めめんともり

わたしたちが ふたたび
生きるためのものは

と おそらくは 死
だけだ

おほぞらは 梅のにほひに 霞みつつ くもりもはてぬ 春の夜の月

2009-12-24 03:43:23 | 読書全般
今回は、藤原定家の「おほぞらは 梅のにほひに 霞みつつ くもりもはてぬ 春の夜の月」という歌を取り上げてみたい。

さて、新古今和歌集には数多くの優れた歌が入っているが、なぜこの歌を選んだのか。その理由は、この歌の上の句に出てくる「梅のにほひ」という表現にある。本来なら人の目には見えないものを視覚化している点が、非常に面白いと感じたからだ。

この歌と、個人的に似ていると思うのは、菅原孝標女が詠んだ「あさ緑 花もひとつに 霞みつつ おぼろに見ゆる 春の夜の月」という歌だ。どちらも空に浮かぶ春の夜の月を詠んだものであり、第三句が「霞みつつ」、結びの句が「春の夜の月」という点でも共通している。
しかし、菅原孝標女が目に映っている(であろう)風景をそのまま表現しているのに対し、藤原定家は普通は見えない(定家も見えていないであろう)梅の匂いによって、霞んで見える大空を、比喩的に表現している。

現実の風景を描写する手段としては、このような手法は非常にトリッキーである。新古今集には、他にも春の月に関連する歌がいくつか収録されていて、源具親の歌「難波潟 かすまぬ浪も 霞みけり うつるもくもる 朧月夜に」もその一つである。だが、これも自分が見た(であろう)波にうつる朧月という風景を描写することによって、「波が霞んでいる」という事実を表現していると言えるだろう。

菅原孝標女や源具親の歌に見られる表現方法は、非常に具体的であるため、すんなりと彼女らが見ていた空を思い描くことができる。その一方、定家の手法では、彼が見た空を具体的に想像することは難しい。なぜなら「梅の匂いで霞む空」というのは、現実ではありえない、極めて抽象的な表現だからだ。

しかし、それゆえに定家の歌は「イメージ」として、私たちに突き刺さる。確かに、私たちは「梅の匂い」が空まで届くかどうかは知らないし、それで霞む空を見たこともないだろうが、「おほぞらは 梅のにほひに 霞みつつ」という詩句を見た瞬間、湯気のような、見えないはずの梅の匂いによって、揺らいでいる大空を想像することができる。それは、「あさ緑 花もひとつに 霞みつつ」と詠まれたときよりも、「霞んでいる」という事実を強烈に実感するだろう。彼は具体的な現実の風景ではなく、「霞んでいる」という普遍的なイメージそのものを、見事に詠みあげてしまったのだ。これは、一見すると抽象的でわかりにくそうに思える、独特な表現だからこそ、できたことであろう。

また、下の句は、「てりもせず くもりもはてぬ 春の夜の 朧月夜に しくものぞなき」という大江千里の歌を本歌取りしている。上の句によって提示された大空のイメージは、この歌に支えられることにより、矛盾した状態にある月の美しさをも巧みに表現していると言える。自家撞着的な歌としては、先ほどあげた源具親のものなど他にも例はあるので、ユニークとは言いづらいかもしれないが、上の句の独自性・斬新さによる表現効果を、さらに深く、強くしているという点で、決して無視することはできないだろう。

評論原理

2009-10-29 01:25:52 | 読書全般
こういうあり方が良いか悪いはとりあえず別として。

おいらは自分がいらない子だと思っているので、「なくても困らないもの」を、「優先順位が低い」とか「いらない」というコトバで、あっさりと簡単に切り捨てられてしまうのはとても困る。
それは究極的に、「不要なもの」の存在すら許さない世界に行きつくわけで、そうなるとおいらは存在できなくなってしまうから。

「詩は飢えた子どもを救えるか」というバカげた議論があるけれど、そんなの答えは決まっている。救えるはずがない。飢えた子どもを救うのはひとかけらのパンであり、茶碗いっぱいの米であり、詩だとか小説だとか、要するに文学と言われるものではない。

「文学やるなら畑か田んぼでも作りなさいよ」って言われる程度には、文学の優先順位は生存上低い。別にそんなの一つも読まなくたって産まれて生きて死ぬことはできる。わたしがいくら吉原幸子の詩を読んで愛そうが、世界に愛されるのはわたしではなく、偉大なる発明家であり、馬車馬のごとく働く人間であり、子を産む異性愛者だ。

