日本男道記

ある日本男子の生き様

40:都座楽屋頭取(篠塚浦右衛門)口上図

2013年02月10日 | 東洲斎写楽撰 全40点
40:都座楽屋頭取(篠塚浦右衛門)口上図

この図は、都座の楽屋頭取(多分篠塚浦右衛門)が舞台で口上の巻をひろげてつぎに上場する狂言や役者名、役名を読み上げている図である。
楽屋頭取とは、こうした口上の読み上げのほか、楽屋全体の取締りや舞台の進行をはかる役目であって、かつては一流の役者ではないが芝居のこと、故実やしきたりのことに精通し、そのうえ役者たちにも顔のきく古参の役者がこの位置につくのである。

この図を見ても、その顔面描写に、その年輪のほどがうかがえて、まことに写楽の顔面描写の卓抜さには驚嘆すべきものがある。
世界の肖像画家としての技量は、この一図だけでも認められていい。
しかもこの絵は僅かに柿色の裃と藍地の単衣だけの色彩である。
それでいて、絵にこれだけの厚みと奥行きがあるのである。

巻の裏からすけて見える文字は、「自是二番目新板似顔奉入御覧候」とある。
これによって、本図は、第一期につづいて、第二期作品の序図と見るべきである。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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39:四世松本幸四郎の新口村孫右衛門 中山富三郎の梅川

2013年02月03日 | 東洲斎写楽撰 全40点
39:四世松本幸四郎の新口村孫右衛門 中山富三郎の梅川

この図は、寛政六年八月桐座上演の二番目狂言、近松の梅川忠兵衛の「冥途の飛脚」を書き替えた「四方錦故郷旅路」の新口村の段を描いた作である。

恋ゆえに金につまって封印切りの大罪を犯してしまった亀屋忠兵衛は、恋人傾城梅川と死出の旅に立つ。
最後の一月、実父新口村の孫右衛門に会いたいと親里を訪ねる。
そこではからずも、孫右衛門に出会い、もちろん孫右衛門は梅川とは知らなかったが、草履の鼻緒の切れたのを直したり、何くれとない親切に、これが息子に大罪を犯させた梅川と知り、追っ手を逃れる抜け道をそれとなく教えて二人を落としてやるという情味豊かな場面である。

その二人の心の交流が、この絵にはあふれている。
ことに富三郎の姿(演技といってもいい)に、舅につくす心情が、こよりをよる指先にまでにじみ出ている感じで、
そこには遊女でいながら遊女らしくない、女としての美しさが見られるところに写楽の偉大さがある。
役者を描き、その役柄の心情までも描写しているこの作品は傑作の一つといっていい。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、
忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、
現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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38:二世小佐川常世の竹村定之進妻桜木

2013年01月27日 | 東洲斎写楽撰 全40点
38:二世小佐川常世の竹村定之進妻桜木

この図は、寛政六年五月河原崎座の「恋女房染分手綱」に登場する小佐川常世役の桜木である。

この常世という女形は、愁嘆事に秀いで、花やかさに乏しく「実六分花四分」と評された役者である。
しかし当時の有名な女形であった瀬川菊之丞、岩井半四郎につぐ名女形であった。
そうした常世の芸風が、この絵では実によく描出されていて、写楽の役者絵の本質を実によく具現しているといっていい。
顔面描写の固さにも、打掛の緑に対して、着物の薄紅の対照にしても、襟の白の部分を広くとったことにも、どこか寂しさがあり、切腹して果てる妻の心情といったものが如実に感じられ、ごく地味な絵であるが、写楽の芸術を知る上では、最も重要な作品の一つであると思う。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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37:市川男女蔵の関取雷鶴之助と二世大谷鬼次の浮世土平

