第八芸術鑑賞日記

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ブエノスアイレス(1997)[旧作映画]

2008-09-21 23:15:15 | 旧作映画
 08/3/14、早稲田松竹にて鑑賞。6.5点。
 香港から見て地球の裏側、アルゼンチンで、ゲイのカップル二人が喧嘩してはやり直し、喧嘩してはやり直し……をえんえん繰り返す物語。であったはずが、主演の一人だったレスリー・チャンが撮影終了を待たずに帰国してしまったりして、現場の進行は難航を極めたらしい。主役の一人がいなくなってしまったわけだから、物語は中盤からテーマを失って迷走し始める……と思いきや、「帰郷」という新たなテーマを見つけてそれにしがみつくことになる。
 この無茶なストーリー(全体を貫くプロットの不在)のために、98分と短い尺にもかかわらず中だるみが激しい。しかも、目的地(物語の到着点)が全く見えてこないままに、「細かいカット割」「手持ちカメラ」などのカーウァイ十八番の演出で疾走し続けるので、どうにも疲れてしまう。カーウァイのファンならもう堪らない至福の時間だろうが、「そこそこ好き」なくらいの俺には荷が重かった。
 しかし、皮肉なことにと言うべきか、この焦点がぼけてしまったストーリーによって、「世界の中の個人」「60億の中の一人ないし二人」という人間存在のあり方を、これ以上はありえないのではないかと思えるほど象徴的に描きえた作品になったと思う。なぜブエノスアイレスなのか全くわからない舞台設定も、結果的にはそのテーマを浮かびあがらせる上では効果的だ。地球の裏側でまで堂々巡りを続ける恋人たちの喧嘩は、ゲイという題材を超えた普遍的なものであるが、さらに恋人たちの関係という題材をも超えて、人間一般の孤独を普遍的に主張するところまで行き着いている……そのあまりにも実のない空虚さによって。そして、それは必ずしも絶望ではないのだろう。だからフランク・ザッパの"Happy together"が高らかに響くことになる。
 モノクロまで用いたクリストファー・ドイルの撮影はいつもながら素晴らしく、ヴィジュアル的な見せ場となるイグアスの滝も最高。しかしこのイグアスに関しては、物語上の必然性をまるで感じさせないので、「とりあえず綺麗な映像を出しておこう」という記号的表現に留まってしまっているのは確かだ(そもそもアルゼンチンという舞台設定からしてそうなのだから仕方ないといえば仕方ない)。
 音楽のセンスもまたいつも通り良い。ご当地アルゼンチンからのピアソラも、フランク・ザッパのロックも、と例によって混沌とした選曲だが、それぞれが見事に作品と合致している。
 欠陥だらけであるにもかかわらず、切り捨てるにはもったいない魅力に満ちた畸形の一本。

人のセックスを笑うな(1/19公開)

2008-09-19 22:48:42 | 08年1月公開作品
 08/3/12、シネカノン有楽町にて鑑賞。6.0点。
 同名の原作小説を書いた山崎ナオコーラは「小説ならではの芸術を作りたい」といった趣旨の発言をよくしているが、逆にこの映画を手がけた井口奈己は、(いかにも自主映画出身の監督らしく)シネフィル的映画脳全開である。長編劇場映画はこれが第二作目で、俺は初めて観た。
 固定カメラによるロングショットの長回し。ほとんど全てのシーンがそうして撮られている。一方、二人乗りの自転車が走るシーンでは、やはり長回しでえんえんと移動撮影を行う。構図とアクションを徹底的に計算したフォーマリズムが貫かれており、物語そのものには弛緩した空気が流れているにもかかわらず、息苦しさすら覚えるような緊張感がある。
 長回しを好む監督にも、そのショットの中のあらゆる要素を思い通りにしたいタイプと、何らかの思いがけない効果が現れることを狙うタイプと、二種類あると思うのだが、井口奈己という人は後者のような気がする。だから、上で「徹底的に計算したフォーマリズム」と形容したのと矛盾するようだが、長回しの中で演技を続ける役者陣にときどきフッと現れる「素」の魅力、それを引き出すことこそが大きな狙いになっているように思われる。また、この俳優の素の魅力によって、作品全体の作り物くささを打ち消すリアリティがもたらされているのも確かであり、その意味では、予測できない効果そのものも大きな視点から計算に含めた演出なのだろう。
 その観点からすれば、本作にとって肝心なのはキャストたちの力量であるが、みな文句なしに素晴らしい。まずは、一種のファム・ファタールを演じた永作博美が、掴みどころのない人物像を完璧に表現して見事。39歳という設定の彼女が、主人公たる19歳男子にとっては理解しきれない存在だということを説得力をもって見せつける。その19歳は松山ケンイチで、カメラが主に追っていくのは彼の姿なのだが、こんなに上手かったのかと驚かされた。それから、蒼井優はやはり実力派だと再確認できる。限られた登場場面で最大限の存在感を発揮し、しかしあくまで脇に留まる。現代日本で最高の若手助演女優だろう。
 極めて強度の高い長回し演出、そこに現れる言葉では捉えきれないリアリズム、それを支えるキャストの力量。137分を完走した後の「映画を観た」という満腹感は圧巻と言ってもいい。
 しかし正直に言ってしまえば、この方向性でどれだけ完成度を上げていっても、それだけでは「優れた映画だ」という以上の感想は出てこないし、新たな何かが達成できるとも思えないのである。プロットそのものはシンプルな恋愛劇に137分の長尺を用い、その全編を均質に高密度な瞬間で埋めつくす。それは確かに凄いことだが、しかし長回しはやはり要所のみで使った方が効果的なのでは、と個人的には思ってしまうのだ(単純に好みの問題もあるだろうが)。
 とはいえ、「優れた映画だ」というだけで十分だというのもまた真実であって、映画好きなら観て損のない一本であることは間違いない。なお、HAKASE-SUNによる音楽も作品の空気に合致していて好きだ。

潜水服は蝶の夢を見る(2/9公開)