それが正論だと思うよ。思いますけどね。

だからといって簡単に切り捨てて、疑いもせずに「優先順位は酸素、水、食糧のほうが上である、だからそれを優先すべきだ」なんて口が裂けたって主張できねーんだよ。だって自己否定じゃない、それ。そんなこと言えるほど自分が立派だなんて思って生きてない。
もし、それでも言えるときがあるとしたら、自分が本当に自分をいらなくなったときだけでしょう。そのときは既に死んでるだろうから結局言えないだろうけど。死人に口なし。


「ナメクジの塩漬け」も「怠け者というレッテル」も言ってることは同じなんですよ。
わたしはたぶん不要であり、代替可能でしょう。でも、「なくても困らないから」、といって自殺できるほど根性も覚悟もない。そんな脆弱な人間であってもできることがあるとしたら、「不要に思えるものの必要性」を述べるくらいだと思う。誰も聞いてくれなくても、それを口にすることしかできないから、そうしている。「他人の作品をダシにする」ことによって。

結局、それがわたしが評論になりきれぬ評論もどきを書かざるを得ない理由なんだと思う。

***

批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない。批評とはついに己れの懐疑的夢を語る事ではないのか、 己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!

(「様々なる意匠」 小林秀雄)

『地獄の道化師 猟奇の巣』

2009-06-05 00:51:23 | 読書全般
著者、江戸川乱歩。
3つのお話「地獄の道化師」「猟奇の巣」「二廃人」が入った文庫。
大学から借りた。ネタバレはあんまりない。

***

最初の「地獄の道化師」は王道でした。
わたしでさえ序盤から中盤で犯人当ててるんだから、ネタとしてはどうかなという感じだけれど、ミステリーあんまり読まないって人にはいいのかな。タネが割れてる手品みてもたいした感動を持たないのと同じで、結末がわかりきった物語はあんまりおもしろくない。道化師の描写は素敵。気持ち悪いもの。

「猟奇の巣」は地獄の道化師とは違い、先の読めない展開で面白く読めました。ただ、こちらは最後のほうが尻切れトンボというか、何かの事情かでどうもシャーマンキングのごとくミカンで終わっている気がしてならない。最後が酷いもんだから、前半の面白さと比べると拍子抜けというか、まあやっぱりこういうネタは江戸川乱歩先生でも上手く書くって難しいんだな、と変に納得してしまった。そう考えると京極夏彦って凄いな。

「二廃人」は短編。起承転結がはっきりしており、読者が主人公と同じく「あっ」と驚く――もしくは茫然とする――お話である。短編でこれだけ綺麗にまとめあげた点はもちろん、ネタとしても面白いし、演出も悪くない。江戸川乱歩って短編のほうが得意な人なんですかね。正直、お話3つの中でこれが一番良かったと思う。

『本日、サービスデー』

2009-06-01 22:07:45 | 読書全般
著者、朱川湊人。
「直木賞作家の幸運を呼ぶ小説」とか、
大層なキャッチコピーがついてるやつ。

ネタバレ含むから興味ある人は先を読まないように^w^

***

本の名前にもなっている「本日、サービスデー」は読んでてまだ気分も良かったが、他の作品が帯の「幸せを呼ぶ~」を完全に無視しているあたりが素敵だった。ぶっちゃければ「後味が悪い」「読んでてイライラする」素敵な話の連続でして、読んでて胸糞悪くなりました。つーか、そうじゃなきゃこんなヘタクソな感想文書くはずがないんだけど。
面白いっていう人もいれば、心が温まる人もいるみたいだけど、おいらにゃ無理だ。冗談じゃねぇ、と思った。これを幸福と呼ぶのはキチガイじみてる。

例えば最初の短編「本日、サービスデー」からしてすでにその兆候はある。なんせ主人公の都合で飛行機墜落、570人ぶっ殺しておきながら復活させて「めでたしめでたし」ですからね。神様は既に起きたことをなかったことにはできない、と言いながら苦しい言い訳でそれを可能にしてるあたりがほんとご都合主義。それでも気分が良いと言えたのは、ご都合主義展開であれ、そこまでにたどり着く過程とか、主人公がリスク背負ってまで一見ローリターンな選択を選んだあたりとか、そういう部分が軽快で尚且つスカッとするから(いじめられっ子がいじめっ子に復讐している感じ、とでも言えばいいか。そのあと再度いじめられっ子に戻る道をあえて選びながら、どんでん返し)なんだろう。まあ気持ちが悪いとは思ったが。

