山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

はかなしな夢に夢見しかげろふの‥‥

2006-03-31 02:32:12 | 文化・芸術
0412190391

-今日の独言- マクドナルドと食育基本法

 昨夕、どの放送局か確認し忘れたが、TVニュース番組で、マクドナルドの店が一軒もないという奄美大島のとある小学校に、わざわざ業者が島に乗り込んで、マックのハンバーガーを給食として子どもたちに試食させている風景が放映されていた。子どもたちの半数以上は初めて食するマック処女だったろうか。みな一様に美味しそうに且つ嬉しそうにバーガーを頬張る姿が映し出されていた。ニュースの解説ではどうやら昨年7月に施行されたという「食育基本法」なる寡聞にして初めて耳にする法律と関わりがあるらしく、この新法の趣旨に沿った日本マクドナルドによる協賛行為のような意味づけがされていたように聞こえたが、学校給食とマックのハンバーガーという取り合せに違和感がつきまとって仕方なかったし、この話題を採り上げるマスコミの神経にも驚きを禁じえなかった。
「食育基本法」? なんだよその法律? マックのハンバーガーを子どもたちの給食にというような行為が奨励礼賛されるような法律って、いったいどんな法律だよ?
「食生活情報サービスセンター」なるこれまた耳慣れない財団法人のHPに「食育基本法」が全文掲載されていた。
=http://www.e-shokuiku.com/kihonhou/index.html
基本法と銘打つだけに、前文と四章三十三条及び附則二条から成るごく簡明な法である。
前文の中ほどには「国民の食生活においては、栄養の偏り、不規則な食事、肥満や生活習慣病の増加、過度の痩身志向などの問題に加え、新たな「食」の安全上の問題や、「食」の海外への依存の問題が生じており、「食」に関する情報が社会に氾濫する中で、人々は、食生活の改善の面からも、「食」の安全の確保の面からも、自ら「食」のあり方を学ぶことが求められている。」というような件りもあった。
総則としての第一章第十二条では、食品関連事業者等の責務として「食品の製造、加工、流通、販売又は食事の提供を行う事業者及びその組織する団体は、基本理念にのっとり、その事業活動に関し、自主的かつ積極的に食育の推進に自ら努めるとともに、国又は地方公共団体が実施する食育の推進に関する施策その他の食育の推進に関する活動に協力するよう努めるものとする。」とある。
成程、日本マクドナルドが、店舗が一軒もないという奄美大島にわざわざ出向いて、小学生たちに自社のハンバーガーを給食代わりに食体験させるという行為が、この新法に則った食育キャンペーン事業の一環だという訳だ。給食とマックのハンバーガーという取り合せは話題性もあるといえばある。だからといってこれを積極的に採り上げるマスコミの神経もどうかしてるんじゃないか。なにしろ人口の60%以上という桁違いの肥満率を誇る?アメリカである。引用した前文にもあるように、肥満や生活習慣病の増加現象の一翼を担っているのが、まぎれもなくマクドナルドを筆頭とするアメリカ食文化のわれわれ消費者への圧倒的な浸透そのものじゃないか。
美辞麗句で飾り立てているものの、「食育基本法」などという新法の成立自体、拙速の牛肉輸入再開と同様、内実は超肥満大国アメリカによる外圧に発しているのではと、穿った見方もしてみたくなろうというものだ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-35>
 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと言はなくに
                                    大伯皇女


万葉集、巻二、挽歌。
詞書に、大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大来皇女の哀しび傷む御作歌二首、とある後一首。
邦雄曰く、諮られて死に追いつめられた悲劇の皇子大津を悼む同母姉の悲痛な挽歌。不壊の秀作であろう。馬酔木の蒼白く脆く、しかも微香を漂わす花と、この慟哭のいかに哀れに響きあうことか。時に朱鳥元(686)年、大津23歳、大伯25歳の春、と。


 はかなしな夢に夢見しかげろふのそれも絶えぬるなかの契りは
                                    藤原定家


拾遺愚草、上、関白左大臣家百首、逢不会恋。
邦雄曰く、歌の心がそのまま彩となり調べとなり、余情妖艶の典型。初句でとどめを刺す表現は定家の好むところ、目立たぬ倒置法で、五句は纏綿と連なり、「絶えぬる」と歌いつつ切れ目を見せぬ。歎きの円環の中にさらに夢と蜉蝣がもつれあい、ほとんどはかなさの綾織の感がある。定家70歳、関白左大臣家百首中の恋歌、と。


