第八芸術鑑賞日記

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2009年度日本インターネット映画大賞外国映画部門への投票

2010-01-14 23:00:45 | 雑記
[作品賞投票ルール(抄)]

 ・選出作品は5本以上10本まで
 ・持ち点合計は30点
 ・1作品に投票できる最大は10点まで

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『 外国映画用投票フォーマット 』

【作品賞】(5本以上10本まで)
  「 ベンジャミン・バトン 数奇な人生 」 8点
  「 チェンジリング 」 4点
  「 リミッツ・オブ・コントロール 」 4点
  「 カールじいさんの空飛ぶ家 」 4点
  「 イングロリアス・バスターズ 」 4点
  「 エスター 」 3点
  「 脳内ニューヨーク 」 3点
【コメント】
 対象にした作品は、2009年中に日本で初公開された新作海外映画のうち、劇場で鑑賞できた59本。
 まずは、ついに『ファイト・クラブ』に代わってフィンチャーの代表作と呼べる作品が現れたことを喜びたい。映画史上最も美しいフラッシュバックを持つ作品の一つだと思う。
 あれこれ言うまでもないイーストウッドに関しては、とりあえず一本のみ選出。
 ジャームッシュのこの清々しさは何だろう。単なるシネフィル映画ではなく、何かを掴んでしまったような印象を受けた。
 『カールじいさん~』には冒頭10分だけでボロボロ泣かされたので降参。
 タランティーノは順調に面白い。
 『エスター』には久しぶりに面白いホラーを観させてもらって感謝。
 チャーリー・カウフマンの初監督作はひょっとしたら今年最大の発見だったかも。

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【監督賞】              作品名
   [ デヴィッド・フィンチャー ] (「 ベンジャミン・バトン 数奇な人生 」)
【コメント】
  イーストウッドが巨匠中の巨匠であるのは紛れもない事実だとして、ここではフィンチャーを推しておく。
【主演男優賞】
   [ ミッキー・ローク ] (「 レスラー 」)
【コメント】
  これまでミッキー・ロークに思い入れがあったわけではないが、それでもやっぱり。
【主演女優賞】
   [ アン・ハサウェイ ] (「 レイチェルの結婚 」)
【コメント】
  もちろん最大の対抗馬はアンジェリーナ・ジョリー。
【助演男優賞】
   [ デヴィッド・シューリス ] (「 縞模様のパジャマの少年 」)
【コメント】
  初めて意識した俳優だが、実に印象的だった。
【助演女優賞】
   [ ペネロペ・クルス ] (「 それでも恋するバルセロナ 」)
【コメント】
  とにかく楽しい女優三人のアンサンブル映画において、彼女はまさに期待通りの千両役者ぶりを発揮してくれた。
【新人賞】
   [ イザベル・ファーマン ] (「 エスター 」)
【コメント】
  『チョコレート・ファイター』のジージャーと迷うが……
【音楽賞】
  「 カールじいさんの空飛ぶ家 」
【コメント】
  音楽はシンプルでかまわないのだと証明し続けるイーストウッド作品も凄かった。
【ブラックラズベリー賞】
  「           」
【コメント】
  2009年に自分が観た映画の中で、この賞に最もふさわしいのは間違いなく『DRAGONBALL EVOLUTION』だが、それは観る前からわかっていたことなので敢えて投票はしない。

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【勝手に○×賞】
   [ ドキュメンタリー賞 ] (「 アンヴィル!夢を諦めきれない男たち 」)
【コメント】
  上記作品賞及び部門賞には入れられなかったのだが、是非書き留めておきたい一本だった。

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 この内容(以下の投票を含む)をWEBに転載することに同意する。
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靴みがき(1946)[旧作映画]

2009-09-06 18:17:08 | 旧作映画
 08/7/21、シネマヴェーラにて鑑賞。6.5点。
 イタリアのネオレアリスモを代表するヴィットリオ・デ・シーカが敗戦間もなく撮りあげた名作。とは言ったものの、イタリアのネオレアリスモというと、フランスのヌーヴェルヴァーグなどと比べて名画座で上映される機会も少なく、個人的にはほとんど体験できていない(ヴィスコンティやフェリーニのように、ネオレアリスモから出発して後に独自の美学を大成させた監督というのは観ているが、このデ・シーカやあるいはロッセリーニなどになると、てんで観る機会に恵まれない。このあたり、ヌーヴェルヴァーグがゴダール、トリュフォー、ロメール……と華のある監督を擁しているのと対照的かもしれない)。
 一心同体のように生きてきた二人の少年が罠にかかって少年刑務所に入れられ、その中で起きてしまった事件からすれ違ってゆくことになる……というシンプルなプロットの物語を一時間半でシンプルにまとめあげ、悲劇としての体裁をきっちり守って高い完成度を示している。また同時に、子供たちを主役に据えることで陽性のイメージを与えることにも成功しており(特に序盤の雰囲気などはかなりいい感じだ)、ひたすら悲惨さを強調するような「作りもの臭さ」は排除されている(このあたり、フランスのヌーヴェルヴァーグにおける『大人は判ってくれない』('59)を連想させる)。脚本のチェーザレ・ザヴァッティーニはこの後もデ・シーカの代表作で共に組むことになる人だが、かなり優れたバランス感覚を持っているのではないかと思えた。
 それからもちろん、本作には当時のイタリアを窺い知れるという興味深さもある。このときのイタリアというのは日本と同じくWWⅡの敗戦国であって、そういった観点から両国の映画事情を比較するのも面白かろう。そもそもネオレアリスモという運動が敗戦国で起こったのだという事実は、映画史内部での重要性のみならず、より大きな文脈からネオレアリスモを意義付ける必要性があることを示しているのだろう。
 一見地味ではあるが、後に映画史に屹立することとなるデ・シーカの最初期作として、その冴えた手腕をしっかり見て取れる秀作。
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ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(08/4/26公開)