2008-09-18 22:08:44 | 08年2月公開作品
 08/3/12、シネカノン有楽町にて鑑賞。7.5点。
 実話の映画化なのだが、反則だろうと言いたくなるぐらいにその「素材」が良い。フランスの一流雑誌の編集長として人生を謳歌していた男が、ある日突然、ロックトイン・シンドローム(閉じ込め症候群)に陥る。簡単に言えば全身麻痺で、彼の場合、動かせるのは左目の瞼だけである。だから、全ての意思疎通は左目のまばたきのみで行わねばならない。そんな状況にあって、その「まばたき」で著された彼の自伝が、この映画の原作である。
 単純な闘病ものとして映画化しても、それはそれでお涙頂戴の名作になっただろうと思われる。しかし、撮影のヤヌス・カミンスキーは、実験的とすら称しうる挑戦を行った。主人公が意識を取り戻す冒頭から、カメラは主人公の視界を疑似体験させようとするのである。片目のみのその視界は狭く、周囲はぼやけている。自らは動けないため、次々に話しかけてくる人々の姿を受動的に見つめるばかりだ。声を発することもできないから、モノローグだけが響く。息苦しい映画体験。
 もっとも、この一人称的カメラで全編が貫かれているわけではない。通常の劇映画らしく、主人公を客観視する三人称カメラが次第に幅を利かせるようになってくる。もし一人称のみで全ての尺を描いていたら、(危険な賭けにはなるが)観客に凄まじい映画体験を強いることになる大傑作が誕生していたかもしれず、その可能性を考えると惜しい気がしないでもない。しかし、この実験的な一人称カメラを「目的」ではなく一つの「手段」として、つまり「工夫された演出」の一つとしてさりげなく用いた上で、通常のドラマとして観られる構成にしているからこそ、本作は万人の心に訴えられる普遍的な傑作となりえたのだ、ととりあえずは肯定的に言うことができるだろう。
 完成した本作は、一人称、三人称、それに「想像」(つまり空想シーン)と「記憶」(つまり回想シーン)、さらに抽象的な自然風景をまじえ、複数の次元の映像を自在に組み合わせながら描いてゆく。個々のショットの映像美はさすがカミンスキーといったところで、文句のあろうはずもない。特に、エンドロールでも象徴的に用いられる(南極か北極と思しき氷山の)氷が崩落する映像は実に美しい。もともと最高級の素材である物語が、最高級の映像によって語られてゆくのだから、本作が傑作になったのは不思議でもなんでもあるまい。原作未読ながら、映画化した意義があると確信させられる。
 ただし、「想像力」や「記憶」をストレートに視覚化してしまったシークエンスや、そこから現実の主人公の姿(全く体を動かせずにベッドに横たわった姿)を三人称的に映し出すショットへのコントラストを狙った移行などは、やや安易な表現かもしれない。
 脚本に関しては、まず見過ごせない難点として、自分の置かれた状況に当初絶望していた主人公が前向きになってゆく、その肝心の過程を描くのが急ぎすぎなので、感情移入していた観客が逆に置いていかれる羽目になってしまう、ということを指摘しておかねばならないだろう。しかし、主人公の置かれた状況がいかに過酷なものであろうとも、決して暗く湿っぽい話にはせず、ユーモアを忘れないタッチは素晴らしい。
 音楽もいい。クラシックからガレージ風ロック(初めて聴いたが、ウルトラ・オレンジ&エマニュエルの"Don't kiss me goodbye"は名曲だ)まで幅は広いが、それぞれに映像とかみ合っている。
 ところで、「まばたき」でどうやって本を書くのか。協力者にアルファベット26文字を読み上げてもらい、使いたい文字のところで目をつぶる。それをひたすら繰り返す。一行の文を書くだけでも凄まじい根気が必要な作業である。同じことを何度も言い回しを変えて試していたら、いつまで経っても終わらない。言葉はあらかじめ吟味されねばならない。普通の人間が何も考えず垂れ流しがちな「言葉」一つを紡ぐのに、途方もない情熱が必要になったなら……そんな疑似体験をさせてくれる作品でもある。個人的にはこのことがひたすら突き刺さってきて、忘れがたい作品になった。単語一つたりとて妥協してはならない。
 万人に薦められる名作であり、万人に観てほしい傑作だ。なおオスカーでは監督賞はじめ四部門ノミネート、カンヌで監督賞受賞。

花様年華(2000)[旧作映画]

2008-09-16 21:43:31 | 旧作映画
 08/3/14、早稲田松竹にて鑑賞。6.5点。
 トニー・レオンにマギー・チャンというトップスター二人を主演に据えてウォン・カーウァイが撮ったのは、技巧を凝らしきって感情移入を排したメロドラマ。互いにパートナーの不倫を知った既婚の男女が、単なる隣人から友人へ、そして……という過程を描いたストーリーは、まさに類型的なメロドラマのパターンそのものである。ストーリーがそんな具合だから、全体の印象も従来のカーウァイ作品のイメージからすると実にオーソドックスだ。MTV風の細かい編集、手持ちカメラ、モノローグ多用……といった常套句は本作には当てはまらない。
 しかしだからといって、この監督も年を重ねて落ち着いた作風になり、しみじみと繊細な表現を見せるようになったのか……などと早合点するわけにはいかない。題材が題材だけに一見したところは落ち着いた佇まいだが、本質的な作家性は変わっていない(いやむしろ、こうした作品でこそ作家性なるものはよく見えてくると言えるかもしれない)。この監督の場合のそれは何よりもまず、あざといまでに技巧を駆使するということだろう。赤を主軸にした官能的な色彩。三面鏡や障害物を利用した凝った構図の画面作り。何着登場するのかと呆れるようなチャイナドレスの衣装。説明を極度に省略して観る者の解釈に任せる語り口。極めつけはカーウァイお得意のスローモーション。クリストファー・ドイルの撮影に支えられた映像美をひたすら堪能する98分である。特に、煙草の紫煙が漂う映像の美しさは最高だ。
 映像のみならず、プロットにおいても技巧が冴え渡っている。特に、直接的なラブシーンが皆無な中で、「練習をする」というシチュエーションを反復しておいて終盤の[抱擁]シーンに繋げるシナリオには惚れ惚れさせられる。また、ドラマそのものはベタで単調であるため、98分と三桁以内に収めた尺も適度でよい。
 しかし、こうした技巧の冴えというのは、通常のメロドラマにおいては不可欠なものであるはずの「作中人物への感情移入」を極端に妨げる結果をもたらしているように思われる。だから、この映画で展開されている男女のドラマは、どこまでも鑑賞物としてのドラマであって、観る者の心をえぐることはない(もちろん異論はあるだろうが、個人的にはそのような偏りを感じられた)。別の言い方をすれば、本作は英題「In the mood for love」が象徴するように、「ムード」を描くこと「だけ」を全編貫いたドラマであり、人に訴えかける何かを描こうとしたドラマではない。評価はここで大きく分かれるだろうが、個人的には「カーウァイはそれでいいのだ」と思う。
 最後に、本作のジャンルを「メロドラマ」と強調してきたのは、この言葉の原義通り、作品の印象を決める重要な役割を音楽が担っているためだ。「夢二のテーマ」をはじめ、弦楽器の響きが映像と完璧に調和して素晴らしい。ナット・キング・コールの「キサス・キサス・キサス」も絶妙。
 一見の価値ある秀作。

