山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

歩きつづける彼岸花咲きつづける

2005-09-30 11:12:45 | 文化・芸術
<風聞往来>


moonbaseさんの「阪神優勝と楽天の黒字に見る野球経営」にトラックバックしています。


<岡田阪神優勝-黄金期の幕開け。‥‥デモ、ネ?>

 成程、甲子園球場での優勝は格別なものだった。
一昨年の優勝も甲子園での胴上げだったが、
ディゲームのあと、夜までファンが待ち焦がれての瞬間だった。
この一戦で必ずもぎ取る、
選手もスタンドのファンも、確信に満ちているその雰囲気が
テレビの画面からも伝わってくるほどだった。
9回表の守備についた選手たちのひとりひとり、
刻一刻と近づくその瞬間にどうしようもなく込み上げてくるそれぞれの思いが、
画面に映るアップの表情から、手に取るように感じられた。
野球という一年をかけたお祭り騒ぎのクライマックスに相応しい瞬間。

星野監督による奇蹟のぶっちぎり優勝から、岡田阪神の実力でもぎ取った優勝へ。
これで阪神はほぼ完全にイメチェンを果たしたといえそうだ。
この誉れで岡田監督は名宰相の名乗りをあげえた。
チーム作りにトータルイメージがしっかりと持てるのだろう。
来季より三年から五年は、連覇はともかくとしても、阪神の黄金時代がつづくだろう。
プロ野球が往時の活況を取り戻すとすれば、しばらくは阪神を軸にしてのことになる。

感極まるその頂点を過ぎれば、祭りのあとの浮かれ騒ぎ。
日本中のここかしこで繰りひろげられるバカ騒ぎが、TV各局で夜通し映し出されていた。
それにしても、優勝を決める一戦の、それも阪神-巨人の最終戦が、
地元関西で、ローカル局SUNTVとNHK-BS2のみの試合中継なのは、なぜ?
中継のなかったTV各局が、優勝に酔いしれるビールかけやらなにやら、
あとの祭りの特番オンパレードに血道をあげているのは、なぜ?
試合中継そのものに、金をかけ、撮影技術を駆使し、
演出を工夫するのが、本来の使命だろうに。
彼らはどうやら、あとの祭りの、国民的バカ騒ぎや浮かれぶりを演出したかった?

TV各局の、この付和雷同ぶりは、先程の総選挙結果とそのあとの騒ぎぶり、
とりわけ新人議員たちを追う過熱報道と、なにやらつながってはいないか。


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ぶらさがつている烏瓜は二つ

2005-09-27 19:21:40 | 文化・芸術
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<古今東西-書畫往還> 

<愛は生物学的な事実-
     D.モリス「ふれあい-愛のコミュニケーション」

 昔、動物行動学者デズモンド・モリスの「裸のサル」を読んだのはいつのことだったか。おそらく30年くらいは遡るのだろう。このほど些か気まぐれを起こして同じ著者の「ふれあい-愛のコミュニケーション」と「ボディウォッチング」を気楽に走り読みしてみたのだが、結構たのしく気晴らしにはなった。
白川静氏の常用字解によれば、誕生の「誕」という字の本来の意味は「あざむく、いつわる」だそうである。されば、母親の胎内に守られ、至福とよぶに相応しい子宮内から生れ出ることは、赤ん坊にとってはもっとも苛酷な受苦であり、外傷的体験であることに符合するかのごとく、生物としての出産・誕生とは、胎児の側にとってみれば「あざむかれ、いつわられる」ことに他ならないということになろうか。