2013年01月20日 | 東洲斎写楽撰 全40点
37:市川男女蔵の関取雷鶴之助と二世大谷鬼次の浮世土平

この図は、寛政六年七月河原崎座上演の「二本松陸奥生長」という伊達騒動を扱った狂言の登場役者である。

この絵は、ここでも写楽の機構美が発揮されているのを見る。
それは四本の刀の枠の中に二人の役者の姿態がカッキリと構図されている巧妙さである。
そこに画面としての美しさと、舞台上の美しさが印象深くわれわれに迫ってくる。
姿態といえば、立ち身の鬼次の後ろ向きの、しかも尻をくるりと此方へ向けた大胆な描写には、誰でもが一驚するところであろう。あまりにふてぶてしいこの姿態からは、この浮世土平という悪役の役柄の演技上の最高の描写が行われているのを見る。とても他の絵師の及ぶところではない。
これに対して男女蔵の力士の姿態は、まことに整った歌舞伎の見得の美しさが描かれていて少しの奇もない。
その整調と、鬼次の破格の姿態との間に少しの不自然さもなく結びついている格調は、やはり写楽の芸術の卓抜さである。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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36:岩井喜代太郎の二見屋娘お袖

2013年01月13日 | 東洲斎写楽撰 全40点
36:岩井喜代太郎の二見屋娘お袖

この図は、寛政六年七月、河原崎座上演の二番目狂言「桂川月思出」に登場する二見屋という宿屋の娘役である。

この絵は写楽第二期作品の細判中では出色の出来である。
黄摺背色に、さらに黄八丈の縞を着物に描いたところに写楽の大胆な色彩感覚があるといっていい。
全体にこの黄っぽい色彩をかっきりと引きしめているのが、黒い襟と裾廻し、そして濃緑の帯である。
この二つの色の寸分の狂いのない位置の効果には素晴らしい写楽の芸術感が巧まずに現れている。

さらにこの絵を見事にしているものに、姿態の彎曲した歌舞伎の女形の女らしい描写がある。
しかもこれを助けるものとして、左手の位置、そのもつ長煙管と左手で煙草をつめている、その左手の位置がある。
この技巧は驚くべき写楽の芸術であって、写楽が歌舞伎を熟知し、歌舞伎を実際に描写したことを示すものである。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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35:三世坂田半五郎の子育観音坊と三世市川八百蔵の不破伴左衛門

2013年01月06日 | 東洲斎写楽撰 全40点
35:三世坂田半五郎の子育観音坊と三世市川八百蔵の不破伴左衛門

この図は、寛政六年七月都座の「けいせい三本傘」に出演した俳優を描いたものである。
この絵ほど歌舞伎の独特の見得の美しさを感じさせる作はない。
それほどに歌舞伎の舞台の瞬間美が見られる。
その二人の見得の美しさを、写楽はくの字とへの字の交錯によって成立させている。
即ち半五郎のくの字、八百蔵のへの字の姿態美である。
そしてこの二人が八百蔵の刀によってがっちりと結び合って渾然の美が形成されているのである。

配色は、半五郎が紋綸子と鼠の僧衣という単純に対し、八百蔵の織物の上下の複雑な色調の対映、これがこの絵をまた美しいものにしている。
写楽の配色の神経のこまかさがここにも現れている。
第二期の二人立大判作品中では、最も画面にもり上がる生き生きとした芸術美を感じさせる傑作といえよう。
なお、不破判左衛門の上下の模様、雲の模様は、歌舞伎の古くからある不破、名古屋の狂言以来、不破の役の定まった模様である。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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34:尾上松助の松本造酒之進

2012年12月30日 | 東洲斎写楽撰 全40点
34:尾上松助の松本造酒之進

この絵は写楽の作品中最も地味な絵でありながら有数の傑作といえる。
これは寛政六年五月の桐座の狂言、「敵討乗合話」の内の役で、浪人した上貧困のうちにあって、志賀大七(ニ一座)のために殺害される役であるが、その寂しい疲れた不運な生活を送る造酒之進の役柄の境遇、性格が画面ににじみでている。
着物は濃緑で、だこれ一色の絵といってもいい。
この地味な着物に対して、やつれた、月代ののびた、鼻の下やあごの薄くのびた髭、うつろのような眼に、そのやつれが如実に感じられ、まさに芸質の物凄い再現といっていいであろう。
扇子をもった手にも力がない。
そこにもうらぶれた浪人の境涯が感じられる。

