第八芸術鑑賞日記

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軍旗はためく下に(1972)[旧作映画]

2008-02-22 01:24:20 | 旧作映画
 08/1/16、シネマヴェーラにて鑑賞。5.5点。
 深作が自腹を切って作ったという戦争映画の力作。戦後二十数年、出征先で夫を亡くした未亡人は遺族年金をもらおうと申請し続けてきたが、「敵前逃亡で処刑されたため適用外」と拒否されていた。しかし戦時下のこととて証拠はあまりに薄弱。夫の無実を信じる彼女は、同じ部隊にいた生き残りに話を聞きに行くのだったが……飢餓による地獄絵図が繰り広げられたことで有名なニューギニア戦線を描き、戦争、軍隊、天皇に対して問題を投げかけた一本である(15年後に同じ題材で『ゆきゆきて、神軍』が撮られているが、こちらは未見)。
 作品の「形式」としては、妻が生き残りを訪ね歩く「現代」パートとそこで語られた証言による「再現」パートとを交互に描くことで「夫の死の真相は何だったのか」に迫ってゆく『羅生門』式(「藪の中」式)のサスペンス・ミステリーである。ただし、この形式を採った意味は『羅生門』と真逆といってもよい。「藪の中」からは「真実などない」とか「あるのは人間の情念だけだ」とかいったテーマを汲み取れるのに対し(もちろんそう限ったものではないが)、本作の構成は「真実の恐ろしさ」を強調するためにこそ用いられている。だから、最後には真相はほぼ確実なものとして観客に提示されることになる。
 この「形式」の意義づけからも明らかなように、本作は主張ないし問題提起こそを主眼としている。ミステリーという形式は本来、シリアスな題材にエンターテイメント性をもたらす武器にもなりうるはずだが、本作では作り手の意図のためにしか機能していないのだ。あまりにも露骨に政治的なメッセージが含まれており、ために拒否反応を招きがちであることは否定できないだろう。登場人物がやたらとテーマを言葉で語りすぎだし、ラストまでも映像そのものの力ではなくモノローグに頼ってしまうあたりはどうにもいただけない。
 プロット以外の面に目を向けても、たとえば「再現」パートではモノクロ映像を使うなど色々と工夫が見られはするのだが、全体に几帳面で正統派な作りを脱していない。脚本が新藤兼人で監督が深作欣二だと、こうも生真面目(「内容が」ではなく「作り方が」だ)な作品になってしまうのかと少々残念。
 キャストでは三谷昇の哀れな姿が好演。丹波哲郎は面構えがふてぶてしすぎるため本作にはミスキャストではなかったか。左幸子は脚本上いかんともしがたい。
 批判に偏ってしまったが、映画作品としての評価は別にして、題材に興味があるなら観ておくべき一本だろう。

暴走パニック 大激突(1976)[旧作映画]

2008-02-20 23:16:26 | 旧作映画
 08/1/16、シネマヴェーラにて鑑賞。6.0点。
 深作による和製70年代B級アクション。と一言でまとめてしまえばことは足りるかもしれない。銀行強盗を繰り返してきた主人公が海外逃亡を図るが、最後の失敗で死んだ相棒の兄が金を奪いにやって来て、さらに当然ながら警察も追ってきて、同棲相手の邪魔な女がついてきて……と身も蓋もない類型的キャラクターたちが入り乱れ、最後は一般市民も巻き込んでの無茶苦茶なカーチェイスで幕を閉じる。
 銀行強盗をスピーディかつ荒々しく描くオープニングは大いに期待を抱かせるのだが、肝心のクライマックスにおけるカーアクションにキレがない。「暴走パニック」をタイトルに冠している以上、これは致命的だ。プロット上の意図としては、様々な人間(車を愛する男、修理屋、暴走族、TV放送局などなど)を巻き込んでギャグのようにカーチェイスがエスカレートしてゆく様を有無を言わさぬ迫力で押し切る……はずだったのだろうが、その過程があまりにも取ってつけたようないい加減さのために白けてしまい、それはB級だからと目をつぶるにしても、アクションそのものの力が弱いためにダレてしまう。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう、と考えてみると、これはやはり深作演出の性質からして不可避のものだったのではないか。もともとアクションにおける深作の十八番は、フレームを気にせずに被写体と共に動きまくり揺れまくるカメラである。これは、単に「人が走っているだけ」というような場面すらも迫真のアクションシーンとして成立させてしまう力を持っている。この方法論においては、「実際に何が起こっているか」ということは二義的な問題と化す。
 しかし、カーアクションというのは「実際に起こっていること」を見せてこそなんぼのものである。実際に車がクラッシュする映像を、実際に車と車が激突する映像を、実際に車が暴走している映像を、見せることが第一義だ。もちろん撮影上のトリックは仕掛けられているものの、少なくともそのように見せるということが肝心だ。これをしっかり見せるというのは、いつもの深作演出ではカバーできないものなのではないか(カーアクションはある程度引いた位置からのフィックスに近いカメラで捉えないと、何が起こっているのかわからなくなる)。だから皮肉なことに、「銀行のカウンターの上を男が走っている」という予算ゼロで撮れるようなオープニングのシーンの方が、車を何台も使って撮られたクライマックスよりも、アクションとしてスクリーンに映えているのである。ここに深作演出の凄みと限界とが同時に見え隠れしているような気がする。
 クライマックスにポール・グリーングラスばりの編集が施されていたならともかく、この仕上がりでは「好事家御用達のB級アクション」という域を出ていないだろう。中盤までは飽きずに楽しめるので切り捨てるには惜しいのだが。