2009-08-15 23:54:26 | 08年4月公開作品
 08/5/28、アミューズCQNにて鑑賞。7.0点。
 まだ若いのに寡作なポール・トーマス・アンダーソン(PTA)だが、コーエン兄弟の『ノーカントリー』とオスカーを争ったこの新作で、急激に凄みを増したように思う。いや、思う、などと自信なさげなことを言っている場合ではなく、確実に凄みを増している。といってもこれまでのPTAというと個人的には『マグノリア』('99)しか観ていないのだが、そのときに自分の中で貼ってしまった「無闇に才気走った印象ばかりが残る若手監督」というレッテルは、本作を観て慌てて引き剥がすことになった。
 本作には原作があって、アプトン・シンクレアが1927年に発表した『石油!』がそうらしいのだが、恥ずかしながら今回初めて耳にしたくらいなので未詳。PTA自身による脚本でかなり脚色が加えられているという話も聞くが、それも比較できない。ただ、たとえば『ノーカントリー』が同時代作家の小説を原作にしていたのに対し、80年前の小説をあえて今映画化したという事実からは、なにか確信犯的な信念のようなものを感じなくもない。
 で、その原作を現代において映画化し、158分の長尺をかけて一体どんな物語が語られたのかといえば、石油で財をなした男の一代記である。そこに大きな影響を与えているサブキャラクターは二人で、一人は孤児だったところを主人公が引き取って息子として育ててきた少年、もう一人は主人公が石油採掘のために居を構えた村の神父だ。特に後者(神父)は物語のターニングポイントに繰り返し登場し、主人公の終生の敵のように描かれる。この神父を主人公に匹敵する重要人物として捉えれば、本作は、金によって権力を拡大しようとする男と宗教によって権力を拡大しようとする男との壮絶な戦いの記録となる。しかしまた一方で、「息子」の存在も極めて大きい。本作の主人公の一生というのは、孤独を求めつつも家族を欲し(「息子」のみならず、映画後半では「弟」も登場する)、しかしつまるところ自分以外の誰もが他者でしかないと知るに至る、そういう人生であったと言える。
 ……こうして主題論的に取り出される数々の物語は、単純といえば単純だし難解といえば難解だが、しかし本作には、それをどう捉えるにせよ、「これは○○についての物語だ」といった形での一般化を一切拒絶するようなところがある。それはおそらく、本作が徹底して叙事詩として作られているためで、その形式ゆえに、そこからは際限なく多くのものを汲み出すことが可能になっている。しかし「際限なく」とはいっても、汲み出せるものの範疇には限りがある。タイトル("There will be blood")が示しているように、それは必ずしも多くの人にとって快いものではない。ともあれ、PTAが送り出してきたこの巨大な作品に対して、その主題を論じたいという誘惑には駆られない。ただ一編の叙事詩として受け止めておきたいと思う。
 むしろ、本作に関してその突出した点としてはっきり名言できるのは、個々のショットの圧倒的な力強さである。オスカーの撮影賞を獲ったロバート・エルスウィットによる画面は、全ての映画ファンが歓喜すべき目のご馳走だ。はじめに(あえてシネフィル的な言い方で)総括しておくと、本作において決定的な働きをなすアクションは、基本的にどれも垂直運動である。石油を掘るに当たって人は穴の中で昇降を繰り返し、いざ石油(=blood)が出るとなればそれは上方への噴出として現れる。駄目押しのように、オープニングで振り下ろされるツルハシとラストで打ち下ろされるボウリングのピンとは明確な対称をなしている。しかし本作はシネスコで撮られているので、横長のスクリーンを使って垂直方向の運動を見せる、という画面設計の上手さが要求されることになるのだが、これがとんでもなく上手い。特に、前半の山場となる油井炎上シーンなどは完璧としか言いようがない。アングル、カット割、カメラワークと揃ってこれだけタイトな演出を見せつけられてしまうと、やはりアメリカ映画はとんでもなく凄いと痛感する。これと比べればタルコフスキーによる『サクリファイス』('86)のラストなどは児戯に等しいとすら言えてしまうかもしれない(流石に怒られるか)。
 撮影に加えて、音楽も特筆しておかねばならない。ジョニー・グリーンウッド(Radiohead)によるスコアは、過剰に現代音楽的なもので、良かれ悪しかれ鮮烈な印象を残す。場面によっては不穏さを醸し出す狙いが少々はっきりしすぎている感もあるが、それでも魅力的だ。爆音上映にも最適な素材だろう。
 それからもちろん忘れてはいけないのが、ダニエル・ルイ=デイスによる完璧な人物造形だ(オスカーの主演男優賞)。ほとんど出ずっぱりで主人公の半生を体現してみせるのだが、これほど説得力を持ったキャスティングというのはなかなか難しいだろう。
 30台にしてすでに巨匠のような風格を獲得してしまったPTAの新たな代表作。必見。
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バグズ・ワールド(6/28公開)

