第八芸術鑑賞日記

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モンゴル(4/5公開)

2009-04-30 10:18:35 | 08年4月公開作品
 08/5/1、バルト9にて鑑賞。6.0点。
 ドイツ、ロシア、それにモンゴルなどの各国による合作で、カザフスタン代表としてアカデミー賞外国語映画賞部門にノミネートまでされた大作。日本で注目されたのは「主演 浅野忠信」で、この二つの話題性によって(大作の割には地味な印象の本作が)全国で公開されることになったと思われる。
 主演の浅野忠信が演じるのはテムジン=後のチンギス・ハーンで、つまりモンゴル統一への物語なのだが、史実を丁寧に追うといった作品ではなく、「こいつが本当に世界を支配できるのか……」と不安になるくらい危なっかしい展開を渡ってゆく。また、ハードボイルドな英雄像ではなく、夫婦の物語を全面に出してゆくという方針も、賛否を分けるかもしれない。
 金も人員もかけただけあって、広大な自然を写し取った素晴らしいロケ撮影が堪能できる。戦闘シーンの迫力も十分に及第点だろう。こうした映像面の評価に加え、その他おしなべて水準以上の出来だろうと思う。が、しかし個々の要素には何一つ目新しさがなく、ふんふんと観ているうちに終わってしまう。
 他の人の感想などを見てみるに、モンゴル人的な生き方、考え方といったものの描き方を楽しむべき作品であるようだが、途中ウトウトしてしまったのでストーリーは消化不良。そういうわけで今回の評価は事実上の採点放棄である。ただ、いずれにせよ、ちゃんと見直そうと思えるほどの価値は見出せなかった。

日本の悲劇(1953)[旧作映画]

2009-04-28 00:58:29 | 旧作映画
 08/5/8、神保町シアターにて鑑賞。6.5点。
 タイトルを見ただけで社会派のイメージが想像されるが、実際その通りである。特に注目すべきは製作年で、これは敗戦後八年を経た日本を描いた社会派作品である。当時の空気を捉えようとした作風は、(観客が日本人ならば)歴史的興味からの関心も満たしてくれるはずだ。
 手がけるは実験好きの木下恵介とあって、当時のドキュメンタルな映像を挿入したり、回想シーンを唐突にフラッシュバックさせたりといった手法が繰り返し使用される。その意味ではかなり作為的な構成になっているのだが、しかしリアリズムにのっとった個々の描写に迫力があるので、程よく溶け込んでいて嫌みがない。成功しているといっていいだろう。
 しかしそれにしても、人物造形があまりにも見事なために、社会派というより普遍的な人間ドラマとしての側面の方が強く感じられる。つまり、この物語において描かれる「悲劇」は、人物の置かれた境遇(≒日本の状況)による悲劇というより、人物の生まれ持った性格(=個人のドラマ)による悲劇のように見えるのだ(もちろん前者の面もあるのは確かだが)。これは作り手としては思わぬ誤算かもしれないが、とはいえそのことで普遍性を獲得できたのは喜ばしい。半世紀を経てなお古びていないのは作品にとって幸せなことだろう。
 言うまでもなくその最大の立役者は主演の望月優子である。彼女が演じた「母親」の姿は、突き放したカメラによって残酷に映し出され、目を背けたくなる程の現実感をもって立ち現れている。この演出と演技は見事の一語で、それだけで本作を一見の価値あるものとしている。また、桂木洋子と高橋早苗の対決なども見応え十分な名場面だ。
 これまでに見た他の木下作品においては、シリアスなテーマを扱ってもどことなく陽性のイメージが保たれており、そこに惹かれてもいたのだが、徹底して重たく暗い本作には他に見られない凄みがあり、これはこれでいい。木下恵介の代表作として、見て損のない一本。

死刑執行人もまた死す(1943)[旧作映画]

