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53年前の「おどかし屋」――特定秘密保護法案騒動と60年安保騒動

2013-12-30 09:41:36 | その他の本・雑誌の感想
 ドイツ文学者の西義之(1922-2008)は、昭和後期にいわゆる進歩派を批判した評論家として知られる。津田左右吉批判や文化大革命を扱った『変節の知識人たち』(PHP研究所、1979)については以前取り上げたことがある。

 その西義之の文集『戦後の知識人 自殺・転向・戦争犯罪』(番町書房、1967)を読んでいたところ、末尾に収録された「�安保�とある知識人の死――上田勤教授のこと、そのほか――」の内容の一部が大変興味深かったので、紹介したい。

 この文は、本書には明記されていないが調べたところ、雑誌『自由』の1965年3月号に掲載されたものである。
 1960年の安保騒動を支持した知識人の言説を振り返り、英文学者上田勤(1906-1961)が騒動のさなかである60年6月末に発表した「もっと理性を、もっと辛抱強さを――市井の一凡人の意見」という文の内容とを対比したものである。
 西が金沢の四高生時代に上田が教師であり、後に西が四高に勤めた一時期同僚でもあったのだという。

 私が興味深く思ったのは、ここで西が挙げている、安保騒動を支持した知識人の言説が、先般問題となった特定秘密保護法案への反対論とあまりにも似通っている点だ。
 以下引用する(〔〕は引用者註、太字は原文では傍点、青字は引用者による強調)。 

 つまりここで双方〔安保騒動参加者とそれへの批判者〕のあいだにコミュニケーションがまったく断たれているということに、私はなんども注意をひかれるのである。というのは当時改定反対に積極的に活動した丸山真男氏のつぎのような見解を思いだすからである。
 丸山氏はその後福田〔恆存〕氏から批判をうけたが、それにたいして反論はしていない。しかし『現代政治の思想と行動、増補版』の追記には、収録してある「現代における態度決定」と「現代における人間と政治」の「二論稿が実質的な答えになっていると思う」と書いてある。わたしの関心をひくのは後者のほうであるが、丸山氏がこれをどの程度当時の状況のアナロギーとして書いているのか不明なので、わたしがこれを丸山氏の「私小説的告白」として読むのは、あるいは深読みにすぎるかもしれないが、すこしく紹介してみよう。
 丸山氏はここでいわゆる「忍び足〔「クリーピング」とのルビ〕で迫るファシズム」について語っているのだが、ニーメラーらを引用しつつ例にあげられているのはドイツ・ナチズムである。氏は「外側の住人」(異端)と「内側の住人」とのあいだのイメージの鋭い分裂、両者の言語不通の問題を論じながら「要するにナチ・ドイツには、このように真二つに分裂した二つの『真実』のイメージがあった。だから一方の『真実』から見れば、人間や事物のたたずまいは昨日も今日もそれなりの調和を保っているから、自分たちの社会について内外の『原理』的批判者の語ることは、いたずらに事を好む『おどかし屋』〔「アラーミスト」とのルビ。以下多用されるこの語には全て「アラーミスト」のルビがある〕か、悪意ある誇大な虚構としか映じないし、他方の『真実』から見るならば、なぜこのような荒涼とした世界に平気で住んでいられるのかと、その道徳的不感症をいぶからずにはいられない。もしもこの二つの『真実』がイメージのなかで交わる機会をもったならば、ニーメラーのにがい経験をまたずとも、『端初に抵抗』することは――すくなくとも間に合ううちに行動を起すことはもっと多くの人々にとって可能であり、より容易であったろう」と書いている。
 しかし、道徳的不感症をいぶからずにはいられない、とはなかなかにてきびしい。というのは、池田内閣が総選挙を発表したとき、郷里へ帰って戦おうという中国革命まがいの「上山帰郷」が叫ばれたが、夏は軽井沢住いの進歩派の口からそれがでると、農村の子弟であるわたしなどには、そちらのほうの不感症をいぶからずにはいられないからだ。いずれにせよ氏は、安保のときの自分の行動は、「端初に抵抗」したものだと言っているようにきこえる。すなわち氏自身の認識では、あの当時の情勢は「忍び寄るファシズム」であり、それを警告することは決して内側の住人(体制内の)にそう思われているような「おどかし屋」の行動ではなく、かえって内側の人間にこそ道徳的不感症が見られるのではないか――というかのようである。

 おどかし屋

 私は丸山氏を別に「おどかし屋」だとは思いたくないが、当時の新聞をしらべてみると、「安保改定が戦争につながる」という「おどかし屋」的論理が横行していたことはたしかである。たとえば上田さんの小論の載った同じ『自由』には、総評事務局長岩井章氏が編集部の質問に答えて「新安保条約が通ったら、一切がっさい日本はだめになるというような意見が一部にあるし、そう思いこんでいる人も多いし、その責任はやはり社会党、総評にも一半はあると思います。安保闘争が非常に重要だということで。労働者なり国民の注意を喚起していくために、そういう非常に割り切った、明快な教宣の理論を立てたということもあるんですね」とはっきり語っている。
 これは記憶しておいていい発言である。なぜなら最近、そんなことはきいたことがないという健忘症的な言葉を吐く人がいるからである。
 また丸山氏の属する「民主主義を守る全国学者・研究者の会」が六月二日教育会館でひらかれているが、そこで辻清明教授は大略(『朝日新聞』の大意による)つぎのように述べている。
「……私は、ヘタをすると安保改定によって日本は対外的に要塞国家に、国内的には警察国家になるおそれがあると述べた。その後の事態をみると、わたしの心配はとりこし苦労ではなかった。
 現在の非常事態を、政府は社会党議員のすわりこみによって生じたものとしている。なるほど社会党のとった方法は通常の議事妨害の域を超えているが、政府はこの小悪を利して議会政治を無視するという大悪をおかした。これはかつてのヒットラーや関東軍のやり方に似ている。ちがうところはヒットラーや関東軍の相手が他の国であったのに、岸政府の場合はその相手が国民であったということである(拍手)……」
 ここでもヒットラーがでてきて、ドイツ・ナチズムとのアナロギーが暗示されている。これも相当の「おどかし屋」的発言ではないだろうか。美濃部亮吉教授の文京公会堂における発言にもヒットラーがでてくる。
「……民主主義は油断している間に一夜でくずれ去る。私はそれをこの目で見てきた。それは一九三三年、ヒットラーが政権をとったときのことだ。当時のドイツはあの民主主義的なワイマール憲法をもち、社会民主党が第一党だった。常識ではファシズムが権力を握るとは考えられなかった。……今の日本はあのころのドイツよりもいっそう危険な状態にある。この危機に立つ民主主義をまもるのは、民衆の結集した力しかない(拍手)……」
 この発言にも「おどかし屋」の匂いがするといえば、わたしはやはり無知を笑われることになるのだろうか。とにかくヒットラーをもち出すのは、近頃では最高のおどかしだと思われるがどうであろうか。わたしのようなのんきな男でもぎょっとしてしまうからだ。ほんとうに、「安保」の時点では「あのころのヒットラー出現直前のドイツよりもいっそう危険な状態に」あったのだろうか。ほんとうに「民衆の力しか」あの事態を救いえなかったのだろうか。ほんとうに?
 こまるのは、あとからこういう事実認識の当否を検証することがほとんど不可能だということである。この事実認識が正しいとしたら、安保反対運動に批判的であった人々こそ、逆にまさに事実の重大さに何一つ気づいていなかった、のんきな、体制の内側にあったころのニーメラーであり、道徳的不感症の人間だということになる。はたしてそうか。はたして反対運動の側のほうが「外」にあると自負できるのであるか。「端初に抵抗」というが、いったい「何の端初」であったのか。やはりヒットラー出現の? ファシズムの? あまりおどかさないでもらいたい。
 私に疑問なのは、反体制側、「外側」にあるものがつねに事態の危機を見抜いているという自負であり、内側のものに対しては、マルクス主義者の口癖の「ただあなたがたが知らないか、自覚しないだけだ」という論理を適用する安易さなのである。しかし丸山氏がマルキストを批判したらしい言葉が、そのまま両刃の剣として、「外側」にあると思っている丸山氏自身を斬るものでないのかどうかとわたしは考えるものである。
「現実の生活では現在の組織や制度が与える機会を結構享受していながら、自らはそれを意識せず、�外�にいるつもりで�疎外�のマゾヒズムをふりまわす人々を見ると、どうしても電車のなかで大の字になって泣きわめいて親を困らせている子供を連想したくなる」
 やはり、これはご自分のことではないのかと、わたしは一瞬奇妙な錯覚におちいりかける。氏はまた同じ「追記」のなかで、安保改定反対運動のなかに革命を夢想した人々、運動は敗北であったと認識した清水幾太郎氏ら、そして運動に批判的だったいわゆる良識派の人々を十把ひとからげにして、「最小限の政治的リアリズムを具えていたら、あの時点においてどう転んでも『成功』するはずがないことが明瞭なはずの『革命』の幻想をえがいたり、『ヘゲモニー』への異常な関心が満たされなかったりしたことからの挫折感をあの闘争全体の客観的意義にまで投影して『敗北』をおうむのようにくりかえし、それが良識を看板にしている評論家――高揚する運動にとり残された内心の焦燥感を冷笑にまぎらわしていた人々――の見解と『一致』するというような奇異な光景がいたるところに見られた」と自信にみちた口調で言いきっている。
 わたしたちは一方の側の「報道」や「通信」が遮断されている全体主義国家に住んでいるわけではなく、豊富すぎるくらいの「通信」にとりまかれ、そこから事実を認識し、行動を「決断」する。にもかかわらずこのように両者のあいだのイメージは鋭く分裂し、言語不通の問題がおこるのである。丸山氏がもし自分への批判者をたんに「高揚する運動にとり残された内心の焦燥感を冷笑にまぎらわしていた人々」という程度にしか認識していないとしたら、逆に、安保改定運動自体に対する進歩派の人々の事実認識すらもひどくうたがわしいものになるようにわたしは思う。すくなくともヒットラーの名を利用しただけでも。(p.233-239)