2009-07-25 04:00:22 | 08年6月公開作品
 08/7/20、シネマサンシャインにて鑑賞。7.0点。
 二種のアリの死闘を追ったドキュメンタリー。具体的に言うと、巨大な蟻塚を築くオオキノコシロアリと、拠点を持たずに集団で移動しながら各地を破壊し尽くしてゆくサスライアリとの一大決戦のドキュメントである。まず前半は、要塞を築いて着々とコロニーを繁栄させていくオオキノコシロアリと、通った全ての場所から食料を一掃してゆくサスライアリの放浪生活とを交互に描いてゆく。両者は後半で出会うこととなり、徹底した籠城戦を繰り広げるオオキノコシロアリと、その攻略に挑むサスライアリとの死闘がクライマックスとして描かれることになる。
 ……しかし、オオキノコシロアリの蟻塚と放浪中のサスライアリとをそれぞれ別個に撮影していたら、たまたま後者が前者にたどり着いて戦いを始めた……なんて都合の良いことがあるはずもなく、つまりこれは、『いのちの食べかた』('05)の真逆をゆくような、徹底して作為的にストーリーを作り込んだドキュメンタリーなのである。というよりもむしろ、現実の自然界に存在する素材を用いて撮られたフィクション映画である、と言った方がしっくりくるかもしれない。昆虫がキャスティングされた戦争映画だ。しかしあるいは、あくまでも科学的裏付けに基づいた素材を被写体にしている、という点を強調するならば、これぞまさしくSF=サイエンス・フィクションである、と言ってもいいだろう。ともあれ本作は、ドキュメンタリーとしては異例なほどあからさまに作為性を盛り込んでいる、という点から特徴づけられる。
 このやり口に対しては、これこそがドキュメンタリーの原理だという擁護も、いやこんなものはドキュメンタリーとして失格だという非難も、ともにありうるだろう。が、そんな論争はこの際些末な問題でしかない。実際のところ、この映画の価値の全ては、新機材ボロスコープ・レンズなるもので撮影されたという衝撃的な映像にある。慣れるまでは「これホントにCGじゃないの?」と我が目を疑ってしまうほどの圧倒的な映像が展開されるのだが、ここで実現されているのはつまり、ミクロの世界を信じがたい程に鮮明な映像で捉え、それを大スクリーンに映し出すことで、人間の知覚に対する常識に揺さぶりをかける、という効果なのである(少々衒学的に述べるなら異化効果と呼んでみてもいい)。卵製造器と化した女王アリのぐにょぐにょと蠢く体がスクリーンに大写しにされるとき、我々はもはや、それが単にこれまで人間の知らなかった世界を見せてくれたものだとは受け取れない。むしろここには、人間のそれとは別種の「あらたな知覚」を獲得してしまったような不気味さがある。本作が人々に提供してくれるこうした映像体験の前に、もはやドキュメンタリーとしての正当性の有無などはどれほどの意味も持ちえないだろう。
 マクロな世界ではなくミクロの世界を覗き込んだ本作は、単に近年流行中のネイチャー・ドキュメンタリーの一本というだけには留まらない力を秘めている。興行的にはペンギンやらホッキョクグマやらに敵うべくもないが、しかし一見の価値あるインパクトを持った作品だ。
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炎上(1958)[旧作映画]

