08/9/11、シネパレスにて鑑賞。
9.0点。
以下の記事中では、本作がシリーズものの一作であることを強調しているのだが、しかし前作『バットマン ビギンズ』('05)は未見で、さらに正直に言えばティム・バートンによる旧シリーズもまだ観ていない。それでも、IMAX用カメラでオープニングを撮ったというこの作品は劇場公開中にスクリーンで経験するべきだろう、と思って足を運んだ。その結果はこの採点である。すでに公開から一ヶ月以上経っているが、未見の方は(設定などについての最低限の知識は持った上で)今もっとも優先して駆けつけるべき傑作だ。
第三者に見せることが意図された作品にとっての大原則は、言うまでもなく「結果がすべて」だということである。さもなければ、世の中にゴマンと溢れる(そしてその大半は才能が足りない)クリエイター志望者たちの努力が報われないのはおかしいということになってしまう。しかし、ある一つの作品がどれだけの「強さ」を持ちうるのかということは、その「結果」の内に否応なしに示されるところの、作り手の覚悟によって決まる。これは俺にとって、そうであってほしい、という願望ではない。事実そうなっている、との確信だ。
二年前、『スーパーマン リターンズ』('06)を撮ったブライアン・シンガーは、三部作のうちすでに二本目までを手がけていた『Xメン』シリーズを放り出してまで、スーパーマンの生き様を描くことを選び、さらに「世界にスーパーマンは必要なのか?」というヒーローものにとって究極とも言えるテーマに挑んだ。しかし今、同じテーマに挑んだこのバットマンシリーズの最新作を前にして、『スーパーマン~』が示した覚悟などは児戯に等しかったのだ、と言わねばならない(……と勢いで書いてしまったが、『スーパーマン~』も必ずしも悪い作品ではない)。
エンターテイメントの衣をまとった上で、どこまで限界を究められるのか。本作でのクリストファー・ノーランの覚悟には涙すらこぼさせるものがあった。作中人物たちの織りなすドラマに泣いたのではない。「いま俺は傑作を目の前にしているのだ」という思いだけで、その折々の場面とは脈絡なく、何度もこみ上げてくるものがあったのだ。
作品の内に示された「物語」によって(つまり、感情移入させられた物語世界内部の感情によって)、人を涙させることは、作り手にある程度以上の力量があれば可能だろう。しかし、何らかの物語を結果的に示しているところの「作品」それ自体の存在(そのような作品が生み出されえたという現実世界の事実)によっては、(驚きや感動を与えられることは多くとも)涙まで流させられることはほとんど無い。それを体験させてくれたのだから、もう個人的には完全に降参である。観賞後、余韻を損ないたくないがために、人通りの少ない脇道ばかりを30分程ふらふらしてから駅に向かった。
個人的には好きでない見方だが、あえて政治的な読みによって形容するなら、奇しくも日本では同年公開となった『ノーカントリー』が「9.11後のアメリカ映画」の最高の成果であったのに対し、本作は「イラク戦争後のアメリカ映画」の最高の成果であると言える。
この二本の最大の共通点は、ともに今後100年以上にわたって映画史に残るであろう強烈な悪役を擁しているということだ。『ノーカントリー』の殺し屋シガーは、他の人間とは異なる行動原理によって動く。空気銃のポンという音とともに、その仕事は唐突に果たされる。彼は我々の理解の外にある存在だ。一方、本作の悪人ジョーカーは、主人公たるバットマンの存在を行動原理にして動く。バットマンとの戦いを楽しみたいがために、次々に殺人を犯す。我々がその狂気に至ることは確かに困難だが、それでも彼がバットマンによって生み出された影として存在する限りにおいて、どこまでも理解できてしまう、いや理解されねばならない存在だ。
そして、正義は自らが生み出した悪に決して勝つことができない……これがこのゲームの(あまりにも残酷な)規則である。
以下、文字を隠していない箇所も含めてややネタバレ気味。
『スーパーマン リターンズ』でのスーパーマンの宿敵ルーサーは人類規模の危機をもたらすが、彼が地上の権力などに野心を持っていたがために、スーパーマンは彼と戦うことで容易に存在意義を取り戻せてしまう。しかし本作のジョーカーには金や権力や女への野心などなく、ただバットマンと戦うことで得られる狂気じみた悦楽が彼を動かす。正義のために戦ってきたバットマンは、自らのせいで罪なき一般人が殺されていくのを止められない。存在の意義が怪しくなるどころか、存在が負の意味合いを帯びてくる。
とはいえ、正義と悪が表裏一体のものであるとか、光と闇は一対のものであるとか、そんなアンパンマン(とバイキンマンの関係)を観ていた頃の俺でも思いついたようなテーマそのものが目新しいわけではない。そのテーマを扱うに際して、どこまで本気の覚悟を持つことができたか、それが全てである。そして本作のプロットは、執拗に繰り返し二者択一を迫ることでそれを示してみせる。バットマンを続けるか、やめるか。敵を殺すか、生かすか。起爆装置を押すか、押さないか。二人の人質のどちらを助けるか……
