山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

道の辺の草深百合の花咲(え)みに‥‥

2007-05-31 11:05:36 | 文化・芸術
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Information 林田鉄のひとり語り<うしろすがたの-山頭火>

世間虚仮- Good-bye

今日で配達暮しともサヨナラだ。
昨年の7月から、7ヶ月続けたが、好事魔多し、肩の故障で3ヶ月休み、今月復帰してみたものの、新しく受け持った区域がこの身にはハードすぎてのこの始末。
その休みの間に選挙が絡んだから、そうそうゆっくりした訳ではないのだが、配達の仲間からはきっと「優雅なご身分の野郎だぜ」とくらいに思われていることだろう。
向後、おそらく、この世界に舞い戻ることはあるまい。
一期一会とはいうものの、この稼業ほど人の出入りの激しいものはないだろう。なにしろ一日来たかと思えば、明くる日には姿を見せない者もいる始末だ。三日で辞める者、はたまた一週間続かない者と、たかが1年足らずの間に、いったい何人の人間が行き交ったことか。
この場所で、知り初めた人々とも、もう逢うことはあるまい。日々過ごすリズムがことごとく異なれば、まず行き会うことはないものである。なにかと言葉を交わしあった者も、ついぞ物言わぬままに打ち過ぎた者も、これでサヨナラだ。


何度も自殺を試みた挙げ句、玉川上水に入水心中、この世とサヨナラした太宰治の遺作は「グヅド・バイ」だったが、自ら生を断つサヨナラ劇は、それぞれ個有の必然があろうとも、遺された者たちにとっては一方的に「断たれる」がゆえに、これほど劇しく迷惑千万なものはない。
この国には、自死の美学などと、都市型町民なる市民勢力が大きく台頭してくる近世封建社会の幕藩体制のなかで、行き場を失ったサムライたちの武士道として止揚されてきた傾向があり、「死者を鞭打つべきでない」との思潮もまた強いが、自ら身命を「断つ」ほうの潔さなど、「断たれる」ほうの未練や執着の劇しさに比すれば、決して称揚されてはなるまいと私は思う。
戦後初めての現職閣僚の自殺と、いま世間を騒がせている松岡利勝農相の自死も、いずれ自身にも司直の手が伸びるものと予感しつつ、これを未然に防ぐべきものであったろうし、本人の自覚としては「もののふ-武士道」の系譜に列なる者としての最期を意識したものとみえるが、彼の死の翌日、どうみても「後追い心中」としかみえない、すでに検察の事情聴取を受けていたという「緑資源機構」ゆかりの山崎某の飛び降り自殺も重なって、誤解を恐れず言わせて貰えばただの「臭いものに蓋」じゃねえかということだろう。


松岡農相の遺書が公表されているが、書き出しの「国民の皆様、後援会の皆様」の文言に、私などは「国民の」と名指しされても困惑が走るばかりだ。彼の脳裏に抽象されうる「国民」とはいかなるものか、私という者も含め、1億2千万の人々を抽象しうるというなら、「冗談じゃねえ」とばかりお返しするしかない。たかだか「支援の皆様、後援会の皆様」とごく控え目に書き遺すべきだったろう。
文末は「安部総理、日本国万歳」と締め括られているというのだから、この書き出しと文末に、私のように、そう気やすく「国民の皆様と括ってくれてもネ」と困惑を呈する人々のほうが過半を占めようというものである。
引っ掛かりついでに筆を滑らせば、葬儀において松岡農相の夫人は「主人にとって、太く短く良い人生だった」と挨拶したというが、「太く短く」はともかく、「良い」という語が挿入されるのはいかがなものか。
政治というもの、とかくカネがかかるもの。その裏舞台をつねに間近でつぶさに見てきて、時に違法なカネ集めをも必要悪と見て見ぬふりの日々ではなかったか。これを「良い人生」と曰われては、自らもその法外な必要悪に連座し、享受してきたものと見られても致し方なく、おのが規範の乏しいことを白日に曝した発言となるではないか。葬儀の参列者や支援者にはそれでもよかろうが、広くだれもが注視の状況下で、おのれの発言が活字となって世間に躍ることもよく承知のなか、ここは一字一句おろそかにしてはなるまい。
農相の「国民の皆様」といい、夫人の「良い人生」といい、共通してその射程の狭きこと、これがなにより気に掛かった事件だった。
と、サヨナラ談義が、ずいぶん横道へと逸れてしまった。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-57>
 恋ひ死なば恋ひも死ねとやほととぎす物思ふ時に来鳴き響(とよ)むる  中臣宅守