2009-04-26 23:34:31 | 旧作映画
 08/5/8、シネマヴェーラにて鑑賞。6.5点。
 戦時中にアメリカで作られた反ナチ映画であり、その意味ではプロパガンダ映画として歴史的な興味を持って観ることもできる。しかし本作が21世紀の今日にあってなお賞賛され続けているのは、名匠フリッツ・ラングによって一級の映画作品として仕上げられているがために他ならない。シネフィルからの絶大な支持は言うまでもないが、個人的にはやはり娯楽映画として一流だということを強調しておきたい。上質なサスペンス映画として実に楽しめる。
 その意味で特に重要なのは、前半の丁寧な描写の積み重ねである。ブレヒトが参加したという脚本は、理不尽な圧力を受け続ける市民たちを(生活感が漂ってくるよう)しっかり描いている。だからこそ、少々強引すぎる決着のつけ方に関しても、娯楽活劇として王道のカタルシスに着地したのだと自然に受け止められる。
 ただし、少し冷静になってみれば、[憎まれ役]を倒して大団円、という展開は根本的な解決を放棄したものと見えても仕方ない。「正義」という「虚構」と「自分や周囲の人々個人の命」という「現実」とを天秤にかけることの葛藤を強調していた前半のドラマが、後半でおざなりにされてしまうのだ。もちろん、この問題に「答えを示せ」という無理難題を求めたいわけではない。しかし、答えを出さないなら出さないなりに、前半で提示したテーマを忘れずに最後まで示し続けるべきであって、このように覆い隠してしまうのはどうかと思うのだ。
 この他本作に関して特筆すべき点としては、映画史上最高のカッコよさを誇るエンドマークの工夫を書き留めておかねばならない。映画においてメタフィクショナルな作為を自然に見せる演出としては、たとえばアヴァンタイトルの扱い方などがあると思うのだが、このようにエンドマークを使うというのも洗練されていて秀逸だ。ある意味では、このエンドマークによって前段落で述べたような批判というのは回避されるのかもしれない。
 何と言ってもフリッツ・ラングの代表作。もちろん観ておきたい一本である。

詩人の血(1930)[旧作映画]

2009-04-25 18:17:53 | 旧作映画
 08/5/8、シネマヴェーラにて鑑賞。6.0点。
 詩人ジャン・コクトー初の映画監督作品。絵に描かれた女の唇が動き出す、という冒頭から、全編これ映像の遊びを炸裂させた前衛映画である。一般的な意味でのストーリーは持たず、悪夢的幻想的なイメージが繰り出され続ける。
 ……と以上のようにまとめると、ブニュエルの『アンダルシアの犬』('28)などを思い浮かべるが、実際観ていて受ける印象は似ている。コクトー自身が『犬』を絶賛したという話もあるようだし、この時期のフランス映画の潮流の一つに沿って現れた作品であることは間違いない。しかし、ここで似ているというのは、一本の映画を実験のための道具として用いている、という点に関してのみであって、二人の作家の根本的な立脚点は大きく異なっているのだろうとも感じる。ブニュエルの『犬』はまさしくシュルレアリスムの体現であり、意味を持たない表現を目まぐるしい速度で(15分の短編で300近いカット数を持つ)提示する。しかし本作は、「像」「鏡」など何らかのメタファーとして見なしやすいモチーフによって束ねられている。それはつまり、ブニュエルにおける意味の徹底的排除と比べ、遙かに画面を「読み」やすいということである。『オルフェ』('50)などの後の作品を未見なので迂闊なことは言えないが(さらに言えば彼の文芸作品も未読だが)、少なくともこの処女作の時点では、「言葉の人」がその表現手段の一つとして映像という言語を使ったもの、として捉えるのが自然であるように思える。「映画の人」ではなく。
 もちろん、だから駄目だということではなく、これはこれで面白いし楽しめるのだが、『犬』のような衝撃性は獲得できていないと思われる。また、51分という、もはや短編とは呼びがたい尺の長さもいささか冗長で、この作風なら『犬』の15分はやはり最適だったのだろうと再認識させられた。
 ともあれコクトーに関しては、詩や小説を読んでから出直そうかと思う。

つぐない(4/12公開)