ダークナイト(8/9公開)

2008-09-15 23:13:14 | 08年8月公開作品
 08/9/11、シネパレスにて鑑賞。9.0点。
 以下の記事中では、本作がシリーズものの一作であることを強調しているのだが、しかし前作『バットマン ビギンズ』('05)は未見で、さらに正直に言えばティム・バートンによる旧シリーズもまだ観ていない。それでも、IMAX用カメラでオープニングを撮ったというこの作品は劇場公開中にスクリーンで経験するべきだろう、と思って足を運んだ。その結果はこの採点である。すでに公開から一ヶ月以上経っているが、未見の方は(設定などについての最低限の知識は持った上で)今もっとも優先して駆けつけるべき傑作だ。

 第三者に見せることが意図された作品にとっての大原則は、言うまでもなく「結果がすべて」だということである。さもなければ、世の中にゴマンと溢れる(そしてその大半は才能が足りない)クリエイター志望者たちの努力が報われないのはおかしいということになってしまう。しかし、ある一つの作品がどれだけの「強さ」を持ちうるのかということは、その「結果」の内に否応なしに示されるところの、作り手の覚悟によって決まる。これは俺にとって、そうであってほしい、という願望ではない。事実そうなっている、との確信だ。
 二年前、『スーパーマン リターンズ』('06)を撮ったブライアン・シンガーは、三部作のうちすでに二本目までを手がけていた『Xメン』シリーズを放り出してまで、スーパーマンの生き様を描くことを選び、さらに「世界にスーパーマンは必要なのか?」というヒーローものにとって究極とも言えるテーマに挑んだ。しかし今、同じテーマに挑んだこのバットマンシリーズの最新作を前にして、『スーパーマン~』が示した覚悟などは児戯に等しかったのだ、と言わねばならない(……と勢いで書いてしまったが、『スーパーマン~』も必ずしも悪い作品ではない)。
 エンターテイメントの衣をまとった上で、どこまで限界を究められるのか。本作でのクリストファー・ノーランの覚悟には涙すらこぼさせるものがあった。作中人物たちの織りなすドラマに泣いたのではない。「いま俺は傑作を目の前にしているのだ」という思いだけで、その折々の場面とは脈絡なく、何度もこみ上げてくるものがあったのだ。
 作品の内に示された「物語」によって(つまり、感情移入させられた物語世界内部の感情によって)、人を涙させることは、作り手にある程度以上の力量があれば可能だろう。しかし、何らかの物語を結果的に示しているところの「作品」それ自体の存在(そのような作品が生み出されえたという現実世界の事実)によっては、(驚きや感動を与えられることは多くとも)涙まで流させられることはほとんど無い。それを体験させてくれたのだから、もう個人的には完全に降参である。観賞後、余韻を損ないたくないがために、人通りの少ない脇道ばかりを30分程ふらふらしてから駅に向かった。

 個人的には好きでない見方だが、あえて政治的な読みによって形容するなら、奇しくも日本では同年公開となった『ノーカントリー』が「9.11後のアメリカ映画」の最高の成果であったのに対し、本作は「イラク戦争後のアメリカ映画」の最高の成果であると言える。
 この二本の最大の共通点は、ともに今後100年以上にわたって映画史に残るであろう強烈な悪役を擁しているということだ。『ノーカントリー』の殺し屋シガーは、他の人間とは異なる行動原理によって動く。空気銃のポンという音とともに、その仕事は唐突に果たされる。彼は我々の理解の外にある存在だ。一方、本作の悪人ジョーカーは、主人公たるバットマンの存在を行動原理にして動く。バットマンとの戦いを楽しみたいがために、次々に殺人を犯す。我々がその狂気に至ることは確かに困難だが、それでも彼がバットマンによって生み出された影として存在する限りにおいて、どこまでも理解できてしまう、いや理解されねばならない存在だ。
 そして、正義は自らが生み出した悪に決して勝つことができない……これがこのゲームの(あまりにも残酷な)規則である。