 特定秘密保護法案に対しても、やれ現代版治安維持法だ、大日本帝国の再来だと、荒唐無稽な反対論が見られた。 わが国におけるこの種の層は、半世紀前から進歩していないらしい。

 いや、
「「外側」にあるものがつねに事態の危機を見抜いているという自負」
をもち、
「内側のものに対しては」「「ただあなたがたが知らないか、自覚しないだけだ」という論理を適用する」
のは、何も彼らの専売特許ではない。
 いわゆるネット右翼における、在日特権だの、政治家の誰それが帰化人だの、外国人に日本がのっとられるだのといった陰謀論などにも、全く同様の傾向が見られる。
 左右を問わず、運動家とはそうしたものなのだろう。
 西が引用している岩井章が述べているように、「国民の注意を喚起していくために」は「非常に割り切った、明快な教宣の理論」が必要だとされているのだろう。
 国民を、程度の低いデマに踊らされる愚民としか見ていないのだろう。

 さて、西は続いて上田の文を紹介する。上田は安保騒動の無意味さ、愚かしさに絶望したと西は見る。そして上田の言いたかったことは次の箇所に要約されるだろうと引用する。

「自民党も社会党もおしなべて、これはと思う人物がおらず、どれも団栗の背くらべで、こういう政治家しかもたない日本の国民は、つくづく不幸だと思う。まったくやりきれないことだ。しかしいかに不幸でも、やりきれなくても、これが日本の現実だとすれば、そこから出発するよりしかたがない。いかに地団太ふんで口惜しがっても、人間は、国民は、国家は、ドンデンがえしに立派になるものではない。革命を考える人もあるだろうが、敗戦とかなんとかいう非常事態でもないかぎり、革命の起り得る条件は、いまの日本では皆無に近いし、たとえ革命を起してみても、人間が、国民が、国家がドンデンがえしに立派になるものでもない。いたずらに犠牲ばかり大きいだけだ。となると、残された道はただひとつ、辛抱強く、気長に時間をかけて民主主義の育成をはかることだ。……つまり感情に流されないで、どこまでも冷静に、理性的に、すなおに現実をみつめること、焦らず騒がず、じみな努力を根気よく続ける辛抱強い、粘液質な性格と、この二つが、全般的に見て、日本人の性格にいちばん欠けているのではないか、ということだ……」(p.242-243)


 西は、これは丸山の言うような「高揚する運動にとり残された内心の焦燥感を冷笑にまぎらわしていた人」のものではないとし、こうした常識論が声高な論調にかき消されてしまうことが日本の不幸だと述べている。
 そして、上田が学生に対して、防衛大学や自衛隊の者と胸襟を開いて話し合ってみてはどうかと説いたことを挙げ、

 このような意見はいまでこそなんの変てつもないようにきこえるが、昭和三十五年六月末という時点ではかなり勇気のいる発言ではなかったかと思われる。上田さんがくりかえし力説したのは、与野党にすくなくも「外交」の面では話しあい〔「コミュニケーション」とのルビ〕ができないかと言うことであり、自衛隊や防衛について語ることを知識人のあいだでタブーとする気分、「言語不通」の問題をどうにかしてのぞくことができないかということである。最近、安保のときの諸問題はすでに決着がついたと言う人もあるが、この国の知識人社会にまだこの種のタブー、言語不通が根づよくのこっていることを感ずるわたしには「決着」どころの気分になれないことを言っておかなくてはならない。
 とくに上田さんの突然の死を思うとき、この国の知識人社会の「イメージの鋭い分裂と言語不通の問題」はほとんど絶望的な気分にさせるのである。その日上田さんは、ある席上で友人の英文学者を右翼だと攻撃する進歩的な人と論戦し、ひどく興奮して帰宅されたという。そしてたまたま訪れた客と一献かたむけているとき、卒然として逝ったのである。(p.245)


とこの文を結んでいる。

 「言語不通」の問題が存在するのは現在でも変わらないだろうが、その範囲は当時よりは狭まっているように思う。
 特定秘密保護法案に対して60年安保のような大衆行動は生じなかったし、また欧州のように外国人排斥を唱える極右勢力が議会へ進出することも今のところはない。
 国民は、このころよりは多少なりとも賢明になったと考えていいのだろうか。

 「辛抱強く、気長に時間をかけて」か。
 だが、冷戦の中である意味安定していた1960年代ならいざ知らず、現代にそんな余裕はあるのだろうか。

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朝日新聞の特定秘密保護法案への反対報道に思う」 



1993年の総選挙で「野党全体では躍進」していないし「自民党を過半数割れに追い込」んでもいない

2013-12-25 00:10:33 | 日本近現代史
 朝日新聞朝刊の経済面に毎週月曜「証言その時」が連載されている。過去に活躍した経済人などのインタビューを何回かに分けて掲載するもので、最近は「小異を捨てて」と題して山岸章・連合元会長(任1989-1995)の回顧が取り上げられている。
 12月16日に掲載された「小異を捨てて」の第4回「悪魔とも手を組もう」に、自民党が初めて下野した1993年の総選挙について次のような記述があるのを見て、あれれと思った。

 総選挙は私の誕生日の7月18日と決まりました。7月初め、労組代表者と社会、公明、民社など各党首らを集めます。政策のすりあわせをしていなかった日本新党の細川氏や新党さきがけの武村正義代表も呼びました。

 「自民党政権を打倒するため、新しい仲間も支持して戦おう」と呼びかけ、各党首らが決意表明をしました。盛り上がったまま、選挙戦に突入したのです。

55年体制が崩壊

 選挙の結果、社会党は議席数半減の大敗だったが、野党全体では躍進した。自民党を過半数割れに追い込み、自民一党支配の「55年体制」が崩壊した。


 太字部分は原文ではゴシック体。山岸の証言ではなく記者による説明文だ。記事には「聞き手・豊岡亮」とあるのでこの記者によるものか。

 こうして歴史は誤って伝えられていくのかなあ。

 自民党を離党した小沢、羽田らが新生党を、同じく武村らがさきがけを結党したことにより、自民党は選挙前に既に過半数を割っていた。選挙の結果過半数割れに「追い込」まれたのではない。
 そして、「野党全体では躍進」してもいない。選挙後の各党の議席と公示前からの増減は次のとおりだ。


自民党    223   +1

野党・無所属    288   -2
 社会党    70   -66
 新生党    55   +19
 公明党   51   +6
 日本新党    35   +35
 民社党   15   +1
 新党さきがけ   13   +3
 社会民主連合    4   ±0
 共産党     15   -1
 無所属   30   +1


 自民党は1議席増やしている。記事にもあるように社会党がほぼ半減し、共産党も1議席減らした。
 自民党が+1、野党・無所属が-2で全体の増減が-1となるのは、人口の変動により衆議院の定数が512から511に改められたからだ。

 要するに、新生党とさきがけの離脱による自民党の過半数割れが維持され、新勢力である日本新党が躍進し、新生、公明、さきがけも議席を増やす一方、社会党がひとり負けした選挙だったと総括できる。

 また、日本新党とさきがけは 選挙中は必ずしも反自民を鮮明にしておらず、自民党との連立の余地を残していた(宮沢内閣不信任案に賛成した後自民党を離党した新生党は、反自民を鮮明にしていた)。この箇所の後で山岸も述べているように、選挙後の小沢らの多数派工作により初めて連合政権への参加を表明したのだ。
 したがって、国民は必ずしも自民党政権の継続を拒否したとは言えない。劇的に議席が変動して政権が交代した前回や前々回の総選挙とは異なるものだった。
 そんなことは、日本政治史における常識として、頭に置いておきたいものだ。


高山正之への疑問(6) マハティールとEAECについて(下)

2013-12-23 20:48:58 | 珍妙な人々
(前回の記事はこちら

 さて、ではマハティールが提唱したEAECと、鳩山政権が提唱した東アジア共同体とは、高山が言うように、全く性格を異にするものだったのだろうか。

 現在は閉鎖されているようだが、以前読んだ在マレーシア日本人向けのニュースサイト「日馬プレス」の「マハティール十番勝負 ジェームズ・ベーカーとの勝負」という記事には、次のような記述があった。

 1997年12月には、EAECの予定メンバー、ASEANと日中韓によるASEAN+3首脳会議がクアラルンプールで開催された。実は、このときも日本は消極的姿勢を示していた。しかし、ASEAN側が日本が不参加ならば、中国、韓国だけと会談を開催するとの立場をとったために、参加に踏み切ったとされている。産経新聞社の内畠嗣雅記者は、翌日次のように報じている。

 「マハティール首相が地域の発言力強化のために提唱した東アジア経済会議(EAEC)構想が形の上で実現した格好になった」

 マハティールは、アメリカの執拗な妨害工作を克服して、実質的にEAEC実現にこぎつけたのである。ベーカー時代の東アジア・グループに対する反対論は後退し、現ブッシュ政権はASEAN+3の発展を容認している。

 一貫してEAECを支持してきた中国は、ASEANとの経済関係強化を進めてきた。当初EAECに消極的だった韓国も、ASEAN+3に積極的に関与するようになってきた。金大中大統領は「東アジア・ビジョン・グループ」(EAVG)や「東アジア・スタディ・グループ」(EASG)設置の主導権をとり、盧武鉉が大統領に就いた後の2003年12月には、EASGの提言に基づいて「東アジアフォーラム」が発足している。