ここで本来のヒーローならば、二者択一そのものを無効化することができるはずだ。たとえば悪党が人質に銃を向けながら「こいつを殺されたくなかったら○○を渡せ」などと脅してきても、瞬時に悪党を打ち倒し、人質を救出するとともに○○を守りきる。それがヒーローの仕事である。また一度はピンチに陥っても、最後はきっちり帳尻を合わせてくる。「ヒーローもの」の観客が安心して物語を楽しめるのは、ヒーローがその特権的な力によって大団円に導いてくれると信じているからだ。しかしノーランは、二者択一のルールを絶対のものとして厳格化した。本作において二者択一は常に絶対だ。一方を選んだら他方は選べない。「自らの存在に葛藤するヒーロー」は、ヒーローの特権を剥奪して初めて描くことができたのであり、このシンプルかつ凶悪なルールを最後まで守りきったノーランの姿勢からは、並々ならぬ覚悟が漂っている。「離れた場所に捕えられた二人」をめぐる中盤以降、本作が辿り着いてしまった境地に心震わせずにいられようか。
しかし、ということはつまり、本作はもはや「ヒーローもの」ではないのだ。本作のバットマンはヒーローなどと呼ばれる存在からあまりに遠く隔たってしまっている。だから、この陰鬱で重たい物語に[一抹の希望を与えるのもバットマンの役割ではなく、一般市民たち]なのである。もちろん、事実問題としては[バットマンがジョーカーの持っていた爆破装置を壊さなければ二隻とも爆発させられていた]わけだが、それでも物語の上での[「救い」は一般市民によってもたらされるのであって、バットマンの飛び道具などでは全くない](ところで、この武器についても序盤で伏線を張っておいて、「そんなの持ってたのか、知らないよ」などと観客の意識が立ち止まることのないよう配慮している……という念の入れ用はどうだ)。
こうした事情(本作のバットマンがヒーローではないということ)を象徴するかのように、タイトルにも「バットマン」の文字はない。いや、バットマンはもともとヒーローではない、と言うこともできるのかもしれない。スーパーマンのような異星人でもなければ、スパイダーマンのような能力を持っているわけでもない。スーツをまとった一人の人間だ。そんな彼が、[空を飛ぶどころか地上で殺人犯として犬に追い回される]というラストから、暗転してタイトルのクレジット。観客はようやく「暗黒の騎士」の意味を知る(この幕切れ、余韻の残し方まで完璧で脱帽だ)。
では、この映画は「ヒーローもの」である必要はなかったのか? 夏のハリウッド大作として作るためにシリーズものの体裁を借りただけで、本当はオリジナル脚本のサスペンス映画として作ってもよかったのか? もちろんそうではない。[主人公が守りきれずに中途でヒロインが死ぬ]というのも、[悪を倒すことができずに終わる]というのも、フィクションの世界では(もちろんそれ以上に現実では)実にありふれた事態である。後者は言うまでもないとして、前者についてもたとえば近年の某スパイアクションに見られた。しかし、他ジャンルの作品でこうした事態が起こるのと、「ヒーローもの」において起こるのとでは、全く意味合いが違う。この物語の中で起こる悲しい出来事はすべて、単に作中世界での悲しみであるのみならず、「ヒーロー映画」の枠が揺らぎ崩れてゆくことへの悲しみでもある。だからこそ観客は「痛み」を伴う悲しみを覚える。金田一耕助は連続殺人を防げない探偵として有名だが、その物語の中でどれだけ悲しみに満ちた事件が起ころうと、観客は「気持ちよく」悲しむことができる。なぜなら、事件の後で推理を披露できさえすれば金田一の探偵としての存在意義は保たれ、探偵映画の枠は堅固であり続けるからだ。しかし、[人を救えず、悪を倒せない]ヒーローはどうなるのか。それは、連続殺人を防げないどころか、事件が終わった後でも何一つ推理を展開できない探偵に等しい(そのような人物はもはや探偵ではない)。この痛切な悲しみを描くためには、ヒーローがヒーローたりえない「ヒーロー映画」であらねばならないのだ。
では次に、敢えて「バットマン」というシリーズもので描かなくても、オリジナルキャラクターのヒーローを創造し、彼が苦しむオリジナル脚本の作品を作ってもよかったのではないか、という問いに対してはどう答えるべきか。本作は絶対にシリーズものの一本でなければならなかった、というのが答である。事件が起き、探偵が登場するが、彼は推理を展開できず、未解決に終わる……そのような物語は「探偵映画」になりえない。それは単に、その男が実際には探偵でなかったというだけのことにすぎない。しかし、事件が起き、金田一耕助が登場するが、今回の彼は推理を展開できず、未解決に終わる……このような物語があったとして、それはやはり「探偵映画」と呼ぶしかないのではないか。探偵が探偵たりえなかった「探偵映画」であるのではないか。逆に言えば、「探偵が探偵たりえなかった探偵映画」という逆説的な表現は、シリーズものの一本であるという(物語の外部で定められた)事実によって、初めて可能になる。同じことが、「ヒーローがヒーローたりえなかったヒーロー映画」である本作にも言えるはずだ。