この松助は、後に松緑となり、息子が三世尾上菊五郎であり、文化時代に名優となった人で、「小幡小兵次」や「天竺徳兵衛」といった怪物物、ケルン物を演じて名をなした。
文化十二年、七十三歳で没した。この五月狂言でも敵役佐々木岸柳を勤めているが、写楽はことさらにこの造酒之進の方を描いている。
それもこの陰影の多い役柄に魅せられた結果と考えられ、いかにも写楽らしさが感じられる。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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33:沢村宗十郎の名古屋山三と三世瀬川菊之丞の傾城かつらぎ

2012年12月23日 | 東洲斎写楽撰 全40点
33:沢村宗十郎の名古屋山三と三世瀬川菊之丞の傾城かつらぎ

この図は寛政六年七月都座の「けいせい三本傘」の出演俳優を描いた作である。

この図で気のつく第一のことは、その色彩が背色の白雲母摺と対映して他の写楽の作品と比較して最も派手であるということである。
名古屋山三の着物の宝づくしの模様も派手であり、かつらぎの薄紅の着物も派手である。
しかしこの派手さを、かつらぎの打掛の黒が中央に位置して、しっかりと引きしめて、この絵を安定させているのは流石である。

第二に気のつくことは、その構図の機能美である。
左上から画面を三角にとった思い切った構図に加えて、この絵はいくつかの三角形の集積によってなっていることである。
さらに三角形の右辺を五段に段階をつけて単調をふせぎ、同時に調和を見せている。
三角形を基調とする構図は写楽独特のもので、他の図にも見られるが、本図が最もその特徴を見せている。
以上の配色に対する神経と、構図上の機構美(空間の利用といってもいい)によってこの絵は生き生きと整っている。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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32:市川男女蔵の富田兵太郎

2012年12月16日 | 東洲斎写楽撰 全40点
32:市川男女蔵の富田兵太郎

この図は、寛政六年七月、河原崎座で上演の「二本松陸奥生長」の市川男女蔵役富田兵太郎を描いた作で、父親の介太夫が川島治部五郎に殺害される場にかけつけ、闇夜に提灯を治部五郎に差しつけ、刀に手をかけている姿は、「二世大谷鬼次の治部五郎」と対になるものである。
暗夜を行く不安定な気分が、その足の運びに如実に示され、この役柄の表情が完全に描出されている。
一見平凡に見えていて、写楽の神経の細かい観察力の非凡な手腕を知ることができる。

着物の薄紫に、袴の濃い草色か、背色の鼠地と落ち着いた配色を見せ、「二世大谷鬼次の治部五郎」と併せ見ることによって、さらに効果的である。
落款は東洲斎写楽であって、同じ細判でも、後の単に「写楽画」とあるものとは格段の出来栄えである

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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31:二世瀬川富三郎の大岸蔵人の妻やどり木と中村万世の腰元若草

2012年12月09日 | 東洲斎写楽撰 全40点
31:二世瀬川富三郎の大岸蔵人の妻やどり木と中村万世の腰元若草

第一期の作品中に含まれる二人立半身像は、いずれも色彩にも人物にも一つの対照を見せているのが特徴である。
この図でも、やせた富三郎と肥った万世との対照、比較的薄色の配色の富三郎と濃い色彩の万世との対照がある。
そこに均衡と画面の安定がある。
また神経質的な鋭角的な富三郎の面貌に対して、万世は丸みのある豊顔、さらに眼の描き方、手の方向これも対照的である。
この一つの対照が、どうにも動かせない必然的な構図となってわれわれに迫力となって迫ってくるのである。
この写楽の技巧は、二人立半身像で常に用いるにもかかわらず、われわれを魅了する力がある。
そこには寸分のすきもないのである。