万葉集、巻十五、狭野弟上娘女との贈答の歌。
生没年未詳、意味麻呂の孫、東人の子。罪状は不明だが、越前国へ配流され、天平13(741)年、前年の恭仁京遷都の大赦で帰京。万葉集巻十五に40首。
邦雄曰く、焦がれ死にするなら死んでしまえとでも言うように、私があの人のことを思っている時に、ほととぎすは来て声を響かせる。第一・二句は一首の決まり文句で、忍恋の激情の表現だが、ほととぎすに寄せて一首の被害妄想めいた歎声を発しているのはめずらしく面白い。両者贈答歌の終りにみる「花鳥に寄せ思ひを陳べて作る歌」七首のなかの一首である、と。


 道の辺の草深百合の花咲(え)みに咲みしがからに妻といふべしや  作者未詳

万葉集、巻七、雑歌、時に臨む。
邦雄曰く、路傍の草の茂みに一茎の百合、その花さながら、ちらりと微笑をあなたに向けた、ただそれだけのことで、妻と呼ばれなければならないのか、否、否と、百合乙女は、多分その熱心で強引で自惚れの強い男を拒む。みずからを百合に喩えるところは微笑ましく、「花咲(はなえみ)」なる言葉も実にゆかしい。「古歌集」出典歌中、絶類の佳品である、と。


古今以下、題詠の習慣もあってだろう、春秋の歌に比べて、夏の歌はよほど乏しいとみえて、この「清唱千首」に採られたものに万葉の歌が目立つ。万葉時代の言の葉は、今日の語感から遠く隔たって、判じがたいもの多く、やはり隔世の感甚だしきを、いまさらながら強く思わされる。

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おのづから心に秋もありぬべし‥‥

2007-05-28 13:05:11 | 文化・芸術
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Information 林田鉄のひとり語り<うしろすがたの-山頭火>

-世間虚仮- 100人の慰安婦たち

「DAYS JAPAN」6月号では、「慰安婦100人の詳言」が特集されている。
100人のひとりひとりのクローズアップと氏名と国籍、それに60字ほどの短い来歴が添えられている。百人百様、どれをとっても、個有の過酷な重い過去が浮かびあがってくる。
そういえば先頃、平成5(1993)年の「河野談話」を否定するかのごとき安部首相発言が、国際的にもずいぶんと問題となっていたが、首相自身早々と軌道修正して外交上事なきを得、ひとまずは沈静化したたようである。
すでに88歳になるという、一兵卒として中国・沖縄戦を経て、米軍捕虜となった近藤一さんの、日本軍は中国で何をしたか、体験の始終を淡々と語る証言が併載されているが、飾り気なくただ酷薄な事実を重ねていくだけに、よく実相を伝えて衝撃的でさえある。
その多くが80歳代、90歳代の彼女たちが求める「償い」に、日本政府の腰は鈍重なままに、徒に時間のみ過ぎゆく。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-56>
 おのづから心に秋もありぬべし卯の花月夜うちながめつつ  藤原良経

秋篠月清集、上、夏、卯花。
邦雄曰く、白い月光の下に幻のように咲き続く、その月光の色の花空木、真夏も近い卯月とはいえ、人の心には、いつの間にか秋が忍び寄っている。人生の秋は春も夏も問わぬ。光溢れる日にさえ翳る反面に思いを馳せずにはいられない。これこそ、不世出の詩人、良経の本領の一つであった。放心状態を示すような下句の調べもゆかしく、かつ忘れがたい、と。


 ほのかにぞ鳴きわたるなる郭公み山を出づる今朝のはつこゑ  坂上望城

拾遺集、夏、天暦の御時の歌合に。
生没年不詳、坂上田村麻呂の子孫、是則の子。従五位石見守。暦5(951)年、和歌寄人所となる。勅撰入集2首。
邦雄曰く、拾遺・夏、ほととぎすの歌13首の半ばに置かれた。山を出て里に近づく声である。都の人々もその声を待つ。「郭公み山を出づる今朝のはつこゑ」、山を出るのを、鳥とせずその声としたところに微妙な新味があり、心に残る。勅撰入集は今1首、後拾遺・春上、「あら玉の年を経つつも青柳の糸はいづれの春か絶ゆべき」がある、と。


