08/1/27、ユーロスペースにて鑑賞。8.0点。
最高。ごく個人的な話だけれども、ちょうど本作を観たときというのが、ただでさえ忙しいのに観たい特集上映が重なりまくり、分刻みのタイムスケジュールを組んでハシゴしていた……という阿呆みたいな時期で、「なんで好きで観てる映画が義務みたいになってんだろう」と我ながら空々しい気持ちになっていた折だった。それがこの映画を見始めるや、オープニングの10分で「映画好きで良かった……」と感動して泣きそうになってしまったんである。
原作が夢野久作(あやかしの世界だ)だから舞台は大正で、それも山間の田舎町で、主人公はバスの女車掌(「バスガイド」ではなく「女車掌」と呼んでいたのだなぁ)。まず導入は「機関車が迫り来る踏み切りで、一度は止まったバスがなぜか進み出した……」という謎がサスペンスフルに提示される。続いて乗客が聖徳太子の百円紙幣でバスの切符を買うというような情景がモノクロ映像で綴られていく。短いカットを繋ぎながら漂うシークエンスの中、唐突に、いかにも大正なコートを着て帽子を目深にかぶった男がトンネルの中に消えていくというミステリアスなショットが挿入される。それらの間にスタッフ、キャストのクレジットがゆっくりゆっくり(実に10分かけて! 最後はエンドロール無しだ)出る。その途中、カメラが不意に、林の中を仰角で漂うように進むショットが出てくる(その瞬間の心地よさにふっと虚をつかれ、泣きそうになったのだ)。
大正の田舎町を舞台にして溢れんばかりの詩情を湛えた問答無用の傑作映像詩。牧歌的な舞台装置と連続殺人というサスペンスとのギャップがまた素晴らしい。サスペンスとは言ったものの、田舎のバス会社で女車掌たちが噂する「事故に見せかけて女車掌を次々と殺していく運転手」の話は、どこか都市伝説的な、一種のおとぎ話めいた雰囲気を持っていて、生々しさが一切なく幻惑的だ。
おそらく多くの観客にとって納得がいかないのは、中盤、[トミ子が新高に惹かれていった]過程の描写に説得力がないという点だろう。その「指摘」そのものは確かにもっともだ。だが、本作が散文的であるよりも詩的であることを目指している以上、その「非難」はいささか的外れだろう。理屈として頭で理解できるような説明的描写は敢えて意図的に排除されている。このことは、オープニングでトンネルに消えていく男や、線路に寝転がる新高、あるいは短いカットを重ねる編集などから明らかだ。大正時代を描くのにモノクロの画面を使うという(一見すると安直な)選択も、リアリティよりも様式美を打ち出したのだと考えたい。だから観客としては、台詞を伴わずに執拗に繰り返される小嶺麗奈のクローズアップのみから彼女の心情を汲み取らねばならない。それは作り手の怠慢ではない。詩人が多くを語ろうとしないのが怠慢ではないように、である。
ただし、次々とイメージが提示されるオープニングの鮮やかさと比べ、この叙情的描写が(90分という尺にもかかわらず)中盤でテンポの遅さを感じさせてしまうのは否めない。また、せっかくクライマックスまでを抑制した演出で貫いてきて、最後の最後で台詞が過剰になるのが残念。この二点だけが惜しい。
キャストでは、大正の女車掌姿がやたら似合っている小嶺麗奈(演技の幅が狭すぎる気もするが、この作品に限っては問題ない)、モノクロ画面に寡黙な男という役柄が完璧にはまっている浅野忠信、この二人の主演が最高の働き。京野ことみ、真野きりなが見せる芯の強そうな表情も印象的。
この他、すでに散々絶賛してきた撮影や、計算ずくながら嫌らしさのない音響なども凄い(音量の大小にコントラストを効かせまくっていたり)。
映画の魅力に満ちた至福の一時間半。