この図は寛政六年五月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」の登場人物である。
やどり木の図は「二世瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木」にも描かれている。。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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30:中山富三郎の宮城野

2012年12月02日 | 東洲斎写楽撰 全40点
30:中山富三郎の宮城野

この絵について、私はあえて女形を描いた写楽の作品中の最上位におきたい。それほど私にとっては名品である。寛政六年五月の桐座上演の「敵討乗合話」で、親の敵志賀大七を妹のしのぶとともに討つ役、宮城野がこの絵である。中山富三郎は、「ぐにゃ富」と綽名された役者である。舞台上の動作、仕科、口跡などにぐにゃぐにゃした特徴があり、そこに女らしさをあらわして当時人気のあった女形である。その芸風をもつ富三郎という役者が、これほど切実に絵画となって表現されていることは、まことに驚異であり、写楽の偉大さを感ぜずにはいられない作品である。顔面描写にも、肩からの線にしても、左手の上げ方、指の描写にしても、すべて富三郎の芸風、性格を如実に描いているといえる。長い顔、つりあがった眉、小さな眼、しゃくれた頬におちょぼ口、一見不思議さの中になにか華やいだ、なめらかな印象を与えている。そして全体の姿態からゆったりとした雰囲気があって見る人に和やかな気分にさせる。写楽の絵は、人間を描き、その芸風を描き、僅か半身でありながら舞台上の雰囲気までも感じさせるのである。

中山富三郎については「三世市川高麗蔵の亀屋忠兵衛と中山富三郎の槌屋梅川」の解説に記してある。
東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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29:二世大谷鬼次の奴江戸兵衛

2012年11月25日 | 東洲斎写楽撰 全40点
29:二世大谷鬼次の奴江戸兵衛

この絵は写楽作品中ではよく知られた有名な絵である。寛政六年五月の河原崎座上演の「恋女房染分手綱」に登場し、悪人鷲塚八平次の手下の役である。勿論悪人の一味でありこの絵を一見しただけで、敵役大谷鬼次のマスクに、またポーズにも敵役そのものの凄味が現れている。無理にも引きゆがめられて一文字に結ばれた口、角形の紅隈で限られた二つの陰惨な眼、パッとひろげられた両手の表情には、見る人を引き込むような迫力がある。悪方の一瞬が、これほど緊迫感をもって描かれている絵はない。その緊迫感は、突き出した顔面を大きく描き、そこに重点が置かれているので、迫る力に圧倒されるのである。両手の描写にいささか不自然があるが、それはむしろ一つの雰囲気として必要であるだけで、さして問題ではない。それよりも、この絵を傑作にしている一つの要素は、その色彩にある。大敵でない、それでいて憎らしい、という端敵役であるために、その衣裳はかえって安手に派手であるのは歌舞伎の常道で、その役柄の色がここに出ている。紅殻色の地に黄の縞も派手なら、襦袢の紅、着物の裏の濃緑も派手である。この派手さが、不気味なマスクをさらに憎たらしく見せている。写楽の芸術を直截に知るにいい作である。

二世大谷鬼次については「二世大谷鬼次の川島治部五郎」の解説に記してある。
東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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28: 二世沢村淀五郎の川つら法眼 坂東善次の鬼の佐渡坊