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恋するか何ぞと人や咎むらむ‥‥

2007-05-25 16:28:33 | 文化・芸術
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Information 林田鉄のひとり語り<うしろすがたの-山頭火>

-四方のたより- 神戸学院へ下検分

もう一昨日のことになってしまったが、6/9に予定されている神戸学院大学主催の「Green Festival」で、ひさしぶりに演じることとなった「山頭火」上演のために、Staffたちとホール会場の下検分に行った。
Staffたちとは、照明の新田三郎(市岡18期)、大道具の薮井寿一の二君。
今回、私の「山頭火」招聘を主導してくれた伊藤茂教授は市岡の20期だから、まるで市岡絡みである。4月下旬にも、私は一度訪れているのだが、この時はまあ顔見せのご挨拶のようなもの。
所変われば品変わるで、小屋も変われば当方の仕込みようもある程度変わってこざるを得ない。ならば各々Staff諸氏も会場の設備状況を確認しておくにしくはない訳で、めずらしく三人打ち揃っての初夏の陽射しを受けたドライブとなった。
第二神明の大蔵谷Interを下りてすぐの処、有瀬キャンパスに着いたのは約束より30分ほど早かったが、それでも担当事務方の女性が出迎えてくれた。さすが大学組織、配慮は行き届いている。
検分作業に要したのはほぼ一時間。
なにしろ舞台図面といえば、ホール建設時の設計図面一式が出されてきたりして、此方はずいぶん面喰らったのだが、これが先の訪問時のこと。
「これじゃ絵の描きようもない」と「山頭火」上演に関してはいつも舞台監督を兼ねている心算の薮井君が、下見決行に拘ってこの日の訪問となったのだが、言い出しっぺだけあってさすが彼のチェックぶりはかなり緻密なものだった。このあたり最低限のチェックは怠りないが、万事鷹揚とした新田君とは好対照で、これまた奇妙なコンビぶりといえそうだ。
私はといえば、先の訪問ですでに楽屋など案内されているし、チェックするべきこともなく、さらに手持ち無沙汰で、このたびは不参加の音響に関して二、三の確認をするのみ。客席の椅子に腰掛けて、ただ彼らの作業を眺めながら追認するばかりなのだが、おかげで、演奏者の位置や、演技空間の決めなど、おおよそのイメージを抱くことができた。
途中で、授業を終えたばかりの伊藤君が顔を覗かせてくれ、「新田大先生もお出まし願うとは」とジョーク混じりながら、半ば本気の恐縮の体で声をかけてきた。