矛盾した言い回しを用いなければ作品形式を表現できない。この危ういあり方によって、本作が持ちえた圧倒的な情感は生まれているのだと思う。だから、基本的にはリアリズム路線で描かれたヒーローが、コウモリマントで滑空するという数少ない特性を発揮したり、ときにSF的なギミック(典型的には乗り物であるとか)を用いたり、ありえない面相の敵と対面したり([特にトゥーフェイスに対しては、あの火傷なら皮膚をくっつけないと、といったツッコミを抑えきれない。まぶたが無いのはマズイだろうと気になって仕方ない])……といった非現実的な描写を見せるときにも、それが「あぁそうだった、これは絵空事なんだ」という安心感に繋がらず、「やはりこれは紛れもなくヒーロー映画なんだ、にもかかわらずこんな事態になってしまっているんだ」という歪なコントラストとして感じられ、なお一層の痛みを覚えることになりかねない。
一方では属するジャンルからはみ出してゆこうとする破壊的な力が働いており、他方ではあくまでもそのジャンルの枠内にとどまろうとする力が働いている。同様の試みをした傑作は歴史を紐解けば見つかるかもしれないが、しかし巨大な予算をかけたハリウッドの娯楽大作として、これほど危険な均衡のもとで成立した例は空前のものではないか。「ヒーロー映画」という一つの形式の限界に挑み、それを貫徹しきった大傑作。
それにしても、クリストファー・ノーランという監督が『メメント』('00)で世界に知られたとき、それから十年と経たぬ間にこれほど情感に溢れた傑作をものするなどと、いったい誰が想像できただろう。
ヒーローたりえなかったヒーローは、今回は残念な結果でした、と言って終わるわけにはいかない。本作でヒーローならぬ「ダークナイト」となったバットマンが、果たしてどうなってゆくのか。たとえ失敗作や駄作になったとしてでも、「この次」はあるべきだし、撮ってほしいと思う。ノーランの覚悟はどこまであるか、見続けたい。
上ではテーマと構造を中心に語ってきたが、それらが作品の中で意味を持ちえたのは、ハリウッドにしか不可能なアクションの素晴らしさに支えられてのことだ。本作には、ワンショットで見せきるアクションとか、ポール・グリーングラスばりの編集の凄みとかがあるわけではない。しかし、オーソドックスながらも効果的に見せようと工夫を凝らした演出は、二時間半強の長尺の中で、忘れがたい名場面を切れ間なく連発してゆく。「犯人が減っていく銀行強盗(バスが登場する瞬間のタイミングはケレン味たっぷり)」「車の上に飛び降りるバットマンを正面から捉えたショット」「鉛筆を消す手品(直接的な描写なしでの見せ方が巧い)」「『攻殻機動隊』風のビルからの飛び降り」「トラック大回転」「携帯電話」「リモコンの不具合で一瞬間を置いてからの大爆破(このずらし方は天才的だろう)」「コインを投げてシートベルトを締めるトゥーフェイス」「起爆装置を受け取って[窓の外に投げ捨てる]ワンショット」……
キャスト。すでに散々言い尽くされているように、本作の撮影直後に亡くなったヒース・レジャーの一世一代の名演は見事の一語。しかし、主人公を喰っているとか役作りが凄いとかいった評判とは少々違う印象を受けた。彼の功績はむしろ、ジョーカーというキャラクターがもともと本質的に持っている魅力を最大限まで引き出しえたことではないか。自分なりの造形を施す以上に困難なそれを成し遂げたからこそ、ヒース・レジャーは凄かったのだと思う。一方、正しく主人公であるクリスチャン・ベイルの暗い佇まいも文句なしだ。ただ、アーロン・エッカートが[最初から裏のありそうな]印象を与えるのは少し難点かもしれない。この役は、個人的にはレオナルド・ディカプリオあたりが演じたら面白かったのではないかと思う。
音楽。ジェームズ・ニュートン・ハワードとハンス・ジマーによるスコアは、キャッチーなメロディによるテーマを用いず、そのことでヒーローものの定石を外しながら、無意識のうちにスクリーンに引きずり込んでゆく、劇伴として最高の出来。
間違いなく、ここ数年のアメリカ映画における最重要作のひとつ(ちなみに興行的にも、本国では『スターウォーズ』('77)を抜いて『タイタニック』('97)につぐ歴代二位のヒットだという)。必見。
なお余談ながら、品川のIMAXシアターが二年前から閉館してしまっているのは痛恨事だ。日本では大阪での試写で一回IMAXを用いただけだという。日本の映画ファンの体感被害総額は一億を下らないのではないか。俺も一万くらいまでなら出してもいい。