2009-07-24 00:53:52 | 旧作映画
 08/7/19、新文芸座にて鑑賞。5.5点。
 最初の全盛期を迎えつつある時期の市川崑の代表作で、市川雷蔵初の現代劇としても知られる一本。内容を推測しにくいタイトルだが、吃音に苦しむ青年僧がそのコンプレックスを抱えながらも国宝の寺に住み込みを続け……という、つまり三島由紀夫『金閣寺』の映画化である(タイトルを変えたのは作中で寺の名前が変えられているからだろうが、なぜ寺の名前を変えたのかは不詳)。
 いかんせん三島があまり好きでないので、個人的には原作とは別物の素晴らしさを見せてほしいと期待していたのだが、やはりこれだけ強烈な原作を持ってしまうと離れられないか。映画作品としての本作への評価とは関係ないが、「シリアスに」コンプレックスを描いた作品というのが苦手だ。あと個人的には、コンプレックスを持っていない人間がそれでも抱いてしまう絶望こそ恐ろしいと思う(割腹自殺に至る人間の情念よりも「ぼんやりした不安」の方が怖い)タイプなので。
 というわけで、本作の最大の見所は、登場人物の想いなどとは無関係に圧倒的な美しさを誇る「炎上」シーンだと言いたい。撮影は宮川一夫で、もう流石の一言なのだが、シネスコで撮ったのは本作が初めてらしい。それでよくこれだけのものを……と驚かされるが、恐らくは初めてだったからこそ、細心の注意を払って画面設計したのだろう。眼福。
 それからもちろん、市川雷蔵の器用さを堪能できるのも見所だ。「眠狂四郎」シリーズで知られる時代劇スターとは思えぬナイーヴな現代青年を演じきっている。彼のファンは間違いなく必見。この他キャストでは、仲代達矢の存在感を再確認できたことが個人的には最大の収穫かもしれない。このアクの強すぎるキャラクター造形を、「仲代歌舞伎」や市川演出の嫌らしさとして感じる人がいるのも理解できるが、しかし本作に関してはむしろ三島原作の影響が大きいと思われるし、それを体現してみせたのはやはり彼の力として認めるべきだろう。ベテラン陣の中村鴈治郎、北林谷栄はいつも通り上手くて安心して観ていられる。
 個人的には市川崑作品としてあまり好きな部類には入らないが、三島由紀夫が好きなら押さえておくべき作品だろう。
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魂のジュリエッタ(1964)[旧作映画]

2009-07-22 01:04:00 | 旧作映画
 08/7/18、シネマヴェーラにて鑑賞。6.5点。
 フェリーニ初のカラー作品で、前年の『8 1/2』の女性版なんて呼ばれたりもしているらしい。強烈なイメージの数々が溢れ出してくるいかにもフェリーニらしい作風で、合う人と合わない人とに決定的に別れるであろう一本。
 狂ったような心霊術師、木のエレベーター、プールへの滑り台……138分と長めの尺で、次々に繰り出される豊穣なショットの数々が満腹になってからもなお続き、合う人にはたまらないであろう時間が続くが、どっぷりハマるところまではいけない俺くらいの観客にとっては、ほとんど胃もたれしそうになる。このイメージの祝祭は確かにそれだけでも認めざるをえないと思うのだが、これをどう評するべきかと考えられるところまでは消化できない。
 しかしとりあえず書き留めておきたいシーンとしては、オープニングを挙げておく。ジュリエッタ・マシーナが後ろ姿だけを晒して観客の前に現れ、鏡だらけの部屋の中を縦横に動き回るのだが、計算し尽くしたカメラワークによって、その表情は鏡に映り込まないようにされており、観客は数分間にわたってジュリエッタの顔を見ることを焦らされる。物語には何の関わりもないお遊びのような仕掛けだが、このケレンたっぷりなイメージとの戯れは、映画の快感の一つを魅力的に示してくれている。
 それにしてもジュリエッタ・マシーナはいい女優だと感じ入る。本作では作中人物としての名前までジュリエッタだが、この個性的な存在感の強さは常人離れしている。そして言うまでもないが、妻を主演にこんな映画を撮ってしまうフェリーニという人もまた常人ではない。
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赤い砂漠(1964)[旧作映画]

2009-07-21 03:49:59 | 旧作映画
 08/7/17、シネマヴェーラにて鑑賞。6.0点。
 イタリアの巨匠ミケランジェロ・アントニオーニの代表作の一つで、彼のフィルモグラフィー中では初のカラー作品として位置づけられる。といっても個人的には本作で初体験。
 前評判に違わず、この人の作品をお話として見ようとすると退屈極まりない。ここに描かれているのは、神経症気味の有閑マダムが漂う不安な日々のスケッチである(……と言ってしまっては、「過去の自動車事故のトラウマ」を引きずっている主人公の人物像に対して失礼かもしれないが)。タイトルにもある「砂漠」さながらに、解放の訪れない不毛な日々が続いてゆく。イタリア語で書かれた(ある種の)フランス文学、とでも言いたくなるような印象の一本だ。
 タイトルに関して言えば、もちろん「赤い」という形容詞の方も重要である。モノクロ作品を未見の状態では何とも言えないが、しかし少なくとも、この初のカラー作品において、アントニオーニは色彩にこだわり抜いたのだ、ということはよくわかる。全体にくすんだ色調が主人公の心象風景そのままのようで秀逸(というのはつまり、ストーリー上の意味によって映像の意義が決まるというのではなく、むしろ映像の力によってストーリーの意味が決まってくるということだ)。そして、そんな灰色の世界の中に挿入される(「赤」をはじめとした)原色のどぎつさは、ほとんど前衛的なまでの暴力性を持っている。
 高度成長期における「赤い砂漠」としての工業社会と、そんな砂漠を漂うほかない人間の姿とを、色彩の鮮烈さによって描き出す……と書いてみると途端に陳腐に感じられてくるが、それを陳腐と感じさせないのが流石。なお、作中で主人公が息子に語って聞かせる「おとぎ話」が映像化されるシーンがあるのだが、その劇中劇的な仕掛けによって、この映画全体が一つの寓話であると示しているのかもしれず、だとずれば陳腐などという評価は最初から禁じられているのかもしれない(おとぎ話や寓話はもともと陳腐なものなのだから)。
 主演のモニカ・ヴィッティは、不安という感情をそのまま体現したかのようで素晴らしい。こう言っては何だが、ストーリーに起伏がない以上は主演女優が画面を引っ張ることが至上命題になるわけで、その役割を見事に果たしている。
 アントニオーニの代表作として、もちろん必見の作。しかし、閉塞的な雰囲気がえんえんと描写し続けられるのには徒労感を覚えるのも事実で(小屋での会話のシーンなどは、画面に変化もないし徐々に苦痛になっていった)、個人的にはあまり高く買いたいとは思えなかった。
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夜になるまえに(2000)[旧作映画]