2012年11月18日 | 東洲斎写楽撰 全40点
28: 二世沢村淀五郎の川つら法眼 坂東善次の鬼の佐渡坊

この絵は、寛政六年五月、河原崎座の切狂言として上演された「義経千本桜」の内川連館の場に登場する二人を描いたもので、写楽の第一期の半身二人立図のうちの一つである。右の淀五郎の川連法眼は、吉野山にのがれた源義経をかくまっている役、一方左の鬼佐渡坊は、その義経を狙う悪僧横川覚範の手下の悪坊主である。つまり善悪二人の対照をここに描いているわけであるが、他の二人立でいろいろの対照を見せているように、この絵でも、淀五郎の口が開いているのに対して善次のは結ばれているとか、淀五郎は指を握っているのに対し、善次はパッと開いている、淀五郎の長髪に対し善次坊主頭などの対照を見せて、画面に変化を与えている。二人の役者の顔面描写は写楽独特の迫力があり、一人一枚の絵で見たいくらいである。この場に登場する役としては、静御前、佐藤忠信、横川覚範があり、普通ならば川連法眼にこれらの人物を配すのが普通であろうが、写楽は他の図でもそうであるように、そうした常套にとらわれずに作画している。というのは、淀五郎、善次のマスクに自己の芸術を発揮する意欲を感じたことによると思われる。そこに写楽と他の絵師とのちがいがある。

二世沢村淀五郎は、当時実悪方で「上上白吉」(上上吉に届かないため吉の字を白抜きにしたもの)の位置にあり、坂東善次については「岩井喜代太郎の鷺坂左内の妻藤波と坂東善次の鷲塚官太夫の妻小笹」の解説にも記したが上級の役者ではなかった。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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27:二世市川門之助の伊達の与作

2012年11月11日 | 東洲斎写楽撰 全40点
27:二世市川門之助の伊達の与作

この絵は、寛政六年五月河原崎座上演の「恋女房染分手綱」で、乳人重の井と恋に落ち、主家の役柄が完全に描かれている点、やはり写楽の佳作の一つである。一見平凡のように見えて、やさ男で意思が弱く、じっと我慢して主家を追われる内面的な役柄が、その風貌にも衣裳の色彩にも表現されていて、写楽の描写力の厚み、奥行きがよく示されている。おどおどしたような眼、悲しみをこらえる口もと、躊躇する右手、これらの描写に切実味がある。また衣裳の色彩が和事師の感じを出している。薄紫の着物に下着が黄と薄紅の二枚重ね。この薄い派手な色の配合が役柄のすべてをあらわしている。

二世市川門之助は、初世門之助の養子で四世市川団十郎の門に入り、弁蔵と称し、明和七年に二世門之助を継いだ。風采にすぐれ、舞台は華やかで人気役者であった。和事を主としたが、評判記に「とかく荒事が好きと見ゆるが、此の人はやはりしっぽりした事がうつりませう」とあるように、しばしば市川流の荒事もつとめた。寛政六年十月、五十二歳で没したが、写楽きその追善の絵(間判二枚絵)を描いている。そしてそれは荒事の暫の絵である。


東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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26:松本米三郎のけはい坂少将実はしのぶ

2012年11月04日 | 東洲斎写楽撰 全40点
26:松本米三郎のけはい坂少将実はしのぶ

この絵は寛政六年五月桐座上演の「敵討乗合話」に登場する役で、志賀大七に父を殺され、その敵を討つ姉妹、宮城野としのぶ。そのしのぶがこの図である。敵を尋ねるため、けはい坂の少将という名で遊女となったその姿である。写楽が半身図で、女形を描いた作のうちでは最も穏やかな描写である。それは米三郎が若く(このとき二十一歳)、舞台上の米三郎の美しさそのままに写楽が描いたためと思われる。つまり写楽は好んで異相を描くのではなく、その役者の舞台上の真を描くということを、この絵が証明しているといっていい。また眼もとには真剣味があり、口もとにはいいしれない真実味があるのも、敵を探す娘の心のうちが描かれている。この絵は派手な色彩がまた特色である。小豆色に麻の葉模様の着付け、下着は薄紅に貝絞りの下着、紅の襦袢を懐から右手で見せた派手な色彩は、ただ派手でなく、大きな帯の黒の部分がひきしめている。さらに、左手にもった煙管の斜めの直線が、画面に安定を与えている。

松本米三郎は、上方の女形四世芳沢あやめの子で、二世松本幸四郎の弟子の松本小次郎の養子となって松本米三郎となった。寛政時代の人気女形であったが、文化二年六月、三十一歳で没した。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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