第八芸術鑑賞日記

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M:I:3(7/8公開)

2006-09-29 20:48:22 | 06年日本公開作品
 9/1、渋東シネタワーにて鑑賞。8.0点。
 3作目にしてついに(ようやく?)名作が誕生。
 冒頭の対峙シーンから観客を一気に引き込む。フィリップ・シーモア・ホフマンの熱演と(窮地のシーンではなぜか名演を見せる)トム・クルーズとの見事な対決。「3つ数えたら……」じゃなく「10数えたら……」でこれだけ緊張感を持続させるのは凄い。そして火のついた導火線の映像と例のテーマ音楽がかかるに及び、これはもう大してファンじゃない人間でも盛り上がらざるをえない。
 その勢いは全く中だるみすることなくラストまで突っ走る。『スピード』や『ダイハード』とも比肩しうるアクション・ジェットコースター・ムービーの傑作だ。一応どんでん返し的なオチもつくけど、ストーリーなんて知ったこっちゃない。
 今回、主人公のイーサン・ハントが悪役から奪おうとするのは兎の足……「ラビットフット」と呼ばれるブツだが、それが一体何なのかは一切説明なし。この潔さが素晴らしい。前作みたいな大して設定として活かされないウイルスなんて要らないのだ。何を取り合ってるかなんてちっとも本質的な問題じゃない。映画にとってね。
 トムの俺様映画、であることに変わりはないが、それでも前二作よりはチームプレーがちゃんと描かれていることも好印象。バチカン侵入のシークエンスがそうだけど、ここでは変装術のカラクリや声帯模写のやり方がわかったりもして、ありえねーと笑いながらも単純に面白い。
 もはやスパイの面影は全くないが、映画版の題名は「ミッション・インポッシブル」なんだし、原作ドラマに思いいれのない俺としてはもうどうでもいいや。
 ところで、次作以降があるのならばぜひ、当初本作に予定されていたというデヴィッド・フィンチャーに出てきてもらいたい。もしくはトニー・スコットに『ドミノ』ばりの編集をしてもらってもいいし、ちょいと怖いがガイ・リッチーの復活作にしてもらってもいい。ともかく、このシリーズは守りに入ったところで終りだ。ユニバーサルから契約を切られてしまったトムの動向には要注目。

ゲド戦記(7/29公開)

2006-09-27 21:10:46 | 06年日本公開作品
 9/1、渋東シネタワーにて鑑賞。6.0点。
 最初に俺の立場について一言。原作は未読。ジブリに対して強すぎる思い入れはない。
 さて、散々語りつくされている話から始めるのも気恥ずかしいけれども、本作でまず目をひくのは父殺しという設定である。主人公が一国の王である父を殺す。しかも、父が暴君であるとかそういった理由づけは一切ない。とにかく少年は父を殺さねば前へ進めないのだ、といった無理やりさで彼は父を殺してしまう。この父殺しに、本作の監督である宮崎吾朗自身の姿を重ねてしまうのはあまりに安易ではあるが、しかしどうしても考えてしまう。
 日本の映画監督にとって宮崎駿という父を持つことは(興行的な意味なんかから言っても)、史上もっとも重い荷であることは間違いない。だから、物語が父殺しに始まるという偶然の符牒は(出来すぎなくらいに)はまっている。そして実際、本作は宮崎駿作品とは全く異なるものになった。
 そのことを良くも悪くも象徴しているのはやはり「テルーの唄」のシーンだ。少女が草原で唄をうたっている。少年がそれを見つめている。その光景を引きの構図で見たり、アップで映したり、歌の途中でアクシデントは何も起こらぬまま、なんとフルレングスで歌いきってしまう! おいおい。活劇作家だった父ならば、百本作っても出てこないようなシーンだ。というか、でかい商業ベースに乗せられた作品としては史上まれに見る大胆さじゃなかろうか。素人ながらも断言させてもらうと、娯楽映画の作り方として完全に間違っている。もちろん映画にはいろいろあって、物語の流れを断絶させてフッと「遊び」が入ることが上手く作用する場合もある。しかしこの「テルーの唄」はそういう事例にも当てはまらない。
 このシーンに代表されるように、父が持っていた娯楽活劇作家としての力量は全く受け継がれていないと感じさせる演出が本作には多数ある。でも、それに対して腹立たしい気持ちは起こらなかった。むしろ、親父の猿真似でなくてまだ良かったなと感じた。今後も監督として映画を作ることがあるのならば、ぜひ自分のリズムを維持したままで、もっと意図が素直に伝わる題材を選んで挑戦してみてほしい気がする。
 以下、思ったことを適当に列挙。
 ・そういえば、本作はジブリには珍しい男が主人公の作品。罪を犯して旅に出るという構造は『もののけ姫』(というか、原作との順番を考えれば宮崎駿が影響を受けている側だが)と同じだが、アシタカ君が「曇りなき眼」を持っていたのと対照的に、本作のアレン君は……
 ・ジブリ作品の主人公としては史上もっとも暗い。チンピラを剣で倒すシーンあたりでの(鬱屈した少年特有の)目つきの描き方にはなかなか迫力があった。
 ・表情がよかった(クモとかも)ぶん、服の丸みが気になった。なんか皆衣装がもこもこしすぎ。
 ・賛否両論な背景美術に関しては、まぁ俺は好き。街に辿りついた最初の俯瞰の構図なんかは、世界観の壮大さを感じさせて素晴らしかった(……が、実際のところこの話、めちゃくちゃ小さい。原作がどんなものなのか全然想像できない)。
 ・ジブリらしく、テルーの顔のアザが全く醜さに結びついていない。
 ・ゲドにオーラが無さすぎ(鑑賞前、内容を全く知らずに、ゲドの顔をアップにした広告とか見てたとき、「なんでこの番兵みたいな人が大々的にフィーチャーされてんの?」って思った)。