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霞立つ末の松山ほのぼのと‥‥

2006-03-30 04:13:37 | 文化・芸術
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-今日の独言- 八百屋お七

 天和3(1683)年の今日3月29日は、男恋しさのあまり自宅に火付けをした江戸本郷追分の八百屋太郎兵衛の娘お七が哀れ刑場の露となった日だそうな。浄瑠璃や歌舞伎で名代の八百屋お七である。
天和・貞享・元禄と五代綱吉の世だが、この頃暦号がめまぐるしく変わっているのも、この「お七火事」事件と少なからず関わりがありそうだ。
天和2(1682)年の暮れも押し迫った12月28日、江戸で大火が起こった。駒込大円寺から出火、東は下谷、浅草、本所を焼き、南は本郷、神田、日本橋に及び、大名屋敷75、旗本屋敷166、寺社95を焼失、焼死者3500名という大被災。その際、家を焼かれ、駒込正仙寺(一説に円乗寺)に避難したお七は寺小姓の生田庄之助(一説に左兵衛)と恋仲となった。家に戻ったのちも庄之助恋しさで、火事があれば会えると思い込み、翌年3月2日夜、放火したがすぐ消し止められ、捕えられて市中引廻しのうえ、鈴ヶ森の刑場で火刑に処せられたというのが実説。
 この八百屋お七がモデルとなって西鶴の「好色五人女」に登場するのが早くも3年後で、元禄期には歌祭文に唄われていよいよ広まり、歌舞伎や浄瑠璃に脚色されていくが、とくに歌舞伎では曽我物の世界に結びつけた脚色が施され、八百屋お七物の一系統が形成されていく。

                 ―― 参照「日本<架空・伝承>人名事典」平凡社

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-34>
 霞立つ末の松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空  藤原家隆

新古今集、春上、摂政太政大臣家百首歌合に、春曙といふ心を。
末の松山-陸奥国の歌枕、宮城県多賀城市八幡、宝国寺の裏山辺り。二本の巨松が残る。
邦雄曰く、末の松山が霞む、霞の彼方には越えられぬ波が、ひねもす泡立ちつづける。うすべにの雲が、縹の波に別れようとする。横雲を浮かべた空自体が海から離れていく幻覚、錯視のあやういたまゆらを掴むには、これ以外の修辞はなかったろう。霞・雲・浪と道具立てが調い過ぎているという難はあろうが、これだけ流麗な調べの中に籠めるとその難も長所に転ずる、と。


 物部の八十乙女らが汲みまがふ寺井のうへの堅香子の花
                                    大伴家持


万葉集、巻十九、堅香子草の花を攀じ折る歌一首。
物部の八十乙女(もののふのやそをとめ)-物部は八十=数多いことに掛かる枕詞。堅香子の花-片栗の花とされるのが通説。
邦雄曰く、寺の井戸のほとりには早春の片栗の、淡紫の六弁花がうつむきがちに顫えている。水汲む乙女らは三人、五人と入り乱れてさざめく。「物部の八十乙女」の鮮明な動と、下句の可憐な花の静の、簡素で清々しい均衡は、家持独特の新しい歌風の一面である、と。


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沈みはつる入日のきはにあらはれぬ‥‥

2006-03-29 00:47:56 | 文化・芸術
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-今日の独言- 痩せ蛙の句

 一茶のあまりにも人口に膾炙した句で恐縮だが、蒙を啓かれた思いをしたのでここに記しておく。
 「痩せ蛙負けるな一茶是にあり」
について、「一茶秀句」(春秋社)での加藤楸邨氏の説くところでは、
「希杖本句集」には句の前書に「武蔵の国竹の塚といふに、蛙たたかひありける、見にまかる。四月廿日なりけり」とあり、古来、「蛙いくさ」とか「蛙合戦」といわれて、蛙は集まって戦をするものと考えられていたが、実はこれは、蛙が群れをなして生殖行為を営むことである、と。いわば本能に規定された遺伝子保存をめぐる小動物たちの生死を賭した闘いだという訳である。
一匹の雌にあまたの雄が挑みかかるので、激しい雄同士の争いとなる。痩せて小さく非力なものはどうしても負けてしまうのだ。一説には「蛙たたかひ」というのは、蛙の雌に対して、多くの雄を向かわせ、相争わせる遊戯だという話もあるそうだが、楸邨氏曰く、いずれにせよ、単なる蛙の戦というような綺麗ごとではなく、そうであってこそはじめて、「一茶是にあり」と、軍記物よろしく名乗りを採り入れた諧謔調が精彩を発するのであり、この句の一茶は、痩せ蛙に同情している感傷的なものではなく、むしろ爛々と眼を光らせた精悍な面貌なのだ、と説いているのだが、成程そうかと膝を叩く思い。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-33>
 沈みはつる入日のきはにあらはれぬ霞める山のなほ奥の峯
                                    京極為兼


