日本人が米を食べなくなったと言われて久しいが、いったい昔はどれだけ食べられていて、そして今はどれだけになったのだろう。
このことを見るに、まず農林水産省が毎年公表する「食糧需給表」というものがある。次はそのデータに基づいた、1960年から2006年までの国民一人当たりの米消費量である。
これで見ると、日本人のコメ離れは一目瞭然と言える。戦後のピークであった1962年(昭和37年)の118.3kgから、40年余りで半分近くにまで落ち込んでいる。最新版データによれば2007年(平成19年)は61.4kgというから、ほぼ横這いの状態だ。この変化を一人一日当たりの食べる量に置き換えれば、324g(2.2合・茶碗5杯)⇒168g(1.1合・茶碗に2杯半)に減ったことになる。やはりちょうど半分だ。
では更に遡って、戦前はどうだったのだろうか。
「日本は太平洋戦争直前まで一人当たりの米消費量を200kg/年に維持することができた」(「人口と食料(環境・資源の制約)‐戦前の日本及び旧植民地を例にして‐」大浦裕一郎・川島博之(ともに東京大院農)より)との研究結果もあるのだが、具体的に考察する資料としては、1941年の有本邦太郎による「榮養探究」がある。その中に当時の標準体形を基準にした「肥る献立」と「痩せる献立」が記されているのだが、その「痩せる献立」(肥りすぎの人のためのものと思われる)では、一日のご飯の摂取量が900gとなっている。ご飯茶碗6杯分だ!
ちなみに「肥る献立」の方は胚芽米飯1200g(茶碗8杯分)となっているので、当時の日本人の標準的な量は、その間を取って1050g(茶碗7杯・年の米換算では167kg)に近いだろうと推測される。当時は内地で足りない分、台湾や朝鮮から米を移入できた時代だった。鎖国の世と比べ、国内の需要に合わせて食糧を調達しやすかった時代ともいえる。
もうひとつ、1923年(大正12年)の愛知県工場会による「工場飲食物献立表」を見てみよう。そこには一日に米が4合(600g・茶碗9杯強)食べられたことが記載されている。年換算では219kgだ。工場労働者を対象にした食事とはいえ、先の二つの資料とともに、戦前の日本人は戦後よりも遥かに米を食べていたことが伺える。(以上、「榮養探究」と愛知県工場会の資料については、島田彰夫著「無意識の不健康」と「伝統食の復権」の記載からそれぞれ引用した)
ここでわかりやすくまとめてみよう。時系列に並べた日本人の米の年間消費量は次のようになる。戦後だけで見ると往時の半分だが、昭和以降の80年間では3分の1になったということがわかる。
身体の栄養源としての米を見た場合、ここで摂取量とは別にもうひとつ見過ごしてはならない問題がある。それはなにかというと、それが「玄米」なのか「白米」なのかという点だ。
白米は餅とともに、昔からハレの日の特別食として用いられることはあった。また奈良・平安朝の貴族が、今日言う脚気らしき病気で苦しんだという記録も残ってはいるが、しかし白米は一般食とはほど遠く、あくまで極めて限定された集団においてのみ食べられたと考えられている。鎌倉時代には北条時政、義時が脚気を患ったとか、藤原定家の脚気罹病歴、後白河天皇や摂政九条教実の脚気死などが記録されている。
縄文の昔から「米」といえば通常「玄米」を指していた。文献上白米が一般庶民に浸透し始めたのは江戸時代になってからと言われている。支配層である武士階級に倣って、一部の富裕な商人が食べ始めたようである。最初はほんの一握りの富裕層の贅沢であり、もちろん圧倒的多数の庶民は白米どころか、米だけの食事にも事欠く世情だった。しかし時代がすすみ、社会が安定して庶民が次第に経済力を持つにつれて、食味のよい白米食は徐々に一般民衆へと普及していった。