時をかける少女(7/15公開)

2006-09-26 09:43:29 | 06年日本公開作品
 8/30、シネセゾン渋谷にて鑑賞。8.0点。
 どんなレビューだって所詮は主観的なものでしかないのは当然だが、今回は特に俺法則が発動してしまっている。タイムトラベル+青春=名作の法則(たとえば『サマータイムマシン・ブルース』なんかも、タイムトラベルSFの名作であると同時に青春映画の傑作だと思う)。
 タイムトラベルSFの歴史をたどればその始祖はやはりウェルズの『タイムマシン』に行き着くわけで、そりゃあ時空を越えるんだからスケールの大きな作品になるのが自然の理だ。一方で、ここ四半世紀間に生れた日本人の多くがタイムマシンに親しむ契機となるのが『ドラえもん』であるとすれば、スケールこそ大きくないものの、やはりここでいう「青春」が入り込む余地は少ない(もちろん例外的なエピソードもあるが、しかしいつまでも土管の転がった空き地で遊ぶ彼らの世界は閉ざされ自己完結しているのだから)。
 しかしある時から、タイムトラベルというSFは強い武器を手に入れた。
 そもそもタイムトラベルというアイテムの発想の根本にある思いの一つは「過去をやり直したい」であり、タイムトラベルという非現実を設定にとりいれた以上、それは当然許されることのはずだ。ところが多くのSF作家はそれを退け、過去を改変することで生じるパラドックスの解消に心血を注ぐことになった。以来、何かを失敗してもやり直せるという夢の設定だったはずのタイムトラベルは、過ぎ去ってしまった時は取り戻せないという限りない切なさを表現する道具としても機能しうるようになったのだ。だから、タイムトラベルをめぐる物語は、それに触れた観客に羨望の想いを抱かせると共に、時の流れの重みを無言の内に語りかけてくる。
 そんな普遍的メッセージをさらに、青春という人生の中の一時期に象徴させてみれば……ともすれば青臭くて陳腐になりがりなその「青春」というテーマが、言葉にして語らずとも語り尽くされているという魔法。タイムトラベルと青春という組み合わせはかように劇的なんであるのである……


 もう一つの俺法則。デカい設定を卑近なエピソードに収束させてしまうことのイビツな美しさ(たとえば大友の『AKIRA』で、地球を破壊しうるような強大な「力」をめぐるハードSFとして展開してきた物語が、最終的に二人の少年の友情と反目のお話に収斂されてしまうような)。
 本作の粗筋としては、ある日突然にタイムリープする能力を手に入れた主人公が、男友達に告白されて動転し、それを無かったことにしてしまうという所から始まる。
 タイムリープする能力なんて設定があればどんなスケールのデカい話だって作れるが、それを女子高生の普通の恋愛話に落ち着かせてしまうこと。デカい話をデカいまま大仰に描くのではなく、小さな話を小さなままで工夫もなしに描くのでもない。「どうなるんだろう」と素朴に興味を惹く物語の力と、その底にあるごく平凡なテーマ。


 総じて観たときに、そうは言っても青臭いとか、主人公のボーイッシュな性格が定型的すぎるとか、そんな三人組現実にいねーよとか、終盤の展開が唐突だとか、CGに低予算ぶりを感じるとか、探せばいくらだってキズはある。でもそれはまぁいいじゃないか。「商品」として充分に合格点ではあるのだし。
 何か付言するならばアニメーションとしての側面だけれども、これに関しては評価が難しい。リアル志向で綺麗な背景美術の前で、貞元義行デザインの八頭身キャラたちが動き回る、という試みは、俺にはわりと面白く思えたが、必ずしも万人受けはしないだろう。あ、あと雲の描き方が凄く美しい(業界では有名な雲職人らしい)。


王と鳥(7/29公開)

2006-09-21 01:50:57 | 06年日本公開作品
 8/23、シネマ・アンジェリカにて鑑賞。8.0点。
 本国フランスでの公開は1980年のことだから、当ブログでの「新作」という呼称はどう考えてもそぐわないが、日本での劇場公開は今回が初。さらにいえば、そもそも本作の原型となった『やぶにらみの暴君』の本国での公開は1952年。実に半世紀以上の昔である。その『やぶにらみ~』は日本でも55年に劇場公開されており、高畑勲、宮崎駿らに大きなインパクトを与えたという。そのことが、ジブリの提供による今回の劇場公開へと繋がるわけだ。
 話がややこしいが、今回日本公開された『王と鳥』は、『やぶにらみの暴君』を監督自らリメイクしたもの(『やぶにらみ~』は、監督の意向と異なる形での完成だったらしい)。
 暴君のわがまま放題で屈折した毎日と、そんな王様に楯突く鳥、巨大ロボットが暴れるクライマックスに象徴される風刺映画としての側面。絵の中から抜け出してきた恋人たち(羊飼いの少女と煙突掃除の少年)による逃避行という、童話からモチーフを借りてきたファンタジー映画としての側面。
 いずれも素晴らしいが、作品全体に横溢するイマジネーションの爆発に何よりも魅せられた。あらゆるシーンが見事なまでに独創的で、作り手の個性を感じさせる。しかもそれが、単なるお洒落感覚やクセの強さというのではなく、どこかひねくれたユーモアを持った造形美であるということ。また、舞台となっている城という空間を強く感じさせるアニメーションの動きが見事。 
 宮崎駿ファン、ジブリファンは絶対に必見の作品であるが、それにとどまらず、アニメーションのファン、いや全ての映像作品に興味を持つ人にとってのマストアイテムと言えるだろう。