合間の博物館旅日記

博物館を回りながら日本各地を旅をする過程の壮絶な日記。(2005.4-9月)
旅終了後は適当に随時更新の予定。

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小池重明氏の思い出

2015-11-22 00:46:05 | 明大将研

二年ぶりに記事をアップしますが、別に死んでいたわけではありません。

主にヤフーブログの方をもっぱら更新していたためです。


今回は早逝のアマ強豪、小池重明氏の思い出を書きます。


あれは今から30年前、明大将研の夏合宿に小池さんが参加したことがありました。

当時「将棋ジャーナル」誌上で売り出し中の高校生、櫛田陽一君も一緒です。


いったいどういう経緯でそうなったのか?

詳しいことは聞きませんでしたが、おそらく、日暮里の将棋研究会で顔なじみだった、自分の一年先輩の石井宜(ただし)さんが、なにがしかの謝礼を払って呼んだものと思われます。

場所は長野県小淵沢にある信濃学寮です。

小池さんは、ジャーナル紙上などではお顔を拝見していましたが、実際に見るのは初めてでした。多分、ほかの大部分の学生たちもそうだったでしょう。

石井さんにすれば、お金を払ってでも、学生たちに超強豪と対局する機会を与え、明治の将棋部全体のレベルアップにつながってほしいとの思いがあったのかもしれません。

しかし学生の中には、たとえトップといえども、アマチュア相手にお金を払うというのに抵抗を示す者もいましたし、またたとえ指しても勝てるわけがないので、そもそも小池さんに対局を申し込む者も実際には少なかったのも事実です。

それならばまだ年下の櫛田君を相手にしよう、という感じでした。

私はというと、そもそも将棋が弱く、また強くなるつもりもこの頃はすでになかったので、当然二人と指すなど論外で、なんとなく遠巻きに見ていた記憶があります。

お二人が都合何日間合宿に参加したのかの記憶も、実は曖昧です。

当時の夏合宿は、一週間ぐらいやってましたから、数日間参加したのではないでしょうか?


そんなわけで、せっかく来てくれた小池さんでしたが、あまり将棋を指すこともなく、ちょっと手持無沙汰な感じに見えました。


しかし、そんな小池さんを喜んで迎え入れるチームもあったわけです。

それがなんと麻雀メンバーでした。

当時の合宿では、主に麻雀卓が二卓立っていました。

一卓は普通の麻雀。(といっても学生なので、点5とか比較的おとなしいレート)

そしてもう一卓は、純粋に麻雀という競技を楽しみたいという、ノーレート麻雀。

もちろん小池さんが参加したのは前者でしたが、私から見ると「極道メンツ」と呼ばれるような先輩たちと小池さんが卓を囲んでいました。

もちろん合宿の場なので、自動卓ではなく、手積みです。

どういうところが「極道」なのか。まあ説明は難しいですが、筋ひっかけは当たり前。九ピンをポンして、なおかつ残りの九ピンであがる、というような、普通の常識があまり通じない人たちです。

自分もギャラリーとして見てましたが、小池さんが、リーチ一発ツモを、二回連続したのを覚えています。(自分の山なら、「あー、覚えているな」と疑うところですが、確かに二回とも他人の山でした。)

そして続く局でも早々にリーチをかけ、一発目のツモで牌を見て、「嘘だろ?」と他の三人の顔を見てつぶやきました。

すわ、三回連続リーチ一発ツモか! 何という強運! ……と思ったところ、何とそれはブラフ。

破顔一笑。
その時の小池さんの、なんとも茶目っ気のある顔は忘れられません。

将棋を(真剣で)指すときの顔とは、恐らく正反対だったのではないでしょうか?