 「愛は生物学的な事実」とする著者は、動物行動学者としてのアプローチから、親密であるということ、ヒトとしての母と子のあいだや大人としての男と女のあいだに交わされるさまざまなふれあいのうちに、それぞれのシグナルを読み解き、何が起こっているのか、いわゆるボディタッチの本質を解き明かしてくれる。
章立ては、1-「親密性の根底にあるもの」、2-「性的親密性への誘い」、3-「性的親密性」、4-「特殊な親密性」、5-「親密性の代替物」、6-「物への親密性」、7-「自己親密性」、8-「親密性への回帰」と8章に構成されるが、その2章において著者は、「人間の自然な寿命はおそらく40歳から50歳の間であって、それ以上ではない」という。霊長類としての人間の体重やその他ライフサイクルにおけるさまざまな特徴から、動物行動学者としての著者はそう断じている訳だが、ならばわれわれ人間社会は、現代医学の奇蹟によって、その寿命を生物学的にはきわめて不自然なまでに伸ばしてしまっていることになる。40代で自然な死を迎えられるのなら、自分の子を育てそして消え去っていくのにまさしく手頃な時間なのだが、高度な現代文明にどっぷりと浸ってしまっているわれわれの社会ではすでにそこからずいぶんと遠ざかってしまっているうことになる。親の責務を卒業した男女-夫婦がさらに半世紀近くもの時間を生き延びなければならない現代の姿は、まことに深刻な問題を孕んでいる、という訳だ。


 3章において著者は「複雑化したヒトの性行為の起源は何か」を問う。男と女における恋愛期間のやさしい躊躇いがちなタッチや握手をはじめ、もろもろの前戯の情熱的かつ刺激的行為は、どこに由来しているのかということに対し、それらの行為はほとんんどすべて、母と子の関係における親密性に跡づけることができるというのが、その答えである。ヒトとしてのわれわれの「愛し合うことは幼児期への回帰にきわめて類似している」ということ。「ヒト科の動物にとっての結合は、成熟した霊長類の交合行為プラス幼児期に立ち返った抱擁行為で成り立っている」というその二重性にあること。そしてむしろその後者=幼児期への回帰が、「初めの求愛の段階から最後の瞬間にいたる性のすべてのプロセスに深く浸透している」のだと導いている。

 とかく現代における人間関係が互いに疎外的であればあるほど、肉体的な結びつきの必要をよけいに感じるのも自然な成り行きではあろう。また、ヒトとして同じ人格のなかに冷酷無比の残忍性と愛情深い感情が並列的に存在していることも厳然たる事実ならば、というのも残忍性の起源は誕生時の苛酷な外傷体験であり、そして愛情の深さは母親の胎内におけるあの親和力がその起源なのだが、われわれはその残忍性と愛情深さという矛盾しあう二相を自身の内部に折り合いをつけ共存させなければならないことになる。そうしながらわれわれは常に人間の本性を再確認していかねば、絶えず自身の破滅、破壊的行為に突き進む危機にさらされつづけることになるだろう。
 「人間は肉体を所有しているのではない。肉体そのものなのだ。」と終章を結ぶ著者は、「人間関係の結びつきで、とかく性的な要素が過大に評価されがちなのが現代の通弊である。ボディ・コンタクトと親密性への希求が現代社会の内部にどんなに激しい炎となって燃えさかっているか。」と警鐘を鳴らす。ここでわれわれが再確認すべきは、親と子のあいだの親密性に性的な意味がまったく含まれていないように、或は母性愛-父性愛や、子の親に対する愛情が性的な愛とは異質なものであるように、さまざまな人間関係、男性同士であれ、女性同士であれ、ときに男と女であれ、そのいずれの関係も、とくに性-セックスと結びつける必要はなく、親しさや愛情はあくまでそれそのものであり、お互いを分かちがたく結びつける精神的な絆であること。そこに性への衝動が含まれているかどうかは、あくまでも二次的な問題にすぎないのだということ、を徹底して自覚することだ。


 つけくわえれば、コトバもまたボディ・コンタクトの延長であり、象徴性豊かなふれあいなのだ、ということを忘れてはなるまい。ましてや肉声による会話、声の交し合いはお互いの想像力を駆使したボディ・コンタクトそのものであり、親密さにあふれた空間であることをしかと銘すべきだろう。

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水に雲かげもおちつかせないものがある

2005-09-26 12:46:46 | 文化・芸術
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<日々余話>