2009-07-19 22:15:20 | 旧作映画
 08/7/15、早稲田松竹にて鑑賞。6.0点。
 画家の伝記映画『バスキア』('96)で映画監督として出発したジュリアン・シュナーベルの第二作で、今度はキューバの亡命作家レイナルド・アレナスの生涯を描いた伝記ドラマである。作家自身の書いた自伝が原作となっており、タイトルもそのまま用いられている。しかし個人的にはこのレイナルド・アレナスを全く知らぬままに観ることになったのが少々残念。
 同性愛、政府からの理不尽な弾圧、脱出……などの要素からなる実話ベースのストーリーは、実在した人物の人生としては確かに劇的で鮮烈なものだが、しかし亡命者のドラマとしてはどうしても既視感の強いエピソードばかりで、となるとやはり全体としても既視感が強いという印象になってしまう。レイナルド・アレナスを知らなければ十全に楽しむことは難しいかもしれない。
 しかし、本作で何より素晴らしいのは撮影だ。撮りたいものを撮り、それによって結果的に語るのだとでも言いたげな撮影の迫力によって、物語が動き出す以前の序盤から惹きこまれる。一つ一つのショットが素晴らしく詩的だ。後に『潜水服は蝶の夢を見る』('07)ではカミンスキーと組むことになるジュリアン・シュナーベルだが、ここでも素晴らしい撮影監督と仕事をしている。「気球」のシーンなどは強く印象に残る名場面だろう。
 しかし、全体としてはアクの強い題材をアクの強いままに語ってしまったような愚直さを否めず、もう少し語り口に工夫が欲しかったというのが正直なところ。全編を通して制作者たちの熱意は確かに感じられるし、主演のハビエル・バルデムも名演だろうと思うのだが、もう少しスマートさが欲しかった。130分強の尺もやや長い。
 ジュリアン・シュナーベル及びレイナルド・アレナスに興味がある人なら一見しておいて損はない、といったところか。なおカメオ的にジョニー・デップが出演しており、どこで出てくるのだろうと探すのも面白い。
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そして人生はつづく(1992)[旧作映画]

2009-07-19 01:04:09 | 旧作映画
 08/6/12、ユーロスペースにて鑑賞。7.5点。
 イラン北部で1990年に起こった大地震。そこにはキアロスタミがかつて『友だちのうちはどこ?』('87)を撮影した土地も含まれていた。『友だち~』に主演した男の子の安否を訪ねて、キアロスタミは息子とともに車を走らせる。大地震の傷跡生々しい土地で二人が見たものは……というドキュメンタリータッチの作品だが、監督と息子が自身で出演しているわけではなく、その体験をもとに俳優に演じてもらった再現ドラマである。
 最大のポイントは中盤、『友だち~』に出演したお爺さんと出会ってからの一連のシークエンスである。親子は爺さんの家に連れて行ってもらうのだが、その家を見てキアロスタミの息子が言う。「『友だち~』で住んでいた家と違いませんか?」。爺さんは答える。「あれは映画の中の家だよ。映画の人たちが勝手にわしの家ということにしてしまったんだ」。過去の自作におけるリアリティをあえてぶち壊しにするキアロスタミ。だがそれは[単なる前フリ]に過ぎない。[「実はこの家もこの映画の中の家なんだよ」]。
 災害直後の土地で人探しをし、それをロケ撮影する……という、ごく素朴な形で作りさえすれば感動的な作品になる題材を、わざわざメタフィクショナルな遊びで混乱させるキアロスタミ。しかしそれでもなお、いや、おそらくはその仕掛けによってこそ、本作は真に感動的な映画となっている。
 どういうことか。たとえドキュメンタリーを装っていても、映画は根本的に虚偽である。作為の塊である。嘘である。しかし、そこに映し出されているものはすべて、どこかに存在している何かだ。映画は「それが何であるか」について嘘を言う。しかし、世界のどこかにこういう風景が広がっていること。映画のために作られたセットであっても、いやこの際コンピューターで作られたVFXであっても、「世界に何かがある」ということ、そのことだけは嘘ではない。お爺さんの台詞は、この事実だけを純粋に抽出させる。
 だから、崩れた煉瓦の家が、茶色い街の風景が、緑なす林が、洗濯する女が、泣き笑う赤ん坊が、そしてジグザグ道が、どれもかけがえのない美しさをもって迫ってくる。ロングショットの長回しで撮られたラストショット、あまりにも人工的なシーンだが、しかしあのジグザグ道の風景がすべてを語っている。And life goes on...傑作。
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クローズ・アップ(1990)[旧作映画]