 EAECはASEAN+3として実現したわけだ。
 そして、そのASEAN+3を核として、さらに発展させたものが東アジア共同体構想である。
 外務省のホームページに掲載されている、2010年のASEAN+3首脳会議の議長声明の骨子には、次のようにある。

1.ASEAN+3プロセスがASEANとともに、東アジア共同体構築という長期的な目標に向けた主要な手段としての役割を果たし、地域における持続可能な成長に貢献していることを再確認した。また、既存の地域メカニズム及び発展している地域アーキテクチャにおいて、ASEANが中心的役割を担うことへの強い支持を再確認した。


 共同通信が2009年10月に行ったマハティールへのインタビューによると、マハティールは、EAECと東アジア共同体構想は「基本的に同じだ」とし、鳩山首相がアジア重視や対等な日米関係を掲げていることを「支持する」と述べている。

日本の米支配脱却に期待 「東アジア共同体」支持 マハティール氏(マレーシア元首相)
 
 マレーシアのマハティール元首相(83)は7日、クアラルンプール近郊で共同通信のインタビューに応じ、東アジア共同体構想を掲げる鳩山由紀夫首相の下で日本外交が「米国の支配」を脱し、東南アジア諸国連合(ASEAN)と日本、中国、韓国による「東アジア経済共同体」の実現に指導力を発揮するよう期待を表明した。

 政治、経済など幅広い分野で連携し、東アジアの共存と繁栄を目指す同構想は、マハティール氏が1990年代初めに提唱した「東アジア経済会議(EAEC)」が原型。同氏は鳩山首相がアジア重視や対等な日米関係を掲げていることを「支持する」と言明し、「われわれは日本が米国に支配されているとの印象を持っていた」と述べた。

 東アジア共同体の枠組みについて、日本の前政権などは中国の影響力を薄めるため、ASEANプラス3(日中韓)にインド、オーストラリア、ニュージーランドを含めるよう主張。これに対し同氏は「オーストラリアとニュージーランドは除外するべきだ。欧州人の国で政策も欧州諸国と同じ。心はアジアにない。含めれば、米国主導のアジア太平洋経済協力会議(APEC)と同じになる」と強調した。

 その上で同氏は「中国は大国で豊な経済を実現しており、共同体で大きな役割を果たせる。好き嫌いにかかわらず、われわれは中国とともに生きていくしかない」と指摘。インドは「跡〔原文ママ〕に加えられる」と語った。

 また、EAECと現在おこなわれている「ASEANプラス3」会議、東アジア共同体構想は「基本的に同じだ」と説明。鳩山首相の姿勢が鮮明になった以上、米国の圧力を受けて考案された「プラス3」の名称をやめ、「東アジア経済共同体」の公式会議として定期開催すべきだと主張した。

<現役時から一貫主張>
  歯に衣着せぬ欧米批判で知られてきたマレーシアのマハティール元首相は、現役当時から一貫してアジアの復権と東アジア共同体の樹立を主張してきた。

 首相在任中の1990年代初め、東南アジア諸国連合(ASEAN)と日本、中国、韓国による単一市場を目指す東アジア経済会議(EAEC)を唱えた。欧州連合(EU)や北米自由貿易協定(NAFTA)による地域経済統合が加速する中、「アジア諸国がまとまらなければ、欧米の圧力に抵抗できない」との思いからだった。

 日本と韓国を手本とするルックイースト政策で知られるマハティール氏。「現段階なら中国も手本となる」と、中国の成長に注目する。「欧州は(マレー半島の)マラッカに到達し、2年後には征服した。一方、中国はわれわれと千年間貿易をしてきたが、征服しなかった。EAECも唯一支持した」と評価した。

 東アジア共同体構想を打ち出し、政権交代を果たした鳩山由紀夫首相には期待感とともに賛辞も送った。また同共同体に向けた協力のため、日中韓は「先の戦争の過去を忘れるべきだ」と断言した。

【クアラルンプール共同】2009・10/7


 マハティールはここで中国について「千年間貿易をしてきたが、征服しなかった」と述べているが、萩原宜之『ラーマンとマハティール』(岩波書店、1996)によると、EAEC構想のころにも、米国が中国の脅威を理由にアジアにおける自国の軍事的プレゼンスの必要性を唱えていたのに対し、中国の軍事的脅威はないと何度も述べていたという。

 今年1月には朝日新聞がマハティールへのインタビューを掲載したが、彼はここでも中国脅威論を否定している。

(インタビュー)ルックイーストはいま マハティール・ビン・モハマドさん

 マレーシアの首相を22年間務めたマハティール氏は1982年に「日本を見習え」と、ルックイースト(東方)政策を唱えた。それから30年余り。「いまや日本の過ちから教訓を得るときだ」「韓国により多く学ぶ点がある」と苦言を呈する。アジアを代表する知日のリーダーは、停滞が続く日本にいらだちを隠さない。

〔中略〕

 ――中国はいまやルックイーストの対象であり、脅威ではないと発言されています。日本や他の近隣国の指導者とは見方が違うようです。

 「過去2千年、中国がマレーシアを侵略したことはない。ベトナムに拡張を試みたが、あきらめた。日本に攻め込もうとしたのは、モンゴル高原に発する『元』だ。われわれを植民地にした西欧に比べれば中国が過去、好戦的だったとは言えない。市場経済の時代に、中国が日本をはじめ、周辺国を侵略する意図を持つとは思えない」

 ――中国は東シナ海や南シナ海で領有権を強く主張しています。

 「中国は豊かになり、さらなる富を得るため海に手を伸ばしている。中国が国内総生産の1%を軍備にあてるだけで巨額だ。かといって中国が戦争を欲しているわけではない。交渉によって解決するほかない」

 ――対話を通じて解決をめざす意図が中国にあるのでしょうか。

 「日本に米軍基地があれば、中国はそれを脅威に感じる。日本から米軍の兵器が発射されたら、と軍備を増強する。相手の立場から状況を考えてみることも時には必要だ」

 ――日本では自民党が選挙中、自衛隊の国防軍化や尖閣諸島への公務員常駐などの政策を掲げました。

 「実行すれば、中国はこれまで以上に軍備を増強し、対抗しようとするだろう。お互いの挑発がエスカレートし、ついには戦闘に至るかもしれない。賢明ではない」

 「マレーシアは隣国すべてと争いを抱えているが、タイとは協定を結び、インドネシア、シンガポールとは国際司法裁判所で決着。負けても受け入れた。フィリピン、ブルネイとも交渉し、現状を維持している」

 ――日本は経済的に自信を喪失し、その反動として右傾化が進んでいるとの指摘があります。

 「危険なことだ。日本が自信を取り戻すのは軍事ではなく、経済力を回復させるしかない」

〔中略〕

 ――米国のいいなりになる日本政府に何度も不満を表明しました。米国の意向をくんで、あなたが唱えた東アジア経済会議(EAEC)構想に反対した時やイラク戦争を支持した時です。そんな日本に学べと号令をかけたことを後悔はしませんか。

 「われわれが見習ったのは、高い職業倫理で戦後の復興を果たした日本だ。米国の影響下にある日本ではない。米国はEAECに中国を含めたから反対した。環太平洋経済連携協定(TPP)でも中国を除外しようとする。われわれは東洋の人間だ。敵をつくるのでなく、自分たちの問題は自分たちで解決すべきだ」

〔中略〕

 <取材を終えて>

 「日本を見習え」「日本は戦争について繰り返し謝る必要はない」。そんな発言をしてきたマハティール氏だが、米国を頼りに隣国に強硬姿勢で臨もうとする安倍政権の対外政策には批判的だ。「戦後復興を果たした勤勉さや倫理こそが愛国心」。退任後、日本風パン屋を日本人と共同経営する親日家の叱咤(しった)であり激励だ。

 (機動特派員・柴田直治)


 高山の言う「ゴキブリのように侵入してくる支那の圧力をブロックして」とは、全くのデタラメだとしか言いようがない。

 高山は、最後に朝日新聞を次のように批判して、この文を締めくくっている。

 朝日新聞も馬鹿に協力した。安倍政権潰しに似た執念でマハティールを叩き、早大教授の天児慧らを使って「アジアは支那を待っている」風な記事を流す。「先日、アジア諸国を代表する記者と話した。東南アジア諸国を苦しめた日本はアジアに発言権はないと言った」とか。
 そんな嘘を言う記者はどこの社かと見たら、〔中略〕みな華僑系の新聞ばかりだった。
 朝日新聞はまた東アジア共同体構想にシンガポールのリー・クワンユーが反対したことも触れない。彼が反対するのは当たり前だ。支那が共同体構想で域内諸国を植民地にする意図を知っている。苦労した自分の王国をむざむざ奪われたくないと思っているからだ。
 鳩山も日本の悲劇だが、こんな構想が実現したら悲劇はアジアにも広がる。偽りを書く朝日新聞の罪は重い。


 朝日の報道にはしばしば問題があると私も思う。しかし、事実でないことを平気で書くという点では、高山の方がはるかに罪が重いのではないか。

 若者向けのムックや週刊誌に掲載された文章に、多少の誇張や事実誤認が含まれていたとて、そう目くじらを立てることはないではないかという見方もあるかもしれない。しかし、この高山の文は、そういった言葉で許容できるレベルを超えていると思う。そしてこういった文章であっても、真に受ける人はそれなりにいるのだから(若ければ私も真に受けたかもしれない)。