大脱走(1963)[旧作映画]

2008-02-19 23:34:13 | 旧作映画
 08/1/14、新文芸座にて鑑賞。7.5点。
 映画史上最も知られた脱獄ものの名作であり、ジョン・スタージェスがオールスターキャストを集めたハリウッド大作。第二次大戦中、ドイツ軍の捕虜収容所から250人もの連合軍兵士たちが脱走を企てる……という荒唐無稽な冒険譚、のように見えてなんと実話に基づいた物語である。
 実話ベースであるがゆえに魅力的なエピソードの数々には事欠かず、3時間近い長尺を全く飽きさせずに見せてしまう。特に素晴らしいのは、中途半端に人間ドラマで深みを出そうなどと欲張らず、「脱走」そのものに焦点を絞った点である。脱出の計画、実践、結果を丁寧に描いていくその過程が抜群に面白い。基本的には「トンネルを掘って地面から逃げる」というだけのシンプル極まりない計画だが、それを実現するために、リーダーの「ビッグX」をはじめ、「情報屋」「偽造屋」「土処理屋」「製造屋」「測量屋」「仕立て屋」「警備屋」「調達屋」……とそれぞれに役割を担ったキャラクターたちが「大脱走」のために各自の仕事をこなしてゆく。実話ならではのリアリティが最大限に効果を発揮しており、ディテールにこだわることの美学を教えてくれる。その意味で、小道具からトンネルまでを再現した美術班の仕事こそが本作の真の主役である。そこにスターたちをキャストとして起用し、金をかけた大作として仕上げれば、これはもう娯楽活劇として面白くないわけがないんである。
 しかし、計画が実際に実行される後半から作品の趣は大きく変わる。つまり、戦時下での脱獄物語は単に「脱獄」では終われないのだ。捕虜収容所から脱出したら、次はドイツ国外へと脱出せねばならない。250人が一丸となってのチームワークが描かれた集団劇から、各人が独力で逃げ続ける個人戦へと、「大脱走」は第二段階へ移行するのだ。ある意味「スター共演」というウリはこの後半でこそ発揮され、スティーヴ・マックイーンがバイクで疾走する有名なシーンもここで見られる。
 しかし、この後半でのジョン・スタージェスの演出はあまりにも鈍いのではないかと思える。主要キャラクター数名をクロスカッティングで並行して描いていくのだが、テンポが急速に落ちる印象を否めない。もしそれが意図的なもので、「娯楽に徹した前半」と「孤独な戦いに悲壮感漂う後半」という対比をプロットで生みたかったのなら、前半の高揚感も後半の悲壮感もそれぞれ盛り上げが足りない。要するにコントラストのつけ方が下手ではないかと。
 逆にいえば、この難点を克服していればさらなる傑作になりえたのではないかと思うのだ。酒を開発して独立記念日を祝うシークエンスや、「ベッドに飛び乗ったら底が抜ける」シーンなど、「捕虜」の身の上でありながらもユーモアを交えて描かれてゆく前半は、かなりの快走を見せている。ここで脱出のカタルシスへの高揚をもっと盛り上げ、そこからより悲壮さを強調した後半へと繋げれば、前後半ともに凄まじいテンションを持った傑作になったのではないかと、そんな想像をしてしまう。
 もちろん、いずれにせよ必見の名作であることに変わりはない。誰もが耳にしたことのあるエルマー・バーンスタインのテーマ音楽も忘れてはならないだろう。