新田君と伊藤君と私、三者三様に、今は亡き神澤和夫と、縁の深かった者たちの、場所を違えての邂逅である。温かくもあるが奇妙な感懐の混じり合った時間がそこに流れ、思わず苦笑させられるような気分だった。
そういえば、新田君も伊藤君も、結婚の折りはそれぞれ神澤夫妻の仲人だった。
ひとりっ子だった神澤は、彼を敬し親しく周囲に集まる若者たちを、彼一流の一対一対応で個別に惹きつけ、彼を中心にした大家族的な親和世界をつねに求め形成してきた感があった。決して自ら教祖になることを求めた訳ではないだろうが、シンボリックな存在でありたいと望んではいただろう。
この大家族的な親和世界は、表層はいかに家族的と見えようとも、兄弟的、姉妹的関係はどこにも成り立たず、必ずお互いの個々の間には微妙な違和が介在している。神澤を軸に、神澤を介してのみ互に辛うじて繋がり得ている異母兄弟たち?の集団は、どこを切り取っても、神澤を侵しがたき親とした個々の疑似親子関係が多種多様に存在するというべきもので、神澤の無意識が注意深く?兄弟的結合を排除してきたというしかない。
私はといえば、神澤とは逆に、実際に大家族のなかで育ってしまった子どもであった。神澤のつくる親和世界のなかで、私は、自身がニュートラルに振る舞うかぎり、どうしても自然と疑似的兄弟関係を自己流に成してしまうところがあった。もう30数年も昔のことだが、くるみ座の演出家だった故・北村英三氏は、神澤の「タイタス・アンドロニカス」公演の打ち上げの席であったか、私をして「お前さんもかなりの助平だな」とこの習性を喝破した。
親近さと疎遠さとが錯綜した神澤の親和世界とは別に、私は私で新田君とは照明Stuffとして長年付き合ってきた。彼が東京から舞い戻ってきて、大阪で照明の仕事をするようになってまもなくの頃だから、もう37.8年になるだろう。
伊藤君とは、これまた神澤の「トロイの女」の頃から見知ってはいただろう。見知ってはいたが、この頃、彼と言葉を交わしたような記憶はまったくない。
この公演の2週間前という直前、劇的舞踊と名づけられた神澤の舞台づくりに、自身の経験と見通しのなかでどうしても呑み込むことのできない違和を感じて、頑なに自らの意志で降板した私であったから、神澤に私淑し寄り集う周辺からは、すでに私は、踊り手としての飼い慣らされたエース的存在から逸脱して、反抗的分子或いは破壊的分子と目されていたことだろう。
だからかどうかはともかく、彼と私は長い間ずっと近くて遠い存在だった。彼は研究学徒であり評論の徒で、私が実践の徒であり、彼のそのエリアの外に居る者であったという所為が存外大きいのかもしれないが、その遠い距離感をぐっと近づけたのは4年前の「神澤の死」であり、追悼セレモニーのための協働行為であった。
「神澤の死」を前に、なにをもって報ゆるかを想う時、8人ほど居た準備会のメンバーのなかで、その真摯さと深さにおいて、私がもっともSympathyを感じたのは彼だった。
人生とは、世間とはそんなものだ。
「神澤の死」がなければ、こんどの「山頭火」招聘も、未来永劫起こり得なかったろうと思えば、これもまた合縁奇縁の不思議というものか。


神戸学院を辞し車を走らせて一時間余り、次の要件が待つという薮井君を弁天町で降ろして、そのまま博労町まで走って、結構お気に入りの店「うな茂」で、新田君と久しぶりに遅い昼飯を食った。
二人きりでちょいと贅沢に鰻に舌鼓するなど、なかなか機会あるものではない。彼とは理屈めいた小難しい話はまずしない。断片的な言葉のやりとりでほぼ通じ合うから、いたってご機嫌よく食を堪能できる。
こういう時間もなかなか小気味いいものだ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-55>
 恋するか何ぞと人や咎むらむ山ほととぎす今朝は待つ身を  源頼政

従三位頼政卿集、夏、侍郭公、公通卿の十首の会の中。
邦雄曰く、恋人の訪れを待つように、そわそわとして落ち着かない黄昏時のみか、未明から起き出て、空のあなたの気配に耳を澄ましている。事情を知らぬ人が見れば、恐らく早合点することだろう。いささか誇張が過ぎるが、諧謔をも込めて、わざと俗調も加減した異色破格のほととぎす詠。他にも「鳴きくだれ富士の高嶺の時鳥」が見え、これまた愉快、と。


 逢ふことのかたばみ草の摘まなくになどわが袖のここら露けき  よみ人知らず

古今和歌六帖、第六帖、草、かたばみ。
邦雄曰く、つとに紋所にも現れる酢漿(かたばみ)草、古歌ではこれ一首以外には見あたらない。「逢ふことの難」さに懸けているのだが、あるいは、あの葉が夜は閉じることをも、伏線として使っているのなら、さらに面白い。逢い難くなる故よしはさらさら無いのに、逢えず泣き濡らすこの袖、悲恋の歎きが、夏草に寄せて実に自然に、初々しく、一首に込められている、と。


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郭公いつの五月のいつの日か‥‥

2007-05-22 20:25:56 | 文化・芸術
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Information 林田鉄のひとり語り<うしろすがたの-山頭火>