また、この時の大学将棋部の雰囲気。
お金もかかっていない、純粋に将棋が好きで指している学生たちに触れて、小池さんの気持ちも和やかになっていたのでは? と推測します。


そして、意外に盛り上がったのが、次の日の夜に行われた「リレー将棋トーナメント」というイベント。

リレー将棋とは、例えば3人一組でチームを作り、一人3手ずつ指して交代するという、いわば「遊び将棋」です。

一試合につき各チーム一回、つまり都合二回の作戦タイムがあります。

将棋と言うのは読みの勝負なのですが、指す人が変わると、当然読みが一貫していないので、好手が悪手に転じてしまったりして、逆転が頻繁に起こるので見ていて楽しいのです。(指す方は逆に大変ですが)


くじで公平にチーム分けをしたのですが、この時なんと、小池さんと石井さんが同じチームになりました。

最強チーム、というべきところですが、残りの一人が、自分の一年後輩の橋本君。
二回連続地獄名人を取ったという、この時の参加部員で最弱と目される人物だったのです。

まあこの大会は盛り上がりました。

結果、小池さんのチームが決勝に勝ち進み、最後も何とか橋本君が正着を指して優勝。

この時の小池さんの、楽しそうで無邪気な笑顔も忘れられません。



その一ヶ月後、「将棋ジャーナル」の読者投稿欄に、小池さんの詐欺などを告発する記事が載り、アマ棋界を騒然とさせました。

森雞二八段(当時)を指し込みで破るなどして生まれたプロ入りの話も当然のように消滅。
小池さんは棋界を追われて、表舞台から消えました。

また、櫛田君はその後すぐに奨励会に入会。あれよあれよという間に四段にあがり、プロ棋士となりました。


後に、「将棋ジャーナル」のオーナーになった作家の団鬼六氏が、晩年の小池さんの面倒を見てパトロンとなり、最後44歳の若さで小池さんが亡くなるまでの顛末は、鬼六さんの著書に詳しいので省きます。

櫛田さんも現在はプロ棋士を引退されているようです。


僕が今回この記事をアップしたのは、たまたまプロ棋士の田丸昇さんのブログ記事を読んで、田丸プロが櫛田さんの師匠だったことを知り、つい懐かしく思い出したからです。

また、以前この話を、将棋ライターの湯川博士さんにしたところ、「ぜひそれは書いた方がいい」と言われたのを思い出したからでもあります。

といっても自分は、将棋ペンクラブの会員ではないので、ペンクラブの会報ではなく、自分のブログに書くことを選択しました。


そうそう。

合宿での櫛田君の印象は、実はほとんどなかったのですが、合宿最終日前日の打ち上げで、酒を飲んだ後に、歌の好きな者たちが集って歌を歌うのが習わしでした。
流行歌や懐メロ、アニソンやフォークソング。まだカラオケもない時代でしたから、当然みんなアカペラで合唱です。

自分は歌が得意なので、こうゆう時は率先して、歌を誘導……つまり場の雰囲気を読んで、次に歌う曲を選んで歌いだすのが得意でした。

その輪の中に櫛田君もいたのですが……。

自分は将棋では逆立ちしても彼には勝てないが、歌では勝った! とこの時思いました。


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「月刊みおとし」に見る合宿の様子

2013-10-26 11:20:36 | 明大将研
前回の記事で、私が2年の時の夏合宿での地獄名人を「諸藤君」と書きましたが、私の勘違いで正しくは「松本君」でした。
お詫びして訂正します。

さて。
何故今回それに気づいたかと言うと、当時の部内で私が勝手に出していた機関紙「月刊みおとし」合宿特別号に、その時の結果の詳細が載っていたからです。

こうした合宿での公式戦の全成績と言うのは、部内のノートなどに記述されるわけですが、こうして機関紙に載ったりすると、後々に確認できるという効果があります。

それによると、OB1名を含めた34人が参加。
私は1回戦で3年生の谷さんに負け、次に1年の佐藤君に負け、次に1年の松本君と当たっています。
地獄名人に輝いた松本君はというと、初戦で4年生の坂本さん、次戦で2年の柳岡、次が私、次が1年の森谷君。そして決勝で2年の藤田前名人と当たっています。
一方その藤田君は、初戦1年の長島君、次戦3年の杉田さん、次に3年の半田さん、次に1年の近藤君と当たり、決勝へと駒を進めています。
ちなみに私が名前を間違えた諸藤君は、初戦OBの佐藤さんに負けるも、次に近藤君に勝っていました。
なお、この時の天国名人決勝は、3年の石井さんとOBの佐藤さんで、石井さんが優勝しています。