荒野の七人(1960)[旧作映画]

2008-02-16 02:36:23 | 旧作映画
 08/1/14、新文芸座にて鑑賞。6.0点。
 ご存知『七人の侍』('54)をジョン・スタージェス監督によってハリウッドが翻案した西部劇の名作。日本の映画ファンはどうしてもオリジナルとの比較に議論を持っていきがちだが、本作に関してはそれも悪くないと思う。単に「原作と映画化」とか「オリジナルとリメイク」というのではなく「時代劇と西部劇」というジャンルをまたいでの翻案であるだけに、比較して論じることで各々について建設的な考察が生まれないとも限らないだろう。まぁそもそも基本的なプロットがこれだけそっくりでは比べたくなるのが自然な人情というものだ。
 (1)オリジナルの207分に対し、128分と大幅に短縮された上映時間……『七人の侍』より『椿三十郎』('62)の方が好きな俺としてはありがたいコンパクトさである。これはやはり本作がエンターテイメントに徹する上で避けられなかった選択であり、オリジナルより好きだという人が多いのも理解できるところである。しかし、七人の主要登場人物を描ききれていたかと考えると首肯しがたいのもまた事実であり、生真面目にエピソードを積み重ねてゆく橋本忍脚本との齟齬が最も露呈された面ではないかと思える。これは弱点だろう。それから、オリジナルを先に観てしまっている人にはどうしてもダイジェスト版のように見えてしまう。
 (2)オリジナルのスタンダードサイズに対し、シネスコのワイドスクリーンであること……『七人の侍』より『用心棒』('61)の方が好きな俺としては嬉しいダイナミズムである。やはり一つの村全体を舞台にして多数の人間が暴れまわるという展開には、横に長いサイズでなければ窮屈さがつきまとう。まぁこれは純粋に時代の問題か。
 (3)オリジナルのモノクロに対し、カラー映像であること……これは単に時代の問題と言えるかどうか。『椿三十郎』がカラーになるのはまぁ想像できる(椿の色は大事だし。リメイクされたし)。しかし『羅生門』をカラーにするのはあまり想像したくない。宮川一夫の発案で「墨汁を混ぜて雨を黒くした」という有名なエピソードを思い出してみれば、モノクロであることは単に色彩の有無の問題ではなく、それ自体として意義があるのだと知れるはずである。だから『七人の侍』がモノクロであることは正しい。そして『荒野の七人』がカラーであることも正しい(「荒野」はやはり茶色であってほしいのだ)。
 (4)剣が銃に持ち替えられたこと……時代劇が西部劇に変わったという以上、これが最大の変化である。しかしところで、銃とは飛び道具であり、下手でも数撃てば当たる可能性が大いに上がり、どれほどの達人でも下手な射手の弾を「よける」ことはできない。決闘のように一対一で早撃ちが要求される形式ならばともかく、集団での銃撃戦において強い者が生き残るという保証はない。多人数に囲まれた一人の剣客が敵をバッサバッサと切り伏せて勝利するというチャンバラはありえても、多人数に一斉射撃を受けたガンマンが一瞬で全員を打ち倒して勝利するというファンタジーはありえない(だからジェダイの騎士たちはライトセーバーを手にすることになる)。その意味で、時代劇が西部劇になるというのは単に剣を銃に置き換えれば済む話ではないのだ。だから、誰が死ぬか、というシナリオの選択において、本作はオリジナルよりもご都合主義であり、リアリティに欠ける、というのを否定できまい(それがいいか悪いかは別にして)。
 (5)オリジナルの野武士が完全に描写を削がれているのに対し、敵である無法者たちの首領に人間味が付与されているということ……これまた非常に大きい。『七人の侍』における「野武士」とは、感情移入の余地を残されず、表情の全く見えない存在である。それは、作品を「正義が悪と戦う」という図式で観ることを禁じ、「人間がエイリアン(他者)と戦う」あるいは「人間が災害と戦う」と言ってもいいような巨大な敵の観念を作り上げることに成功していた。それと比べると、本作における無法者たちは実にちっぽけな人間であり、単なる悪人である。しかしだからこそ、七人には「正義」の名が与えられる。
 (6)ラストの印象が全く違うこと……これはつまり、『七人の侍』は「百姓」を描いた映画でもあったということ、『荒野の七人』はハリウッド映画であるということ、をそれぞれ端的に示しているにすぎない。作品の「優劣」とは別問題だ。「好悪」をいうなら俺は侍たちの哀愁を迷わず選ぶが。
 ……という以上の6点は、いま思いつくままに並べたものであって、必ずしも特に重要な6点というわけではないかもしれない。ともあれ羅列することで何が言いたかったかというと、両者ともに極めてはっきりとした一貫性を持っているということである。黒澤明は世界映画史に残る巨大な一本をものにし、ジョン・スタージェスは非常に完成度の高いエンターテイメントをものにした。あえてこの二本を取り上げてどちらが良いの悪いのと言う必要はないだろう。
 ただし、そのことはつまり、西部劇のファンでなければ本作を観る意義は決して大きくないということを(残念ながら)意味してはいるかもしれない。個人的にはこのくらいの点数で。それにしても、オリジナルの後に観たせいで128分でもテンポ遅いなぁと感じてしまったのにはいささか閉口した。