2009-07-18 16:05:43 | 旧作映画
 08/6/8、ユーロスペースにて鑑賞。6.5点。
 キアロスタミの代表作の一つであり、彼の作風が一つの極限的な形で示されていると言えるかもしれない。「有名な映画監督になりすましていたことがバレて逮捕された青年」の実話から出発して、通常の意味での「ドキュメンタリー」と、事件の当事者たち自身によって演じられた「再現ドラマ」と、二つの次元の映像が区別されずに混在して進んでいくという特殊な構成である。
 「虚構」と「現実」との境を揺さぶるメタフィクション……というだけなら必ずしも目新しくはないかもしれないが、本作の独自性は、「虚構」である再現ドラマ自体が本人に演じられているために真正のドキュメンタリーとなる(つまり「虚構」が「現実」に変貌していく)過程と、それと真逆に、「現実」であるはずのドキュメンタリーパートが監督の作為的演出によってコントロールされたフィクションと化していく(つまり「現実」が「虚構」に変貌していく)過程と、この二つの道を繰り返し往来することで、単に現実と虚構の境界を「揺さぶる」にとどまらず、両者を明確に「反転」させていく点にある。その結果として観客に理解されるのは、映画にとっての「真実」とは「スクリーンに映し出されたものすべて」であり、それがどのような次元に属するかなどは二義的な問題にすぎないということだ。だから、重要な場面であまりにもわざとらしい「マイクの故障」が起こっても、役者でもない一般人であるはずのサブジアンが絶妙なタイミングで涙を流しても、それらをドキュメンタリーの「嘘」と呼ぶことはできない。スクリーンの上に「嘘」などありえないのだ。
 しかしそれにしても、こういうメタフィクショナルな構造の作品を撮って、なおかつあざとい前衛臭さを微塵も感じさせない才能はこれまで他に観たことがない。それは、キアロスタミが映画というものの真理を単純素朴に知っているからなのだろう。
 ただし、個々の映像に関しては、『友だちのうちはどこ?』('87)における「ジグザグ道」をはじめとした鮮烈なショットたちには及ばないか(坂を転がっていく缶などは悪くないのだが……)。
 ともあれ、映画に関心を持つ者なら一度は観ておきたい一本である。
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クリスタル・ボイジャー(1972)[旧作映画]

2009-07-13 04:45:54 | 旧作映画
 08/7/14、新宿K'sシネマにて鑑賞。6.5点。
 サーフィン映画の金字塔と称されるドキュメンタリー作品である。といってもサーフィン映画の系譜なんて全く知らないのだが、しかし少なくとも本作に関しては、形式上の際立った特色を指摘できる。それは明確な二部構成をとっているということで、本作の79分という上映時間のうち、最初の56分間は「前フリ」のパートである。映画の水中カメラマンとしても知られる名サーファー:ジョージ・グリノーの生活を追う56分間は、対象としての被写体をカメラが追ってゆく、客体と主体が分離した通常のドキュメンタリー体験にすぎない。
 しかしラスト23分、映画は大胆といえばあまりにも大胆な展開を見せる。グリノー自身がカメラを背負って実際にライディングしながら撮影した、チューブの中の映像がえんえんと続くのである。「チューブ」というのは、(今回初めて耳にしたくらいなので正確には知らないが)波の中にできる空洞部のことで、この中をボードに乗って走ると、上下左右が波に包まれるわけだ。そんなチューブの中の映像が、サーフィンなどしたこともない観客たちにも送り届けられる。それは、スローモーションによって捕らえられた波の乱舞であり、光の反射が生み出すサイケデリックな色彩である。人間はもちろんのこと、一切の静物が姿を消し、サーファーの主観視点による波の映像だけが続く。
 なぜ23分なのかといえば、Pink Floydの"Echoes"をBGMとしてフルレングスで流すとそうなるからである。映像と音楽とががっぷり組んでサイケデリックな空間を現出させ続け、ドラッグ全盛の公開当時はそのトリップ感が絶賛されたという。前半の56分間は、サーフィンに特別の情熱がない人間にとって通常のドキュメンタリーの枠を何ら超えるものではない。しかし最後の23分間、実際のサーフィンともおそらくは違う、チューブの映像と"Echoes"とが作り出す空間は、本作でしか得られない体験である。
 言ってみれば、本作は(サーフィンとかドキュメンタリーとかいった枠組みを越えて)「映画が映画になるとき」を教えてくれるのだ。単に意味を伝達する情報としてではなく、映画が一つの「体験」と化すとはどういうことかを教えてくれる。それはもちろん、「サーファーの体験」を再現してくれるなどといった意味ではない。ここではもはや、それが元々サーフィンによって得られた映像であるという出自など問題ではなくなってしまっている。そんな文脈を超えて、ただひたすらに驚異的な「イメージの体験」として提示されているのだ。
 ……もしかしたらそれはサーフィン狂であるグリノーの本意ではないかもしれないが、しかし作り手の意図に関わらず、この映画が獲得してしまっているものは、実際のサーフィンとは切り離し可能なイメージの豊かさであるように思う。映画ファンなら誰でも一見の価値ある力作だ(もちろんサーフィンが好きならより楽しめるであろうということは否定しない)。
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ノスタルジア(1983)[旧作映画]