 以下、文字を隠していない箇所も含めてややネタバレ気味。

 『スーパーマン リターンズ』でのスーパーマンの宿敵ルーサーは人類規模の危機をもたらすが、彼が地上の権力などに野心を持っていたがために、スーパーマンは彼と戦うことで容易に存在意義を取り戻せてしまう。しかし本作のジョーカーには金や権力や女への野心などなく、ただバットマンと戦うことで得られる狂気じみた悦楽が彼を動かす。正義のために戦ってきたバットマンは、自らのせいで罪なき一般人が殺されていくのを止められない。存在の意義が怪しくなるどころか、存在が負の意味合いを帯びてくる。
 とはいえ、正義と悪が表裏一体のものであるとか、光と闇は一対のものであるとか、そんなアンパンマン(とバイキンマンの関係)を観ていた頃の俺でも思いついたようなテーマそのものが目新しいわけではない。そのテーマを扱うに際して、どこまで本気の覚悟を持つことができたか、それが全てである。そして本作のプロットは、執拗に繰り返し二者択一を迫ることでそれを示してみせる。バットマンを続けるか、やめるか。敵を殺すか、生かすか。起爆装置を押すか、押さないか。二人の人質のどちらを助けるか……
 ここで本来のヒーローならば、二者択一そのものを無効化することができるはずだ。たとえば悪党が人質に銃を向けながら「こいつを殺されたくなかったら○○を渡せ」などと脅してきても、瞬時に悪党を打ち倒し、人質を救出するとともに○○を守りきる。それがヒーローの仕事である。また一度はピンチに陥っても、最後はきっちり帳尻を合わせてくる。「ヒーローもの」の観客が安心して物語を楽しめるのは、ヒーローがその特権的な力によって大団円に導いてくれると信じているからだ。しかしノーランは、二者択一のルールを絶対のものとして厳格化した。本作において二者択一は常に絶対だ。一方を選んだら他方は選べない。「自らの存在に葛藤するヒーロー」は、ヒーローの特権を剥奪して初めて描くことができたのであり、このシンプルかつ凶悪なルールを最後まで守りきったノーランの姿勢からは、並々ならぬ覚悟が漂っている。「離れた場所に捕えられた二人」をめぐる中盤以降、本作が辿り着いてしまった境地に心震わせずにいられようか。
 しかし、ということはつまり、本作はもはや「ヒーローもの」ではないのだ。本作のバットマンはヒーローなどと呼ばれる存在からあまりに遠く隔たってしまっている。だから、この陰鬱で重たい物語に[一抹の希望を与えるのもバットマンの役割ではなく、一般市民たち]なのである。もちろん、事実問題としては[バットマンがジョーカーの持っていた爆破装置を壊さなければ二隻とも爆発させられていた]わけだが、それでも物語の上での[「救い」は一般市民によってもたらされるのであって、バットマンの飛び道具などでは全くない](ところで、この武器についても序盤で伏線を張っておいて、「そんなの持ってたのか、知らないよ」などと観客の意識が立ち止まることのないよう配慮している……という念の入れ用はどうだ)。
 こうした事情(本作のバットマンがヒーローではないということ)を象徴するかのように、タイトルにも「バットマン」の文字はない。いや、バットマンはもともとヒーローではない、と言うこともできるのかもしれない。スーパーマンのような異星人でもなければ、スパイダーマンのような能力を持っているわけでもない。スーツをまとった一人の人間だ。そんな彼が、[空を飛ぶどころか地上で殺人犯として犬に追い回される]というラストから、暗転してタイトルのクレジット。観客はようやく「暗黒の騎士」の意味を知る(この幕切れ、余韻の残し方まで完璧で脱帽だ)。
 では、この映画は「ヒーローもの」である必要はなかったのか? 夏のハリウッド大作として作るためにシリーズものの体裁を借りただけで、本当はオリジナル脚本のサスペンス映画として作ってもよかったのか? もちろんそうではない。[主人公が守りきれずに中途でヒロインが死ぬ]というのも、[悪を倒すことができずに終わる]というのも、フィクションの世界では(もちろんそれ以上に現実では)実にありふれた事態である。後者は言うまでもないとして、前者についてもたとえば近年の某スパイアクションに見られた。しかし、他ジャンルの作品でこうした事態が起こるのと、「ヒーローもの」において起こるのとでは、全く意味合いが違う。この物語の中で起こる悲しい出来事はすべて、単に作中世界での悲しみであるのみならず、「ヒーロー映画」の枠が揺らぎ崩れてゆくことへの悲しみでもある。だからこそ観客は「痛み」を伴う悲しみを覚える。金田一耕助は連続殺人を防げない探偵として有名だが、その物語の中でどれだけ悲しみに満ちた事件が起ころうと、観客は「気持ちよく」悲しむことができる。なぜなら、事件の後で推理を披露できさえすれば金田一の探偵としての存在意義は保たれ、探偵映画の枠は堅固であり続けるからだ。しかし、[人を救えず、悪を倒せない]ヒーローはどうなるのか。それは、連続殺人を防げないどころか、事件が終わった後でも何一つ推理を展開できない探偵に等しい(そのような人物はもはや探偵ではない)。この痛切な悲しみを描くためには、ヒーローがヒーローたりえない「ヒーロー映画」であらねばならないのだ。
 では次に、敢えて「バットマン」というシリーズもので描かなくても、オリジナルキャラクターのヒーローを創造し、彼が苦しむオリジナル脚本の作品を作ってもよかったのではないか、という問いに対してはどう答えるべきか。本作は絶対にシリーズものの一本でなければならなかった、というのが答である。事件が起き、探偵が登場するが、彼は推理を展開できず、未解決に終わる……そのような物語は「探偵映画」になりえない。それは単に、その男が実際には探偵でなかったというだけのことにすぎない。しかし、事件が起き、金田一耕助が登場するが、今回の彼は推理を展開できず、未解決に終わる……このような物語があったとして、それはやはり「探偵映画」と呼ぶしかないのではないか。探偵が探偵たりえなかった「探偵映画」であるのではないか。逆に言えば、「探偵が探偵たりえなかった探偵映画」という逆説的な表現は、シリーズものの一本であるという(物語の外部で定められた)事実によって、初めて可能になる。同じことが、「ヒーローがヒーローたりえなかったヒーロー映画」である本作にも言えるはずだ。
 矛盾した言い回しを用いなければ作品形式を表現できない。この危ういあり方によって、本作が持ちえた圧倒的な情感は生まれているのだと思う。だから、基本的にはリアリズム路線で描かれたヒーローが、コウモリマントで滑空するという数少ない特性を発揮したり、ときにSF的なギミック(典型的には乗り物であるとか)を用いたり、ありえない面相の敵と対面したり([特にトゥーフェイスに対しては、あの火傷なら皮膚をくっつけないと、といったツッコミを抑えきれない。まぶたが無いのはマズイだろうと気になって仕方ない])……といった非現実的な描写を見せるときにも、それが「あぁそうだった、これは絵空事なんだ」という安心感に繋がらず、「やはりこれは紛れもなくヒーロー映画なんだ、にもかかわらずこんな事態になってしまっているんだ」という歪なコントラストとして感じられ、なお一層の痛みを覚えることになりかねない。
 一方では属するジャンルからはみ出してゆこうとする破壊的な力が働いており、他方ではあくまでもそのジャンルの枠内にとどまろうとする力が働いている。同様の試みをした傑作は歴史を紐解けば見つかるかもしれないが、しかし巨大な予算をかけたハリウッドの娯楽大作として、これほど危険な均衡のもとで成立した例は空前のものではないか。「ヒーロー映画」という一つの形式の限界に挑み、それを貫徹しきった大傑作。