雑誌にはこの時の地獄名人戦決勝の棋譜も載っていました。

他にも、1年の岩崎君と森谷君の間で行われた、ついたて将棋の棋譜。
私が地獄名人戦での対森谷君用に開発した「角ただどられ戦法」(初手より76歩、34歩、68銀と指して角香損をするという驚異の戦法)の実戦譜なども載っています。

「合宿十大ニュース」というのも載っていました。ちょっと転載してみましょう。

1 「やりますか」の唄はやる。
2 アル中間瀬くん。
3 松本、新地獄名人に。
4 山形健闘。一人で4曲も歌う。
5 二村言葉はやる。
6 谷さん裸踊り。
7 佐藤、ふんどし杯。
8 ダンジョン、はやる、
9 新役員決定。
10 チンチロリンはやる。
次点 名人が合宿に来る

〔解説〕
・1の「やりますか」の唄とは、1年の縄野君が練習将棋を指すときに「そんな手やりますか」と口癖のように言っており、それが「桃太郎の歌」の節で歌われていた、というもの。

・7のふんどし杯は、4年の牛沢さんが企画したタイトルだったと思われる。

・8のダンジョンはカードゲーム。
この頃はトランプやカードゲームなども合宿で盛んに行われていた。

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地獄名人戦 その後

2013-10-25 01:25:38 | 明大将研
合宿は年に2回あり、地獄名人戦も2度行われた。

春合宿の地獄名人戦決勝は、1年の森本と間瀬の間で行われ、間瀬が地獄名人のタイトルを取った。

しかし、この時私は直前に腰を怪我して自宅療養中のため参加できず。前名人の藤田君も不参加のため、自分たちの間では間瀬君を真の名人とは認めがたい雰囲気があった。

翌年。

新たに1年生部員も十数名入部した。

夏合宿は、前回の7日間を上回る、実に10日間という長期日程となった。(流石に長すぎるということで翌年からは元に戻ったが…)

前名人の藤田君も参加し、あらたに1年の強豪も多数迎え、今年こそ真の地獄名人が決まると、当時すでに「お笑い将棋」の世界に目覚め、地獄名人マニアになってしまった私は、当事者であるにも関わらず、来るべき地獄名人戦が楽しみで仕方ないという体質へと変貌してしまっていた。

2年では私を筆頭に、蕪木、間瀬、森本、柳岡、中田、藤田。
1年では、縄野、森谷、小林、佐藤、近藤、諸藤……、といった地獄名人候補の強豪たちが、ひしめきあっていたのである。

その結果、決勝は前名人である藤田と、1年の松本君との戦いとなり、結果、松本君が栄えある地獄名人となったのである。


しかしながら、これはまだまだ地獄名人の歴史の序章にしか過ぎなかった。

実はこの時の合宿に参加してない、ある1年生がいたのである。

その彼こそ、後に「永世地獄名人にもっとも近づいた男」と言われた、橋本君であった。

橋本君の「強さ」については、また稿を改めて書きたいと思う。
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地獄名人戦

2013-10-25 00:55:09 | 明大将研
合宿の最終日前日、前々日で行われるのが、恐怖の地獄名人戦である。

これはトーナメントによる負け抜き戦であり、大学によっては最弱者決定戦とも呼ぶ。

トーナメント表でどんどん負けていって地下にもぐっていく様が地獄を連想させる。

一方、勝ち抜いて優勝する人は、その反対に天国名人と呼ばれる。

しかし、当然地獄名人戦の方が盛り上がるのはゆうまでもない。


将棋が他のゲームと違うところは、偶然の要素が介入することが全くない、という点だ。
これは、実力がほぼ100%結果に反映されてしまう、ということ。
つまり、私がプロ棋士の羽生さんと1万回将棋を指しても、まず1勝もできない。
これが麻雀なら、1万回も打てば100回くらいは小島武夫に勝ってもおかしくない。配牌とツモさえよければ上級者にも勝てるのが麻雀だ。