 インターネットで高山について検索してみたところ、既にいろいろと批判記事はある。次のものが興味深かった。

上田義朗セミナー ベトナムについて帝京大学教授・高山正之氏は何を言いたいのか?:『週刊新潮』2006年11月9日号(p.158)の妄言

日本の新聞の見方 週刊新潮「変見自在」高山正之著

zdeshka カテゴリー「詭弁の教科書: 高山正之 「変見自在」について_」の記事

破壊屋 高山正之にとっての非国民



張成沢処刑の報に接して

2013-12-18 00:05:28 | 韓国・北朝鮮
 瞬間、いつの時代だよ、と思った。

張成沢氏を処刑 死刑判決、即日執行、北朝鮮

 【ソウル支局】北朝鮮国営の朝鮮中央放送(ラジオ)は13日早朝、金正恩(キム・ジョンウン)第1書記の叔父で後見人とされた前国防副委員長の張成沢(チャン・ソンテク)氏に対して、12日の国家安全保衛部特別軍事裁判で死刑判決が下され、即日執行されたと報じた。ラヂオプレスが伝えた。


 失脚にも驚いたが、彼はこれまでにも何度か失脚し、復権している。
 今回もそんなレベルにとどまるのだろうと思っていた。
 まさか死刑となり、しかも即執行されるとは。

 近年、北朝鮮の要人が死刑となることがなかったわけではない。
 1997年?には農業担当の徐寛煕党書記が、2010年には経済通の朴南基党計画財政部長が公開処刑されたと韓国などで報じられた。これらについて北朝鮮の公式発表はないが、かといって彼らの健在が示されることもなかった。
 しかし、失脚したにもかかわらず、復権した事例もある。この張成沢もそうだし、昨年の第4回党代表者会で彼以上のポストである党政治局常務委員、党中央軍事委員会副委員長に就いた崔龍海・朝鮮人民軍総政治局長もそうだ。

 失脚したとしても、その理由は示されない。単に公式報道における役職名から解任が判明し、その後の動静も伝えられなくなるというのが1970年代以降の北朝鮮における失脚のありようだった。
 今回のような、反逆者として大々的に発表した上で処刑という手法は、ここ数十年なかったことだ。
 金正恩の祖父、金日成が1950年代に数多くの政敵を葬った手法を想起させる。

 北朝鮮が建国されたころ、金日成は政府の首相、朝鮮労働党の中央委員会委員長(党首)ではあったが、後年のような絶対的な指導者ではなかった。党は金日成らのパルチザン派のほか、ソ連から送り込まれた在ソ連朝鮮人の共産主義者によるソ連派、中国の延安を根拠地とした中国共産党の下で活動した延安派、韓国から逃れてきた南朝鮮労働党(南労党)派、朝鮮北半部で共産主義活動に従事していた国内派といった多彩な勢力の連合体であった。
 金日成は、1953年の朝鮮戦争休戦後、まず南労党派に戦争の責任を負わせ、米帝国主義のスパイとの汚名を着せて処刑した。続いて、1956年、党中央委員会総会でソ連派と延安派が金日成批判を行ったのを機に両派を粛清した(一部の幹部はソ連や中国に亡命した)。1960年代後半には金日成らとは別系統のパルチザンであった甲山派をも粛清し、金日成直系のパルチザン派による支配が確立した。

 反対派の粛清は北朝鮮に限ったことではなく、共産主義国ではよくあることだった。
 ソ連のスターリンは権力を確立した後に、ジノヴィエフ、カーメネフ、ラデック、ルイコフ、ブハーリンら古参の党幹部やトハチェフスキー元帥ら軍幹部を反国家陰謀を企てた「人民の敵」として処刑する大粛清を実行した。
 しかし、スターリン死後の権力闘争を勝ち抜いたフルシチョフは、マレンコフ、モロトフ、カガノヴィチら政敵を党・国家の中枢から排除はしたものの、死刑にはしなかった。この手法はフルシチョフがブレジネフらによって失脚させられた時にも受け継がれ、フルシチョフは年金生活で余生を全うした。

 中国の毛沢東は、抗日戦中も、戦後も、反対派への果断な粛清を行った。文化大革命でも江青ら文革派を利用して劉少奇ら「実権派」を打倒した。劉少奇や、文革以前に失脚していた彭徳懐は、監禁され、虐待を受け、病気になっても満足な治療を受けられず、事実上殺されたと言えるだろうが、しかしその他の多くの「実権派」の要人は、迫害はされたが、殺されるまでには至らなかった。
 毛沢東の死後、トウ小平をはじめ陳雲、李先念、楊尚昆、彭真、薄一波、陸定一といった、生き延びた旧「実権派」が復権し、元老格に収まった。
 トウ小平の下で取り立てられた胡耀邦と趙紫陽は共に失脚したが、殺されることも迫害されることもなかった。

 ソ連は既に崩壊した。ロシアでは、プーチン大統領による強権的な政治が行われているが、野党が存在し、反政府デモを行う自由がある。公正性に疑問がもたれているものの、選挙が実施されている。スターリン時代のような恐怖政治はもはや有り得ない。

 中国では未だ共産党の一党独裁が続いているが、毛沢東時代のような極端な個人崇拝や共産主義的政策はもう行われていない。先の薄熙来の裁判が公開されたことに見られるように、指導部が反対派を恣意的に葬ることができる時代ではない。

 北朝鮮だけが、昔の共産主義国の手法へと回帰している。
 時代錯誤もはなはだしい。
 金正恩は、祖父金日成の統治スタイルの踏襲を意図していると言われるが、恐怖政治までをも踏襲しようとしているのだろうか。

 なるほどそれで体制の引き締めは可能だろう。しかしそれによって、いったいどんな国を作ろうというのだろうか。
 軍事偏重と指導者一族の神格化の果てに、何があるというのだろうか。

 朝鮮総聯中央常任委員会の機関誌である朝鮮新報のサイトを見ると、北朝鮮国営の朝鮮中央通信による張成沢一派粛清の報道をそのまま報じる一方、朝鮮総聯としての独自の見解は示されていない。朝鮮総聯のサイトを見ても、やはり何の論評もされていない。
 彼らはいったいいつまでこんな国に忠誠を誓い続けるのだろうか。それが自らの首を絞めていることに気がつかないのだろうか。


高山正之への疑問(5) マハティールとEAECについて(上)

2013-12-10 09:57:50 | 珍妙な人々
(前回の記事はこちら

 高山は続いて、マハティールのEAEC構想とそれがつぶされた経緯について次のように語る。

 マハティールはこうした歴史〔引用者註:華僑が、東南アジア諸国において、植民地時代には白人の手先となって現地人を搾取し、独立後は政財界を牛耳り、一部の国では排斥されたという歴史〕をもつ東南アジア諸国を代表して九〇年代に東南アジア経済会議(EAEC)を打ち出した。その趣旨を香港で開かれたアジア経済フォーラムの席で発表した。世に言う「日本なかりせば」演説だ。彼は「日本によってアジア諸国は白人国家の奴隷にならず自立の道を歩めた」と語った。

 〔中略〕

 マハティールのこの演説に基づくEAEC構想は実にはっきりしている。アジアを率いる力と品位を持つのは日本で、その日本を盟主に、白人諸国の干渉を排し、ゴキブリのように侵入してくる支那の圧力をブロックして域内諸国の発展を期すというものだ。

 形で言えばまさに大東亜共栄圏の再現であり、マハティールが言う参加国、地域をつなぐと支那を包囲する形になる。麻生前首相の言う安定の弧と似る。

 自虐に染まった日本を再評価するマハティール構想はまずクリントンを激怒させた。米国が潰した日本を再生させてなるものか。根性の悪い彼はマハティール潰しを当の日本人にやらせた。河野洋平が得意になって走り回って、マハティールに白人国家も華僑も入れよと意見した。ここまでダメになった日本を見てマハティールは泣いた。クリントンは笑いこけた。


 まず、EAECは「東南アジア経済会議」ではない。「East Asia Economic Caucus」の略であり「東アジア経済会議」あるいは「東アジア経済協議体」と和訳される。

 次に、大東亜共栄圏とは果たして高山が言うような、支那の圧力をブロックするための包囲網だったのだろうか。
 そんなことはない。昭和戦前期についての知識が少しでもあれば、大東亜共栄圏は支那を含めた概念であることはわかるはずだ。
 例えばコトバンクが引用している百科辞典マイペディアは次のように説明している(太字は引用者による。以下同)

大東亜共栄圏 【だいとうあきょうえいけん】

太平洋戦争中に日本の中国,東南アジア侵略の合法化を目的とした指導理論。日本が指導者となって欧米勢力をアジアから排斥し,日本,中国,満州を中軸とし,フランス領インドシナ(仏印),タイ,マレー,ボルネオ,オランダ領東インド(蘭印),ビルマ(ミャンマー),オーストラリア,ニュージーランド,インドを含む広範な地域の政治的・経済的な共存共栄を図るという政策を掲げた。


 では、EAECはどうだろうか。高山が言うように、日本や東南アジア諸国によって構成され、中国や華僑を排除(この華僑をの意味がわからない。マレーシアがEAECに参加しつつ国内の華僑を排除するといったことが可能なのか?)したものなのだろうか。
 これも、そんなことはない。
 私が持っているCD-ROM『世界年鑑 1993-1997』の1993年のマレーシアの項には、次のような記述がある。

