水野南北は宝暦七年(1757年)大阪に生まれる。幼名を熊太といった。
芝居の脚本を書いていた父が他界した後、孤児となった熊太は幼くして叔父の元に引き取られる。少年時より喧嘩口論で生傷が絶えず、10歳の頃から酒を飲み始めてすさんだ生活をしていた。18歳の時には酒代を稼ぐために犯罪を犯し入牢する。
半年に亙る牢内生活でしかし熊太はふとあることに気がついた。娑婆の人間と入牢してくる囚人との間には人相に際立った差異があることである。このことから観相に興味をもった彼は出獄後、巷の易者に自分の相を観てもらうことにした。
そうしたところ「一年の間に剣難で死ぬ相がある」と言われて驚愕する。避難の法は出家にありと教えられた熊太はとある禅寺を訪れて弟子入りを志願したが、住職は1年間麦と大豆だけの食事を続けてきたら入門させようと約束した。
以来熊太は酒を断ち、沖仲仕をしながら麦と大豆を常食にして暮らした。そうして一年が経つ頃先の易者に再び観相を依頼したところ、見事なまでに剣難の相は消えそれどころか立派な相になっていると驚かれた。彼が食事を改めた経緯を話すと易者は「それが陰徳となって人相まで変えたのだ」と言った。
熊太はここで自分の一生の方向を模索すべく諸国遍歴の旅へ出る。21歳のことである。
まず髪屋に奉公して3年間頭の相を観察し、次に湯屋の三助になって3年体の相を、またその後3年間火葬場の(おんぼう)となって骨相を研究する傍ら、古今東西の相法並びに神道、儒教、仏教の三道を深く研究した。
そうして観相家としては立派に一人前になった南北であったが、百発百中当たらざるなしと言われる境地に至るにはまだまだ道は遠く、ただ人相のみで判断すると金ができ出世し長生きをする相の人で貧乏して若死にをする人があり、また貧乏で若死にをする相の人が実際では金ができて出世をし長生きする人があることに疑問を持っていた。
そうして思い悩んだ末に伊勢神宮に詣でその神域で断食行、水行と修行しているうちに、「人間の運はその人の食生活の中にあり」と想い至る。伊勢外宮の祭神が豊受姫命(別名・御食津神、五穀や一切の食物を司る神)という因縁もあったかもしれない。
そうして遂に相学の大家となり名古屋の熱田神宮の近くに居を構えて観相家として一家をなした。晩年は皇室の贔屓を受け、光格天皇の時代に従五位出羽之介に叙せられ、「大日本」および「日本中祖」の号をおくられたという。 京、大阪はもとより江戸からもわざわざ観相を請う人が集まるほどであった。
南北の相法を下賎にして野人の如しと言う向きもあるが、まず当人の食事について質し、その後手や顔のみならず全身を裸にして観相をした。「先ずその食を相す」と言われる由縁である。
面白いことに南北自身の相貌は「背は低く顔貌はせせこましく、口は小さく、眼はけわしく落ち込み、印堂は狭く眉は薄い。鼻は低く、顎骨は高く歯は短かく小さい、また足も小さい」と自ら書いているようにかなりの貧相である。しかし「人の運は食にあり」の大悟によって我れ衆人のために食を節すと、一日に麦1合5勺、大好きだった酒も1合、米のものは餅すら食さず、副食は一汁一菜とその後生涯食を慎しみ続ける。
その観相は百発百中当たらざるなしと言われ、古今東西の相法の類を見ない権威者となった。門弟の数600余名。晩年は屋敷一丁四方、蔵7棟に及ぶ財をなしたという。
日本相法の中祖、水野南北は天保5年11月11日に没する。享年78歳と言われている。
芝居の脚本を書いていた父が他界した後、孤児となった熊太は幼くして叔父の元に引き取られる。少年時より喧嘩口論で生傷が絶えず、10歳の頃から酒を飲み始めてすさんだ生活をしていた。18歳の時には酒代を稼ぐために犯罪を犯し入牢する。
子供はその親のなすところによって悪相から善相に一変することがある。子に対して親は本であるから、その本が正しければ子もおのずから正しくなる道理である。
もっとも過去世の因縁を解いてやるのは親の務めであるが、親が解けないほどの因縁の場合、子が成長して自ら解く他にない。
半年に亙る牢内生活でしかし熊太はふとあることに気がついた。娑婆の人間と入牢してくる囚人との間には人相に際立った差異があることである。このことから観相に興味をもった彼は出獄後、巷の易者に自分の相を観てもらうことにした。
そうしたところ「一年の間に剣難で死ぬ相がある」と言われて驚愕する。避難の法は出家にありと教えられた熊太はとある禅寺を訪れて弟子入りを志願したが、住職は1年間麦と大豆だけの食事を続けてきたら入門させようと約束した。
以来熊太は酒を断ち、沖仲仕をしながら麦と大豆を常食にして暮らした。そうして一年が経つ頃先の易者に再び観相を依頼したところ、見事なまでに剣難の相は消えそれどころか立派な相になっていると驚かれた。彼が食事を改めた経緯を話すと易者は「それが陰徳となって人相まで変えたのだ」と言った。
熊太はここで自分の一生の方向を模索すべく諸国遍歴の旅へ出る。21歳のことである。
例え千日千夜祈ったとしてもそこに誠が無かったならば、決して神明には通じない。
もしまことをもって祈ろうと思うならば、自分の命を神に捧げよ。