しかも将棋では、最後に「負けました」と敗者が告げて決着がつく。
つまり「私はあなたに負けた。あなたの方が私より強い」と認めるという屈辱的な行為が待っている。
自分が「弱い」ということを敢えて宣言せねばならない。

将棋部で弱い人間が部活をやめていく理由の一つは、この「負け」を認める行為が精神的につらいからである。

まして地獄名人ともなれば、部内で一番将棋が弱いという不名誉なタイトルだ。負けることにまだ慣れていない1年生が、戦々恐々となるのはムリもないところであろう。

実際には、本当に一番弱い人間は合宿にさえ参加しないのだが、だとしてもこのタイトルを取ることはできれば避けたい、というのが全部員の本音だ。


当時、合宿では、毎日あったことが巧みに記事となって、壁新聞が作られていた。その中には、地獄名人戦の大胆予想が、あたかも競馬新聞のように書かれているものもあった。当然自分の名前も候補にある。

「負けられない」
一年生当時の自分は、真剣にそう思ったものである。


恐るべき地獄名人戦が始まった。
とはいえ、私の実力では初戦を突破できるわけもなく、トーナメントの下の山に進出することになる。

結果から書くと、この時地獄名人に輝いたのは1年の藤田高明くんだった。
同じ政経学部の友人で、実家は昆布茶の会社をやっている、お金持ちのせがれであった。

同じ1年の森本と私と藤田の3人は仲がよく、一緒に泊りがけで旅行をしたこともある。

われらの仲間から名誉ある地獄名人が輩出された。めでたい。
さっそく名人誕生を祝おうとしたところ、先輩から待ったがかかった。

4年生の田中秀和さんである。

田中さんは前回の地獄名人のタイトル保持者で、「私を倒さなければ真の地獄名人とは認められい」と藤田の前に立ちはだかったのだ。

前名人と新名人の間で、きゅうきょ三番勝負が行われた。
その結果、藤田名人がストレートで2敗し、前名人は「良き後継者を得た」と言って名人位を禅譲。晴れてここに藤田新地獄名人の誕生となったのである。

なお、お二人の名誉のために言うが、秀和さんは決して将棋は弱くない。
なぜかと言うと、私の記憶が確かならば、この時あまたいる強豪を倒して天国名人に輝いたのは、ほかならぬ秀和さんだったのだ。

とにかく私は、自分が地獄名人にならなかったことに安堵しながらも、森本と一緒に藤田名人の誕生を祝福し、即興で「名人の歌」を作った。それは、明治大学校歌の替え歌だった。
歌詞は
♪「おーお、めいじーん。その名ぞ、われ等がフジタ。おーお、めいじーん。その名ぞ、われ等がフジタ」

打ち上げの席で、地獄名人に賞状と賞品が贈られた。

それは「蛸島彰子の将棋入門以前」という入門書。
一ページ目に「駒箱を開けると駒の形をしたものがあります。これが駒です」という、よく分からない解説がしてあるという、謎の本であった。

なお、藤田名人はその後、わざわざ将棋連盟の売店に出向いて、蛸島扇子を購入したりしている。


蛸島彰子の将棋入門以前
※この頃は蛸島さんは美人女性棋士として人気があった。
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「安堂ロイド」と将棋