風雅集、春、題知らず。
邦雄曰く、新古今時代も「霞める山」を幽玄に表現した秀歌はあまた見られ、これ以上はと思われるまでに巧緻になった。だが、為兼の「なほ奥の峯」にまでは修辞の手が届かなかった。雄大で微妙、華やかに沈潜したこの文体と着想が、二条派とは一線を劃する京極派美学の一典型。初句六音、三句切れ、体言止めの韻律は掛替えのないものになっている、と。


 荒れ果ててわれもかれにしふるさとにまた立返り菫をぞ摘む
                                   二条院讃岐


千五百番歌合、二百四十八番、春四。
永治元年(1141)?-建保5年(1217)?。源三位頼政の女。二条院の女房となり、後鳥羽院の中宮宣秋門院にも仕えた。新古今時代の代表的女流歌人。小倉百人一首に「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそしらねかわくまもなし」の作がある。千載集以下に73首。
邦雄曰く、「離(か)れ」と「枯れ」を懸けて、新古今調「故郷の廃家」を歌う。但しこの「ふるさと」には「古き都に来て見れば」の趣が添う。この歌合当時讃岐は60歳前後、父頼政が宇治平等院に討死してから、既に20年余の歳月が過ぎていた、と。


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沈みはつる入日のきはにあらはれぬ‥‥

2006-03-29 00:45:22 | 文化・芸術
0511270101

-今日の独言- 痩せ蛙の句

 一茶のあまりにも人口に膾炙した句で恐縮だが、蒙を啓かれた思いをしたのでここに記しておく。
 「痩せ蛙負けるな一茶是にあり」
について、「一茶秀句」(春秋社)での加藤楸邨氏の説くところでは、
「希杖本句集」には句の前書に「武蔵の国竹の塚といふに、蛙たたかひありける、見にまかる。四月廿日なりけり」とあり、古来、「蛙いくさ」とか「蛙合戦」といわれて、蛙は集まって戦をするものと考えられていたが、実はこれは、蛙が群れをなして生殖行為を営むことである、と。いわば本能に規定された遺伝子保存をめぐる小動物たちの生死を賭した闘いだという訳である。
一匹の雌にあまたの雄が挑みかかるので、激しい雄同士の争いとなる。痩せて小さく非力なものはどうしても負けてしまうのだ。一説には「蛙たたかひ」というのは、蛙の雌に対して、多くの雄を向かわせ、相争わせる遊戯だという話もあるそうだが、楸邨氏曰く、いずれにせよ、単なる蛙の戦というような綺麗ごとではなく、そうであってこそはじめて、「一茶是にあり」と、軍記物よろしく名乗りを採り入れた諧謔調が精彩を発するのであり、この句の一茶は、痩せ蛙に同情している感傷的なものではなく、むしろ爛々と眼を光らせた精悍な面貌なのだ、と説いているのだが、成程そうかと膝を叩く思い。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-33>
 沈みはつる入日のきはにあらはれぬ霞める山のなほ奥の峯
                                    京極為兼


風雅集、春、題知らず。
邦雄曰く、新古今時代も「霞める山」を幽玄に表現した秀歌はあまた見られ、これ以上はと思われるまでに巧緻になった。だが、為兼の「なほ奥の峯」にまでは修辞の手が届かなかった。雄大で微妙、華やかに沈潜したこの文体と着想が、二条派とは一線を劃する京極派美学の一典型。初句六音、三句切れ、体言止めの韻律は掛替えのないものになっている、と。


 荒れ果ててわれもかれにしふるさとにまた立返り菫をぞ摘む
                                   二条院讃岐


千五百番歌合、二百四十八番、春四。
永治元年(1141)?-建保5年(1217)?。源三位頼政の女。二条院の女房となり、後鳥羽院の中宮宣秋門院にも仕えた。新古今時代の代表的女流歌人。小倉百人一首に「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそしらねかわくまもなし」の作がある。千載集以下に73首。
邦雄曰く、「離(か)れ」と「枯れ」を懸けて、新古今調「故郷の廃家」を歌う。但しこの「ふるさと」には「古き都に来て見れば」の趣が添う。この歌合当時讃岐は60歳前後、父頼政が宇治平等院に討死してから、既に20年余の歳月が過ぎていた、と。


