その中で、一昨々年も昨年もかなりの勉強をしていて不合格・・・。

いつかその世界に戻りたいという夢もあるのに、無理だという理由は何?

合格まであと数点という数字は今までよりもはるかに高い数値であったことから、それなりの努力の結果が良くわかるのだが。

冷静になって解いてみて思った。
「なるほど!」と。

多くの方が言ってくださったように今年受ければ受かるのかもしれない。

だが、いくら人生100年の時代が到来していたとしても、私には他にもやることがあり、今年も昨年と同じ試験の勉強をするとなると、間違いなく倒れるであろう。

昨年はその試験の前日の土曜日を休み、夜には験会場のある市のホテルに泊まっている。
当日の朝出発しても充分間に合うのに。
そして試験翌日の月曜日はちゃっかりと有給を取ってあった。
だがその月曜日の疲れは半端ではなかった。
そしてそれの疲れは週末まで引きずることとなった。

そんな勉強に加えて、他の勉強やまったく違う行動をすれば、今度こそ・・・。


話を元に戻す・・・。

おそらくみなさんも気づいていらっしゃるであろうし、私自身しっかりと気づいている。
私の行動はまだまだ無駄が多すぎる。

その無駄を削り取ることが必要。

やらなくても良いことはスパッと切り落とすべき。
いままでは回り道による知識と経験が自分を支えてきた。
しかし、人生100年のうち半分を超えている。

いや、まだ50年あると言われるかもしれないのだが、体力の低下は防ぎようもない。
そしてあと10年もすれば、同じことをやっていても、給料がガタッと下がるという厳しい現実が待っている。

夢は大切であるのだが、現実に向き合うことも大切なこと。

(と記しながらも、いまだにこのブログは日本語教育のカテゴリであるところに私の弱さがある。)
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暴力外国人教師・講師

2019-05-16 21:14:00 | 授業全般(日本語)
海外での生活経験者。
イメージ的に豪放に見えるかもしれない。
だが、実際それでは海外で生活などできない。

何からどのように書き始めようか。


どちらが良いのかは一概に言えない。
中国ではいたるところにゴミ箱があり、(地域によるが)ゴミ収集場も24時間様々なものを出すことができる。

しかし、日本は街中で下手にドリンクを買っても、容器の処分に困る・・・。

仕事帰りにコンビニに寄った。
朝買った缶コーヒーの空き缶と弁当の空容器を店内のゴミ箱に入れた。
そしてすぐにレジに行き、自動車税納入に。

ところがレジのお兄さまが「それだけですか」とのたまった。
かなりカチンときたが、無視をしておいた。

払い込みの前に処分したゴミ。
それは今朝店は違うが同じSで購入したもの。

私はなるべく、購入したのと同じチェーン店に返す。
もちろんそうはいかないときもある。
だがせめて(弁当の場合は)SにLの袋やLにSの袋、普通の袋の場合はFにSの袋やSにFの袋というように、一見区別がつかないようにしている。

たしかに(弁当の場合は)FやMの店ではそうもいかないのだが・・・。
(今でも店の外にゴミ箱があるところがありますよね・・・)

そういうこともあり、朝にコーヒーが飲みたくなったら、マシンで入れる100円のものではなく、缶にしている。

そうすれば、どこでも処分できるし、私の仕事先のほとんどは自販機と空容器入れがおいてある。

仕事柄もあるのだが、一応それぐらい気をつけている。


そんなわけであり、仕事帰りに寄った店で言われた一言は心外であった。
「何も考えずにふざけたものを捨てる客に比べれば、マシだろが!!!」

今朝は郵便ポストのあるコンビニに寄り、おまけにトイレを借りるという重大なことがあったため、税金の払い込み用紙など忘れていた。

ちなみに私は朝起きてから仕事までに何度かトイレに行く。

4月からの通勤はマイカーオンリー。
そしてなぜか、途中のトイレはコンビニしかない。
そこで毎朝寄る店舗はローテーションになっている。
嫌だよ、「あのお客様は毎朝6時半頃トイレに入る」と思われるのは・・・。

そう、私はけっこう細かいことを気にする。


さて、本題。

あえてニュースソースのリンクは貼らないが、外国人講師による幼稚園児への育施設での幼児への体罰(? 暴力だね??)のニュースを見ていろいろと考えた。


以前中国で日本語教師をしていた。
そして私はけっこう細かいことを気にする。
特にマナー。

田舎の高校生の年代のクラス。
ある意味基本的なマナーに欠けていた。
最初の頃は何度か授業中にブチ切れた。

「ブチ切れた」とは記したが、一応学生の将来を考えてはいる。
ただ私は前職で身に沁みついたこともあり、基本的なルールは守らなければならないと考えている。

そのクラスの日本人は私以外にもう一人いた。
私の少し先輩に当たる方。

だが、その方よりも先の方が子供たちのクラスを甘やかしていたらしい。

ビデオ視聴(日本のドラマ等)の時間は「いけません」と言っているのに、お菓子を食べる・・・。

これがいつもではなく「本日は特別」というのならば許せる。
しかし、私は「いけません」と何度も言っている。

それでも、1年もすればけっこう聴きわけ良くなった。
普通の授業も、ビデオのときも。

しかし、あるビデオの時間に巡回に行くと、けっこうしっかりした学生が飴をなめていた。

それが口に入るものであれば、「しょうがないなぁ・・・」と笑って済ますこともできる。
だがそれは、チュッパチャップス系統のものであった。

ここで私は思わず教卓に回し蹴りを入れてしまった。
結果見事に穴が開いた。

その壊れた残材を処分に行くときに校長と遭遇。
授業中に激怒して壊したことを伝えた。
もちろんクビ覚悟で。

だがお咎めはなかった。

確かに私はマナーや約束事には厳しい教師であった。
であるから、子供たちの中には私が嫌いな方もいた。

しかし、(確かに厳し過ぎる面はあるものの)学校としては一応私をかばってくれていた。

実際いつも思っていた。
「怒るほうもツラいんだよ!」と。
人間怒っているより、笑っていたほうがいいと思っているし。

それでも誰かがそういう役目をしなければいけないのである。
(もちろん教卓に回し蹴りなどやり過ぎだが。)

その教卓、学生が直してくださった。
私はてっきり「さすがにみんなに嫌われただろうなぁ」と思っていたのに。

私は決して体罰・暴力はしていない。
だが怒られることに慣れていない(田舎でありどうみても中学生にしか見えないぐらい幼い)高校生の年齢の学生たちから見れば、大きな声で怒ることは体罰に等しいのかもしれない。

しつこいようだが、体罰・暴力はいけない。

ニュースに出てきた外国人講師に非がある。
しかし、その講師と私と何が違うのであろうか。

その外国人講師はなぜ暴力を行ったのかはわからない。


教師・講師の仕事をしていても、技術屋をしていても、事務系統の仕事をしていても、感じること。

それは現代っ子だけでなく、いい年をした大人たちも、昔とは違う面がある。

しかし、これは仕方がない話。
実際我々も学生の頃や社会に出て数年はそう思われていたに違いないのだし。

それでも明らかに家庭でのしつけや社会生活への知識の伝授が減っている。

親や親族も生活することにいっぱいいっぱいでそんな時間もない。


大人のクラスでも礼儀・マナー・約束事には相当厳しかったと思う。
普段笑い満載の授業をしていたにもかかわらず。


「ちなみにワタクシ、高校時代の授業中に読書をしておりました」
そんな「私がマナーだ」、「礼儀だ」というのもおかしいのかもしれない。
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