 それにしても、クリストファー・ノーランという監督が『メメント』('00)で世界に知られたとき、それから十年と経たぬ間にこれほど情感に溢れた傑作をものするなどと、いったい誰が想像できただろう。
 ヒーローたりえなかったヒーローは、今回は残念な結果でした、と言って終わるわけにはいかない。本作でヒーローならぬ「ダークナイト」となったバットマンが、果たしてどうなってゆくのか。たとえ失敗作や駄作になったとしてでも、「この次」はあるべきだし、撮ってほしいと思う。ノーランの覚悟はどこまであるか、見続けたい。
 上ではテーマと構造を中心に語ってきたが、それらが作品の中で意味を持ちえたのは、ハリウッドにしか不可能なアクションの素晴らしさに支えられてのことだ。本作には、ワンショットで見せきるアクションとか、ポール・グリーングラスばりの編集の凄みとかがあるわけではない。しかし、オーソドックスながらも効果的に見せようと工夫を凝らした演出は、二時間半強の長尺の中で、忘れがたい名場面を切れ間なく連発してゆく。「犯人が減っていく銀行強盗(バスが登場する瞬間のタイミングはケレン味たっぷり)」「車の上に飛び降りるバットマンを正面から捉えたショット」「鉛筆を消す手品(直接的な描写なしでの見せ方が巧い)」「『攻殻機動隊』風のビルからの飛び降り」「トラック大回転」「携帯電話」「リモコンの不具合で一瞬間を置いてからの大爆破(このずらし方は天才的だろう)」「コインを投げてシートベルトを締めるトゥーフェイス」「起爆装置を受け取って[窓の外に投げ捨てる]ワンショット」……
 キャスト。すでに散々言い尽くされているように、本作の撮影直後に亡くなったヒース・レジャーの一世一代の名演は見事の一語。しかし、主人公を喰っているとか役作りが凄いとかいった評判とは少々違う印象を受けた。彼の功績はむしろ、ジョーカーというキャラクターがもともと本質的に持っている魅力を最大限まで引き出しえたことではないか。自分なりの造形を施す以上に困難なそれを成し遂げたからこそ、ヒース・レジャーは凄かったのだと思う。一方、正しく主人公であるクリスチャン・ベイルの暗い佇まいも文句なしだ。ただ、アーロン・エッカートが[最初から裏のありそうな]印象を与えるのは少し難点かもしれない。この役は、個人的にはレオナルド・ディカプリオあたりが演じたら面白かったのではないかと思う。
 音楽。ジェームズ・ニュートン・ハワードとハンス・ジマーによるスコアは、キャッチーなメロディによるテーマを用いず、そのことでヒーローものの定石を外しながら、無意識のうちにスクリーンに引きずり込んでゆく、劇伴として最高の出来。

 間違いなく、ここ数年のアメリカ映画における最重要作のひとつ(ちなみに興行的にも、本国では『スターウォーズ』('77)を抜いて『タイタニック』('97)につぐ歴代二位のヒットだという)。必見。
 なお余談ながら、品川のIMAXシアターが二年前から閉館してしまっているのは痛恨事だ。日本では大阪での試写で一回IMAXを用いただけだという。日本の映画ファンの体感被害総額は一億を下らないのではないか。俺も一万くらいまでなら出してもいい。


大いなる幻影(1937)[旧作映画]

2008-09-10 23:31:34 | 旧作映画
 08/2/22、ル・シネマにて鑑賞。6.0点。
 第一次世界大戦を描いたジャン・ルノワールの代表作であり、(少なくとも日本の)評論家にはこれまで最も評価されてきた名作。しかし、二年後の『ゲームの規則』や50年代になっての『フレンチ・カンカン』('54)でルノワールと出会った身からすると、あまりにもオーソドックスな作りで拍子抜けしたというのが正直なところだ。とはいえ、もちろん出来が悪いわけではない。また、チャップリンの『独裁者』('40)などと同様、(映画史的な興味以上に)現実の歴史の中に置かれた一本の映画としての美しさが際立っている作品でもあるということを強調しておかねばならないだろう。
 本作への印象として、「ヒューマンな戦争映画」「ハリウッドには見られない緩慢なストーリーの映画」ということを挙げる人は多い。確かにそれは事実で、これほど緊迫感がなく生ぬるい戦争映画には滅多にお目にかかれないし、これほどスリルもカタルシスも絶望も感じさせない「脱獄もの」も他に知らない。
 しかし、そのことから即断して、「フランス映画らしく、その場の雰囲気だけで見せようとする冗漫な作品」と見なす人がもしいたなら、大きく見誤っていると思われる。むしろ、本作の脚本の方法論は、計算ずくの極めて図式的なものだと言えるはずだ。そのことは、主演のジャン・ギャバンを中心にして、彼と関わることになる登場人物たちをそれぞれに特徴づけてゆくと明瞭になってくる。冒頭で彼とともにドイツ軍の捕虜になるポワルデュ大尉は貴族であり、庶民である主人公とは異なる「階級」の人間として描かれる。二人の飛行機を撃墜し、後に捕虜収容所の所長として再会することになるラウフェンシュタインは、言うまでもなくドイツ人であり、フランス人である主人公とは属する「国家」を異にする。収容所で主人公たちと出会い、共に脱走計画を進めることになるローゼンタールは「ユダヤ人」であり、同じフランス軍に属する戦友でありながらも「人種」を異にする。さらに、終盤で登場するドイツ人の未亡人はフランス語をあまり話せず、逆にドイツ語を解さない主人公とは「言語」を異にする。以上のように、「階級」「国家」「人種」「言語」といった各要素において登場人物間に差異を設け、そのことでドラマを作ってゆく、というのが本作の方法論である。この図式を了解したとき、楽しむべき観点が一挙に見通せるように思う。
 まず「階級」の問題。本作におけるそれは、消えゆこうとしている貴族という階級への挽歌として現れる。四半世紀後にヴィスコンティは『山猫』('63)で同じ挽歌を歌うことになるが、ヴィスコンティが長尺を用いた豪華絢爛たる一大絵巻として表現したのに対し、ルノワールの姿勢はあくまでも小粋なものである。それは、「庶民」を主人公にした作品の中で、一種のコントラストを作る役目も担いながら、哀しくも気高い形でさりげなく表現されるのだ。方法は簡単明瞭。演じたピエール・フレネーとエリッヒ・フォン・シュトロハイムの二人に、風格ある貴族としての佇まいを体現してもらう、ただそれだけだ。そして、それだけで最大限の効果をあげている。特にシュトロハイムの名演はぜひ堪能したいところだ。(なお蛇足ながら、なぜ本作が階級の問題にかくも踏み込んだかといえば、第一次世界大戦にはじまる20世紀の戦争こそは、国民を総動員することによって、貴族からその特権的役割を奪っていったものだからに他ならない。)
 続いて「国家」「人種」の問題。第一次世界大戦を扱った本作が作られたのが、1937年。国際情勢が緊張を高める一方の中、フランスとドイツの俳優を集めて本作は撮影され、その二年後には第二次世界大戦が始まることになる。平和などというものは「大いなる幻影」であること。本作はそれをあまりにも完璧なタイミングで予言する。それと同時に、「国境」は人の作ったものでしかないと言い放ち、国境を越えて(つまり「国家」や「人種」を越えて)この映画が制作されているという事実を思い起こさせる。先に、「現実の歴史の中に置かれた一本の映画としての美しさが際立っている作品」と述べたのは、まさにこのことである。
 それから「言語」の問題。言うまでもなく、本作の登場人物たちは話す言葉が自動翻訳される世界には生きていないので、英仏独の三言語が使い分けられている。何を言っているのかまではわからずとも、今話されているのが何語であるのかということくらいは自然に注意しながら観たいところだ。
 さて、こうしていくつかの観点を作っていけば、それだけでも興味深く観られる作品であるわけだが、ではルノワールの演出はいかほどの出来栄えか。冒頭で述べたように、彼にしてはあまりにオーソドックスでどこか物足りない、というのは事実である。しかし、導入での大胆極まりない省略(撃墜されるシーンを飛ばして、主人公たちはあっという間に捕虜になってしまう)は流石だし、前半の山場となる「女装のインパクトで兵士たちが呆然とするユーモラスなシーン」→「レビューの楽しげな一夜」→「ラ・マルセイエーズ大合唱」と続く場面のエモーショナルな表現も「らしさ」を存分に見せる。それから映像ではラスト、黒い人影となった二人が雪原を走る有名なロングショットが美しい。
 ともあれ、巨匠の代表作としても、戦争映画の名作の一つとしても、必見の一本である。それにしても、ベトナム戦争後の戦争映画のトーンに慣れた現代人の目から観たとき、ここで描かれる戦争の「人間くささ」というのは実に興味深く(ルノワールは第一次大戦をまだ「紳士」たちによる戦争として捉えていたという)、第二次大戦後にルノワールがこの題材に挑んだらどうなっていたのだろう、などと空想してみたくなる。