狼と豚と人間(1964)[旧作映画]

2008-02-15 03:14:47 | 旧作映画
 08/1/12、シネマヴェーラにて鑑賞。7.5点。
 『仁義なき戦い』との二本立てだったから、というだけの理由で気楽に見始めたのだが、これが思わぬ傑作であった。個人的には深作のベスト候補。これだから名画座の二本立ては侮れない。
 題材に関しては、『豚と軍艦』('61)に『現金に体を張れ』('56)を放り込んだような、と形容すればいいだろうか。スラム街に生まれた三兄弟がそれぞれにドン底人生からの脱出をはかり、そのために敵対し、袋小路に追いつめられていく。実際のスラム街のロケ撮影だという話も聞いたが、そのリアリティは今村演出の力強さをすら連想させるのだ。さらに、物語の核となるのはヤクザからの現金強奪という事件だが、白昼、駅の雑踏の中で行なわれるその犯罪劇はまさに『現金に~』の競馬場そのままであり(もちろん一場面だけの類似であって、緻密さは天と地だが)、それがアクションの人である深作によって演出される(ちなみに渋谷駅でのゲリラ撮影だという)。
 全体のプロットとしては、スピーディに急展開する前半から粘っこい密室劇である後半へ、という流れが実にお見事。まずはオープニング、スタッフ・キャストのクレジットを出しつつ、静止画にナレーションをかぶせて三兄弟の生い立ちを無駄なく簡潔に説明してしまう。BGMは軽快なジャズだ。この速度で期待は高まる一方。さらに続く序盤の数分で、「母の死」という一つのエピソードによって三兄弟の確執とそれぞれの選んだ道が示される。長男のイチローはヤクザ組織の幹部。上下関係に気を配って地位を守ろうと必死である(豚?)。次男のジローは刑務所帰り。兄の組から現金と麻薬を奪取せんと計画を練る(狼?)。三男のサブは実家で母の面倒を見ていたが、その母も死んだ。未来を切り拓けないものかと仲間たちと息巻くが、何一つ具体的な道は見えてこない(人間?)。そして前半の山場となるのが、サブと仲間を計画に引き入れたジローによる現金強奪事件である。ここまでのスピーディな展開は現代のクライムサスペンスとしても通用する流麗さで素晴らしい。
 後半。事前に約束されていた分け前の額と手に入れた大金とのギャップから、兄に利用されたことを知ったサブが金を隠し、ここから陰湿極まる後半が始まる。サブとその仲間を隠れ家でひたすら拷問し続けるジロー。序盤でスラム出身の悲哀を強調しているだけに、互いの必死さにも十二分に説得力がある。そして弟の不始末を解決するために長男がやって来るに至って、三人の運命が交錯することになる。仲間ともども実の兄に拷問されながら、二度とはないかもしれぬ未来への希望のために決して口を割らないサブ。ヤクザに隠れ家を見つけられて進退窮まったジロー。もはや組での栄達の道は閉ざされたも同然のイチロー。どう転んでも絶望的な事態に陥った三人の運命はさていかに……
 というわけで、いつになくストーリーの紹介をごちゃごちゃと書き連ねてしまったが、とにかく脚本が素晴らしいんである。スタイリッシュな和製フィルムノワールと土着リアリズムに基づく人間ドラマとの融合。これを95分の尺できっちりまとめたのが深作の力量を示しているように思う。あくまでも大衆娯楽映画の枠にとどまりつつ、実に見事な完成度だ。
 しかし、九割がた完璧であるためにこそ、残りの一割に深作の限界が見えてきてしまうのも否定できない気がする。特に、最後の最後でどうしようもない「甘さ」が出てくるのには大いに脱力してしまった。それまでのシビアさは何だったんだ、と。「黒澤明と深作欣二は説教臭い」とはよく言われるが。ある意味、「実録もの」としてその手の甘さを初めから排除してしまった『仁義なき戦い』こそはその点を克服しえたものだったのかもしれない。そして、やはり深作映画にはスターのスター性に支えられている面が大きい、という事実は無視できないだろう。たとえば先に引き合いに出した『豚と軍艦』であれば、長門裕之も丹波哲郎も物語と今村演出の骨太さの前に一登場人物としてかしこまる他ない。しかし本作では、三兄弟それぞれのキャストによって物語を支えている部分が極めて大きいのだ。すなわち、高倉健のジロー(ちなみに、いつもいつも義理人情ある男ばかりを演じている高倉健が「弟を拷問しまくる」という本作での役柄を演じているのはなかなか貴重な姿だ)、北大路欣也のサブ、さらに三國連太郎のイチローである。
 とはいえ、現在の知名度はあまりにも過小評価だと感じる。どのような批判があるのだろうと少しネットを検索してみたところ、散見されたのは「図式が観念的すぎる」とのもの。脚本を絶賛していた俺としては思いがけない指摘だったのだが、確かにこれは一理ある。一理あるが、しかしなぜ俺はそのようなことを感じずノレたのか。おそらく、ノワールを観るような気分で前半に臨んでいたのが功を奏したのだろう。多少図式的であることはジャンル映画として当然だし、それを理解したうえでリアリティの線引きをすることになるから、製作者側の用意した設定を素直に受け入れられたわけだ。そして、俺としては「そうやって観るのが正しいのだ」と少々無茶な主張をしてでも擁護しておきたい。
 いずれにせよ、観るべき価値の十二分にある力作であり、日本映画史に残すべき傑作の一つだと思う。