【東アジア経済会議構想】 マハティール首相は90年12月、欧州と北米の「地域主義的な保護主義台頭への対抗」を理由にASEAN6カ国と日本、中国、韓国、香港、台湾のほか、ベトナム、カンボジア、ラオス、ミャンマーも含めた各国で経済共同体を構成する東アジア経済圏(EAEG)構想を提唱した。
 しかし米国は真っ向から反対、日本も消極的な姿勢を示した。ASEAN内部でも積極支持を表明したのはシンガポールだけで、ASEANは91年10月、クアラルンプールでの経済閣僚会議で保護主義的な経済ブロックの印象を薄めた「東アジア経済会議」(EAEC)に名称変更して検討することにした。92年1月シンガポールで開いたASEAN首脳会議でASEAN自由貿易地域(AFTA)の創設が合意され、EAEC構想は事実上棚上げとなっているが、マハティール首相は繰り返し構想実現を訴えている。


 中国が含まれている。香港や台湾も。

 さらに、彼の自伝『マハティールの履歴書』(日本経済新聞社、2013)に収録された日経の「私の履歴書」(1995年11月)の第25回にはこうある。

25 EAEC――米の感情反発に驚く

 一九九〇年十二月、マレーシアを訪問した中国の李鵬首相との会談で私は大きな国際的議論を呼ぶことになるEAEG(東アジア経済グループ)の構想を初めて公表した。構想は日本、中国、韓国、ASEANなど東アジア諸国が協力して経済発展に取り組もうというものだ。
 実は進行中だったガット(関税貿易一般協定)のウルグアイラウンド(多角的貿易交渉)が難航していることに苦慮していた国際貿易産業省から、構想が上がってきていた。私はかねて、早期妥結を期待する発展途上国の意向は無視して自分の利害だけで動く欧米諸国の態度に我慢がならなかったので、早速、政策として取り上げた。欧米諸国をEAEG構想から除外するのはその趣旨から当然だったのである。李首相は即座に横想に賛意を示した。
 しかし、この構想は先進各国から予期せぬ反発を招いた。米国のベーカー国務長官がしばらくしてクアラルンプールに飛んできた。私は構想について説明したが、彼自身は何も言わず、帰途に日本に立ち寄ってEAEGに参加しないよう言ったようだ。米国が外れていることが気にくわないのだ。
 私が驚いたのはその反論が一つには感情的なこと、一つは合理的な根拠がないことだ。ベーカー氏は国務長官をやめた後も日本に行き、参加しないよう日本のビジネスマンに呼び掛けたという。韓国に行っては、マレーシアは朝鮮戦争で血を流していない、とも言った。
 ひいては彼は、私が会談の時に着ていたマレーの民族衣装についても何か悪口を言ったらしい。日本人はキモノ、米国人はコートとネクタイがあるのに。私は米国務長官のシュルツ氏やキッシンジャー氏とは何度も会ったが、ベーカー氏とはこれが最初で最後だった。
 米国が反発する理由も納得がいかない。経済ブロックの設置は認めないと言いながら、米国自身は貿易ブロックであるNAFTA(北米自由貿易協定)を設立した。EAEGは貿易ブロックではなく、東アジアが経済問題を協議する場でしかない。
 多分、米国はアジアの国同士が仲良くなること自体を望んでいないのだろう。米国は東南アジア諸国に対し、将来の敵は日本と中国だという。日本は軍事パワーなので、米国は第七艦隊を維持する必要があるとも話す。私は日本が再び軍事力に訴えるほど愚かだとは思ってはいない。
 私はEAEG構想についてはASEAN諸国には事前に説明した。日本政府に説明するのは後になった。我々は六七年にASEANを設立した時にも、域外の国々と事前に協議はしなかった。
 私は日本の海部首相(当時)に説明した。彼はもちろんイエスとノーとも言わず、黙って聞くだけだった。日本はその後、ASEAN各国が構想に同意すれは日本も参加に同意すると表明した。私はASEAN各国と意見を調整し、インドネシアが提案したEAEGからEAEC(東アジア経済協議体)への名祢変更も受け入れた。ASEANは九三年七月、EAECの設立を原則として認めたのである。
 しかし、その後も日本は「イエス」と言わないばかりか、オーストラリアとニュージーランドの加盟を認めれば日本も参加するという新たな条件を付けてきた。日本の政府と経済界は態度が違うように思える。米国の圧力があることは分かるが、EAECに関する米国の政策が変わったら日本はどうするのだろう。
 私はEAECの構想は正しいと今も考えている。間違いがあったとしたら各国に様々な意見があるのを十分に読めていなかったことだ。私はEAECはいずれ実現すると確信している。


 マハティールがEAECの前身であるEAEG(East Asian Economic Group)構想を最初に明らかにしたのは中国の李鵬首相に対してだった。
 そして、反発した米国のベーカーは、クリントンの前のブッシュ(父)政権(共和党)の国務長官であることは言うまでもない。
 河野洋平が外相を務めた村山内閣の時だけでなく、日本は海部首相の時代からこの構想に冷淡だった。

 高山のふだんの主張から見てクリントンや河野洋平が嫌いなことはわかる。しかし、クリントンや河野洋平だけが反対して構想がつぶれたわけではないのに、あたかもそうであるかのように印象づけようとする高山の姿勢は疑問だ。

 また、高山が「マハティールは……東南アジア諸国を代表して……東南アジア経済会議(EAEC)を打ち出した」というのも正しくない。マハティールは他国に相談もなく一方的に構想を明らかにし、あとから他のASEAN諸国の同意を取り付けたのだ。

 高山は「日本なかりせば」演説をEAECの趣旨説明だというが、高山の著書からの引用でこの演説を紹介しているこちらのサイトを見る限り、別にEAECの趣旨説明ではない。
 また、同サイトの高山からの引用によると、この演説は1992年10月14日に行われたとされているが、マハティールがEAEGの構想を明らかにしたのは、上記の「私の履歴書」にあるように1990年12月なのだから、構想が「この演説に基づく」というのも不可解だ。
 この一節は何から何までおかしなことだらけである。

続く

特定秘密の指定期間は「原則60年」ではない

2013-12-08 12:09:11 | マスコミ
 6日成立した特定秘密保護法に対して反対してきた人々に尋ねてみたい。
 行政機関が情報を特定秘密に指定できる期間は、何年とされているとお考えだろうか。

 おそらく、「原則60年であり、さらに一部の項目についてはそれ以上の延長も可能」と答える方が多いのではないかと思う。
 何故なら、反対論を主導するメディアがそのように報じてきたからだ。
 例えば、法成立を伝える朝日新聞7日付朝刊1面の記事はこう述べている(太字は引用者による。以下同)。

 法案は10月25日に国会提出され、11月7日に審議入りした。自公と維新、みんな4党が修正案をまとめたが、法案の重大な欠陥はただされなかった。衆参ともに特別委で、地方公聴会で懸念が表明された翌日、与党が採決を強行した。

 同法の問題の根幹は、閣僚のもとにいる官僚が恣意的に秘密の指定を増やせる余地があることだ。国民は何が秘密にあたるのかすら、知ることができない。

 秘密を扱う民間人や公務員が漏らした場合、罰則は最長で懲役10年。公務員に加え、省庁と契約している民間業者も対象になる。公務員が萎縮し、情報提供をしなくなるおそれがある。秘密を扱う人物は適性評価を受ける必要があり、家族の国籍や経済状況、飲酒の節度まで調べられ、プライバシーの侵害も懸念される。

 安倍晋三首相や菅義偉官房長官は国会答弁で、秘密指定の妥当性をチェックする機関として「保全監視委員会」と「情報保全監察室」(いずれも仮称)の設置を表明。しかし、いずれも国会審議中に野党から指摘され、後付けのように対応したものだ。政府内に置かれ、「身内」の官僚がスタッフとなるため、第三者的なチェック機能は期待できない。

 秘密の有効期間も政府案の「原則30年」から修正案で「原則60年」に後退した。さらに例外として「政令で定める重要な情報」など7項目も設け、60年を超えて秘密のままにできる。


 しかし、特定秘密保護法の条文によると、特定秘密の指定期間は「原則60年」ではない。
 やや長文だが、朝日新聞デジタルに掲載された成立後の条文を御覧いただきたい(【】内は衆議院での主な修正箇所)。

(指定の有効期間及び解除)

第四条 行政機関の長は、指定をするときは、当該指定の日から起算して五年を超えない範囲内においてその有効期間を定めるものとする。

2 行政機関の長は、指定の有効期間(この項の規定により延長した有効期間を含む。)が満了する時において、当該指定をした情報が前条第一項に規定する要件を満たすときは、政令で定めるところにより、五年を超えない範囲内においてその有効期間を延長するものとする。

3 指定の有効期間は、通じて三十年を超えることができない。

4 前項の規定にかかわらず、政府の有するその諸活動を国民に説明する責務を全うする観点に立っても、なお指定に係る情報を公にしないことが現に我が国及び国民の安全を確保するためにやむを得ないものであることについて、その理由を示して、内閣の承認を得た場合(行政機関が会計検査院であるときを除く。)は、行政機関の長は、当該指定の有効期間を、通じて三十年を超えて延長することができる。【ただし、次の各号に掲げる事項に関する情報を除き、指定の有効期間は、通じて六十年を超えることができない。

一 武器、弾薬、航空機その他の防衛の用に供する物(船舶を含む。別表第一号において同じ。)

二 現に行われている外国(本邦の域外にある国又は地域をいう。以下同じ。)の政府又は国際機関との交渉に不利益を及ぼすおそれのある情報

三 情報収集活動の手法又は能力

四 人的情報源に関する情報

五 暗号

六 外国の政府又は国際機関から六十年を超えて指定を行うことを条件に提供された情報

七 前各号に掲げる事項に関する情報に準ずるもので政令で定める重要な情報】

【5 行政機関の長は、前項の内閣の承認を得ようとする場合においては、当該指定に係る特定秘密の保護に関し必要なものとして政令で定める措置を講じた上で、内閣に当該特定秘密を提示することができる。】

