第八芸術鑑賞日記

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ハプニング(7/26公開)

2008-07-30 05:27:56 | 08年7月公開作品
 08/7/29、シネマサンシャインにて鑑賞。6.5点。
 珍しく封切り直後に新作を観たので、早めにレビューしてアップ。なにげに過去最長のレビューかも。なお、本作に関してはどう考えてもネタバレではないと思うのだが、シャマラン映画は予備知識皆無で楽しみたいという人は読まないでください(……ってそんな人は最初から他人のレビュー読まないか)。

 劇場のロビーへ入った時、まだ前の回が上映中だったのだが、終わって引き上げてきた若い女性観客の一言。「要するに環境を大事にしろってこと?」……流石にそんな単純なことじゃないだろ、と一瞬苦笑しかけたものの、よく考えたらこれから観るのはシャマラン映画であって、ということは最も単純な解釈が最も的を射ている可能性は高い。で、鑑賞してみたところ、本作で描かれたハプニング=出来事の原因は必ずしも環境問題と特定されない(なぜなら本作で描かれるハプニングは「人智を超えた」ものとして描かれるから)のだが、それでも「環境はじめ色んな問題について敏感になりましょう」というお説教くさい問題提起が作品の主眼になっているのは確かである。
 というわけで、「あらゆる出来事には意味がある」の『サイン』('02)、「あらゆる人間には意味がある」の『レディ・イン・ザ・ウォーター』('06)に続き、「人間には自然界を完全に理解することはできない」と人智を超えた力の存在を説く、シャマラン教布教シリーズ最新作。[すでに起こったハプニングを「サイン」と見なせないかぎり、人間は次なるハプニングに見舞われる]……という結末は、ある意味で『サイン』の語り直しでもある。
 しかし上述の問題提起は少なくとも形の上では失敗していると言わざるをえない。「何かまだ意味づけられていないもの=ハプニング」は、人間がそれを何らかの解釈のもとに意味づけて初めて「何かのサイン」となるわけだが、そもそも本質的には人間に理解しきれないものが問題となっている以上、そのサインが完全に正当化されることはありえないからだ。つまり、いくらサインに気をつけていたところで、(本作の流れから言えば)その解釈の正しさはどこにも根拠を求められないのであって、意味がないということになってしまう。
 では『サイン』や『レディ~』には同じ批判が当てはまらないのか。もちろん「理屈の上では」当てはまる。ところが『サイン』や『レディ~』は、解釈されたサインに基づいて登場人物が起こした「行動」の「結果」によって、強引に正当化を果たしていたのである。だから、[野球バットで宇宙人を殴りつける]というB級どころかZ級なクライマックスを迎える『サイン』も、[宇宙人は撃退できたし、喘息の弟も助かったし]という結果によって、そのサインの解釈が正当化されている(もちろん、その結果すら人間の解釈でしかないのだから、それが本当に正しいのかという問いかけはどこまでも可能なのだが)。『レディ~』に至っては、その解釈(誰がどの「役割」を負うのかということの解釈)は「物語が成立する」ことによって正当化される、というほとんどメタフィクショナルな構造になっている。
 しかし、これらの過去作に対し、今回は行動の結果が示されない。というより、人々が何一つとして能動的な行動を起こせずにひたすら逃げ回るのみ、という本作では、そもそも行動が描かれていない(正確に言えば、主人公は必死で考えて打開策を見つけようとするのだが、それが正しかったのかは確言されない)。おそらくシャマランからしてみれば、行動を起こすのは、問題提起を受け取った観客の側に求められる役割なのである。しかし、「物語」の中で強引に正当化してくれないにもかかわらず、ハプニングからサインを受け取れと迫る本作は、一種の自己矛盾に陥ってしまっていると言えるだろう。「人間に理解できない力の存在」を描きながら、それをサインとして(つまり理解できたという信念ないし錯覚のもとに解釈して)受け取れ、というのだから。
 いや、もしかしたらシャマランはそれに気づいていたのかもしれない。だからこそ、安易に物語の中で何らかの解釈(に基づく行動)を描き、それを正当化するなどということが出来なかったのかもしれない。しかしいずれにせよ、「人間には理解できない力」という言葉を出してしまった時点で、問題提起の形としては破綻している。ちなみに、もし次作以降もこの方法論(物語の中で結果を見せず、問題だけを提示し続ける)が踏襲されてゆくとすれば、彼のフィルモグラフィーにおけるターニングポイントになるかもしれない(興行成績によっては「先」がどれだけあるかも怪しいが)。