仁義なき戦い(1973)[旧作映画]

2008-02-14 04:47:01 | 旧作映画
 08/1/12、シネマヴェーラにて鑑賞。7.5点。
 かつて仁侠映画にドラマとしての芯を通していた「仁義」を葬り、裏切りと謀略のヤクザ世界を描き出した東映の新路線「実録もの」の金字塔である。そのネームバリューは言わずと知れているだろう。
 60年代。たとえば『昭和残侠伝』シリーズ、高倉健が義理と人情を重んじる男の姿を演じた時代は早くも遠い過去になってしまったのか。老若男女に愛されるヒーローがスクリーンから姿を消してゆくというのは、日本映画がどんどん不況になっていった時代の変化を象徴しているのか。『仁義なき戦い』とはその象徴なのか。最初の二つは「然り」かもしれないが、最後だけは「否」である。本作は数多ある類似作品の中の象徴なのではない。本作「が」歴史の流れを決めてしまったのだ。そう思わせるだけの力を持った傑作である。
 実際にあった「広島抗争」の内実を当事者が記した手記……をもとに、作家の飯干晃一が登場人物を実名のまま書いたモデル小説(というよりノンフィクション小説)……を映画化したのが本作である。もともとの手記の著者である「美能幸三」は「広能昌三」として主人公に……といった具合に実名をもじった名前に変えられてはいるものの、登場人物一人一人のモデルがはっきり特定できてしまう。現役のヤクザたちからどんな反応を受けるかわからない状況で、綿密な取材に基づいてよく整理された脚本を仕上げた笠原和夫の仕事はいくら褒めても足りないだろう。
 というわけで、「実録もの」の最大の武器とは、限りなく実話に近いという事実がもたらす圧倒的なリアリティである。しかし、それを実際にダイナミズムとしてスクリーンに投影したのは紛れもなく深作演出である。とりわけ、トレードマークとも言える「揺れるカメラ」が銃撃などのアクション場面において果たしている役割の大きさには、有無を言わせぬものがある。一枚画としても成立する「完璧な構図」の積み重ねによって作られる傑作がある一方で、フレームを気にせず「カメラの動き」自体を前面に出してゆく傑作があってもいい。前者のみしか認めないような固い態度を取っていては、映画というメディアの重大な側面を見落とすことになるだろう。
 このことから考えれば、よく引き合いに出される『ゴッドファーザー』シリーズとの相違点も明らかだ。マフィアとヤクザを重ね合わせ、群像劇という形式に着目して類似を見出すのは、あくまでも題材、素材の問題である。しかし、ゴッドファーザーで記憶に残るのは具体的な「ショット」であり「シーン」であり「シチュエーション」であるのに対し、本作で記憶に残るのはもっと曖昧な「動き」であり「勢い」であり「流れ」である。
 それから、本作の最大のシンボルを忘れるわけにはいかない。主要登場人物が死んだときに、「○○組(役職名)(人物名)死亡」というテロップに重ねて管楽器が扇情的に吹き鳴らされる……この演出は一種の「発明」と呼んでもいいだろう。一人一人の死に様は忘れてしまっても、この響きが幾度も繰り返されたという記憶だけは残る。そして、それこそが大事なのだ。
 主演は本作でスターの座を不動のものにした菅原文太(広島弁が似合いすぎだ)。この菅原に、金子信雄、田中邦衛あたりも合わせて考えると、キャスティングの意図がどことなく見えてくる気がする。つまり、「実話」を「実録もの」として映画化するにあたっての「デフォルメ」という手法である。濃いキャラクターによる人間味の強調、これは、殺し殺されを繰り返すだけのストーリーに陰影をつけるアクセントとして実に効果的だったと思う。世界観を壊すところまではいかないバランス感覚がまたいい。同時に、松方弘樹、梅宮辰夫らが渋さを見せるのもまたいい。
 ラストは、リアリティを押し出した「実録もの」としての方向性から一気に飛躍し、菅原文太のヒロイズムを一瞬だけ垣間見せる。ここで一貫性がないと鼻白む人もいることだろうが、しかしそれまでの展開に惹きこまれていたなら、もうそんなことには目をつぶって拍手を送らざるをえない。名シーンである。
 日本映画史に欠かせない一本。