2009-07-12 02:07:42 | 旧作映画
 08/7/13、シネマヴェーラにて鑑賞。6.5点。
 タルコフスキーの代表作(といっても寡作な人だから全てが代表作なのだが)で、カンヌで監督賞を獲得している。これぞタルコフスキーといった印象の作品で、催眠効果を最高度に発揮する緩慢なテンポによって、説明をすっかり排除した映像詩が126分間ひたすら綴られてゆく。160分の『ストーカー』('79)や149分の『サクリファイス』('86)よりは多少短いし、「タルコフスキーらしさ」を一作で体験してみたいという人には入門編としてこれを薦めればいいかもしれない(さらに短い『鏡』('74)は未見なので何とも言えない)。
 目的地にやって来たと思しき主人公が、なぜか「車に残る」と同伴者に言い出す、という冒頭からして意味がわからないので、「18世紀の音楽家サスノフスキーの足跡を辿ってイタリアを旅する詩人アンドレイ」……という基本設定すら、頑張らないと読み取れない。その後も、この作品は一体どこを目指して進んでいるんだろう……と不安になるほどの断片的な情景が映し出されていく。舞台は屋外の温泉を中心に、テンポは極端にゆったりと。時おり挿入される回想の中の故郷がセピア色で撮られていて、反則級に美しい。
 終盤、「演説とその後」のシーンから「蝋燭」のシーンへの流れで、ようやく物語の輪郭がはっきりしてくる。このあまりにも有名な「蝋燭」のシーンでの長回しは、タルコフスキーがいかに本気で映画に向き合っているかを示して感動的だ。翻って考えてみれば、作品の全編がこの熱意と真摯さに支えられた映像美によって埋め尽くされているわけで、この映像だけをとってみても巨匠の面目を保つに十分な強度を誇っている。
 だが、個々のモチーフ自体はかなり陳腐であるというのも否めない事実だろう。ドメニコの「1+1=1」とか、「蝋燭を消さずに往復できたら世界は救われる」とか、いかにも意味深そうに提示されるが、それに酔わせてくれるところまではいかない。しかしそれでも、「蝋燭」というアイテムはそれだけで人間のあらゆる営みを示せてしまう優秀なメタファーではあると思う。
 どうせ作品数も少ないことだしタルコフスキーは一通り見てしまえ、と踏ん切りをつけた上で、(眠くならないように)体調を整えて臨みたい。観て損はない力作である。
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秋津温泉(1962)[旧作映画]

2009-07-10 01:43:39 | 旧作映画
 08/7/11、シネマヴェーラにて鑑賞。7.0点。
 吉田喜重初期の代表作であり、したがって松竹ヌーヴェルヴァーグの代表作でもある一本(しかし「松竹ヌーヴェルヴァーグ」というのは何とも曖昧な括りの呼称なので、俺には本作が入るのかどうか不詳)。個人的には『エロス+虐殺』('70)から吉田喜重に入ったので、筋書きだけ見れば真っ当なメロドラマである本作がどんな出来なのか予想できなかったのだが、いやこれは想像以上だった。間違いなく名作。
 「男が温泉場の女を訪ねる」という同一のシチュエーションを五回繰り返すだけ、という反復によるシンプルなプロットで、その各々の試行で二人が常にすれ違ってゆく様を描き出した哀愁のメロドラマである。終戦直前から始まる物語には、結末までに17年の時間が流れ、その間に二人の関係性も彼らが生きる戦後日本の姿も変貌してゆく。男女が「偶然」に阻まれてすれ違うという『めぐり逢い』('57)的作劇がメロドラマの一つの典型だとすれば、一つの場所で物語が展開する本作は、(そこに偶然が入り込む隙などないのだから)二人の本性と流れる時間によって「必然的に」すれ違ってしまうメロドラマであると言える。
 二時間を切る尺の中で17年に及ぶ二人のすれ違いの過程を描き出し、悲劇としての体裁を身にまとってみせるラストへ向かう。そんな理詰めのプロットによって、物語は哀切きわまる結末へと運ばれてゆく。[「一回目」で男を死から救い、「二回目」で死を文字通り笑い飛ばした女が、「五回目」では死ぬしかない状況に追いつめられていく]……その残酷さとその切実さ。メロドラマの一つの完成形だろう。
 そんな本作のメロドラマとしての格調を支えているのは、ロケ撮影の素晴らしさである。秋津の四季を切り取ってゆくその映像の美しさは、60年代前半の日本のカラー映画として相当のレベルにあるのではないか。最終盤の俯瞰ショットなど、カメラも才気走っていて小気味よい。
 メロドラマでもう一つ肝心なのは、(言うまでもないが)主演の二人だ。「映画出演百本記念」とのことで自ら作品を企画したという岡田茉莉子は、気持ちの入った演技を見せてお見事。17年間を演じなければならないため、1933年生まれの岡田にとって序盤の若作りはさすがに厳しかったかもしれないが、しかし終盤の完璧な演技で全て挽回する。相手役は長門裕之で、女を17年も惹きつけるだけの色気が足りない云々といった批判をされがちだが、個人的には彼の俗物っぷりは本作に極めてよく合っていると思う。[女の情念を理解できない男]というラストの説得力は、彼によってこそ体現されている。
 傑作。
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エロス+虐殺(1970)[旧作映画]