最高。ごく個人的な話だけれども、ちょうど本作を観たときというのが、ただでさえ忙しいのに観たい特集上映が重なりまくり、分刻みのタイムスケジュールを組んでハシゴしていた……という阿呆みたいな時期で、「なんで好きで観てる映画が義務みたいになってんだろう」と我ながら空々しい気持ちになっていた折だった。それがこの映画を見始めるや、オープニングの10分で「映画好きで良かった……」と感動して泣きそうになってしまったんである。
原作が夢野久作(あやかしの世界だ)だから舞台は大正で、それも山間の田舎町で、主人公はバスの女車掌(「バスガイド」ではなく「女車掌」と呼んでいたのだなぁ)。まず導入は「機関車が迫り来る踏み切りで、一度は止まったバスがなぜか進み出した……」という謎がサスペンスフルに提示される。続いて乗客が聖徳太子の百円紙幣でバスの切符を買うというような情景がモノクロ映像で綴られていく。短いカットを繋ぎながら漂うシークエンスの中、唐突に、いかにも大正なコートを着て帽子を目深にかぶった男がトンネルの中に消えていくというミステリアスなショットが挿入される。それらの間にスタッフ、キャストのクレジットがゆっくりゆっくり(実に10分かけて! 最後はエンドロール無しだ)出る。その途中、カメラが不意に、林の中を仰角で漂うように進むショットが出てくる(その瞬間の心地よさにふっと虚をつかれ、泣きそうになったのだ)。
大正の田舎町を舞台にして溢れんばかりの詩情を湛えた問答無用の傑作映像詩。牧歌的な舞台装置と連続殺人というサスペンスとのギャップがまた素晴らしい。サスペンスとは言ったものの、田舎のバス会社で女車掌たちが噂する「事故に見せかけて女車掌を次々と殺していく運転手」の話は、どこか都市伝説的な、一種のおとぎ話めいた雰囲気を持っていて、生々しさが一切なく幻惑的だ。
おそらく多くの観客にとって納得がいかないのは、中盤、[トミ子が新高に惹かれていった]過程の描写に説得力がないという点だろう。その「指摘」そのものは確かにもっともだ。だが、本作が散文的であるよりも詩的であることを目指している以上、その「非難」はいささか的外れだろう。理屈として頭で理解できるような説明的描写は敢えて意図的に排除されている。このことは、オープニングでトンネルに消えていく男や、線路に寝転がる新高、あるいは短いカットを重ねる編集などから明らかだ。大正時代を描くのにモノクロの画面を使うという(一見すると安直な)選択も、リアリティよりも様式美を打ち出したのだと考えたい。だから観客としては、台詞を伴わずに執拗に繰り返される小嶺麗奈のクローズアップのみから彼女の心情を汲み取らねばならない。それは作り手の怠慢ではない。詩人が多くを語ろうとしないのが怠慢ではないように、である。
ただし、次々とイメージが提示されるオープニングの鮮やかさと比べ、この叙情的描写が(90分という尺にもかかわらず)中盤でテンポの遅さを感じさせてしまうのは否めない。また、せっかくクライマックスまでを抑制した演出で貫いてきて、最後の最後で台詞が過剰になるのが残念。この二点だけが惜しい。
キャストでは、大正の女車掌姿がやたら似合っている小嶺麗奈(演技の幅が狭すぎる気もするが、この作品に限っては問題ない)、モノクロ画面に寡黙な男という役柄が完璧にはまっている浅野忠信、この二人の主演が最高の働き。京野ことみ、真野きりなが見せる芯の強そうな表情も印象的。
この他、すでに散々絶賛してきた撮影や、計算ずくながら嫌らしさのない音響なども凄い(音量の大小にコントラストを効かせまくっていたり)。
映画の魅力に満ちた至福の一時間半。
はじめまして。
この映画の感想を書いている方を探して
ここまで来ました。
私も劇場で観たのですが、覚えてないです。
面白かったですか。
リバイバル、私も観たかったです。
それでは失礼しました。
リアルタイムで観られたのであれば、もう10年前ですもんね。モノクロの地味な作品であるのは確かなので、特に気に入らなかったなら完全に忘れてしまうのも無理はないかと思います。
機会があればまた観てみると楽しめるかもしれませんね。