市川崑監督逝去

2008-02-14 02:57:47 | 雑記
 いま神保町シアターで「中村登と市川崑」という特集上映をやっていて、今日(2/13)『ぼんち』を観てきたのだが、上映終了後、劇場の廊下に出たら「本日市川崑監督が逝去されました」との貼り紙があって、驚いて立ち尽くしてしまった。やはり知らなかったらしき中年のおじさんは「えっ!」と声をあげて立ち止まり、その他数人がその場で貼り紙に見入ってしまった。
 代表作すらちっとも観ていない俺は、今回の特集でようやく市川崑に触れられる……と喜んでいたのだが、まさかこのタイミングで亡くなってしまうとは。期せずして追悼上映のようになったこの特集、できるだけ通いたいものだ。

ルイスと未来泥棒(12/22公開)

2008-02-11 23:39:49 | 07年12月公開作品
 08/1/10、シネパレス渋谷にて鑑賞。6.5点。
 デジタル3Dをウリに公開されていたが、特別料金の2000円を払う気にはなれず、近場でやっていた2D日本語吹き替え版での鑑賞。
 ピクサーを子会社化したディズニーの、本社製作によるフルCGアニメーションの新作。本家ディズニー(ウォルト・ディズニー・スタジオ)のフルCGアニメというと、『チキン・リトル』『ライアンを探せ!』とこれまでに2本が作られてきたものの、なんとも観る意欲がわかず、ばっさりスルーしてきた。が、今回はピクサーから『トイ・ストーリー』のジョン・ラセターが製作総指揮で参加しているとのことで、一抹の期待を胸に劇場へ。
 結論からいえば、観て損のない良作であり、しかし同時に、興味がなければわざわざ観る必要もない、という実に無難な出来に落ち着いていた。「タイムマシンで未来世界へゆく」というSFファンタジーに、孤児の主人公、家族愛、未来への希望といったテーマを盛り込み、プロット上のギミックとしてタイムトラベルのパラドックスを(子供向けとして複雑にならない程度に)使い、個性的なキャラクターによるスラップスティックなギャグでコメディパートを充実させ、最後は「前へ進み続けよう」というウォルト・ディズニーの言葉を掲げて終わる。実にウェルメイドな秀作であり、きっちりした仕事である。しかし一方で、斬新で目を引くような箇所は一切なく、既視感が強い。前へ進み続けよう、というメッセージが映画作りの姿勢においては全く表現できていないというのが皮肉といえば皮肉な事態ではある。
 個人的に最も問題だと思うのは、発明好きな(というより発明狂の)主人公というキャラクター設定をしておきながら、登場する発明品がどれもこれもありきたりな発想にとどまってしまっているという点である。これがたとえばクレイアニメの『ウォレスとグルミット』であれば、「全自動○○」のような安易な発想でもアニメーションとして大いに魅力的なものとして映る。しかしフルCGアニメで「メモリー・スキャナー(記憶を蘇らせる装置)」のような抽象的な発明品を「音と光のバチバチ」で表現されても全然響いてくるものがないのだ(メモリー・スキャナーには母親の記憶を取り戻したいという物語上の意味があるのだが、それでもなぁ)。こういう細かい部分に匠のこだわりを織り込めるかどうかっていうのはアニメーション作家にとって決定的に大事なことであるはずだ。
 しかしまぁ、良作である。伏線を回収して登場人物たちが一堂に会する大団円はやっぱりいいもんである。

