チャンネル桜・瓦版:世論(多数意見)の真逆(少数意見)がほとんど正しい・西村浩一ブログ

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 麻布問答(63)。東京老人さんとのコメント:中国が沖縄・南西諸島侵攻のとき米空母は来ない

2016-08-05 19:56:57 |  麻布問答

    <麻布問答(63)。東京老人さんとのコメント>

  善哉、善哉!? (チャンネル桜・瓦版)

   2016-08-05 06:28:16


 梅雨も明けて、ここ北海道帯広でも30度を超えるという本格的な夏となりましたが、上手に過ごしていられて結構であると思います。

 体力消耗の折から、お好きな『鰻』で栄養補給と、美味しい定番ですね…。

 「酒なくて、何で己が、桜かな。」ということになるわけでありますね。

 チャンネル桜・瓦版さま (東京老人)

   2016-08-05 07:34:32

 水曜日に軽い腰痛を発症しましたが、一日寝ていて、木曜日、マッサージ、湿布と重ねて治療した結果何とか歩けて、ウナギのせいもあって、良くはなりませんが、高砂まで行けました、この昼食や、喫茶白十字、昭和のお店は気に入ってまた来そうですよ。

 血圧降下剤と湿布薬という2悪人 (チャンネル桜・瓦版)

   2016-08-05 11:00:32

 毎度のことになるのですが、どうも「『真逆』(あなた得意の・95%)のことをやっていられるなあ。」と思うのですよ。

 今回は、マッサージ、湿布が『腰痛』の原因なのだと以前書いたブログを読んでもらいたいと思いますね…。

 「薬害地獄。」(医療・医薬業界の大繁栄)の入り口(2大原因)は、「血圧降下剤。」と「消炎鎮痛剤(湿布)。」とのブログもありますので、ご覧ください。

 この2つは、ともに「交感神経過多。」を産生することで、身体ストレス(病気の原因)⇒免疫力低下を招来する、三途の川の渡し守でありますよ。

 合わせて、「栄養過多。」⇒身体ストレスから、免疫力低下⇒風邪が長引き、咳止まらずの状況となるのでありますけれどね…。 (蛇足)

 チャンネル桜・瓦版さま (東京老人)

   2016-08-05 12:34:22

 昨日は腰痛を押して遠足、ウナギ、マッサージ、湿布のおかげで、今日はかなり治りましたよ、

 それが、きょう重たい箱のかたずけ、ごみ袋4つ作り、と腰痛にはやばいことをやりましたが、何とか持ちそうです、湿布張っててよかったというところです、

 いい飯屋にいくと、生きててよかったと思えます。

 

 「(○○な人には)黙って、頭を下げるのみ。」と心の中でつぶやく。 (生物学者・池田清彦) (チャンネル桜・瓦版)

   2016-08-05 19:41:21


 恐れ入りました。 (ペコリ)

 ウナギ、マッサージ、湿布のおかげで、かなり治り(良くなり?)、重たい箱のかたずけ、ごみ袋4つ作りるなど、湿布張りというのは「対症療法。」には有効なのですね!

 私は、良い飯屋へ行って『美食』を続ける(食べ過ぎる)ことが、「過栄養。」となり「身体ストレス。」から「病気の原因。」になると考えているのですが、あなたはそのようなことは無いようでありますね…?!

 マッサージをすると筋組織を破壊して、修復により硬化する(くせになる)ため「揉み返し。」の悪循環になり、「とても良い。」と言って『習慣』治療となり施術師・患者の「共存共栄。」(国民の保険料負担の増大)が実現できます。

 湿布は、「消炎鎮痛剤。」ということで、「交感神経過多。」による「病気発生。」に寄与することになります…。

 しかし、『現実』(真実という・『真理』とは別義であることに要注意)は、「奇なり。」であり、あなたが私(5%)とは、「あえて『真逆』をする。」として成功されていることには再度「恐れ入りました。」と申し上げる次第でありまする。 (ご健闘を祈ります!)

 


 西部邁師の論(32)。 伝統:中国、逃げ遅れた日本企業を待ち受ける地獄

2016-08-05 10:55:19 |  西部邁師の論

        <西部邁師の論(32)。 伝統>

 「慣習と伝統。」は、しばしば区別なしにつかわれています。

 『慣習』は「慣(かさ)ねて習(なら)うこと。」で、『伝統』も「糸の先(はじめ)が筋となって伝えられること。」です。

 だから、たしかに、両者の区別は不要かと思われます。

 英語でも、「カスタム。」(慣習)は「“慣用の衣装(コスチューム)”のような習わし。」のことで、「トラディション。」(伝統)も「昔から今へと“運ばれて(トラデーレ)”きたもの。」をさします。

 しかし、「習われ、伝えられ、運ばれるもの。」はそも何であるか?と考えてみると、それは「物それ自体なのか?」、あるいは「表象の意味。」なのか?という問いが発生します。

 その問いに気づいて、小林秀雄は「無意識に繰り返されているのが『慣習』、慣習とは何かと意識したところに表れてくるのが『伝統』。」と答えました。

 だが、次のように考えたほうが、より正確と考えられます。

 歴史によって習得させられ伝承され運搬されてきたものの『実体』(サブスタンス)が『慣習』であり、その実体のうちに内包されている集団的な精神の『形式』(フォーム)が『伝統』である、ということです。

 たとえば、儀式で着用する紋服は慣習に当たり、その衣服によって表象されている家系への崇敬の念の在り方、それが『伝統』だというふうに解釈したらどうでしょう。

 いうまでもなく、慣習という実体がなければ、伝統という精神の形式も歴史の流れの中に埋没し分解されてしまうでしょう。

 また、言語的・表象的な表現の全てにおいて、実体と形式は密接不可分に結合しております。

 それなのになぜそうした区分が必要かと言うと、慣習には「良習と悪習。」とが混ざり合っているとみざるをえないからです。

 たとえば男女の関係論でいうと、両者の役割分担の慣習は良習といえましょうが、男尊女卑の慣習は悪習としか思われません。

 またたとえば、皇室問題や国旗国歌問題で言うと、それらに崇敬の儀礼を成すのは良習でしょうが、その儀礼に熱狂した揚句にそれらに反対な言説を成すものたちに暴行を働くのは悪習とみなさざるをえません。

 総じていうと、いわゆる左翼人士は慣習実体を排撃せんとし、いわゆる右翼人士はそれを信奉します。

 それに対し『保守』人士は、良習と悪習を判別するための判断基準が伝統)という精神形式の精髄だと考え、それを『良識』(グッドセンス)と定義します。

 いいかえると、歴史の「ウィズダム。」(智慧)、それこそが『伝統』なのです。

                       以上