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めめんともり

わたしたちが ふたたび
生きるためのものは

と おそらくは 死
だけだ

生暖かい夜

2010-03-05 15:32:24 | 日記
生暖かい夜って死にたくなるんですよねぇ。
特に、寒さが消え失せる頃の夜は。

この時期は、別れの季節なので
そういうことを考えて死にたくなるのだと思う。
失っていくのが怖い。
忘れていくのが怖い。
でも、わたしは忘れていくし、失っていく。

だからこの時期はいつも以上に憂鬱なのよね。
たぶん。

生き急いでるだけです、結局

2010-02-27 14:18:30 | 日記
どういう生き方をしたいですか、と聞かれて、
30までにガスオーブンに頭突っ込んで死にたいです、と答えた。
瞬間的に浮かんだ答えがそれだった。

ああ、海外のある女詩人の真似です。
うん、わたしの詩人のイメージって「そういうこと」なんですよね。
そういう生き様。そういう人生。

でもきっと、わたしは適当なところに就職して、
適当に生きて、適当に死にます。
小学生の頃からずっとそう思ってました。
だから、たぶんそうなるでしょう。

安楽に従属したくはないんだけどなぁ。
でもするんでしょう。
予言は運命として降ってくる。

何をしたいのかわからないというあまりにも単純な問題における個人的メモ

2010-02-26 21:32:44 | 日記
自分が今、考えてることでもだらだら書いとく。
厨2病満載だから他人からすると笑えるかもしれない。

結論からいえば、わたしは吉原幸子に呪われてる。呪いという言い方が失礼だというなら、魅入られてると言い換えてもいい。一つの大きな勘違いは、詩人になりたかったのではなく、吉原幸子になりたかったということ。わたしはただ、吉原幸子になりたいから詩人になりたいのであって、詩人になりたいから吉原幸子を愛しているのではない。

例えば、高校の恩師とか友人とか、尊敬できる人間は他にも多数いた。それでも、わたしは彼ら彼女らになりたいと思ったことは一度もなかった。その「ように」なりたいと願ったことがあったとしても。それは単なる「憧れ」であり「尊敬」であり、「劣等感」に過ぎなかった。

この差異に気付かなかった、もしくは、あえて見過ごしたのが、たぶん人生における最大の間違い。他の間違いなんてこれと比べれば些細なことだ。中学いかなかったとか受験失敗したとか、そんなことは。

結局、わたしが普通に会社勤めをしようとすることに歯止めをかけるのは、吉原幸子がそうじゃなかったからとしかいいようがない。働きたくないとか詩の研究をしたいとか、そういうんじゃない。吉原幸子はそうしなかったのだから、吉原幸子になるためにはそうすべきではないという意識。けれど、わたしは演劇なんてやったことがないし、外見もはるかに劣るから、彼女のように女優として劇団四季に所属することはできない。ただ、わたしができることは当たり前と思われるレールから外れることすなわち会社勤めとは別の未来を選ぶことでしかない。理想はフリーターなんだ、ぶっちゃけてしまえば。

けれど、そうすることができない程度には、自分はリスク管理をしたがっていて、だから院に進学するというとりあえずの地位の確保を目指してみたりする。でもそれでもリスクが高すぎて、選ぶに選べないという哀しさ。

そんなこんなでぐだぐだしつつも、会社説明会やエントリーシートの締め切りは待ってくれないから時間に追われてる。

死に急ぐことなかれ

2010-02-26 17:00:02 | 日記
メッセで説教くさいことしたから、こっちでも説教書いとく。

大学合格おめでとうございます。
少なくてもこのブログを見てる知り合いっぽい人は、みんな合格しているみたいなので良かったです。本命でもそうじゃなくても、大学生活は間違いなく楽しい。非リア充である自分が断言します。大学は楽しいです。講義含めて。

高校時代では考えられないほど、本当に多様な人がいます。同学年でも年上の人だっているし、社会人を経験した後に入学してくる人だっている。変態もいれば博識もいるし努力家もいる。そういう人と一緒にいるのは楽しいです。だから、話しかけるのは大変だと思うけど、学部とか学科を尋ねることから始めてみてください。そうすれば勝手に知り合いが増えて、尊敬できる人に出会えると思うから。というかこの程度の積極性がないとサークル選ぶのも大変なので頑張ってください。

前置きが長くなった。
で、本格的な説教。
読みたくなければ読まなくていいです。
自己満足なので。

きっと、あなたがたは大学に合格して、非常に気が緩んでいると思う。自分もそうだったからよくわかる。けれど、これだけは4月の入学式がくるまでにやっておいてほしい。

自分がどうなりたいのか、何をしたいのか、を明白にしておくこと。

要するに「自己分析」と言われるもので、就活の時期になると強制的にやらされる場合が多いのだが、3年になってからこれをするのは遅すぎる。はっきり言っておくと、大学入学の時点ですら遅すぎる

哀しいことに、本当に出来る人というのは、中学の段階で既に自己分析が出来ていて、大学入学する頃にはかなりの割合で実現させている。例えば留学して海外で働きたいとか、本気でやってる奴は中学からやってるんだ。嘘でもなんでもなく、おいらの知り合いの話。その人は、大学は海外のところにいってるし、たぶん就職もそっちでするのだろう。

もちろん、そんな出来る奴は極一部で、大半の人間はなんとなーく進路を決めて、なんとなーく大学に入る。だから安心していい。まだ、大丈夫。だが、3年になってからじゃアウトだ。やりたいことを見つけても、なりたいものに気づいても、そのために努力できる時間が圧倒的に不足している。