夜顔(12/15公開)

2008-02-10 03:10:45 | 07年12月公開作品
 07/12/26、銀座テアトルシネマにて鑑賞。5.0点。
 同劇場がモーニングショーでやってくれた『昼顔』と続けて鑑賞。
 マノエル・ド・オリヴェイラ、1908年生まれの99歳。誕生日は12月11日と遅いが、それでも製作時に97歳か。映画の歴史に匹敵する長さを生きてきた巨匠の中の巨匠だが、しかしそんな彼の新作は『昼顔』('67)のパロディとしてルイス・ブニュエルへ捧げられたオマージュである。体裁としては、『昼顔』の主人公セヴリーヌと存在感ある脇役アンリとが38年後に再会して……というストーリーの「続編」。セヴリーヌを演じていたカトリーヌ・ドヌーヴはビュル・オジエに交代しているものの、アンリを演じていたミシェル・ピコリは今作にもそのまま登場して快演を見せる。ピコリなくして本作はありえなかったろう。
 個人的にはオリヴェイラ初体験だったのだが、なんとも底が知れず、つかめない老翁であった。そもそも百を迎えようかという年になってもコンスタントに劇映画を作り続けているというだけで未知の化け物だし、しかもそれが「人生の最後に立派な遺作を……」とか「誰かにメッセージを……」とかいった動機によるものではなく、楽しんで撮ったことが伺える「パロディ」なんだから恐れ入る。
 ともあれ本作を一言でまとめてしまうと、「80歳のピコリと67歳のオジエがディナーをとっているシークエンスがクライマックスになる映画」である。オリヴェイラの新作というだけで観ておきたいと思うシネフィルと、ブニュエルの熱心なファンと、キャストやスタッフによほど注目している人物がいるという人と、それら三者のいずれかに将来的になるかもしれないという予感を持った人と、この四者以外には全く意味のない作品だ。退屈して寝る他ない。
 しかしもちろん、この世には「食事をしている」というだけで凄い映画体験を与えてくれる作品がある、そのことを小津安二郎を擁する日本人としては認識しておかねばならない。そして、そうした観点からすれば、やはりこの映画は傑作だと言わねばならないんである。カメラを引いて、テーブルを挟んで向かい合う二人の姿をフレームの中に収める。あるいは二人の顔のアップを切り返しで見せる。そのタイミング、その呼吸、それだけで映画的クライマックスを醸成してしまうというのは、やはり凄いことである。吉田戦車の『伝染るんです』の中に、「距離マニア」なる存在がナンセンスギャグとして登場するが、ここでテーブルを挟んで向き合う二人の姿は距離マニア垂涎の絶妙さだ。
 そしてミシェル・ピコリである。その老練な表情の演技は見応え十分だ。偶然再会したかつての友人の妻をストーキングし、強引にディナーに誘い、終始つんとした彼女をにまにまと見つめながら高級料理を口に運ぶ。そんなじいさんに完璧になりきっている。
 とはいえ、この作品を見せられて、それでどうしろと言うのか。巨匠の名人芸を堪能できる逸品であることは確かだが、しかしあえて言えば「それだけ」である。パロディなのだから、オリヴェイラ自身そのようなリラックスした作品として捉えていたのではないか(「老い」が積極的に取り上げられた作品と見なすことも可能だが)。だから、傑作傑作と持て囃すのはいかがなものかと思ってしまうのである。心底楽しめたというならいい。俺もそこそこは楽しめたのだから理解できる。だが、映画ファンとしての矜持を保つためにとりあえず褒めておこうという風潮があるなら由々しいことだと思う。「上手い」だけで褒められるなんて事態は、美術の世界にも音楽の世界にもない。
 最後にブニュエルのパロディとしては、「東洋人の箱の中身」も「アンリがピエールに語ったこと」も結局明かされないというのがブニュエルへの正しいオマージュであるように思った。