2009-04-24 20:01:00 | 08年4月公開作品
 08/5/7、テアトルタイムズスクエアにて鑑賞。7.0点。
 戦争の時代を背景にした恋愛劇、原作はノーベル賞作家(イアン・マキューアンの『贖罪』)……と紹介されると、いかにもイギリス映画らしい文芸作なのだろうと想像されるが、そして実際それは正しいのだが、凡庸な文芸大作のような鈍重さは微塵も感じさせることなく、最後まで洗練された美しさを保ち続ける秀作
 「完璧」と言いたくなるオープニングから素晴らしい。「建物の外観を映すエスタブリッシング・ショット→カットを割って室内の少女の姿へ」ではなく、「建物の全体像を映す→カメラがティルトするとそれは建物のミニチュアだった→そのままカットを割らずにパンして少女の姿へ」というワンカットの恐るべき無駄のなさ。そして少女が叩くタイプライターの音をリズムにして流れ始める音楽。このリズムにのって走るピアノが最高だ。立ち上がって足早に歩く少女の姿を追うカメラ。BGMがストップするまでほぼ台詞なしで、ただ少女の動きを追うだけのこのオープニングによって、完全に作品世界に引き込まれてしまう。これぞ映画の至芸。
 その後も映像の美しさは最後まで感嘆すべき見事さで、均整のとれた端正な美、つまり西欧的な美の理想型を堪能できる。中盤では、『トゥモロー・ワールド』('06)と同じプロダクションが担当したという海岸での長回しシーンが現れるが、ここも大きな見所だろう。もう一度見直したい。
 しかし脚本に目を向けると、とにもかくにも中だるみが残念すぎる。妹の視点を中心にした前半が奇跡的な緊迫感を有しているのに対し、中盤からの展開はまるでシンプルなメロドラマのように化してしまう。この途中から急に凡庸になってしまうプロットは、その凡庸さも含めて意味があったのだとラストでわかり、意義づけ直されるのだが、だからといって初見の中盤で観客の関心を薄めてしまうこと自体は難点として残る。作品全体を把握した上で二度目に観るときが一番楽しめるかもしれない。
 キャスティングも見事に決まっていて、姉役のキーラ・ナイトレイを端正なタイプの美人として配し(しかも単に整っているというだけでなく、目に力があるあたりがいい役者だ)、彼女と比べると普通の意味での美形ではないものの独特の魅力を放つシアーシャ・ローナンを妹役に抜擢し(今のところ他に有名な出演作はないようだ)、それぞれの魅力を最大限まで引き出している。特にシアーシャ・ローナンには驚かされた。今後も出演作が見られるといいのだが。
 監督のジョー・ライトは今回が初見だったが、映画的な技巧を過剰にひけらかすのではなくスマートに見せてくれる手腕が素晴らしいと感じた。覚えておきたい。

二十四の瞳(1954)[旧作映画]

2009-04-23 11:52:24 | 旧作映画
 08/5/7、神保町シアターにて鑑賞。6.0点。
 同年、黒澤明の『七人の侍』を抑えてキネ旬1位を獲得し、国民的映画監督としての木下恵介の名を揺るぎないものにした代表作(ちなみにキネ旬では2位も木下の『女の園』で、『七人~』は3位)。こちらも著名な深沢七郎の小説を原作とし、戦争の迫る時代を背景に、新任の女教師と12人の子供たち(=二十四の瞳)との交流を描く。
 叙情派としての木下はロングショットで語る。舞台となっている小豆島の景色、特に岬の風景を最大限に活かそうとしたこの画面作りは正統的で、文句のつけようがない。と同時に、「二十四の瞳」を映し出すクローズアップが、素のままの子供の表情を捉える。いかにも名作と呼ばれる作品らしい趣を湛えている。
 しかし映像そのものはいいにしても、作品全体からストーリー(原作)の強さに寄りかかったような印象を受けるのも事実である。案の定、お涙頂戴な展開の描き方が感傷的にすぎるとの批判も多いようだ。だが、同じくベタな叙情派の作風でも、『野菊のごとき君なりき』('55)はそのようなあざとさを感じさせない。それは、一見すると物語への移入を妨げているような実験的フレームが、「主観的に美化されたノスタルジー」の自覚を示してくれているからだろう。一方、本作における感傷の過多は、それを作品内で客観視させてくれる装置がないため、素直に泣かせてくれないのだ。語り口があまりにもシンプルで直球すぎるために、かえって素直に受け止められないように思う。
 先に「戦争の迫る時代」と書いたが、終盤では戦後の模様が描かれる。この終盤における細かな演出にはかなり見るべきところがあり、特にオープニングでも印象的に用いられた「自転車」の扱いなどは秀逸。ただし、台詞や童謡までストレートに使っての泣かせ演出はやはり首肯しがたい面もある。
 主演の高峰秀子は、個人的には今まであまり魅力がわからなかったのだが、本作では完璧だと感じ入った。時代性と垢抜けた印象とをちょうどよい均衡で体現していて、これはこの人でなければ務まるまい、と思わせる。
 今日の目から見ると、木下作品として必ずしも優れているとは思えなかったのだが、しかし一見しておかねば始まらないだろう。

笛吹川(1960)[旧作映画]