だから、楽しいことや不安なことで溢れている4月が来る前に、現時点の自分が何をしたいのか、何のためなら生きて死んでもいいと思えるのか、何になりたいのかを明白にしなきゃいけない。
今、やらなければ、あなたがたは安楽に流されて確実に3年までの時間を浪費する。あらゆる経験を無駄と切り捨てたいとは思わないが、失敗も夢を追いかけることも許されるのは学生のときだけだ。自由にできるのはストレートにいけば今から2年半くらいしかないんだ。

別にそれを誰かに宣言する必要もないし、漠然としすぎていてわからないならそれでもいい。ただ、絶対に自分から逃げちゃいけない。きっと、その夢の中には、口にすることも難しいようなものもあるだろうけれど、それでもやりたいと思うなら絶対に捨てちゃいけないし、忘れちゃいけない。

なりたいもの、やりたいことが見つかったら、それのために努力してください。そのためにバイトして、勉強して、遊んでください。それになるにはどうしたらいいのかを考えながら、試行錯誤を繰り返してください。無理だと諦めないでください。やってみてから、諦めてください。

あなたがたに本当に必要なのは、語学力でも数学でも学歴でもなく、自分と向き合う覚悟です。


生存するだけなら誰にでも出来る。問題は何者になるのか、何を成すのか。それを見失ったら、ただの生ける屍なのではないのかと、就活の中で悩んで後悔している人間としては、思うのです。

追いかけられているから、疾走する

2010-02-17 00:56:07 | 日記
自分の脳みそにほとほと厭になりつつ、
それでも死ねないからやる、その繰り返し。

0÷0は不定なんだってね。
実在しないものを、実在しないもので切り分けようとすると、解が定まらないらしい。もっと言えば、どんな答えでも出せてしまうらしい。

おいらは間違いなくただのバカだから、0÷0は1だといいなぁ、と思う。存在しないものが存在しないものによって傷つけられて、傷だけ残るって素敵でしょう。そういう夢なのよ。理系の人には絶対に理解されないだろうけれど。いや、理解されたくない、のほうが正確なのかもしれない。

幽霊にいてほしい、とか
天国があってほしい、とか

そういうのと、同レベルの夢だから。
ミッキーマウスの中には確実に人間が入っているが、
中に人なんていないよ、という叫びを笑うことは
誰にもできないでしょう?

生きるために生きるということは本末転倒ではないか?

2010-02-15 01:38:55 | 日記
死ぬために生まれてきたと言うのと同じ程度には。
だから生まれたことにも生きていることにも感謝なんてしない。
という言い訳。

今も昔も、子供が子供をぽこぽこ産み過ぎだと思います。
誰かにあてた言葉ではありません。
メッセージ性の剥奪、つまり独白。
対話にさえならない、不器用な。

自分の、死に方を選ぶ、ってさ、
生きている以上は当然だと思うのですよ。
そして、当然なことを当然であるように言うことほど、難しいことはないわけです。
生と死が等価値だと、わたしは思わないけれど、生き方を選ぶことは死に方を選ぶことと殆ど等しい、と思う。生の結末が死なのか、死の帰結が生なのか、わからないが。

だから、わたしは死体と布団に入って眠りたい、と思う。遮光カーテンの隙間から朝日が差し込んで、目がさめたらおはようって言うんだ。隣で死んでる人に。それってきっと、哀しいほど気持ち悪くて、どうしようもないほど幸せなんだろう。たぶん。きっと。そうであってほしい。

そんな夢を携帯電話を通して垣間見た。

生き急ぐ、ということ

2010-02-01 03:22:08 | 日記
人間ってあっさり死んでしまうんだな、という認識。

別に誰かが死んだわけじゃない。

大学の友人に「お前は変態だ」と言われて「根拠がないじゃないか」と反論したり、「身体の触り方が尋常じゃない」と怒られたり、この前は友達と一緒に美術館にいったし、他の人たちとは某社が企画した対談も聞きに言ったし、ラーメンだって食べて初めて替え玉なるものを経験した。二月にはサークルで飲み会が二回あるはずだし、友人がどっかいこうかっていってくれてる。

つまり、ボケてしまいそうになるほど平和なんだ。それは間違いない。

なのに、その傍らで確実に死んでいく人がいる。
それは死人である時点で既に「わたし、たち」ではない。だから、隣に座っている幽霊は、ずっとそこにいるのだろうけれど、わたし、たちからすれば冥王星よりも遠く、百億光年の彼方にしかありえないのだろう。殆ど不在と等しい実在。それゆえに彼ら・彼女らは、わたし、たちにとってどうしようもないほどいとおしくて、手をのばしてもすり抜けていってしまう。

幽霊を見てしまった、のが問題なのだ。
普段、わたし、たちはその存在を意識しない。そんなのは一部の霊能者や、一人かくれんぼを好き好んでやるような奴だけが感じていれば良い。けれど、ある瞬間に、殆ど運命的な出会いを幽霊と果たしてしまうことがある。だからといって唱えるべきお経をわたし、たちは知らない。別に彼ら・彼女らがわたし、たちに危害を加えてくることもないのだけれど(なぜなら、幽霊の居場所は此岸ではなく彼岸だからだ)、それゆえに「ただ、そこにいる」という事実に途方に暮れてしまう。存在の容認の難しさ。視界の端にちらつくのは、あなた、がたではなく、わたしだ。

わたしは、彼岸へいきたい。
結論を言ってしまえば、ただそれだけのこと、それだけのことで生き急いでいる。死者にとってこの地が未練の終着点となるように、わたし、たちにとっては川の向こう側が未練の終着点であったに過ぎない。彼岸は「来し方」であり「帰し方」である。わたし、たちは帰りたい。そして、幽霊たちにまぎれて、あなた、がたとは離別したい。最も残酷な裏切り方。その裏切りの方法だけが、生存を支えているという皮肉。それでしか生存を証明することができない、という皮肉。皮肉。

皮肉。