おりょうの万葉浴

おりょうの万葉浴展・ ギャラリー香・2017年12月  

生かして下さってありがとう

2009-09-29 | 


  5才の 

 時 

 「 しんでしまった 」と

                            思ったことが 

                           あります 

                             腸チフス

                            という

 伝染病に

なって 

 避病院(ひびょういん)から

                         家中

                       消毒しに 

                        来られまして

             私は 

  消毒のにぉぃのする車に 

 乗せられて   

   伊賀上野の 

                         丸の内にある

                       長屋を 

                        出て行くのを

        まるで 

   お葬式

 かのように  

   近所中の人々が 

                         並んで 

                       見送って 

                        下さいました

        避病院に 

   着くと

 お医者様が  

   あきらめてください  

                         もうだめなので

                       何でも 

                        ほしいものを 

                     与えてあげて下さい 

   振袖の

 着物と  

  コッポリが

        ほしい 

                          母は  

                        振袖を 

                          私に

 着せて 

  コッポリを 

    持たせてくれました

                         意識が 

                          だんだんと  

なくなって 
  
 オレンジ色の 

                        きれいな世界が 

                       広がって 

                        真っ白い光と 

  黄色の 

光の世界に 

  入りました

                         今でも 

                        はっきりと 

                         覚えています  

               けれど

たまたま 

 生きかえりました  

                         光の世界は 

                       覚えて 

                        います

             その後も 

   伊賀上野の 

 裁判所の前にある 

   長屋に  

      9才になるまで

                        女学校で

                       働く母と 

                        結核にかかった 

                     兄と 

  暮らして 

   いて

                             父は 

                         小学校の 

                       校長先生として 

                        単身赴任で 

   出たり 

 入ったりの 

  生活で

                         不在だったように

                       記憶が  

                        うっすらとしています

        私は 

  忙しい両親に 

 反抗して 

  母が作ってから 

     仕事に行った 

                          食事は 

                    「 食べたくない 」と 

                       子守りのたまえ姉ちゃんが 

                  嫁いでしまってから 

 代わりの   

  お女中さんは

                        私の

                     言うとおりに  

                       母のつくった

                    食事を 

  イチヂクの 

 木の下に 

  埋めて

      黙っていてくれました

                               それで 

                           小学校で

                         私は 

                           身体虚弱児童として 

  養護学級の 

 1年9組に 

  いたのです

                              校長先生の 

                            父と 

     健康食を

  提唱していた

 女学校の 

  先生の

                 娘が 

                            身体虚弱児童で 

                         養護学級とは 

                           びっくりですね

            10才から 

     父の実家に 

 家族で参りまして 

   姪の 

                         孝子達と 

                      上野高校の 

                        寄宿舎に入るまでの 

     5年間程

  ともに暮らした  

   大山田村での 

                            生活で 

                              私は 

  健康な身体と 

 心に 

  なりました

                              高校生に 

                           なった時に 

                         あの避病院へ 

                           行ってみましたら 

 なんと 

  病院の隣は 

     焼き場でした

                   生かして下さって  

                     ありがとう於良


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2 コメント

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上野小学校でした (於良)
2013-03-02 21:21:15
戦前のことで 上野小学校は 8クラスと養護学級があったとおもいます 当時 日本でもマンモス校でした 私は養護学級から1年8組に入って元気になりました
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私も同じです (菊山博之)
2013-03-02 16:06:18
伊賀上野の避病院には私も入れられました。4歳の時に疫痢になり、医者に助かりませんといわれたそうです。当時は愛宕町に住んでいました。丸の内だと、もしかすると西小学校ですか?
避病院は焼き場の横にあったのですか、知りませんでした。
たまたま、このブログを拝見して、同じ人がいると思って、懐かしくなってコメントしました。
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