昼顔(1967)[旧作映画]

2008-02-09 16:32:24 | 旧作映画
 学校の課題が終わって一段落したので更新再開しようと思います。


 07/12/26、銀座テアトルシネマにて鑑賞。5.5点。
 これまでルイス・ブニュエルというと『アンダルシアの犬』('28)しか観たことがなく、つまり「シュルレアリスムの人」という印象ばかりが強く残っていたのだが、本作はそれから40年近く後のものである。カトリーヌ・ドヌーヴ主演で耽美的ドラマを描き、ヴェネチアで金獅子賞はじめ三冠を獲得。作風の幅の広さを見せつけられる一本であり、ブニュエルのフィルモグラフィーはちゃんと追わなければ……と認識させられた。
 しかし作風の広さと言っても考えてみれば当たり前で、時代の波にのって20代で撮ったシュルレアリスムから、すっかりヨーロッパの重鎮となった60代後半での本作に至るまで、その40年弱の歳月を考えれば、どんな作家だって様々な意匠をまとうようになるだろう。この間、内戦を挟んで、スペインからアメリカ、メキシコ、またスペイン……と転々しながら激動の時代を過ごし、この数年前から活躍の場をフランスに移している。
 しかし、である。これまた当然のことだが、本質は何も変わっていないのだろう。解釈を拒むように強烈なショットを叩きつける、イメージの作家であるという点において、ブニュエルは何ら変わっていない。不感症の妻が夫に隠れて昼間だけ高級売春宿で働き始める……という基本的なストーリーライン自体は、耽美的エロティシズムを目指した作品としては殊更に騒ぐほどのものではないだろうが、様々な要素がそのラインからはみ出してゆき、耽美どころかどことなく居心地の悪い奇妙な世界を作り出している。
 巻頭一番、画面奥から手前へ走ってくる馬車の、シャンシャンシャン……という音を異様に際立たせた音響からすでに異様である。馬車がとまって、無理やり下ろされたカトリーヌ・ドヌーヴが……という展開でも、扇情的というよりもむしろ乾ききった不気味さが色濃い。それは後半の「牧場」でのシークエンスでも同様である。あの曇天模様。それから、売春宿を訪れた客の一人である東洋人が「箱を見せる」シーンの不条理さ。観客にしてみればむしろ「理不尽」なほどだ。そして反復されるシャンシャンシャン……
 だが、言うまでもなく最大の驚きはラスト5分である。「何が起きたのか」と観客を呆気にとられさせたまま、物語は幕を閉じる。エンドロールを見つめながら解釈をし、なるほどとニヤリとするか、解釈の深みにはまって頭を抱えるか、「やっぱりシュルレアリスムだ」と呆れるか、何だったんだと憤懣を覚えるか、それは各人各様だろうが、おそらく唯一はっきりしているのは、本作の解釈に正解はないということだけであるはずだ。というよりも、たとえば「どのシーンが真実でどのシーンがドヌーヴの妄想だったんだろう」というような「解釈」は、本作に対しての本当の「解釈」ではないのではないか。すべてがブニュエルの妄想だとも言えるし、フィルムに焼き付けられた時点ですべてが真実であるとも言える。
 採点が低いが、不満を感じたのは二点。15分300カットというアンダルシアの幻影が残っていた俺にしてみれば、もっと豊潤なイメージで埋めつくしてほしかった、テンポを早くしてほしかったという思いが鑑賞中どうしても消えなかったこと。そして、これを言っては元も子もないが、カトリーヌ・ドヌーヴがミスキャストに感じてしまったこと。本作での役柄に対してはどうしても違和感がある。ときおりくたびれたような絶妙な表情を見せるのは流石なのだが、全体として平板な印象があるためにどうも具合が悪いと思う。
 ともあれブニュエルの代表作として観て損はない。アンダルシア後を時代順に追ってみたいんだがなかなかレンタルも置いてないなぁ……