2009-07-09 01:59:45 | 旧作映画
 08/7/11、シネマヴェーラにて鑑賞。6.5点。
 大島渚と共に松竹ヌーヴェルヴァーグを代表する吉田喜重が、70年代に入ってすぐに送り出した代表作。個人的にはこれが初体験。
 大杉栄と女たちの三角関係を描く「過去」(具体的には大正時代)のパートと、彼らに興味を持って調べている学生を描く「現代」(具体的には70年)のパートとが並行して描かれ、ときに交錯してゆく。同時期の大島渚(『新宿泥棒日記』('69)とか)などを連想させるいかにもアングラでペダンティックな題材で、今見るとキツイ面があるのも確かだが、しかしそう言うだけで切って捨てることはできない。167分という長尺(完全版は216分!)と、大正パートでの和装が否応無しに醸し出す雰囲気とで、この種の前衛映画としては異例なほど風格を保っていると言える。アングラはアングラでも、演劇的な「叫ぶ」型の演技がそこまで多くないというのも大きいかもしれない。
 とはいえ、「エロス」と「虐殺」を、つまり「性」と「政治」を描いた内容について、あれこれ考える気にはならない。消化できたとは全く思っていないが、それでも再見しようと思う日が来るのはかなり先だろう。しかし、にもかかわらず本作には高く買っておきたいと思わせるだけの何かがあった。それはおそらく、物語(性と政治)でもなく、映像(先鋭的なモノクロ)でもなく、それらを一要素として含む大きな枠組みとしての作品の構造そのものに強度が感じられたということだろう。いずれ完全版で再会したいと思う。
 キャスティングがまた完璧で素晴らしい。日本人離れした岡田茉莉子、意志の強さを感じさせる楠侑子、「大正の革命家」というイメージをそのまま体現したような細川俊之……という大正パートの三人。一人で即物的な形のエロスを担当し(要するに脱ぐ)、気だるげなムードを付与する伊井利子、アングラ演劇的な馬鹿高いテンションを見せる原田大二郎……という現代パートの二人。適材適所でいずれ劣らぬ好演を見せている。
 日本映画のファンなら当然観ておくべき作品の一つだろう。
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シークレット・サンシャイン(6/7公開)

2009-07-08 01:46:38 | 08年6月公開作品
 08/7/7、シネマート六本木にて鑑賞。6.5点。
 スペクタクルもなく、カタルシスもなく、息子を喪った母親の姿を追い続ける142分間のドラマ。個人的には初めて観た韓国のイ・チャンドン監督作である。
 本作の主人公は、もともと不安定で危なっかしい女性として登場する(浮気していた夫を今でも好きなのだと自分に言い聞かせ、なんとか過去を正当化しようとしていたりする)。それが新天地にやってきてみたら、誰でも参ってしまうような状況に突き落とされる。その先の生き地獄は誰しも想像のつくところだ。この映画はその生き地獄を丹念に描く。精神の不安定な女性がボロボロになっていく過程を丁寧に追い続ける。そんな映画を観たいと望む観客がどれだけいるのかは知らないが、しかしそういう作品としては出色の出来栄えだろうと思う。
 もちろん前段落での要約は不十分だ。この映画のタイトルが指しているのは、まず物語の舞台である「密陽」という地名であり、そしてその名が意味する「密かな陽ざし」である。したがって、この作品が描いているのは「喪失」そのものではなく、喪失の後にも密かに降り注いでいる「陽ざし」なのである。と言って間違いではないのだが、しかし事はそう簡単ではない。この作品に安易な解決は存在しない。陽ざしのありかは、はっきりと指し示されるわけではない。というよりむしろ、ただ降り注ぐだけの「陽ざし」には本当に何かを解決できるだけの力があるのかどうか、それすらも定かではない。にもかかわらず、あるいはだからこそ、長尺を用いて「陽ざし」を描き出そうとすること。それに賭けた真摯な作品作りの姿勢には、素直に賞賛を送りたいと思わされる。
 「真摯な」という言葉を躊躇なく使わせてくれるのは、本作にきっちり芯を通しているカメラのおかげである。空を仰ぐファーストショットからラストの陽ざしまで、全ての場面において、なあなあにせず意図をしっかり打ち出した撮影がなされている。特にソン・ガンホを捉えるカメラの距離感は絶妙で、食事の約束を取り付けて喜ぶシーンなどは名場面と言いたくなる。
 それからもちろん、最大の功績はチャン・ドヨンに帰せられることだろう。カンヌで主演女優賞を獲得しているが、確かに名演である。
 ハードなドラマに真正面から挑んだ秀作。観て損のない一本だ。
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