2009-04-22 22:40:07 | 旧作映画
 08/5/4、神保町シアターにて鑑賞。6.5点。
 木下恵介の代表作。戦国時代、信玄を輩出した武田家の興亡を背景に、その領内に生きる貧農一家の五代にわたる歴史を綴ったクロニクル……という異色の体裁を持った作品である。賛否は大きく分かれているようだが、それもやむなしといったところで、ほとんど実験的とすら称したくなるような構成を持っている。
 本作にはいくつもの合戦のシーンが描かれているが、その際、華々しい活躍をする武将たちの姿は見えず、ひたすら下の者の目線から描かれている。したがって、個々の合戦の意義(政治的な、戦略的な……)も描かれない。そのため、繰り返し挿入される合戦のシーンと、そこに付される合戦名のテロップとは、どれも同じにしか見えない。戦争→誰か死ぬ→戦争→誰か死ぬ……という展開が単調に思えるほど執拗に繰り返されるのである。家系図を頭に描きながら鑑賞しないと混乱するほどだ。これでは「退屈」とか「つまらない反戦映画」とかいった感想が出てくるのも当然である。劇映画における作劇の評価基準を、優れたドラマ(葛藤)作りによる盛り上げに求めるならば、起伏のない展開を続ける本作への評価は厳しいものとならざるをえない。
 しかし、「目線を貧農一家に置く」という視点の切り替えのみによって、歴史上有名な合戦の相貌が一変してしまう、ということを端的に表現しきっただけでも意味はあるはずだ。個人的には実に面白いと思えたし、独特の個性を持った戦争映画と言っていいだろう(その意味では、川中島の合戦での信玄VS謙信を中村勘三郎と松本幸四郎に演じさせてしまったのはファンサービスの蛇足か)。『楢山節考』('58)に続いて深沢七郎の小説を原作にしているが、その小説がどういった叙述形式を持っているのか、一読してみたくもなった。
 キャストについては、もちろん五代にわたる物語だから登場人物たちは入れ替わり立ち替わりするわけだが、その中でも長く登場する高峰秀子と田村高廣がさすがの名演で、作品に安定感を与えている。
 賛否が割れていることにもあらわれているように、必ずしも名作として評価を確立しているわけではないが、木下恵介の実験精神に共感を覚えるファンなら、一度観ておいて損のない一本である。なお「実験」といえば、本作で忘れられないのはモノクロフィルムの染色ないし部分着色であり、この遊びはいかにも木下らしい。「邪魔」と感じる人の方が多そうだが、そこはまぁご愛敬だ。

ワイルドバンチ(1969)[旧作映画]

2009-04-21 16:23:32 | 旧作映画
 08/5/3、シネマヴェーラにて鑑賞。6.5点。
 「最後の西部劇」等とも呼ばれるサム・ペキンパー渾身の一作。ようやく観られた。
 ストーリーに関する予備知識はあまり持たずに臨んだのだが、冒頭、いきなり何が起こっているのかわからない幕開けに混乱させられる。何しろ、強盗団と警察とが街中で一般市民を巻き込んで大銃撃戦を始めるのである。これはもう、誰が主役であるにせよアンチ・ヒーロー街道まっしぐらである。1969年といえばアメリカン・ニュー・シネマの年だが、本作においても、警察や雇われ囚人との攻防を描く中で、アウトローな男たちが活写されてゆくことになる。
 ただし、アンチ・ヒーローとかアウトローとか言うことが可能であるにしても、いわゆる「刹那的で自己破滅的な人物像」といった印象は他のニューシネマと比べれば意外なほど薄い。主人公たちはしっかり頭を使って駆け引きしながら戦っている。ボニーやクライド、あるいはコワルスキーのような、もうどう見ても破滅するより他に道がない連中とは違う。そして、実はこの違いこそが大きな意味を持っているのだと思う。なぜなら、単なる破滅型人間ではないからこそ、それまで修羅場を生き抜いてきた男たちがラストで銃撃戦に突入する場面にカタルシスが生まれることになるからだ。これは、「破滅したい男たち」の映画ではなく、「破滅してもかまわない、と笑える男たち」の映画なのである。この四人の男たちの立ち姿に、自己破滅的な痛々しさではなく、ある種の威厳を与えられるかどうか、そこにこの作品の命は賭けられていたはずだ。
 ラストの銃撃戦については、「カタルシス」とは言ったものの、登場人物たちが何を思い何を考えているのかということを繊細に描写したりなんてことはしないので、感情移入するわけにもいかず、ただただ壮絶なアクションを傍観させられることになる。そして、映画史に名を残す本作のありようにとっては、それでいいのだろう。スローモーションや細かいカットの繋ぎを駆使したアクションの見せ方を堪能すればよい。
 ただし、映画史的に重要なのだと頭では理解できるものの、後世に影響を与えた作品のジレンマとして、現代映画に慣れた目で観てしまうとそこまで驚けない。まぁこれは致し方ないところであって、むしろ本作の偉大さを物語っているのかもしれない。

楢山節考(1958)[旧作映画]