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見ぬ世まで思ひ残さぬながめより‥‥

2006-03-27 22:21:02 | 文化・芸術
Nakahara050918-066-1

-今日の独言- ドストエフスキーの癲癇と父殺し

 「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」の文豪ドストエフスキーが、癲癇性気質だったことはよく知られた話だろうが、亀山郁夫の「ドストエフスキー-父殺しの文学」(NHKブックス)によれば、フロイトが1928年に「ドストエフスキーと父殺し」と題する論文で、ドストエフスキーの生涯を悩ました癲癇の発作について、彼の持論である「エディプス・コンプレックス」を適用してみせている、とこれを引用しつつ論を展開しているが、なかなかに興味深く惹かれるものがあった。以下、フロイトの孫引きになるが、
「少年フョードルは、ライバルでありかつ支配者である父親を憎み、その反面、強者である父親を賛美し、模範にしたいというアンビバレントな感情に苦しめられていた。しかし、ライバルたる父親を亡き者にしたいという願いは、父親から下される罰、すなわち、去勢に対する恐怖によって抑圧されていた。そして、その父親が(彼の支配下であった)農奴によって殺されたことで、図らずもその願いが現実化したため、まるで自分が犯人であるかのような錯覚にとらわれた」というのである。
「ドストエフスキーの発作は、18才のときのあの震撼的な体験、すなわち父親の殺害という事件を経てのち、はじめて癲癇という形態(痙攣をともなう大発作の型)をとるに至った」
或いはまた「この癲癇の発作においては、瞬間的に訪れるエクスタシー(アウラ)のあと、激しい痙攣をともなう意識の喪失に襲われ、その後にしばらく欝の状態が訪れる」といい、
「発作の前駆的症状においては、一瞬ではあるが、無上の法悦が体験されるのであって、それは多分、父の死の報告を受け取ったときに彼が味わった誇らかな気持ちと解放感とが固着したものと考えていいだろう。そしてこの法悦の一瞬の後には、喜びの後であるだけに、いっそう残忍と感ぜられる罰が、ただちに踵を接してやってくるのが常であった」と。
フロイトはさらに、少年フョードルの心の深く根を下ろしている罪の意識や、後年現れる浪費癖、賭博熱などいくつかの異常な行動様式にも同じ視点から光をあてている、としたあとでこの著者は、
「60年に及んだドストエフスキーの生涯が<エディプス・コンプレックス>の稀にみるモデルを呈示していることは否定できないだろう。フロイトの存在も、フロイトの理論も知らなかったドストエフスキーは、父親の殺害と癲癇の発作を結びつけている見えざる謎を、ひたすら直感にしたがって論理化し、表象化するほかに手立てはなかったのだ。」と、ドストエフスキー文学の深い森の中へと読者を誘ってゆく。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-32>
 見ぬ世まで思ひ残さぬながめより昔にかすむ春の曙  藤原良経

風雅集、雑上、左大将に侍りける時、家に六百番歌合しけるに、春曙。
邦雄曰く、六百番歌合きっての名作と称してよかろう。右、慈円の「思ひ出は同じ眺めに帰るまで心に残れ春の曙」と番。左右の方人ことごとく感服、判者俊成「心姿共にいとをかし。良き持に侍るべし」と、滅多に用いぬ最上級の判詞を認める。過去・現在・未来を別次元から俯瞰したような、底知れぬ深み、青黛と雲母を刷いたかの眺め、賛辞に窮する、と。


 春といへばなべて霞やわたるらむ雲なき空の朧月夜は  小侍従

千五百番歌合、五十四番、春一。
生没年未詳(生年は1120年頃-没年は1202以後とみられる)。父は石清水八幡宮別当大僧都光清。「待宵のふけゆく鐘の声きけばあかぬ別れの鳥はものかは」の恋歌で知られ、「待宵の小侍従」と異名をとる。後鳥羽院歌壇で活躍、俊成・平忠盛・西行らと交遊、源頼政や藤原隆信らと贈答を残す。家集に「小侍従集」、千載集初出、勅撰入集55首。
邦雄曰く、空前の大歌合に列席の栄を得た小侍従は、87歳の俊成に次ぐ高齢。ゆるぎのない倒置法で風格を見せるところ、さすがに老巧、と。


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