アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

20231212 レポート  島田清次郎初期作品について

2023年12月12日 | 島田清次郎と石川の作家
20231212 レポート  島田清次郎初期作品について

 今でも、『若芽』が島田清次郎の処女作と言われているが、この間の調査では、一九一三年(十四歳)から一九一五年(十六歳)にかけ五作品が執筆・発表されている。今日、すべてを読むことが出来るわけではないが、「島清の初期作品」を集めて、皆さんの検証に資したいと思う。未入手二作品の調査は今後も継続し、終わり次第冊子にしたいと考えている。

目 次                       
【1 入手済】「春雨の降る頃」(一九一三年七月)
【2 入手済】「わかき日」(一九一五年三月)
【3 未入手】「三人」(一九一四年)
【4 入手済】「若芽」(一九一四年十二月)
【5 入手済】「復讐」(一九一五年三月)
【6 未入手】「真紅の灯」(一九一五年四月)
【付7】『弱者』(一九一五年六月)
【付8】「島田清次郎の演説」(一九一二年)

解説                       

(1)「春雨の降る頃」(一九一三年七月)
 「春雨の降る頃」は十四歳の、明治学院に通っている時の作品で、『白金学報』第三号(明治学院)に掲載された。一九八三年に石川近代文学館で「悲劇の人 島田清次郎展」がおこなわれた時には、「春雨の降る頃」は展示品のなかに含まれていたが、二〇二三年に確認した時点で、「当館に所蔵がありません」という回答だった。
 Aさんから得た情報で、一九八八年五月九日付の『北国新聞』には、「島田は東京の明治学院在学中の十四歳のときに、『春雨の降る頃』と題した小品を書いているが、小林輝冶教授は同作品が美文調でつづられた紀行文的性格の強い作文である点を指摘」と書かれている。
 その後、Aさんからの追加情報で、「『春雨の降る頃』は美川の石川ルーツ交流館に展示してあった」との知らせを受け、さっそく訪問した。数日後、ルーツ交流館から連絡があり、「春雨の降る頃」が転載されている『羽鳥通信』第7号の当該部分を送っていただいた。
 『羽鳥通信』によれば、「春雨の降る頃」は、明治学院の三年生が江ノ島鎌倉へ旅したときの課題作文で、『白金学報』(三号、一九一三年七月)に掲載されている。『白金学報』は一年に一冊か二冊発行されていて、在校生の弁論部、野球部などの活動報告、教員・生徒の文章、同窓生の現況や論説などからなる数十頁の機関誌である。

(2)「わかき日」(一九一五年三月)
 「わかき日」は一九一五年三月に発行された『鈴蘭』(金沢市河原町 鈴蘭詩社)に掲載された。島田清二郎が十六歳のときである。四百字詰め原稿用紙で六枚半ほどの短編である。「春雨の降る頃」は修学旅行での感想文だが、「わかき日」は島清の出自とその境遇に苦悩し、葛藤が生じている様子が描かれている。石川近代文学館が所蔵している。

(3)「三人」(一九一四年)
 「三人」は島清十五歳のときの作品で、島田清波というペンネームで『金商校友会誌』(第一六号、一九一四年)に掲載されている。一九八八年に、小林輝冶さんが金沢商業高校で見つけたと、『北国新聞』が報道している。
 作品の内容は、この作品を読んだ小林さんによれば、「三人の男の顔がじっと動かずに一つのランプを見詰めて居た」との書き出しで、「もう少し規律的に」と説教する年配の男、その説教を身を固くして受ける男、二人のやりとりを傍観するもう一人の男の計三人の表情を、ランプの明かりだけが灯る薄暗い一室を舞台に、陰鬱なタッチで描いている。
 十一月二七日に、金沢商業高校を訪問し、「三人」の閲覧をお願いしたが、翌日、確認の電話があったものの、その後二週間も連絡がないので、十二月十一日に石川県教育委員会に情報公開請求をおこなったが、結果はもうしばらくかかるだろう。

 

(4)「若芽」(一九一四年十二月)
 「若芽」は島清十五歳のときの作品で、一九一四年十二月発行の『潮』第2巻第1号に発表された。「島清の処女作」と言われてきたが、それ以前に「春雨の降る頃」「三人」を発表しているので、「処女作」という評価は譲らねばならない。底本:『石川近代文学全集4』(石川近代文学館/一九九六年初版)

(5)「復讐」(一九一五年三月)
 「復讐」は島清十六歳のときの作品で、一九一五年三月十五日に発行された金商系同人雑誌『憂汐(うしお)』(第二巻第二号)に掲載されている。『憂汐』は百頁程の冊子であり、「復讐」は九〇~九三頁にかけて掲載されている。(石川近代文学館所蔵)


(6)「真紅の灯」(一九一五年四月)
 「真紅の灯」は一九一五年四月発行の青年向け総合雑誌『学生』(第六巻第四号、東京冨山房)に、島田清二郎の筆名で発表された。
 小林輝冶さんによれば(『北国新聞』(二〇〇三年十二月八日)、「作品は自殺を試み線路を前にした主人公に『巨人の瞳の様な、幽界の不滅の焔の閃光のような真紅の灯』がごう音、死の誘惑とともに迫る。が、『生に対する不可抗の執着』から主人公は間一髪で身をかわし、『俺は弱い!』と熱い涙を流す、という内容。早く読みたいものである。