【6 行政機関の長は、第四項の内閣の承認が得られなかったときは、公文書等の管理に関する法律(平成二十一年法律第六十六号)第八条第一項の規定にかかわらず、当該指定に係る情報が記録された行政文書ファイル等(同法第五条第五項に規定する行政文書ファイル等をいう。)の保存期間の満了とともに、これを国立公文書館等(同法第二条第三項に規定する国立公文書館等をいう。)に移管しなければならない。】

7 行政機関の長は、指定をした情報が前条第一項〔引用者註:特定秘密の要件〕に規定する要件を欠くに至ったときは、有効期間内であっても、政令で定めるところにより、速やかにその指定を解除するものとする。


 つまり、

1.特定秘密とする期間を5年以内で指定
2.その期間が満了すれば、5年以内で延長が可能
3.延長を繰り返すことはできるが、30年を超えることはできない
4.30年を超える延長が「現に我が国及び国民の安全を確保するためにやむを得ないものである」として内閣の承認を得た場合は、60年まで延長することができる
5.ただし、以下に関する情報は60年を超えて延長することができる。
 一 武器、弾薬、航空機その他の防衛の用に供する物(船舶を含む。別表第一号において同じ。)
 二 現に行われている外国(本邦の域外にある国又は地域をいう。以下同じ。)の政府又は国際機関との交渉に不利益を及ぼすおそれのある情報
 三 情報収集活動の手法又は能力
 四 人的情報源に関する情報
 五 暗号
 六 外国の政府又は国際機関から六十年を超えて指定を行うことを条件に提供された情報
 七 前各号に掲げる事項に関する情報に準ずるもので政令で定める重要な情報

ということになる。
 
 「原則60年」ではない。原則は5年以内であり、延長を重ねても30年が限度。やむを得ない場合に限り60年までとし、さらに7項目のみはそれ以上の延長も認めるというものだ。
 さらに、第7項で、情報が特定秘密の要件を欠くに至った場合は、有効期間内であっても、速やかにその指定を解除するとされている。
 どうして「原則60年」という話になるのか、私には不思議でならない。

 朝日だけではない。この法律の成立に肯定的な読売新聞の7日付社説ですら、「特定秘密の公開は原則30年後だ。延長する場合も一部例外を除き最長60年である」と述べているのはどうしたことだろうか。

 この60年という年限にしても、上記の朝日記事のように、「政府案の「原則30年」から修正案で「原則60年」に後退した」としきりと叩かれた。
 しかし、修正前の政府案の第4条は次のようなものだった。

 第四条 行政機関の長は、指定をするときは、当該指定の日から起算して五年を超えない範囲内においてその有効期間を定めるものとする。

 2 行政機関の長は、指定の有効期間(この項の規定により延長した有効期間を含む。)が満了する時において、当該指定をした情報が前条第一項に規定する要件を満たすときは、政令で定めるところにより、五年を超えない範囲内においてその有効期間を延長するものとする。

 3 行政機関(会計検査院を除く。)の長は、前項の規定により指定の有効期間を延長しようとする場合において、当該延長後の指定の有効期間が通じて三十年を超えることとなるときは、政府の有するその諸活動を国民に説明する責務を全うする観点に立っても、なお当該指定に係る情報を公にしないことが現に我が国及び国民の安全を確保するためにやむを得ないものであることについて、その理由を示して、内閣の承認を得なければならない。この場合において、当該行政機関の長は、当該指定に係る特定秘密の保護に関し必要なものとして政令で定める措置を講じた上で、内閣に当該特定秘密を提供することができる。

 4 行政機関の長は、指定をした情報が前条第一項に規定する要件を欠くに至ったときは、有効期間内であっても、政令で定めるところにより、速やかにその指定を解除するものとする。


 これでは、行政機関の長が、30年を超える延長がやむを得ないとして「その理由を示して、内閣の承認を得」れば、無限に秘密にし続けることができる。
 これに対して日本維新の会は、30年を超える延長はできないとすべきだと主張した。
 そこで、その妥協案として、30年を超えて延長した場合でも、上記の7項目を除き、上限を60年としたのだろう。
 特定秘密であっても将来は公開すべきであるという立場から見れば、これは「後退」ではなく「前進」ではないのか。

 この与党と日本維新の会との修正合意を伝える11月22日付の朝日新聞デジタルの記事には次のようにある。

指定期間に至っては、もとの案以上に政府に都合のよい条文になった。与党は維新との協議で「原則30年」を示した後、上限を区切るよう要求され、「60年を超えることができない」とし、事実上の「原則60年」へ期限を延ばした。さらに秘密のままにできる例外とした7項目の中に「政令で定める重要な情報」という文言を入れ、政令で定めさえすれば幅広く秘密にできる余地を生じさせた。


 「事実上の「原則60年」」ではない。「原則30年」(この表現も疑問だが)以内、例外60年以内、さらにその中でも7項目は除くとしたのだ。
 例外とされる上記の7項目にしても、これらは一律に最長でも60年経てば公開してよいと言えるのだろうか。
 たしかに60年は長い。しかし、60年経過したからもう絶対に大丈夫と言い切れるのか。60年後でも「なお指定に係る情報を公にしないことが現に我が国及び国民の安全を確保するためにやむを得ない」ケースは有り得るのではないか。そうした事態にも対応しておくべきではないか。

 「政令で定める重要な情報」にしても、これには「前各号に掲げる事項に関する情報に準ずるもの」という縛りがかけられているから、「政令で定めさえすれば幅広く秘密にできる」などという簡単な話ではない。この修正がなければ、7項目中の6項目に「準ずるもの」であろうがなかろうが、内閣の承認を得さえすれば無期限に延長できたのであるから、修正によって秘密指定に対する制約が強化されたと見るべきだ。

 これで何故「もとの案以上に政府に都合のよい条文になった」と評価できるのか、私にはわからない。これは曲解であろう。
 野党が法案の修正協議で、わざわざ「後退」する内容で合意するはずがない。「後退」でしかないのであれば協議を決裂させればよいからだ。常識で考えてわかりそうなものではないか。

 しかし、その後の朝日の記事や社説は、法案の条文自体ではなく、こうした自社や他社の記事に基づいて、反対論を繰り広げてきたのではないか。
 「事実上の「原則60年」」から何故か「事実上」が取れ、「原則30年」から「原則60年」に後退したと決めつけ、あとはそれを繰り返すばかり。

 無理が通れば道理が引っ込むという言葉があるが、この法案をめぐる朝日新聞などの報道は、まさにそれを地で行くものであったと思う。
 理にかなった正論が無視され、わけのわからぬ感情論が支配する。
 かつての天皇機関説に対する排撃なども、こうした雰囲気の下で行われたのではなかったのだろうか。

 この法律ができるまでは、わが国の安全保障に関わる特に重要な秘密をどのように秘匿し、どの年限で公開するのか、統一的なルールが定められていなかった。
 朝日が唱えていた、情報の「民主的な管理」が必要という立場からすれば、これは前進であるはずだ。
 しかし、朝日の紙面から、そうした評価は微塵も見ることができなかった。


特定秘密保護法の成立は「民主主義への軽蔑」?

2013-12-06 00:22:28 | マスコミ
 5日付の朝日新聞朝刊の1面には、特定秘密保護法案が参議院の特別委員会で今日強行採決されるとの記事と並んで、大野博人・論説主幹の「民主主義への軽蔑だ」と題する文が載っていた。

 特定秘密保護法案をこのまま成立させるとすれば、立法府自身が民主主義への深い軽蔑を告白することになるだろう。

 国家運営に情報を隠さなければならない局面はある。厳格な管理を求められるときもある。だが、それは民主的に管理されなければならない。特定秘密保護法案には、その基本が欠落している。

 どんな種類の情報が秘密になっているのか、それが妥当かどうか、知る術(すべ)がない。長い年数を待てば、明らかになるかどうかもわからない。国民を代表してチェックする者もいない。

 だから、多くの国民が知る権利の侵害を心配している。問題は「秘密」以上に「秘密についての秘密」だ。これが放置されるかぎり、秘密は増え続け、社会に不安と不信が広がる。「国家に秘密は必要」と繰り返しても、その懸念に応えることにはならない。

  にもかかわらず、政府・与党は成立に向けて突き進んでいる。


 しかし、国家的な秘密を「民主的に管理」するとは、具体的にどういうことなのか。
 「国民を代表してチェックする者もいない」と言うからには、国民の中から秘密の妥当性をチェックする者を新たに選出せよということなのだろうか。それとも、国民の代表である国会議員の中から、それに当たる者を任命せよということなのだろうか。

 しかし、そうやって秘密を知り得る者の範囲を広げていけば、それはもう秘密ではなくなってしまうのではないか。それによる弊害が生じるおそれも高まるのではないか。
 政府が国家的な秘密を知り得る者を政府の範囲内にとどめておきたいと考えるのは当然のことではないか。それは「民主的に管理され」ないと言えるのだろうか。

 いったい大野主幹はわが国の政体をどう見ているのだろうか。まさか民主制ではないと考えているわけではないだろうに。

 国民が国政の代表として国会議員を選出する。その国会議員が党派を形成し、民主的方法により党首を選ぶ。そして国会において多数を占める党派の党首が首相に指名され、その首相が内閣を編成し、その内閣が行政権のトップに立つ。これが民主制でなくて何だというのか。
 特定秘密保護法案についての与野党協議の中で出てきた、首相が第三者的にチェックするとの修正案に対して、行政府の長である首相は第三者たり得ないとの批判があった。
 しかし、わが国の首相は国会の多数派によって選出される存在であって、独裁国家のような永続的な行政府の長ではない。そしてわが国では政権交代が制度的に保障されている。
 現に民主党政権下ではいくつかの外交上の密約が公表されたではないか。