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<Viva! Campオフin 岡山-二次報告>

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 先の19日、岡山県「たけべの森」キャンプ場で催された、
エコー仲間の西風さん流のアウトドア世界に愉しく遊ばせていただいたことについては20日付で紹介したが、
その折の写真を同じく参加していたNaoさんからお送りいただいたので、
遅ればせながらここに掲載紹介させていただく。
なお、Naoさんのホームページでは、愉しく大いに盛り上がったキャンプでの模様を伝えてくれているので、
よろしければこちらをご覧下されたし。


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松風すずしく人も食べ馬も食べ

2005-09-24 23:04:08 | 文化・芸術
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<芸能考-或は-芸談>-03

<盆踊りと口説-くどき>

 儀式化、行事化した念仏踊りは中世・近世を経て大規模となり、祖霊供養や精霊送りの「大念仏」と呼ばれるようになるが、いつしかその合い間には盆踊りをともなうようになる。より娯楽的な要素の挿入である。その背景からみても、本来、盆踊りというものは二重性を有する。天-浄土にあこがれ、霊の浄化を願いつつ、地上をのたうちまわるが如く生を燃焼するひとときが、盆踊りといえようか。
 この盆踊りの歌には<口説-くどき>という長詩形の物語歌謡が多い。謡曲や浄瑠璃では人物の思いの丈などを述べる語りの部分を口説きというがもとは同根である。説教節や祭文も瞽女歌も、古くは平曲も口説きといえるだろう。しかし、謡曲や浄瑠璃などの芸では洗練され節回しも複雑に難しくなりすぎる。そこで短い節を一節憶えれば、それを繰り返してどんな長篇も唄えるようにしたのが一般化してひろまっていく。「嬉遊笑覧」という書では、道念山三郎なる者が貞享(1684-1688)の頃、盆踊口説をはじめた、と五来重は紹介している。初めの頃の盆踊口説きは中世説話を「くどき」化したものが多く、「小栗判官照手姫」「石童丸刈萱道心」「俊徳丸」「信太森葛の葉」「中将姫」などが主流だったとされ、やがて当世物の演目「八百屋お七」や「二十四孝」、「先代萩」などへ移っていき、さらには大衆の講談的嗜好に応えたものや諷刺物、物づくしへと変わっていくことになるが、こうなると「チョンガレ」そして浪花節へとストレートにつながってもゆくのである。
八木節も、江州音頭や河内音頭も、口説きの末流というわけである。


     ――参照 五来重「踊り念仏」 平凡社ライブラリー刊

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百舌鳥啼いて身の捨てどころなし

2005-09-22 16:25:11 | 文化・芸術
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<古今東西-書畫往還> 

<ことばあそびうた-生と死のマンダラ図>

   いちのいのちはちりまする
   にいのいのちはにげまする
   さんのいのちはさんざんで
   よんのいのちはよっぱらい
   ごうのいのちはごうよくで
   ろくのいのちはろくでなし
   しちのいのちはしちにいれ
   はちのいのちははったりで
   くうのいのちはくうのくう
   とうのいのちはとうにした
   じゅういちのいのちのいちがたつ


 谷川俊太郎のことばあそび歌にある「いのち」と題された詩篇。
一から十一へと連なる語群のその背後には、男と女のエロスのあらゆる経緯が暗喩されているとも読めそうな、数え唄を体したこの<生と死のマンダラ図>のごとき詩を、子守唄のように三歳や四歳の幼な児に聞かせるとすると、どんな響きをもって伝わるのだろう。
自分の両親というものが、父であり母であるばかりでなく、男でもあり女でもあるということ、なにやらそんな秘密めいた世界が、無意識に感じとられるのだろうか。
 生命体としての人は、だれでも、それは無意識にではあるが、-記憶にないところへ遡りたい-と希っているにちがいない。
そして詩人は、文字以前のことばへ、ことば以前の音へ、音以前の声へ、声以前の胎内の生動へ、とめざしてコトバを紡ぎだしている。


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