2013-10-23 00:36:34 | Weblog
キムタク主演のドラマ「安堂ロイド」に将棋のシーンが登場する。

主人公は、天才物理学者の沫嶋黎士(まつしまれいじ)と、その婚約者の安堂麻陽(あんどうあさひ)。

二人が出会うきっかけがネット将棋で、麻陽はそこで無敗を誇るチャンピオンだったが、黎士にこてんぱんにやられたことで、出会い、恋に落ちる。

黎士は大学の研究室と全く同じ模様の部屋を自宅に作る。

ご丁寧に部屋の真ん中には畳を敷き、将棋盤を置いて二人で将棋を指すシーンがある。

キムタクの手つきはともかく、柴咲コウの手つきがひどくて、とても将棋の有段者には見えない。

それどころか、負けて悔しいと、駒を相手の顔に投げつけるに至っては言語道断である。

さらにもっと将棋関係者を唖然とさせるシーンがある。

二人で食事を作り、盤をテーブル代わりにして食事するのだ。

これについてはドラマで将棋の監修をした人物も苦言を呈したらしいが、聞き入れられなかったそうな。

そういえば昔、夭折した天才棋士・村山聖が、自宅の汚い部屋で、盤の上でカップ麺を作って食ってたの思い出した。

雑誌の企画で米長が訪れて将棋を指そうとした時、「多分香が一枚足りません」と言われて、
「面白いね。ではおじさんが十円玉を出そう」
と言って、十円玉を香車がわりにして将棋を指したという。


全自動麻雀卓に慣れたプロ雀士は、もしかしたら牌を手積みすることができないかもしれない。

それを思えば、ネット将棋しかやらない天才は、駒の持ち方など無茶苦茶だという可能性もある。
そんな人は将棋盤にも敬意を払わないだろう。


かくいう私も、あんな立派な本かやの五寸盤なんか持ってない。

ペラペラのビニールの盤とプラスチックの駒しかない。

詰将棋を趣味にするにはそれでも十分だ。

プロは盤駒がなくても脳内で将棋が指せるしね。



話は変わるが、株主優待券で暮らす「桐谷さん」こと、元プロ棋士の桐谷広人さんが最近人気のようだ。

実は「安堂ロイド」にも「桐谷さん」が出てくる。

もっともこちらは星新造役の桐谷建太と、謎の美少女役の桐谷美玲だけれど。

同じ「桐谷」つながりで頑張って欲しい。

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夏季合宿とは?

2013-10-21 04:18:09 | 明大将研
1年の夏の合宿は7日間。信濃学寮で行われた。
ここは明大の施設で、1泊2日3食ついて、実に1500円という安さで利用できた。

場所はJR中央線で山梨県の小淵沢駅まで行き、さらにバスに揺られていくという山の上。

この当時は今から30年前。
パソコンや携帯電話もない時代である。
今の人にはピンと来ないかもしれないが、ワードプロセッサーさえなかったのだ!
電話はダイアル式の黒電話が各家庭に1台という時代。
テレビにもリモコンなんてついてなかった。

何が言いたいかというと、つまりそこは陸の孤島。
テレビは管理人の部屋に1台あるが我々は見れない。

当時プロ野球は人気があり、ほぼ毎日のように巨人戦を試合終了までやっていた。(ちなみに、「地上波」という言葉もなかった。テレビにはUHFとVHFの区別しかなかった)
だから7月の下旬に行われるプロ野球オールスター戦(3日間行われた)も、当然人気があった。
しかし、合宿の時期がよくオールスター戦と重なるのだ。
勿論見れない。
…どころか新聞も見れない。
いったん車などで下界に下りないと、世の中のニュースも何も入らなくなってしまうという、恐ろしい環境だった。

そんな中で、われらは毎日将棋を指していた。

勿論、盤・駒やチェスクロックは1年が分担して持っていくのである。

昼も夜も将棋。

しかしいかに将棋好きとは言え、そんな生活は3日も続くと飽きる。

なので、昼は広いグラウンドで野球をやったり(道具は寮にそろっている)、夜ともなれば麻雀(大体、ノーレートとそうでないので2卓立った)、トランプ(大富豪)、UNO、チンチロリン、飲み、などが限度なく繰り返された。

夜遅くまで、あるいは明け方までそんなことをしている連中が続出するとどうなるか?

