日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2016-11-22 20:39:25 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(389)  近代から現代へ(宗教改革とその後)

  はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その28)

⒖.マルクス・レグルスは、宗教的信仰のゆえに喜んで捕囚に堪えた人々の偉大な範例である。

 しかし彼の異教的信仰は、彼からその益を奪い取ってしまった。

~しかしながら、目下の問題はキリスト信者が捕虜となっていることである。厚顔無恥に、また無思慮にもわたしたちのいとも健全なる宗教を嘲弄する者どもは、このことに耳を傾け、黙すべきである。神々のもっとも熱心な礼拝者であり、そ

の名によって立てた誓いを守った者が、その祖国から追い出され、どこでも市民権を拒まれ、捕われとなり、そして未曾有の残酷な拷問によるゆるやかな死によって殺されたことが、神々の不名誉とならないとすれば、(前回はここまで)

聖徒の中に捕囚となった者がいるからと言って、キリスト者の名が非難されるいわれははるかに少ない。少なくとも彼らは真の信仰をもって永遠の国を望み見ていたし、この世では異邦人、また巡礼者であることを知っていたのである。

⒗.多くの聖別された処女たちが捕囚の間に暴行を蒙った。彼女らが進んで同意したのでない限り、

 これは彼女らの魂の罪を意味するであろうか。

我々の敵対者は捕囚の恐怖を大いに誇張し、その証拠として既婚・未婚の婦人たちのみならず、聖別された処女たちまでが襲われたことを列挙することによって、特に重大な非難をキリスト教に加えうると考える。こうした事柄を~(つづく)

(教団出版「神の国」出村彰訳1968)


聖書研究

2016-11-22 20:30:07 | 大分中央ウィークリー

創世記24章10節である。「僕は主人のらくだの中から十頭を選び、主人から預かった高価な贈り物を多く携え、アラム・ナハライムのナホルの町に向って出発した。」という。「主人から預かった高価な贈り物」とは、イサクの嫁となる娘と彼女の数句に対する贈り物である。22節と53節にその内容が分るようになっている。それにしても豪華なもの。その心意気が現れている。 

イサクがこの大旅行に同行しなかった。それは僕への信頼関係が強かったことを現している。一切を任せて送り出したのである。それだけでなく大事なのは神の約束の地をカナンと決めて、一歩も譲らない6節と8節の言葉の神信仰の堅さがある。 

11節である。「女たちが水汲みに来る夕方、彼は、らくだを町外れの井戸の傍らに休ませて、」という。長旅のゆえに、用意万端を整えて夜明けを待ち朝食を済ませてからの出発となったのであろう。ここの、「女たちが水汲みに来る夕方」というときの報告にはそのような出発の時との対象の夕方と言う意味がありそうである。第一日が暮れようとするこのとき、出発に至ったときまでの責任の重さを痛感しての最初の大きな意味を持つ休憩となった。豪華な結納品、付け人も多くいたのであろう。 

10節で「ナホルの町」に向かったのであるがナホルは正確にその古代の位置を特定するのは難しい。しかし、ユーフラテス河の大湾曲部に囲まれた地域のハランのやや南方であると言われる。古代バビロニヤの文献、粘土板のマリ文書にもしばしば出てくる地名であるあるがくしゃのけんきゅうによってわかっている。従ってその町の存在はほぼ間違いない。いずれにしても旅の道程はヘブロンからほぼ千キロほどになり、歩いて一日30キロとして一ヶ月はかかる。その「夕方」は、その先を展望するに貴重なる時間であった。


牧 会 通 信

2016-11-22 20:21:37 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)       ダンテの「神曲 地獄」編 15(カッコ内は筆子、その4)

◯わたしらを熟視し、老いた仕立屋が針の穴を覗くやうに、わたしらに向つて眼を鋭くした。

 わたしはこの一族にそのやうに凝視されてゐたが、その一人がわたしを見分け、わたしの裾を掴んで叫んだ、「なんと愕くべきことだ! 」

そのものの腕がわたしの方へ伸ばされたとき、わたしはそのものの焼けた顔に目を凝らしたが、(前回ここまで)

◯その焼け焦げもわたしがそのものを見分けるのを妨げなかつた。わたしは片手をそのものの顔の方へ下げて答へた、「あなたが、ここに、セル・ブルネット?」(ブルネットは高名な学者、「セル」はその尊称)、

すると答へた、「おお、わが息子よ、ブルネット・ラティノがそなたとともに少し後戻りして、この縦列を先に行かせても、不快に思はないでほしい。」(ブルネット・ラティノは千二百十年頃フィレンツェに出生)

わたしは言つた、「出来るかぎり、さうして下さい。あなたとともに坐れと言われれば、わたしの道連れが許ししだいさうしましせう。」

 (つづく)

本日、2016年11月20日は第四十七主日となる。日聖協「聖書愛読こよみ」は「感謝せよ」という主題。聖書はコロサイ2章6~7節その7節、「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれる

ばかりに感謝しなさい。」という。「あふれるばかりに感謝」とは、キリスト信仰をもつ者の基本であり、言葉であろうと行いであろうと、その心を神に向けるときに起こる。

◯写真は、先週11月13日、沖縄伝道所に、宜野湾の人々四人が合して、まず問安の辞を述べられました。この後の昼食会です。