2009-04-18 23:02:49 | 旧作映画
 08/5/2、神保町シアターにて鑑賞。6.5点。
 木下恵介の代表作。深沢七郎の同名原作は本作から四半世紀後に今村昌平によっても映画化されているわけだが、今村が土着リアリズムを全面に押しだしたのに対し、実験大好きな木下はオールセット撮影で様式美を打ち出した異色作としている。
 リアリティを放擲したこの試みはそれ自体としてはなかなか面白い。昔からの習俗に従って、老いた老母を息子が山へ捨てにゆく……というこの物語において、下手にリアリズムを追求したなら、過剰な演技演出のお寒い代物にしかならなかったかもしれないところを、「様式」に目を向けさせるという戦略によって、観客に物語の過酷さを客観視させることに成功している。この語り口というのは一つの手法として悪くないし、秀作と言っていいと思う。その「純和風の舞台劇」という体裁は徹底されていて、くどいくらいに邦楽としての色を出した音楽なども面白い。
 だが、しかしそれでも、と但し書きを加えておきたい。俺がこの映画を肯定的に評価できるのは、今村版がすでに作られた時代にいるからだ。リアリズムの今村版があって初めて、この異端のアプローチも褒められるのであり、仮に『楢山節考』という映画がこれ一本だけだったなら、すぐ前衛に走りすぎる木下の姿勢にひどく落胆しただけに終わったかもしれない。「異色の試み」というやつは、いつだって「王道からの逃げ」と表裏一体である。本作を単体として観たときには、前歯を抜いて撮影に臨んだ田中絹代の役者魂に決して報いられえていない。後に今村版での坂本スミ子も歯を抜いて演じることになるが、本作における田中絹代によって、この役は尋常の覚悟では挑めない壁として存在することになった……そう言っていいだろう。
 ともあれ日本映画史に不朽の名を残している作であり、木下恵介、田中絹代の代表作として一度は観ておきたい。映画の語りというものを考える上でも実に興味深い一本であり、今村版とともに必見の作。

約束(1972)[旧作映画]

2009-04-15 00:39:26 | 旧作映画
 08/5/1、シネマアートン下北沢にて鑑賞。6.0点。
 フランス映画のようなどとも言われる斎藤耕一の代表作で、その叙情を突き詰めた作風は、好きな人にはかけがえのない逸品と映るだろう。個人的にはこの監督の初めて観た作品になる。
 服役中で一日だけ仮出所してきた女と、強盗をして逃亡中の男。そんな二人が列車で隣り合わせたことから始まる悲恋ものである。こう書くとあまりにも俗で三文小説のような筋書きだが、実際のところストーリーだけを追うならその通りである。ベタな題材をシンプルに語り(何しろ90分を切る尺だ)、それをどれだけ叙情たっぷりに、情感豊かに描き出せるか、という一点に作品の全てが賭けられている。その焦点の絞り方はある意味で潔さすら感じさせ、ここまでやりきってくれるのなら文句の出しようもない。もちろん好みは大いに分かれるところだろうし、個人的には積極的に観たいと思う作風ではないものの、しかしこれはこれでいいと思わされた。
 本作をそのように成立させる上で大きく貢献しているのは、音楽とキャストである。ストリングスでくどいくらいに「泣き」のメロディを奏でる音楽はまさに直球勝負のど真ん中で、北国を舞台にしたがゆえの寒々とした映像と見事に調和している。そして何より、萩原健一と岸惠子という主演二人のキャスティングが完璧である。無理のある設定を観客に強引に納得させてしまうのは、この二人があまりにも生きた存在として映るからに他ならない。くたびれた女の哀愁を漂わせる岸と、奇跡のような幼さを有した萩原健一という取り合わせは、あまり類似した例を思いつかない独特なもので、強烈な印象を残す。二人の代表作に数えてもいいだろう。しかし、萩原が岸に惹かれる過程の描写が絶対的に足りないため、彼らの名演をもってしても説得力不足が否めないのは残念。
 もう一つ特筆せねばならないのは、本作の語り口は極めて厳しい視点を持っているということである。ここまで「叙情」ということばかりを強調してきたが、本作における叙情は甘ったるさと無縁である。登場人物に対して距離を置く厳しさが終始貫かれており、その視点は実に冴えている。北国の冷たい空気がそのまま映像作りのモチーフになっているかのようだ。その意味で、絶妙な突き放し方をしてみせるラストこそが、本作を最も象徴していることは間違いない。紛れもなく名場面であり、ここでの萩原は一世一代のはまり役として映る。
 監督の代表作として観ておきたい一本であり、キャストのファンは必見。もし波長が合えば大いに気に入るかもしれない。