-世間虚仮 脱配達

一週間ほど前、とうとう「脱配達」宣言をした。
折角、3ヶ月ぶりに復帰してみた朝刊の配達だったが、今月一杯で辞めることにしたのだ。
情けない話だけれど、返り咲いてみたものの、新しく廻された処が、すでに老いゆくこの身には些か過酷に過ぎたのだ。
復帰の挨拶の折、社長の指定区域を聞いた途端、厭な予感が襲ったのだけれど、なにわともあれ指示に従い仕事に就いてはみた。
予感的中、新しい環境は、従前のそれとはあまりに懸け離れていた。
まず、自転車とバイクの違い、これも大きい。そのうえ配達件数も3割ほどは増加しているから時間もかかるのだが、それに輪をかけて大きいのが、階段の昇り降りの頻繁さだ。
昇降機のない5.6階建ての小マンションの類が多く、復帰して一週間を過ぎた頃には、もう右の膝に痛みが走るようになった。
臓器や消化器にはなんの疾病も縁のないこの身だが、そもそも足腰には少々不安のある身である。
以前、激しい腰痛に襲われた際に、MRI検査をしたことがあるが、3.4番の腰椎だったか、これを支える軟骨がずいぶんと摩耗しているらしく、ヘルニア症状を呈していた。
それに、どうやら私の骨格は全体に骨太で、関節付近のくびれも少ないように思われる。どちらかといえば硬い身体なのだろう。よって過重な負担を強い続けると関節が悲鳴をあげはじめることとなる。
体力は坂道を転げ落ちていくように、ただただ下降線をたどっていくしかない老いの身に、こんな無理強いをつづければ、早晩足腰立たぬ身になるのは必定と、ここはさっさとこの業-行から身を退くにしくはないと、撤退することにしたのだ。
復帰1ヶ月で早々と頓挫するとは、お恥ずかしいかぎりのとんだ茶番劇だが、まだまだ不随の身にはなりたくないので致し方ないと割り切るしかない。


それにしても、以前にも触れたことがあるが、戸別配達の販売店制度が生まれ全国的に定着していったのは明治末期頃からだったろうが、その100年ばかりの間、アルバイト配達員や専従員たちの劣悪な労務環境はいかほどの改善を経てきたのだろうかと首を傾げるばかりだ。
とりわけ全国紙といわれる社会の公器たる大新聞資本が、再販制度と特殊指定に胡座をかき、さまざまに矛盾を孕んだ販売店システムを固守しつづけ、末端労働者の環境改善を一顧だにしてこなかったのではないかと思われるのはいかにも腑に落ちない。


「新聞はエリートが書き、ヤクザが売る」という痛烈な皮肉があるそうな。
苛烈な販売競争に「拡張団」なる販売店とは別なるセールス組織が闊歩するのがいつのまにか常態化し、まるで必要悪のごとく存在しつづけていることは誰もが百も承知している現実だし、この「拡張団」なる者たちの猛烈セールスぶりは、行く先々でいろいろと物議をかもし、時に事件化することもあるが、「社会の公器」と「拡張団」の極端な乖離を捉えた二面性に、この痛罵はまことに相応しいと思えるものがある。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-54>
 郭公いつの五月のいつの日か都に聞きしかぎりなりけむ  宗良親王

李花集、夏。
邦雄曰く、それ以来ただ一声も、ほととぎすを聞かぬ。あれは延元2年の5月、花山院内裏で、身の来し方、行く末を語っていた時のことであったと述懐する。思い出の部分は長い詞書となっており、一首は長歌に対する反歌のように添えられる。息を弾ませるかの切迫した畳みかけも「聞きしかぎり」の悲嘆も胸を搏つ。二条為子を母とする天才は明らか、と。


 白玉を包みて遣らば菖蒲草花橘にあへもぬくがね  大伴家持

万葉集、巻十八、京の家に贈らむ為に、真珠を願ふ歌一首。
邦雄曰く、贈られた人が白玉を菖蒲や橘の花に交えて蔓にし、嬉々として髪に飾る様子を思い描く。真珠の光沢さながらに、きらきらと弾むような字句と調べは家持の独擅場。海は能登の国の珠洲。天平感宝元年5月14日の作と記録される。長歌1首、短歌4首あり、掲出歌は4首中の冒頭、次の歌は「沖つ島い行き渡りてかづくちふ鰒珠もが包みて遣らむ」と。


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根を深みまだあらはれぬ菖蒲草‥‥

2007-05-17 13:15:56 | 文化・芸術
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Information 林田鉄のひとり語り<うしろすがたの-山頭火>