母べえ(1/26公開)

2008-09-05 21:15:47 | 08年1月公開作品
 08/3/8、シネパレスにて鑑賞。5.5点。
 野上照代の自伝的小説を原作に、戦時中の一家族の姿が描かれる。山田洋次らしくリアリズムにのっとった堅実な演出が貫かれており、その姿勢は紛れもなく美徳だと言えるだろう。一昨年、黒木和雄の遺作として世に出た『紙屋悦子の青春』と同様の、「直接的な戦争描写をしない反戦映画」として良質な部類に入るかもしれない。しかし正直なところ、個人的には特筆したいことが何も見つけられなかった。予想を超える瞬間が皆無で、惹きこまれて集中するということが出来ないまま、終始淡々と眺めてしまったのである。
 おそらく最大の難は脚本にある。「父べえ」が思想犯として捕まった後も、助けてくれる善人が多すぎるために「母べえ」の奮闘が全く際立たないのだ。もちろん、ひたすら苦しい立場ばかりを描いて「非国民と罵られる可哀想な一家の悲劇」のような単純な図式を作ればいいというわけではない。しかし、人間の強さや逞しさを強調するわけでもない本作において、この「苦しさ」の描き方はあまりにも中途半端ではないか。
 たとえば、先に引き合いに出した『紙屋~』では、極めてミクロな視点に留まり、「叶わなかった想い」のみに焦点を当てていたため、その「外」にある「戦争」が観念的なものとして描かれていても全く問題ない……というより、敢えてそれを意図した作品だった。しかし本作のように全体としてはリアリティある生活臭を出そうとしておきながら、「外」で「父べえ」がどれだけ苦しんだのかを中途半端にしか示さない(逆に言えば中途半端な形で示してしまう)というのは方法論として誤っているのではないだろうか。
 また、せっかく出ずっぱりの子役が二人もいるというのに(つまり、説明的にならずとも自然な会話のやりとりの中で質問者の役を務められるのに)、「治安維持法」すら子供の観客のために説明しようという気がない。これでメッセージ云々を言っても始まらないだろう。劇場には(たまたま俺の隣に座っていたおばあさんはじめ)感動している方も多くいたようだが、特定のターゲットを泣かせることは凡作駄作にも可能であって、それだけで作品の質が担保されるものではない。観る前から共感を約束された人々だけが受け取るメッセージに意味などあろうか。
 とってつけたような現代パートも蛇足極まりない。
 ただし、笑福亭鶴瓶が演じた「悪人ではないのだが空気を読めない困った叔父さん」や、でんでんが演じた「好戦派のように戦勝を願っている皇国の民であると同時に、弱い立場の人を親切に助けてくれる隣組の組長」の役どころは、二元論的に割り切れない人間像を作り上げており、懐の広さを感じさせて秀逸だった。
 それから主演の吉永小百合に触れないわけにはいくまい。62歳にして9歳の子を持つ母親の役を演じた吉永小百合は確かにとんでもなく若いのだが、しかしそれでもさすがにこの設定には無理がある。浅野忠信が惚れるというのも説得力に欠ける。そもそも、(山田洋次や吉永小百合自身を批判したいわけではないが)大女優の名前を使ってお年寄りに反戦映画を売ろう……というような企画意図が感じられてしまうのもどうかと思う。「こういうしっかりした演出は最近の邦画にはない」とか「多少の年齢的なギャップがあろうとも吉永小百合でなければ出来ない」とか、巨匠と大女優とのコラボレーションを妄信する言辞を散見するが、若い世代をあまりにも馬鹿にしている。たとえば吉永小百合の名前を知らない海外の若い観客なんかが観たら、単に「ミスキャスト」の一言で終わるのではないか。
 浅野忠信と壇れいは(多少現代的な雰囲気を漂わせすぎてはいるものの)好演だ。
 こういう映画を必要としている人も多いだろうし、決して駄作というわけではないのだが、少々辛い評価になった。