飲食はわが命を養う本であり、飲食を捧げることは自分の命を捧げるのと同じである。
神は正直な人の頭に宿られる。
仏法は精神を治めることを本とするゆえに食を慎むのである。
なぜなら万事心が乱れることは、みな飲食を本として起こるからである。飲食を慎むときは心静かになり不動心を得る。不動心を得れば、その道を得ることはたやすい。
まず髪屋に奉公して3年間頭の相を観察し、次に湯屋の三助になって3年体の相を、またその後3年間火葬場の(おんぼう)となって骨相を研究する傍ら、古今東西の相法並びに神道、儒教、仏教の三道を深く研究した。
そうして観相家としては立派に一人前になった南北であったが、百発百中当たらざるなしと言われる境地に至るにはまだまだ道は遠く、ただ人相のみで判断すると金ができ出世し長生きをする相の人で貧乏して若死にをする人があり、また貧乏で若死にをする相の人が実際では金ができて出世をし長生きする人があることに疑問を持っていた。
そうして思い悩んだ末に伊勢神宮に詣でその神域で断食行、水行と修行しているうちに、「人間の運はその人の食生活の中にあり」と想い至る。伊勢外宮の祭神が豊受姫命(別名・御食津神、五穀や一切の食物を司る神)という因縁もあったかもしれない。
少食を守る者は人相が不吉でも運勢は吉で長命の傾向。大食する者は人相が吉でも運勢は凶になりがちである。
人品の良しあしは、飲食を慎み少食するかしないかで決まる。
道理とは自明の理であり常識でもある。「腹八分に病いなし」という古人が発見した道理を守っていればもとより病気などは受付けない。
そういう簡単明快でもっとも基本的な道理を無視して、ともすれば節度をこえた暴飲暴食に走ろうとするおのれの本能を制御できないからこそ、病いがはびこる。人間病いを得ればどのような強運の持主でも、その運命に陰りを生じる。
そうして遂に相学の大家となり名古屋の熱田神宮の近くに居を構えて観相家として一家をなした。晩年は皇室の贔屓を受け、光格天皇の時代に従五位出羽之介に叙せられ、「大日本」および「日本中祖」の号をおくられたという。 京、大阪はもとより江戸からもわざわざ観相を請う人が集まるほどであった。
南北の相法を下賎にして野人の如しと言う向きもあるが、まず当人の食事について質し、その後手や顔のみならず全身を裸にして観相をした。「先ずその食を相す」と言われる由縁である。
三度の食事が粗食で少量の者は、悪相・貧相であっても金持ちになり、子孫に財産や名誉をのこすであろう。いつもは粗食だが時々大食するものは大凶である。
いつも身のほどに不相応の美食をしている者は、たとえ人相は吉であっても運勢は凶である。その美食癖を改めなければ、家を没落させ出世も成功もおぼつかない。まして貧乏人の美食家は「働けど働けどわが暮らし楽にならず」で、一生苦労する。
食事量の多少によって、人間の貧富や寿命や未来の運命を予知することができる。
古人の言葉に「天に禄なき人は生じず、地に根なき草は生えず」という言葉があるが、その身ほどによって天より与えられた一定の食事量がある。みだりにむさぼり食う者は、天の戒律を破る者である。生命の存在するところに必ず食べ物があり、逆にいえば食べ物あるところに必ず生命が発生する。食べ物は生命の源であり、生命は食べ物に随うものである。そして人間の生涯の吉凶は、悉く食によって決まるといっても過言ではない。
面白いことに南北自身の相貌は「背は低く顔貌はせせこましく、口は小さく、眼はけわしく落ち込み、印堂は狭く眉は薄い。鼻は低く、顎骨は高く歯は短かく小さい、また足も小さい」と自ら書いているようにかなりの貧相である。しかし「人の運は食にあり」の大悟によって我れ衆人のために食を節すと、一日に麦1合5勺、大好きだった酒も1合、米のものは餅すら食さず、副食は一汁一菜とその後生涯食を慎しみ続ける。
その観相は百発百中当たらざるなしと言われ、古今東西の相法の類を見ない権威者となった。門弟の数600余名。晩年は屋敷一丁四方、蔵7棟に及ぶ財をなしたという。
日本相法の中祖、水野南北は天保5年11月11日に没する。享年78歳と言われている。
人間一生の吉凶は皆ただその人の飲食による。
恐るべきは飲食である。慎むべきは飲食である。
命のある間はどんな人にも運がある。
朝早くから起きて毎日の仕事に精を出し、その上飲食を慎んで怠らなければ自然に天理にかなって運はだんだん開けてくる。これを開運と言う。
飲食を慎んで折ると心も体も健康で気が自然に開けてくる。気が開けると運もそれにつれて開けてくる。決して誤りは無い。
先ず三年慎んでみなさい。
それでもし運が開けなかったならば、世界に神はおられない。
私はいつもこれを実行して、自然の良し悪しを自分で充分に納得してから皆の人相の判断をした。これが占いの大道である。
自分でこれをしなくて、どうして人の良し悪しを占うことができよう。人を占うことは要は自分の慎みだ。
相は誠をもって本とする。
私の相法皆伝の極意はこの他には何も無い。
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