-表象の森- 今月の本

三部作となった大部の前著「磁力と重力の発見」(‘03年刊)に続いて、山本義隆が4年ぶりに世に問うたのが「十六世紀文化革命」二巻本。
山本義隆は、‘68年の東大闘争において、当時若手の素粒子研究者として大学院にあったが、全共闘議長となり、以後アカデミズムの外部へと身を投じ、「ただの人」として予備校講師へと転身した。
本書の帯には「大学アカデミズムや人文主義者を中心としたルネサンス像に抗しも16世紀ヨーロッパの知の地殻変動を綿密に追う」とある。
また、本書の序章末尾において著者は「本書は筆者の前著—磁力と重力の発見—を補完するものである。やはり17世の新しい科学の出現に大きな影響を与えた同時期の魔術思想については、前著にくわしく展開したので今回は禁欲し、その言及を最小限に留める。この点において付け加えておくと、16世紀文化革命は17世紀科学革命にとって必要な条件ではあったが、それで十分だったわけではない。新しい実験的で定量的な自然科学の登場を促したのは、職人たちの実践から生まれた実験と測定にもとづく研究とともに、前著で語ったほとんど「実験魔術」とも言うべき自然魔術の実践が考えられる。しかも後者は17世紀物理学のキー概念ともいうべき遠隔力の概念を準備した。科学史家ヒュー・カーニーの言うように「16世紀をつうじて魔術と技術の伝統は科学にある広がりを加えた」のである。」という。
4年前の暮れ頃だったか、前著三巻本をざっと読み流しただけに終わった私としては、今度はじっくりと腰を据えて併読しなければなるまいが‥‥。


脳科学や認知科学を基盤としつつ、「進化」という視点から「意識とはなにか」問題に迫るN.ハンフリーの「赤を見る」。
脳科学や心理学がいくら進歩したといっても、「視覚のクオリア」という用語が示すように、「私たちは何を見ているのか」を記述しようとすれば、たちまち立ち往生してしまう。
本書では「赤を見る」というただひとつの経験にしぼり、「知覚」と「感覚」の関係をさまざまに経巡っては「意識」問題の迷宮に読者を誘い込む。


P.クローデルの集大成的戯曲といわれる「繻子の靴」は、その初版に「4日間のスペイン芝居」と副題されたように稀代の長編戯曲である。
4部作に設定された劇といえば、遠く遡れば古代ギリシアにおける「悲劇三部作にサチュロス劇一部」があろう。
クローデルの比較的直近でいえば、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」四部作が先駆的モデルとなっているのは明らかだろう。
訳者の仏文学者で時に演出もする渡辺守章は、戯曲各部に詳細な訳注を付し、クローデルの詳細な年譜とともに、さらには90頁に及ぶ解題を書いて、文庫にして二巻、各々500頁を超える労作となっている。


-今月の購入本-
山本義隆「十六世紀文化革命-1」みすず書房
N.ハンフリー「赤を見る-感覚の進化と意識の存在理由」紀伊国屋書店
P.クローデル「繻子の靴-上」
P.クローデル「繻子の靴-下」
「ARTISTS JAPAN -14 小磯良平」デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -15 円山応挙」デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -16 俵屋宗達」デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -17 与謝蕪村」デアゴスティーニ


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-53>
 ほととぎす五月待たずて鳴きにけりはかなく春を過ぎし来ぬれば  大江千里

千里集、詠懐。
邦雄曰く、千里集の巻末に、この四月のほととぎすは、ひっそりと並んでいる。なんの詞書も見えないが、鬱々と春三月を過ごし、期せずして耳にした初音でもあったろうか。下句の初めに「われは」が省かれているが、卒然と読めば、鳥が、はかない日々を送ったようにも感ぜられ、それもまたそれで一入の趣がある。時鳥詠の定石から外れた趣向、と。


 根を深みまだあらはれぬ菖蒲草ひとを恋路にえこそ離れね  源順

源順集、あめつちの歌、四十八首、夏。
邦雄曰く、十世紀後半きっての天才的技巧派である作者が試みた古典言語遊戯の一種、沓冠鎖歌一連の夏、「山川峰谷」の「ね」に位置する一首である。いずれの歌もそのような制約などいささかも感じさせない自由奔放な調べ、「菖蒲草」など、まことに情熱的な恋歌で、文目や泥(ひじ)等の懸詞も周到。ちなみに韻は、最初と最後を同一にする超絶技巧だ、と。


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