まず、他所の団体から、深夜までうるさくて寝られないと苦情が来る。

さらに、部員が朝飯を食べに起きてこなくなる。

他の部が、食堂の決められた席に全員着席し、きちんと点呼を取って「いただきます!」と叫んでいるというのに、我々将研はというと、勝手に着席して自由に食い始め勝手に帰って行くという有様。しかもそのうちの半分ぐらいは手付かずのまま残飯になってしまう。
美味しい朝食を苦労して作ってくれた寮の人たちにしてみれば、一体何という学生だ、と腹がたつのも当たり前というものだ。

そうゆうわけで、合宿も4日目くらいになると、幹事長が菓子折りを持って事務室に謝罪に向かう、というのが毎年の恒例行事だった。
せめて朝飯だけは起きて食べろ、という通達が来たりもした。

A,B,Cと、実力に合わせて分けられた総当りのリーグ戦。
公式戦の合間に行われる練習将棋。
一人3手指して交代する3人1組のリレー将棋の大会は必ず盛り上がった。
朝から晩まで将棋だらけの日々……。

そしていよいよあの、恐怖の「地獄名人戦」がやってくることとなる。

(つづく)
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1年の洗礼

2013-10-21 03:44:51 | 明大将研
入部してすぐにあったのが公式戦。
春の個人戦と、古豪新鋭戦だった。後者は5人一組の団体戦。

個人戦は初戦で1勝したが、2戦目に二歩で負けてしまった。その歩が打てていれば相手玉に詰みがあったが、それがなかったのだから反則でなくても負けていたと思う。

ちなみに4年間で個人戦には計7回出場したが、全成績は1勝7敗。つまりこの時の1勝だけで、あとは全て負けだった。
個人戦では学生強豪と言われる強い人と当たるケースもあるのだが、自分の対戦相手にそんな人はいなかった。
私の将棋の実力が如実に分かる成績といえよう。

古豪新鋭戦は、この時4チーム作れた。つまりレギュラーを除いて20人もいたわけで、いかに部員数が多かったかが分かる。


さて。

このように部内での練習将棋や公式戦を経ると、大体1年生の個々の棋力というものが、先輩にも、また自分たち1年たちにも見えてくる。
レギュラー当確のもの、当落線上のもの、それ以下のもの…。

自分は間違って個人戦で2勝しかけたこともあり、この時点では「当落線上にいるのではないか」と周囲に見られていたようだ。
しかし彼ら新1年生の実力を、決定的に見極めるようなイベントが、この後、夏にやってくるのだ。

ずばり、夏季合宿である。

新1年生は、よほどのことがない限り、全員参加、という通達がなされていた。
この7日間にわたる合宿という集団生活で、将棋の実力、ならびに人間性までも判断されるのである。

明治大学の将棋部は他大学と比較しても特殊である。
とゆうのは、部室のある和泉校舎は1・2年の時に通うキャンパスであり、3・4年は駿河台校舎に行くことになる。(理系は生田校舎というまた別のキャンパスがある)

熱心な部員はそれでも将棋を指すためだけに。神田・お茶の水から京王線の明大前駅まで通うのだが、そんな連中はまれ。
つまり、3・4年になるとほとんど部室には顔を出さず、公式戦だけに出場することになる。

だから将棋を指して強くなる機会が、3年以降では極端に減ってしまう。
明治がなかなか他大学に勝てない理由は、そんなところにも原因がありそうだ。

いずれにしても活動は1・2年が中心。幹事や会計、幹事長といった役職も、だから3・4年生はやらない。夏季合宿の最終日に次の役職が発表となるのである。

それほどこの合宿と言うのは1年生にとって恐怖の対象であった。

一体、7日間も将棋漬けになるとはどんな世界なのか?