殺人狂時代(1967)[旧作映画]

2008-09-05 17:17:04 | 旧作映画
 08/3/7、ラピュタ阿佐ヶ谷にて鑑賞。6.5点。
 チャップリンのものではなく岡本喜八監督作。ファンの間でも人気の高いアクションコメディの佳品である。ただし期待のしすぎは禁物。
 冴えない大学講師の主人公がある日帰宅すると、「大日本人口調節審議会」なるところから派遣されてきた人物が現れて、無駄に多すぎる人口を減らすために死んでもらうと唐突に宣告され、命を狙われる羽目になるのだが……という幕開けから、狂信的組織との戦いが始まる。それぞれに個性的な殺し道具を持った殺し屋たちが組織から次々に送り出され、主人公とその仲間がそれを迎え撃つ。最後はお決まりのように敵の総本陣に飛び込んで、ボスとの正面対決だ。
 印象としては、(特に敵の殺し屋たちを筆頭に)同年公開の鈴木清順『殺しの烙印』あたりを連想させる。しかし、清順が作り上げた徹底的にシュールで観客に予測を許さない作品世界(今観ても凄みを感じさせる)と比べると、極めてオーソドックスなコメディであり、ギャグの感覚などをはじめ、やや時代の洗礼を受けてしまったように見える。……と思いきや、そもそも公開当時にしてからが記録的な不入りで興行的には大失敗だったらしく、それがカルト化して今日まで人気を保持し続けているというのは、やはり熱狂的なファンを生むだけの「何か」があるのだということを証明しているかもしれない。
 作品として致命的な問題は、(少なくとも現代の目から見ると)殺し屋たちが「普通」の範疇に収まってしまっていて、「キ○ガイ」をわざわざ使った意味がない(つまり、結局「狂」に達することができていない)ということだろう。このあたりもどうしても『殺しの~』と比べてしまう。また、敵のボスが精神病院の院長で、その協力者には元ナチスのドイツ人がいて……といった絶対にテレビ放送できない類の設定も満載だが、(ブラックユーモアとしてではあるものの)基本的には戦争などへの風刺の道具として捉えてしまうことができ、やはり「安心して」観ることができてしまうのだ。敵のボスである溝呂木博士も語ることが陳腐すぎやしないか。
 しかしそれでも、スタイリッシュであることを狙ったこの手のアクション犯罪コメディを、当時の日本映画でそれなりにモダンに仕上げられていることは評価すべきだろう。オープニングのアニメーションなども実に秀逸で期待を持たせてくれる。キャストも奮闘していて、特に主演の仲代達矢は、本作のようなコメディにおいてこそ持ち前のアクの強さを遺憾なく発揮できるため、まさに水を得た魚である。また、キャラクター設定には不満の残る溝呂木博士についても、演じた天本英世は文句なしの怪演を見せてくれる。
 映画史的な興味としては、[冷戦下で隆盛を誇ったスパイ映画]が極東の島国に生んだカルトとして観ると面白いかもしれない。といっても原作(都築道夫)が存在しているのだが、そちらは未読なので不詳。

フレンチ・カンカン(1954)[旧作映画]

2008-09-04 15:37:35 | 旧作映画
 08/2/21、ル・シネマにて鑑賞。7.0点。
 戦争中はアメリカへ亡命し、その後もインドやイタリアを転々していたというジャン・ルノワールのフランス映画界復帰第一作であり、代表作ともなった傑作ミュージカル。19世紀末のパリを舞台にムーランルージュの誕生を描くバックステージものであり、その設定とストーリーは極めてオーソドックスだ。パリ人の新たな娯楽場を作ろうとする興行主のダングラールと、彼に見出されて洗濯女から踊り子へと転身するニニ。この二人の主人公を軸に、設立へ向けての困難やら恋模様やらが描かれてゆく。
 しかし、このオーソドックスな物語を描き出す映像の素晴らしさはどうだろう。テクニカラーで撮られたその情景は、まさに父オーギュストの絵画が動き出したかのようで、唯一無比の美しさだ。実は、個人的には今までテクニカラーがあまり好きでなかったのだが(といってもテクニカラーかイーストマンかなんて普段全然意識していないのだが、ともあれカラー映画初期のキツイ色彩を見ると、その発色だけで古びたイメージを持ってしまいがちで、モノクロ作品以上に時代を感じてしまうのだ)、この作品での色彩はこれ以外に考えられない完璧さを持っていて、もうこの一作のためだけにでもテクニカラーがあって良かったなどと思ってしまった。
 ストーリーの題材が同じということで、バズ・ラーマンの『ムーラン・ルージュ』('01)と比べてみるのも一興かもしれない。半世紀近く後にMTV世代のバズ・ラーマンが作り上げたのは、ポストプロダクションによってけばけばしい化粧をふんだんに施された(褒め言葉だ)迷作にして快作であったが、本作はその真逆をゆく(しかし文句なしの快作であるという一点は全く同じだ)。すなわち、すべてのシーンをセットで撮影し、美術も照明も役者のアクションも現場で完成させる。だからこそあらかじめ練りに練られた個々のショットは、素晴らしい完成度を誇っている。画面の前景と後景とでそれぞれ複数の人物が動き回っている、という尋常ならざる画面設計がすでに完成の域に達しており、しかもそれがごちゃごちゃした汚さなどを伴わずに、一コマ一コマが一幅の絵画になりえてしまうのではないかと思わせる。
 その感動が最高潮に達するのが、ラスト10分のフレンチ・カンカンである。これ以上に「幸せ」になれるクライマックスはかつて観たことがない。いや、もうこれを観ることに幸せを覚えられない人は可哀想だなどと余計な心配をしてしまう。「色彩」と「動き」。カラフルな衣装をまとった踊り子たちが動き回ることで、多様な色が画面の中で混ざり合い溶け合っていく様は、まさしくオーギュスト・ルノワールの世界だ。もし映画に対して、絵画的な作品(空間芸術的な作品)と音楽的な作品(時間芸術的な作品)という分類が可能であるとすれば、より「音楽的」なのは『ゲームの規則』('39)であって、ミュージカルである本作の方がむしろ「絵画的」であるとすら言えるかもしれない。ただし、本来の絵画では初期配置のみが作り手のなしうる全てであって、実際にその色彩が溶け合っていくのは鑑賞者の能動的な視線によるのに対し、紛れもない「映画」作品である本作は、その目まぐるしい「動き」によって鑑賞者を圧倒し、受動的な鑑賞者たちを自らのうちに引き込む。この「動き」へのウェイトの置き方こそ、子から父への回答であると言えるかもしれない(……というような戯言を鑑賞中は一切考えさせず、余裕を感じさせる軽やかさで見せてくれるのがジャン・ルノワールの魅力であるのだが)。
 「オーソドックス」の一言で済まさず、ストーリーにも触れておきたい。ここに見られる類型的なキャラクターやストーリーは、単調なつまらなさよりもむしろ、おフランスらしからぬ垢抜けた印象をもたらしており、それがルノワールらしく叙情を排したユーモラスな描写で綴られてゆく。しかしそんな中、終盤で興行主が踊り子に放つ台詞は、芸術家ルノワールの心意気を感じさせて感動的だ。また個人的に好きなのは、ヒロインに惚れこんだアラブの王子が、彼女は自分を振り向いてはくれないと悟った後、「年をとったらパリでのロマンスを若者に話」したいからと最後に一日のデートを頼むという、何とも言えない「粋」な場面だったりする。
 キャストもみな文句なしの名演。特に、ほぼスタントなしでカンカンを踊ったというフランソワーズ・アルヌールは実に魅力的で、小柄ながらも素晴らしい存在感だ。それから、容姿でも芸でもなく、ただその放っているオーラのみで主演を堂々と務め上げられるジャン・ギャバンも印象的。いかにも50年代ミュージカルにふさわしいフィリップ・クレーもいい味を見せる。なお、『夜顔』('06)で80歳の姿を見た後でのミシェル・ピコリの若き姿には驚かされる。
 不朽の名作。