(付7)『弱者』(一九一五年六月)
 一九一五年三月に発行された『憂汐』(第二巻第二号)に、『弱者』の広告欄に、「処女作小説『弱者』島田清二郎著六月上旬発売 わが無名の士島田清二郎氏の芸術を弘く紹介するためこの著を発行す。石川全装釘定価三五銭四六判一五〇頁。お望みのお方は左の同氏私宅にお申込下さい。金沢市上小柳町1 西野方。発行所金沢市松ヶ枝町潮社」と、掲載されているが、一九七七年四月二四日付『北国新聞』で、安宅夏夫さんは「この本は実際には刊行されなかった」と書いている。


(付8)「島田清次郎の演説」(一九一二年)
 『羽鳥通信』八号(一九九九年十一月)に、『白金学報』第二七号の「文学界演説課」の記事が転載されている。そこには、一九一二年五月三日に明治学院でおこなわれた演説会で、島田清次郎が「飛行器」(五月三日)、「進取と保守」(六月二一日)という演題で演説している様子が報告されている。
 執筆作品ではないが、十三歳当時の島清の思考性を見る上で参考になりそうなので、記事を転載する。
 「飛行器」(一九一二年五月三日)
   島田君の飛行器といふのは現時少年の飛行器熱心を其儘表はしたもので、聞くからに胸が清々する様に覚えた。而し「二に三を加へて五だとか、六から四引いて二だとかいふつまらぬ算術なぞは止して一生懸命模型を作ったがいゝ」とは小供過ぎる、飛行器は数字がなければ作れぬ。
 「進取と保守」(一九一二年六月二一日)
   島田君のは申し分ないが、早熟ではないかとの懸念がある。将来余程の注意を要する。進取と保守の関係が(を)面白く説明した点、言葉の使い方、態度等どうしても一等に位する。

後序
 島田清次郎の初期作品を調べてきたが、なかなか順調にはいかなかった。「三人」、「真紅の灯」は小林輝冶さんが探し出して、閲読して、『北国新聞』に感想を述べているが、肝心の作品そのものは行方知れずで、今日(十二月十二日現在)では見ることが出来ない。
 小林さんはこれらの作品を後世の研究者やファンのために確実に遺すという作業を失念していたようだ。それは杉森久英にも共通している。島清の「日記」(一九二一年)を『天才と狂人の間』のために使いながら、その「日記」は未だに行方不明になっている。

 島清の素朴な自己検証の初期作品(一九一三~一五年)から、爛熟期の作品『地上』(一九一九年)や『早春』(一九二〇年)を書き上げるまでに、成長していく過程には、さまざまな社会的事件があり、革新的な書籍との接点があった。
 社会的事件としては、一九一四年(十五歳)には第一次世界大戦がはじまり、日本はアジアの植民地確保のために参戦した。一九一七(十八歳)年にはロシア革命があり、一九一八年(十九歳)には米騒動が富山県から始まり、石川県はもちろん全国に波及した。一九一九年(二〇歳)には朝鮮では「3・1独立運動」が起こり、一九二〇年(二一歳)には上野公園で第一回メーデー(金沢では一九二一年)がたたかわれている。島清の青春はこれらの社会的激動のなかを成人に向かっていたのである。

 その間島清が読み、血となり肉となった書籍を列挙すると、宗教書ではマホメット、孔子、『歎異抄』(親鸞)、クリスト、日蓮、釈迦、易経、詩経。哲学系ではニーチェ、『白痴』(ドフトエフスキー)、ソクラテス、『戦争と平和』『我が宗教』(トルストイ)、エマーソン(思想家、哲学者)、エドワード・カーペンタア(社会主義思想家)、エレン・ケイ(社会思想家)、『衣服哲学』(カーライル)、『唯一者とその所有』(シュティルナー)、メレジュコフスキー(思想家)。経済学では『近世経済思想史論』(河上肇)、『国家論』(平松市蔵)、『理想国』(プラトン)、『経済学考証』(福田徳三)、『経済哲学の諸問題』(左右田喜一郎)、マキシム・ゴルキイ、資本主義批判では『相互扶助論』(クロポトキン)、『ギルド社会主義の理論と政策』(コール)、『資本論』(マルクス・エンゲルス)、『社会主義批判論』(エリスバーカー)にも目を通している。

 島清はこれらの社会的事件と最も先進的な書籍を通して、資本主義社会の現実を見抜き、宗教への期待から宗教批判に転じ、自らが巻き込まれている資本主義の不条理に気づき、堺利彦が呼びかける社会主義同盟に参加(一九二〇年)し、『地上』や『早春』へとたどり着いたのである。
 詳しくは、『島田清次郎 その実像』(二〇一九年)に収録した論考「島田清次郎青年期の思想的核心」を読んでいただければ幸いである。
 二〇二三年十二月十二日

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 20231205 第7次小松基地爆音... | トップ | 20231218志賀原発訴訟傍聴報告 »
最新の画像もっと見る

島田清次郎と石川の作家」カテゴリの最新記事