 で、これだけ字数をかけておいて今さらだが、『レディ~』に5.5点と低評価をつけておいて本作が6.5点と高めの評価なのは、問題提起云々についての議論とは全く関係ない。
 B級風味のパニック映画として純粋に面白いのである。予告編では「第一段階は言語の喪失。第二段階では方向感覚の喪失。第三段階は死」なんて紹介されていたが、最初のシークエンスからもう第三段階を出し惜しみなく連発し、全編をショックシーンで埋め尽くしている。詳しくないからはっきりは言えないが、多くのパニック映画では、まず「日常」の光景を見せるというのが鉄則だろう。その方がパニックを描いたシーンとのコントラストも際立つ。しかし本作でのシャマランはそれをやらない。パニックのシーンとの対比のためだけに(つまり相対的な意味のみを持つものとして)要請される日常のシーンなどは省略してしまい、本当に見せたいショットだけを見せる。その意味でショックシーンとは、他のシーンとの関係における相対的な価値ではなく、絶対的な価値を持ったシーンである。だからシャマラン映画は観ていて全く飽きないし、信頼できる(俺が最も尊敬する小説家ミラン・クンデラは自身の小説作法をこう述べる。「本質的なものにしか触れないこと」、「自分の関心を引くもの、自分を魅惑するものからただの一行も遠ざかることを強いられないよう」にすること)。
 あえて言えば、高校教師である主人公が初登場する学校のシーンを「日常」の場面として捉えられなくもないが、しかしそこでは本作の核心となるテーマ(上でしつこく書いたが「人間には自然界を完全に理解することはできない」)が語られており、これまた一切の無駄を省いて見せたいショットだけを見せているわけだ。「もうそんな核心めいたことを言ってしまうのか、しかも台詞ではっきり言ってしまうのか」と不安になる程である。そしてその授業は「テロ攻撃と言われる原因不明の異変」を理由に途中で打ち切られ、物語はあっという間にパニック映画そのものとなってゆく(打開策もなく逃げ回るだけ、というプロットはスピルバーグの『宇宙戦争』('05)に近い)。
 そんなわけで今回は(オープニングから飛ばしていく語り口はともかく)基本的にジャンル映画(パニック映画)としての形式にのっとって展開してゆくので、題材がマニアックだった『アンブレイカブル』('00)や宗教色の強すぎた『サイン』やお伽噺風の『レディ~』と比べると格段に見やすくなっていて、シャマランのフィルモグラフィー中でも(日本では)『シックス・センス』('99)の次に一般向けの内容ではないかと思う(『ヴィレッジ』('04)は未見なので何とも言えないが)。また、上でしつこく比較したついでに述べておくと、『サイン』や『レディ~』が一つの建物とその周辺からカメラの一切出てゆかない作品だったのに対し、今回はアメリカ北東部というかなりの広域を舞台にし、派手な展開を見せる。テロップで土地名を示した上で、主要登場人物がいない場所での出来事まで描いてみせるのだ。このあたりもやや一般向けという印象がある。
 全編に散りばめられたショックシーンそのものについては、玉石混淆ながらいずれも楽しめることには変わりない。建物の上から人間が次々に落ちてくるショットなんかは素直に見事だし、「人形」を見せた後の老女も素晴らしい(ハッタリの効果音で驚かされるが、これは多分シャマランがときどきやる茶目っ気だと思う)。一方、芝刈り機(?)のシークエンスでは、主人公の顔のアップがインサートされた瞬間に、「さぁ人形に置き換えて……」と撮影風景を思い浮かべてしまったりして、残虐シーンなのに安心して観られる「見せ物」的なイメージがある。
 最後は、離れた建物間でのアナログな仕組み(通話用のパイプ?)による会話など、徹底的にセンチメンタルに盛り上げるが、このあたりの感傷性も悪くない。ただし、ジェームズ・ニュートン・ハワードの音楽(『シックス~』からずっと組んでいるが)はやや外し気味だったかもしれない。
 キャストはみな及第点くらいだろうが、ズーイー・デシャネルが[妊娠がわかった時]に見せる笑顔が本当に嬉しそうで絶妙。
 総じて言えば、最近のシャマランを受け入れられる人にしか積極的には薦められないのだが、個人的にはかなり楽しめた。なお、CGを使わずにただ「風が吹いている」だけのシーンで強引にパニック映画のサスペンスを作ってしまった珍品として、数十年後にカルト扱いされていないとも限らないかもしれない。