江戸中期の元禄時代に、江戸に出稼ぎに来た地方の人が白米を食べていわゆる「江戸患い」(脚気)なる病気に罹ったという。当時の江戸は全国から人と物を集める一大都市であり、この頃ここを中心に一気に白米食が流行したらしい。そしてその病人が田舎に帰れば自然と治癒したという事柄からも、一般人の白米への憧れと同時に、全国的に見た場合にはまだ玄米食が主流であったことが伺える。
明治時代に入ると、庶民の一日の米消費量は一人5合と計算され、軍隊では一人一日6合が支給されたという記録が残っている。この支給された米が白米だったゆえに、帝国軍隊は当時としては原因不明の病に冒される者が続出し深刻な問題となった。言わずもがなビタミンB1不足による「脚気」である。原因が定かでないのだから効果的な治療法もわからず、死亡する者も少なくはなかった。殊に軍隊では貧困層が「白米飯」に憧れて徴兵されており、本来副食を買うはずの給金が、故郷への送金に代わっていたことも被害を大きくした一因だった。このことからも、当時いかに白米が限定された状況の食事であったかが推察される。
しかし日本が豊かになるにつれて次第に白米食は広がり、やがて大正から昭和の初め頃にかけて、広く一般庶民の日常の食卓にも登場するようになる。
かの宮澤賢治が1931年に書き残した「雨ニモマケズ」の詩には、有名な「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」という句がある。これは「玄米4合」が当時の粗食・小食の形のひとつの典型とも受け取れると同時に、未だ農村地域の小農民の間では、このような食生活がごく一般的だったことも表している。ちなみに前出の愛知県工場会の資料を見てもわかるとおり、当時の肉体労働者は少なくとも一日に米4合程度は食べていた反面、汁や漬物を除けば、現代と比べてその他の副食物の品数も量もほんの僅かなものだった。
これらのことから、一概に「米」といっても、割合の変動はあるにせよ昭和の初期までは社会の中にいまだ「玄米」を常食にする層が存在していたのであり、経済的にゆとりのある人たちが玄米を精米して「白米」にして食べていた。だからこの時代の「米の消費量」の中には、玄米と白米が混在していると見るのが正しいようである。
(つづく)
このことを見るに、まず農林水産省が毎年公表する「食糧需給表」というものがある。次はそのデータに基づいた、1960年から2006年までの国民一人当たりの米消費量である。
これで見ると、日本人のコメ離れは一目瞭然と言える。戦後のピークであった1962年(昭和37年)の118.3kgから、40年余りで半分近くにまで落ち込んでいる。最新版データによれば2007年(平成19年)は61.4kgというから、ほぼ横這いの状態だ。この変化を一人一日当たりの食べる量に置き換えれば、324g(2.2合・茶碗5杯)⇒168g(1.1合・茶碗に2杯半)に減ったことになる。やはりちょうど半分だ。
では更に遡って、戦前はどうだったのだろうか。
「日本は太平洋戦争直前まで一人当たりの米消費量を200kg/年に維持することができた」(「人口と食料(環境・資源の制約)‐戦前の日本及び旧植民地を例にして‐」大浦裕一郎・川島博之(ともに東京大院農)より)との研究結果もあるのだが、具体的に考察する資料としては、1941年の有本邦太郎による「榮養探究」がある。その中に当時の標準体形を基準にした「肥る献立」と「痩せる献立」が記されているのだが、その「痩せる献立」(肥りすぎの人のためのものと思われる)では、一日のご飯の摂取量が900gとなっている。ご飯茶碗6杯分だ!