しかも、最終日前日には、部内で最弱者を決める「地獄名人戦」というイベントがあるらしい……。

そんな噂におびえながらも、あわただしく季節は夏休みに突入していくのだった。
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入部の顛末

2013-10-21 03:26:17 | 明大将研
ここで私個人の話を少し…。明大将研に入部した顛末を書こうと思う。
順序としてその方が分かりやすいだろうから…。

実は元々大学で将棋部に入る気なんて毛頭なかった。

明治に合格が決まってから、自分は映画研究会に入るという強い思いを抱いてたので…。

中学の頃から自分でシナリオを書き、音のドラマを趣味で作ったりしていた。
また、高校3年のとき、文化祭で芝居をやることになり、自分も舞台に立ったが、その時に「集団でものを作る」という心地よさに目覚め、一人ではなく仲間と共に何かを作る、というのを再びやってみたくなったのだ。

実はこの頃、初めて将棋の道場に行ってみた。
今はすでにないが、地元にあった赤羽将棋センター。
それまで子供の頃から将棋を指していたが、学校でクラブに参加することもなく、周囲にさして強いやつもいなかった。だから自分の実力と言うのが、客観的に見て強いのか弱いのか分からなかった。
で、道場で認定されたのが、4級。

がっくり来たね。
まあその後行くたびに昇級して、1級をすっ飛ばしてすぐに初段にはなれたのだけれど…。


でまあそんなわけで、大学に入っても将棋なんかは無視して映画研究会に入ったわけです。

ところがこれが馴染めなかった。
部の雰囲気に…。人に対して、と言ってもいい。

すぐに簡単な自己紹介みたいのが行われたのですが、その際に先輩の一人が、冗談のつもりだったと思うけど「部費を払ってすぐ辞めさせる」みたいなことを言って、それで一遍に嫌になってしまった。
その後何回か部室に顔を出したのだけれど、ろくに部員がいなかったりで、何をしていいか分からず…。

一方、ロビーで将棋を指している光景を目撃して、ふらふらと着席し将棋を指してみると…。

これが心地よかった。
いつ行っても誰かが将棋を指しているし、いつ来ても、帰ってもいい。

まことに自由。束縛がない。

ぬるま湯のような天国に思えて、そのまま入部。

一方映画研究会は、5千円の部費を払っただけでそのまま退会。

もしあのまま映画研究会にいたら自分の人生も相当変わっていたのではないかと思う。
しかし、とっつきにくい先輩たちにおもねって活動を続ける気には到底なれなかった。

また、趣味のドラマづくりを継続していたこともあり、映画がなくてもドラマは作れる、という想いがあったことも事実。
しかし、仮に映研にいたら、女子部員に頼み込んで女性の声の出演をお願いできたのに、とも思った。いずれにしても仮の話である。


そんなわけで、こうして明大将棋研究会の4年間が始まったわけである。
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幻の雑誌「玉金全力投球」

2013-10-18 04:35:54 | 明大将研
明治には部誌がないと前の記事で書きましたが、実は怪しい雑誌が存在しました。

部誌ではないのですが、先輩たちが勝手に編集して出していた雑誌があったのです。

その名も「玉金全力投球」。


これは当時人気絶頂だった「たのきんトリオ」(田原俊彦・野村義男・近藤真彦)の出ていたテレビ番組「たのきん全力投球」のタイトルをパロッたもの。
「玉金」というのは勿論、玉将と金将のことですね。他意はありません。もちろん…。

発行してたのは当時4年生だったヒデカズさん(田中秀和さん)、ヒデミさん(田中秀実さん)、マンシャさん(鈴木さん)、3年生の牛沢さん…といった面々。
※なんで鈴木さんが「マンシャさん」と呼ばれていたかの説明は省きます。

内容はひどいもので、主に将研部員(1,2年)の悪口。
いや、それだけじゃなく、他大学の将棋部員の悪口も平気で書かれていました。
またそれを公式戦の際に他大学の人たちに普通に売っていたのです。