 大野主幹の文はこう続く。

 先月、福島市であった法案の公聴会で、意見を述べた7人全員が反対を表明した。それをあざ笑うように衆院は翌日に強行採決。4日はさいたま市で公聴会を開いた。そして時をおかずに参院で採決する方針という。また、自民党の石破茂幹事長は、反対を訴える街頭運動をテロにたとえた。

 政界の外の市民の声には、聴いているふりをするか、迷惑騒音扱いするか。主権者は投票日の1票にすぎないと考える冷笑的な態度が透けて見えるようだ。

 そもそも、その1票すら格差を長年にわたり放置。司法から衆参両院とも実質的には「違憲の府」と厳しい指摘を受けた。それにもかかわらず、根本的改革にはなかなか取り組もうとしない。

 人々が自由なのは選挙のときだけで、投票したあとは政治の奴隷になってしまう――。18世紀の思想家ルソーは英国の議会政治をそう批判した。代表制民主主義がはらむそんな危うさを、今の日本で現実のものにしてしまうのか。

 民主主義を軽蔑していないという政治家は、この法案の成立を阻むべきだ。


 なるほどルソーはそう唱えたと聞く。
 では英国の議会政治の下で、実際に人々は奴隷だったと大野主幹は考えているのだろうか。まさかそうでもないだろうに。

 代議制の下での個人の意思の総和である全体意思ではなく、人民の社会契約によって形成される単一の人格である一般意思に基づき国家を運営すべしとするルソーの思想は、フランス革命におけるジャコバン派に影響を与え、彼らの独裁による恐怖政治を生んだ。
 その思想はさらにマルクスの共産主義に受け継がれ、レーニン、スターリンのソ連、毛沢東の中国、ポル・ポトのカンボジアなどでの大惨劇を生んだ。今なお、その変種が北朝鮮を支配し、わが国を含む周辺諸国に脅威を及ぼしている。

 人々を奴隷にしたのは英国の議会政治だったのか、それともルソーの思想だったのか。その歴史的な結論は既に出ているはずだ。
 この現代にルソーを持ち出す大野主幹のセンスに呆れる。

 この法案に賛成したからといって、それは民主主義を軽蔑していることには決してならない。賛成派議員にはわかりきったことであろうが、敢えて表明しておきたい。


朝日新聞の特定秘密保護法案への反対報道に思う

2013-12-05 07:51:00 | マスコミ
 私は朝日新聞を講読しているが、ここしばらくの紙面は、特定秘密保護法案への反対一色に染められている。
 連日著名人を動員して、さまざまな立場から、さまざまな理由による反対を訴え続けている。
 まるで賛成派はまともな人間として扱ってもらえないかのようだ。

 ブログでの失言などをきっかけとするネット上での騒動を「祭り」と言うが、彼らはリアル社会で、その意味での「祭り」を楽しんでいるかのように思える。

 朝日新聞デジタルの4日付の記事によると、「特定秘密保護法案に反対する映画人の会」が発足し、声明を出したのだという。

(秘密保護法案)映画人ら269人「反対」 宮崎駿監督も、吉永小百合さんも
2013年12月4日05時00分

 高畑勲監督、降旗康男監督、山田洋次監督ら5氏が呼びかけ人となり、「特定秘密保護法案に反対する映画人の会」が3日発足した。4日間で264人が賛同し、法案の内容や拙速な国会審議を批判する声明を発表した。▼1面参照

 賛同したのは大林宣彦監督、宮崎駿監督、是枝裕和監督、井筒和幸監督、俳優の吉永小百合さん、大竹しのぶさん、脚本家の山田太一さん、ジェームス三木さんら。撮影監督や映画館主、評論家らのほか、映画ファン約60人も加わった。

 声明は「心ならずも戦争に対する翼賛を押し付けられた映画界の先達の反省に立ち、日本映画界は戦後の歩みを開始しました」とした上で、「『知る権利』を奪い、『表現の自由』を脅かすことになりかねないこの法案は、とても容認することはできません」と反対を表明している。

 呼びかけ人や賛同者の一部のメッセージも公表。高畑監督は「安倍政権を生み出してしまったのが他ならぬ私たち国民自身であることに愕然(がくぜん)とせざるをえません」、降旗監督は「戦前、戦中の日本に戻らないように、ねばり強く抵抗していくほかありません」と記した。原田眞人監督は「公聴会を公然とセレモニー化したやり方にも憤りをおぼえます」と書いた。

 (織井優佳)


 「心ならずも」「押し付けられた」?
 それが国策であるから、あるいは時勢であるから、素直に賛同し、協力していただけではないのか。

 昭和戦前期の映画監督として著名な伊丹万作(1900-1946)は、以前にも取り上げた、敗戦後の映画界における戦争責任追及の動きを批判した「戦争責任者の問題」という文で、次のように述べている(青空文庫より引用。太字は引用者による)。

 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
 たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏につとめていたのであろう。
 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
 いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。


 また、こうも述べている。

我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
 「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
 「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
 こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。
 こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。
 しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。
 すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。
 しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりしているのである。
 いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。
 しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。
 たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念を持ちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
 もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。この馬鹿正直をわらう人はわらうがいい。
 このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。


 「心ならずも」「押し付けられた」などというフィクションを信じ込んでいるようなら、また、別種のフィクションを信じ込むことにならないか。

 この特定秘密保護法案への反対一色に染められている朝日の紙面(朝日に限るまいが)を見ていると、そういえば、消費税導入や、PKO法、通信傍受法の成立に際しても、こんな感じではなかったかなと思う。
 おそらくは、60年安保騒動や、単独講和か全面講和かをめぐる論争においても、同様の光景が見られたのではないだろうか。

 自民党の石破茂幹事長が、ブログで次のように述べたことが問題となっているという。

今も議員会館の外では「特定機密保護法絶対阻止!」を叫ぶ大音量が鳴り響いています。いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。

 主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべきなのであって、単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます。


 石破がここで述べたのは、「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われ」るということであり、デモがテロと同一であると述べたわけではない。
 にもかかわらず、2日付の天声人語は、

自民党の石破幹事長が、法案反対のデモをめぐって「絶叫はテロと変わらない」という旨をブログで述べたのには驚いた。有力政治家と違って市民には、叫ばねば届かぬ声がある。権力の驕(おご)りここに至れり、の感が強い


と説き、3日付社説は

 驚くべき暴言である。

 「テロ」は国際的にも、銃や爆弾による破壊行為とされている。そこには暴力と死の影がつきまとう。

 国会周辺に人々が集まり、法案や政策に賛否の声をあげることは珍しい光景ではない。

 秘密保護法案の審議が大詰めを迎えるにつれ、反対を叫ぶ声がより大きくなったのは確かだ。それでも、それを破壊行為と同列に見なす発想は、とても受け入れられない。

〔中略〕 あらわになったのは、法案の危険な本質だ。

 デモは市民の正当な活動であり、代表制民主主義を補う手段でもある。石破氏にはこうした理解が全く欠けていた。また、自民党政権が、自分たちと異なる意見や価値観を持つ人たちに抱く嫌悪感をもうかがわせた。

〔中略〕

 政府側は、テロとは「殺傷」と「破壊」をさしていると説明する。一方、野党側はこの条文では、他人に何かを強く主張するだけでテロだと解釈されるおそれがあると批判している。

 石破氏はかつて防衛相を務めた。法案が成立すれば、防衛相は大量の情報を特定秘密に指定する裁量と権限を持つ。

 その人が、あいまいな条文を根拠にデモをテロと決めつけ、集めた情報を特定秘密に指定したら――。

 石破氏の発言は、こんな可能性がないとは言えないことを、図らずも示した。


と批判する。

 そりゃあ「可能性がないとは言えない」とは言えるだろう。しかし、「可能性がないとは言えない」ことは、蓋然性が高いということではない。
 反対のためなら曲解でも何でもかまわない。利用できるものは利用する。
 運動家の論理である。

 では朝日は、仮に大量の街宣車やデモ隊に大音量で責め立てられ、業務に差し障りが生じる事態になっても、それを「暴力的である」とは評さないのだろうか。
 いわゆるヘイトスピーチについてはどうなのか。あれも暴力的ではないのか。
 また、朝日の記者は「自分たちと異なる意見や価値観を持つ人たち」、大東亜戦争肯定論者やヘイトスピーチの主導者に「嫌悪感」を抱いてはいないのだろうか。自分たち報道人は抱いてもいいが、与党政治家は抱いてはいけないというのだろうか。

 同じく朝日新聞デジタルには、上の記事の「呼びかけ人や賛同者の一部のメッセージ」して、次のようなものが掲載されている

【呼びかけ人】

■降旗康男・映画監督

 「だれでもテロリストに仕立てあげてしまう、与党幹事長の呟(つぶや)きは、法案が権力のテロであるという正体を白日の下にさらしました。戦前、戦中の日本に戻らないように、ねばり強く抵抗していくほかありません」

【映画監督】

■大林宣彦

 「戦争に巻き込まれる可能性が少しでもあることは、なにがあっても避けなくてはなりません。理屈抜きです。嫌です! 恐ろしいです!! 震えております!!!」

〔中略〕

【俳優】

■鈴木瑞穂

 「戦争も知らず、歴史からも学ばず、未来への想像力にも欠けた政治家たちが恥知らずにも、『この道はいつか来た道』(戦前復帰)の大合唱をはじめています。許してはなりません」

