弥生になって
柳の芽も
ふくらんできました
万葉集巻第17・3903を
お勉強致しました時に
柳さまが
出て来られまして
5才の頃
思い出しました
私は
身体虚弱
児童で
この世に生かされたと
思った
体験のあと
昭和19年 ( 1944 ) 頃
小学校3年生でした
柳
と
柳の木があるのです
その頃
裁判所の東の
長屋から
てくてく歩いて
伊賀鉄道伊賀線
上野市駅
昔の
ちんちん電車 ( 今の忍者列車 ) の
踏切を
福川幸勇さんが住んでいました
商店街の
入口なのです
右に
けれど
その
上野産業会館のあった
東北の角に
生涯
忘れることの
柳の木と
思っていました
その頃は
大東亜戦争中で
母の吉岡俊は
三重県上野市立高等女学校の
生徒さまの
学徒勤労動員
引率教員として
鈴鹿海軍工廠へ
行っていました
お姉さん達と
母が
上野市駅に集まって
出発されるお姿を
私は
柳の影で
身をかくし
立って見つめていました
女学生 ( 中学生 ) の
お父様お母様が
駅で
近づくことが
出来ませんでした
その後
軍需工場の空襲や
地震で
女学生さまの
ニュースが
伊賀上野に入って
一時
母が
戻るということが
わかっても
私は
その
いっぽも
出来ませんでした
その頃
学徒勤労動員の
流行っていまして
いたします
母は
私を
自分に
私が
生まれましたのは
昭和11年12月28日 ( 1936年 )
半年後の7月7日
1945年8月14日
終戦です
生まれる前の
父と母の写真を
見ましても
伝わってきます
戦争だったのですね
私は
あまりにも
幼く
母しか
目に入って
いませんでした
なぜ
私から
離れるの
わるいことを
したから
どうして
ひとりなの
って
生まれてから
8才まで
世の中で起こったこと
まだ
ほんとうに
理解できる
大木は
私にとっての
ご神木だった
のですね
犠牲に
黙祷
今日は前進
頑張ってね
… …
ありがとう於良