まあ真面目な林さんの自戦記とかもあったと思うのですが、今手元にないのでなんとも言えません。
あるいは将研部員用語集。例えば「嵌め手(はめて)」の項目には、「女子部員が電車内で言うと周囲の誤解をまねく」などと書かれていた気がします。

この雑誌は5号くらいまで続きました。
私の1年先輩の半田さんが、OBになってからコピーしてくれたことがあります。
欲しい人は半田さんに頼むといいかもしれません。


牛沢さんはその後も「とんし」という一枚刷りの新聞を発行し(内容は同じく将研部員後輩の悪口)、ミニコミ発行を趣味にしていた私は「月刊みおとし」という雑誌を勝手に作ったりしていました。

私が2年の冬、また同じように部誌の発行について会議が開かれたのです。

私の代の部員たちは皆比較的真面目で、こうした部誌の発行については、やるとなればきちんとやる世代でした。
ところが私の1年後の世代は何故かそんなこともなく…。
「雨の雁木坂」の2号を発行するかどうか審議したところ、「すでに『とんし』や『みおとし』といった雑誌が出ているのだからわざわざ出さなくとも良い」という意見が、主に1年を中心に多数を占め、ついに2号の発行は見送られることになったのです。

以降、石橋、坪井といった歴代の幹事長が「雨の雁木坂」2号の発行を試みます。
私もミニコミ発行を趣味にしていた関係で、いろいろと相談に乗りました。

が、実際には出ず、2号の発行は大野君の時まで待つこととなります。

以降は継続的に発行されているようで喜ばしい限りです。
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「雨の雁木坂」誕生秘話

2013-10-18 03:57:46 | 明大将研
明大将研の部誌である「雨の雁木坂」はどのように誕生したのか。
その秘話を紹介します。

あれは私が1年の冬の頃。

今はどうか知りませんが、当時部室というのはロビーの一角にあり。
他のサークルと何の仕切りもない場所に、ごちゃまぜにありました。
確かアナウンス研究会が近くにいた。
彼らが部員の女子と仲良く喋ってるのを見て、基本的に女子の存在しないわが将棋研究会は、そのへんの不満をひたすら練習将棋の盤上にぶつけていました。

ただ、その時は何やら話し合いをするということで、いつもと違い教室を借りて集まることになったのです。

会議のテーマは「部誌について」。

それまで明大将研には部誌がありませんでした。
他大学の将棋部には普通に部誌がある。特に六大学で部誌がないのはわが明大くらい。
とゆうわけで部誌を作ろう、ということになったのです。

部誌を出すことは、ほぼ全会一致で賛成を見て、可決されました。

次にタイトルをどうするか?

ここでいろいろな候補が上がったのですが、元々明治というのは反体制というかバンカラな気風が色濃く残っており、わが将棋部においても同様だったわけです。
つまり、まともに考えるやつがあまりいないということで…。まあそれは一種の照れ隠しでもあったんでしょう。

エロ本の連想から「桂馬のもだえ」とか「香車のボッキ」なんて候補も上がりだす始末。

とうとう多数決による投票となり、その結果何と「桂馬のもだえ」が1位となってしまいました!

そんな誌名を出すほうも出すほうだが、選ぶほうも選ぶほうです。

危うく「桂馬のもだえ」で決まりかけたのですが、流石にそれではまずいだろうということで、ふざけた誌名を削除しての再投票で選ばれたのが、「雨の雁木坂」だったわけです。

雁木というのは将棋の駒組みや戦法に名前があります。
漫画「ハチワンダイバー」で真剣士の二こ神さんが得意にしている戦法でもありますね。

明治の駿河台校舎に実在するのが雁木坂。

よくとんねるずの「雨の西麻布」のパクリではないかと言われますが、1号が出たのはこのように私の1年のときですから、とんねるずの歌なんか陰も形もないわけです。

…とゆうわけで目出度く部誌の発行となったのですが、第一号が出て第二号が出るまでには相当期間のブランクがあったのです。

その顛末はまた別途描きます。
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