ちなみに「肥る献立」の方は胚芽米飯1200g(茶碗8杯分)となっているので、当時の日本人の標準的な量は、その間を取って1050g(茶碗7杯・年の米換算では167kg)に近いだろうと推測される。当時は内地で足りない分、台湾や朝鮮から米を移入できた時代だった。鎖国の世と比べ、国内の需要に合わせて食糧を調達しやすかった時代ともいえる。
もうひとつ、1923年(大正12年)の愛知県工場会による「工場飲食物献立表」を見てみよう。そこには一日に米が4合(600g・茶碗9杯強)食べられたことが記載されている。年換算では219kgだ。工場労働者を対象にした食事とはいえ、先の二つの資料とともに、戦前の日本人は戦後よりも遥かに米を食べていたことが伺える。(以上、「榮養探究」と愛知県工場会の資料については、島田彰夫著「無意識の不健康」と「伝統食の復権」の記載からそれぞれ引用した)
ここでわかりやすくまとめてみよう。時系列に並べた日本人の米の年間消費量は次のようになる。戦後だけで見ると往時の半分だが、昭和以降の80年間では3分の1になったということがわかる。
1923年 工場労働者 219kg (一日4合=ご飯茶碗9杯強)
↓
1941年 一般人 167kg (一日3合=ご飯茶碗7杯)
↓
1960年 平均平均 118kg (一日2合=ご飯茶碗5杯)
↓
2007年 平均平均 61kg (一日1合=ご飯茶碗2杯半)
身体の栄養源としての米を見た場合、ここで摂取量とは別にもうひとつ見過ごしてはならない問題がある。それはなにかというと、それが「玄米」なのか「白米」なのかという点だ。
白米は餅とともに、昔からハレの日の特別食として用いられることはあった。また奈良・平安朝の貴族が、今日言う脚気らしき病気で苦しんだという記録も残ってはいるが、しかし白米は一般食とはほど遠く、あくまで極めて限定された集団においてのみ食べられたと考えられている。鎌倉時代には北条時政、義時が脚気を患ったとか、藤原定家の脚気罹病歴、後白河天皇や摂政九条教実の脚気死などが記録されている。
縄文の昔から「米」といえば通常「玄米」を指していた。文献上白米が一般庶民に浸透し始めたのは江戸時代になってからと言われている。支配層である武士階級に倣って、一部の富裕な商人が食べ始めたようである。最初はほんの一握りの富裕層の贅沢であり、もちろん圧倒的多数の庶民は白米どころか、米だけの食事にも事欠く世情だった。しかし時代がすすみ、社会が安定して庶民が次第に経済力を持つにつれて、食味のよい白米食は徐々に一般民衆へと普及していった。
江戸中期の元禄時代に、江戸に出稼ぎに来た地方の人が白米を食べていわゆる「江戸患い」(脚気)なる病気に罹ったという。当時の江戸は全国から人と物を集める一大都市であり、この頃ここを中心に一気に白米食が流行したらしい。そしてその病人が田舎に帰れば自然と治癒したという事柄からも、一般人の白米への憧れと同時に、全国的に見た場合にはまだ玄米食が主流であったことが伺える。
明治時代に入ると、庶民の一日の米消費量は一人5合と計算され、軍隊では一人一日6合が支給されたという記録が残っている。この支給された米が白米だったゆえに、帝国軍隊は当時としては原因不明の病に冒される者が続出し深刻な問題となった。言わずもがなビタミンB1不足による「脚気」である。原因が定かでないのだから効果的な治療法もわからず、死亡する者も少なくはなかった。殊に軍隊では貧困層が「白米飯」に憧れて徴兵されており、本来副食を買うはずの給金が、故郷への送金に代わっていたことも被害を大きくした一因だった。このことからも、当時いかに白米が限定された状況の食事であったかが推察される。
しかし日本が豊かになるにつれて次第に白米食は広がり、やがて大正から昭和の初め頃にかけて、広く一般庶民の日常の食卓にも登場するようになる。
かの宮澤賢治が1931年に書き残した「雨ニモマケズ」の詩には、有名な「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」という句がある。これは「玄米4合」が当時の粗食・小食の形のひとつの典型とも受け取れると同時に、未だ農村地域の小農民の間では、このような食生活がごく一般的だったことも表している。ちなみに前出の愛知県工場会の資料を見てもわかるとおり、当時の肉体労働者は少なくとも一日に米4合程度は食べていた反面、汁や漬物を除けば、現代と比べてその他の副食物の品数も量もほんの僅かなものだった。
これらのことから、一概に「米」といっても、割合の変動はあるにせよ昭和の初期までは社会の中にいまだ「玄米」を常食にする層が存在していたのであり、経済的にゆとりのある人たちが玄米を精米して「白米」にして食べていた。だからこの時代の「米の消費量」の中には、玄米と白米が混在していると見るのが正しいようである。
(つづく)
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