〔中略〕

【脚本家】

■小山内美江子

 「現在の私たちの憲法が生まれる前に、どれほどの若い血が流されたことでしょう。死んでいった若者、母や恋人を守るためだと自分に言いきかせて、帰りの燃料なしで飛び立っていきました。その年頃の子どもを持つ今の国会議員は何を考えているのだろうか。いまだ白骨るいるいとしているミャンマーの戦線跡にぜひ行ってほしい。そして、そこで何を考えたか、私たち国民に報告してほしい」

■ジェームス三木

 「正邪善悪を、国家権力が決めるというのは、民主主義に反する。この国は大日本帝国に戻るつもりなのか」

■白鳥あかね

 「戦争中、芋のつるしか食べられなかったひもじさは忘れられません。二度と過ちを繰り返さないように!」

〔中略〕

【そのほか】

■野上照代(元・黒澤映画スタッフ、「母べえ」原作者)

 「この扉を開けたら最後。すでに石破(自民党幹事長)はデモを『テロ』と言っているではないか。若者は、スマホやオリンピックに眼を奪われて足元を見ていない。危ない、危ない」


 相も変わらぬ戦前回帰、「いつか来た道」論。

 PKO法や通信傍受法の時にも同様の主張が見られた(おそらくは60年安保の時にも)。
 しかし、その結果わが国は大日本帝国に回帰しただろうか。

 彼らは本気でそう考えているわけではないのだろう。
 本気でそう考えているなら、法律が成立した後でも、さまざまに論陣を張って法律の廃止を主張すべきだろう。
 しかし、彼らはそうはしない。法律が成立してしまえば、何事もなかったかのように日常に戻り、また別の話題に飛びつくだけだ。

 私は、現在の秘密保護法制では不十分だと思えるので、基本的にはこの法案に賛成だ。
 しかし、そうした次元で考えるより、もう彼らが反対だから賛成でいいやと端的に考えていいような気がしてきた。


高山正之への疑問(4) インドネシアとフィリピンについて

2013-12-02 00:38:00 | 珍妙な人々
(前回の記事はこちら

 続いて高山は次のように語る。

 オランダ領のインドネシアはベトナム型で日本から戦うことを学んで戦後、五年も宗主国に抵抗を続け、世界に独立を認めさせた。ただ白人の手先だった華僑は生き延び、今も政治経済の中枢に生き続けている。


 インドネシアでは華僑に対する排撃はなかったのだろうか。
 1965年の9.30事件(インドネシア共産党の影響下にあった左派系将校によるクーデター未遂事件)の際に、大量の華僑が虐殺されたと聞く。
 インドネシア共産党は中国共産党の影響下にあったそうだが、華僑を中心に構成されていたとは聞かない。それでもこうした事態が発生したのは、積もり積もった反華僑感情が爆発したのだろうか。
 
 「華人経済研究所」なるブログの「インドネシア華人が恐れる「30年周期」」という記事には、9.30事件についてこんな記述がある。

このクーデターに関与したとされるインドネシア共産党に対し、徹底的な弾圧が行われ、同党は壊滅。その間、共産党員や大陸系華人など、50-100万人の人々が大量虐殺の犠牲になったほか、数多くの大陸系華人が中国への帰国を余儀なくされた。教育・文化面でも、インドネシア政府は、「華僑学校における民族教育、語学教育の禁止」、「華字誌の発行停止」、さらに「中国政府と取り決めた二重国籍協定の適用停止」など、インドネシア国籍を持たない華人に対する差別待遇措置をとった。


 この記事からは、ほかにも多数の反華人暴動が起きていることがうかがえる。

 高山がこうした事実を知らないのなら、東南アジアの華僑を語る割には無知だし、知っていて伏せているのなら悪質だろう。

 高山は続いてフィリピンに言及する。

 フィリピンを植民地にした米国は日本封じという軍事目的が達成された戦後、さっさとフィリピンを独立させた。独立の陣痛がなかったため華僑を追い出すタイミングを失った。彼らは政財界を牛耳り、アキノを大統領にしている。彼女は福建省の華僑だ。

 
「独立の陣痛がなかったため華僑を追い出すタイミングを失った」
 しかし、独立の陣痛があったインドネシアも、高山によると華僑を追い出さなかったことになる。独立の陣痛云々は無意味な言葉だろう。

 コラソン・アキノが華僑だとはこの高山の文を読むまで私は知らなかった。
 しかし、アキノが大統領に就いたのは、政財界を牛耳る華僑の力によってなのだろうか。マルコス大統領の政敵であり暗殺されたベニグノ・アキノの妻であったため、反マルコスのシンボルとして担ぎ上げられただけではないのだろうか。
 それに、彼女が大統領を務めたのは1986年から1992年までのことにすぎない。ではその後のラモス、エストラダ、アロヨはどうなのだろうか。あるいは、その前のマルコスの長期政権は。
 たかだか6年間の統治をもって、華僑がフィリピンの全てを支配しているかのような印象を与える高山の姿勢は疑問だ。

 ちなみに、フィリピンの独立は米国統治時代から既に決まっていたことであり、わが国が敗北したからさっさと独立させたのではない。
 だから、大東亜戦争が東南アジアの植民地の独立を促したという見方は、少なくともフィリピンには当てはまらない。それどころか、わが国はフィリピンの国土を戦場とすることにより、住民に無用な犠牲を与えてしまったと言える。
 兵頭二十八は別宮暖朗との共著『技術戦としての第二次世界大戦』(PHP文庫、2007)で、次のような激烈な言葉を残している。

 厚生省その他によれば、フィリピンで日本兵は五一万八〇〇〇人死んでおり、うち四七万人はゲリラに殺されたと見積もられている(一説に死者の八割は餓死)。これはシナ本土で戦死した日本兵四六万人を遙かに上回るのですよ。これに比べればビルマの一四万六〇〇〇人(うちインパールは三万五〇二人)、ニューギニアの一三万人、沖縄の九万四〇〇〇人の戦死は霞んで見えてしまうほどです。
 その一方でフィリピン人を戦争に巻き込んだ結果、一一一万人も殺してしまった。これらフィリピン人はシナ人と違って日本に戦争やテロを仕掛けてきたわけではない。いったいこれのどこが「解放の戦い」ですか。頭を下げるなら北京ではなく比島に向かってこそしたらどうだと言うんですよ。(P.325)


 また、こんなブログの記事もある。
 「フィリピンに「日本=解放の手助け」論が成立しないのは何故か?

 なお、フィリピンは、他の東南アジアの国々と違って、華人と原住民との混血が多いという。フィリピン独立運動の英雄とされるホセ・リサール(1861-1896)や、19世紀末に独立政府の大統領を一時務めたが米国に敗れたアギナルド(1869-1964)も、華人の血を引くとされる。

 さて、高山は、東南アジア諸国における華僑を、植民地時代には白人の手先になって現地人を搾取し、独立後も政財界を牛耳り、一部の国では排斥された存在としか描いていない。
 しかし、そうした見方は果たして妥当なのだろうか。

 川崎有三『東南アジアの中国人社会』(山川出版社(世界史リブレット)、1996)は、19世紀後半における東南アジアへの華人の大量流入を、次のように描いている。

 大量移住によってもたらされた中国人移民はおもに肉体労働にたずさわる人びとであった。マラヤ地域における錫鉱山労働者、タイにおける鉄道建設のための労働者などがその例である。中国本土においてはほとんど社会の底辺にあったような貧しい農民、労働者たちが、契約労働者として送り込まれ、激しい労働に従事させられた、アヘンに一時の安らぎをうるような苛酷な生活をしいられたのであった。〔中略〕
 こうした移民たちのなかには、数年のちに本土へと帰国する者も多かったが、なかには長く住みつく者たちもいた。彼らはいつまでも肉体労働だけにたずさわっていたわけではない。むしろ、中国人移民たちの特質はその商業的伝統にある。労働者たちはいつまでも労働者ではない。資金を少しでも貯めると、彼らは物売り、行商を始め、それが軌道に乗れば、小さな店をかまえ、より大きな商業機会を求めて発展していく。商売をすることは、あるいは貨幣を媒介としてモノやサーヴィスを売り買いすることは、中国人たちにとって、ほとんど生まれつきに備わった性質であり、その社会化の過程で自然に身についた生き方でもある。
 中国人たちに比べて、東南アジア地域の大部分の農民たちは、貨幣経済とのかかわりが薄く、商業的伝統をほとんどもたないに等しかった。東南アジア地域がヨーロッパ勢力の進出により、貨幣経済へと巻き込まれていく過程で、農村地域へ深く浸透していったのは、商業化した中国人たちであった。


 そうした者たちの中から、やがてその国の経済を牛耳る者が出現するに至ったのだろう。

 かつて、アジア4小龍という呼称があった。先進国に続く新興工業経済地域(NIES)のうち、特に発展を遂げた韓国、台湾、香港、シンガポールの4つの国と地域を指す。このうち韓国を除く3つが華人の国と地域であるのは、偶然ではあるまい。
 そしてアジアではこの4小龍に、タイやマレーシア、インドネシアといったASEAN諸国が続くとされた。これらの国でも華人がその国の経済をリードしていると聞く。

 華人は独自のコミュニティを形成し、現地人と同化しようとしない傾向があるという。そうした閉鎖性が、現地人の警戒心や反発を招いている面もあるのだろう。
 だからといって、そうした国々で仮に華人を追放し、現地人だけで国家を運営しようとすれば、それは、白人を追放して現地人のみで国家を運営しようとして破綻したジンバブエのような、いわゆる「失敗国家(failed state)」への道を歩むことになるのではないだろうか。
 それに近いことをやったのがビルマやベトナムであり、だからこそ両国ともその後は華人経済をそれなりに容認しているのではないのだろうか。

 高山の主張には、往年の黄禍論を見る思いがする。あるいはユダヤ人排撃論と同質のものを。

続く