ジャズ大名(1986)[旧作映画]

2008-09-03 23:59:10 | 旧作映画
 08/3/7、ラピュタ阿佐ヶ谷にて鑑賞。7.0点。
 個人的には岡本喜八のベストに挙げたい。筒井康隆の同名小説が原作で、それそのものは未読なのだが、しかし多くの筒井原作映画の例から想像するに、ドタバタ劇の狂奔ぶりを描くという点では文章に追いつけていないのではないかという気がする。しかし、にもかかわらず、この映画の存在が重要な意味を持っているとすれば(持っていると思うのだが)、それはひとえに、この作品には実際に「音」が響き渡っているという一点から導かれるものであるはずだ。
 最高にゴキゲンなミュージカルである。といっても、歌も踊りもないから正確にはミュージカルではなく、単に「音楽を題材にした映画」と呼ぶべきかもしれない。しかし、音楽そのものを主役とし、音楽をこそ物語を駆動する根本原理とするこの作品は、(単にミュージカルという形式を借りただけの)下手なミュージカル仕立てのドラマなどよりも、遥かにミュージカル的なミュージカルなのだ、と言ってみたい。
 すでにタイトルからB級の濃厚な匂いが漂っているが、実際かなりの低予算で撮ったと思われる。ワンアイデアを膨らませて作られたストーリーも、いい加減極まりないものだ。南北戦争が終わって奴隷から解放された四人組の黒人(ジョー、サム、ルイ、ボブ、という名前からしていい加減だ)が故郷のアフリカへ帰ろうとするのだが、まぁ色々あってなぜか幕末も佳境を迎えた日本の小藩に漂着する。旅の道中、即席の楽隊で稼ぎをえていた彼らが、好奇心旺盛な藩主に自分たちのやっていた音楽を教えたことから、城内では思わぬジャズブームが沸き起こる……そして、そこで果てることなく繰り返し演奏されていた曲こそ、三十数年後に「メイプルリーフ・ラグ」として世に出る名曲だったのだ、と。
 85分の上映時間中、一つの曲だけが執拗に繰り返され続けるのだが、同じフレーズを使いながらもジャズが少しずつスウィングし始め、どんどん愉快になっていく過程を丹念に描いているのが最高である。序盤での黒人たちも含めて、初めてジャズ的な音楽に挑戦しようとする登場人物たちは、最初は誰もがリズムも取れない情けない状態であるわけだが、最後は演奏中に身体が躍動するようにまでなる。この変化を、主役たちのみならず、当初は城内の音楽ブームに難色を示していた家老など、脇役まで使って繰り返し再現する。音楽の原初的な楽しさが余すところなく表現されつくしている……といったら言い過ぎだろうか。ちなみに本作の音楽は、原作者の筒井とプロのジャズピアニストである山下洋輔によって担当されている。
 コメディとしては笑えないギャグも多いのだが、音楽が響き続けるので何でも許せてしまう気になってくる。篳篥のリードとか、算盤のスケートボードとか、地味ながらも記憶に残る小道具も満載だ。
 しかし最後がくどくなりすぎていて残念。これは岡本喜八の最大の短所だと思うのだが、観客側のテンションが最大になったところでスパッと幕を下ろすことができず、冗漫に続けてしまう。『ダイナマイトどんどん』('78)もそうだったが、それ以上「質的」な盛り上げができないところで、「量的」なゴリ押しをしてしまう傾向があるように思う(それが可能なタイプの才能を持った監督もいるとは思うが、岡本喜八は違うだろう)。本作でゲスト出演のタモリなどは明らかに蛇足。
 もう一つ特筆しておくべきは、音楽とともに本作の魅力を担う空間造形だ。主な舞台となる城の構造が素晴らしくうまく、これもまた音楽同様に実写化した意義の大いにあった点と言えるだろう。地下と地上との対比は「ノンポリ万歳!」な平和主義を体現し、馬鹿みたいに横長の間取りでは襖の開け閉めがテンポを作る。
 波長の合わなかった人は呆れる他ないだろう馬鹿ばかしさだが、気に入ったなら宝物のような一本になること請け合いである。挑戦する価値のある珍品。