次の話の「東京しあわせクラブ」なんてもう全キャラクター腐っててどうしようもない。ネタとしては面白いかもしれないが、探せばいくらでもありそうでもある。
要するに犯罪被害者の遺品展覧会みたいなのを身内でやるわけだが、そんなことやってる奴の品が良いはずもなく。別にそれ自体は問題ではない。人間なんて多かれ少なかれみんなそんなもんだと思っている。けれど、それを「幸せを呼ぶ~」の中に突っ込むことに対して果てしない疑問、そして怒りすら感じるのである。
人間の最低さを暴きだす!とかついてたらたぶん絶賛してた(マテ

3つ目のあおぞら怪談なんてご都合主義の極みだと思う。「めでたし」?はぁ?お前るり子に殆ど恋してた兄ちゃんの気持ちはどうなるのよ。るり子が成仏できたらか問題ないってか。
最初のほうの幽霊の手触りの描写なんかはおもしろかったのになぁ。どんどん主人公がうざキャラ化していって、ストーリーのご都合主義化と相まって最高でした(イライラ度が

最後の蒼い岸辺にてとか、やばい。自ら死を選んだ主人公が三途の川っぽいところで、「もし自分が生きていたら、手に入ったかもしれない未来」の末路を見るんだが、このときの死神?のセリフが最強。怖すぎる。「未来を大切にしましょう」だとか、そんな偽善めいた話にはとてもじゃないが読めない。

だって、「人間は代替可能である」って言いきってるんだぜ?そんな話読んで「幸せを呼ぶ」とか冗談じゃないっすよマジで。人間は大なり小なり唯一であることに誇りを持っていて、無意識であれそれを拠り所にしていきているが、それを完全否定ですよ。ああ、だから「人間の悲惨さを暴く!」とか別のキャッチコピーなら絶賛してた(あの

ちなみに、文章は癖がなく読みやすく、表現の仕方なんかもさすがでした。
トイレの鏡から美女が出てきたりするあたり、普通に面白い。上でも書いたけど、幽霊の手触りなんかの描写も良い。直木賞作家は伊達じゃない、って感じ。
おいらみたいなひねくれた人間じゃなければ、たぶん楽しめると思いますよ。お袋もその知人も面白いから読めってわたしに押し付けてきたんだし。

そんなつまらない感想文。

続・鈴木志郎康詩集 (現代詩文庫)

2009-04-17 18:25:45 | 読書全般
読み終わりました、ってだけ。
詩だけなら数日前に終わってたけど、読み直したり、後ろの詩論とかがね……

結局、意味不明に見えても、それは一瞬で、何度か読めばなんとなくわかってしまう。だから、所詮詩もコトバなんだなぁ、と残念に思う。けれど同時に、わかるのに説明できない、というこの感覚は素晴らしいなぁ、とも思うのです。

本来ならコトバにできないことを、コトバにできてる、ってことがさ。

ゆえに鈴木志郎康は凄いと思う。
作風が変わった後半に関しては、上手・下手じゃなくてコメントに困るが。
前半もまあ、新しいと言えば新しいんだけど「真に新しい」とは言いにくいよね、って感じだった。
後半は前半と比べれば普通すぎる、けれど古臭い新しさから抜けて到達した地点であることを思うと、「普通」と一言で切り捨てるのもアレなのかなー、と思うわけで。これは詩人論でも誰か書いてたけど。

「普通」は悪ではない。
おいらの愛する吉原幸子の作風だって、「普通」だもの。
けれど彼の場合にのみ、ここまで問題になるのは、変わりすぎたからなんでしょう。

凶区(同人ね)の詩人の作品ってみんなこんな感じなのかしら。
だとしたら、後世にも残るか、と言われれば微妙な気もするなぁ。
後の時代まで良いものだけが残る、なんてことは全く思っていないし主張するつもりもない、ゆえに凶区の作品の質が理由なのではない(むしろ質だけで言えば鈴木志郎康を読む限り、ハイレベルだろう)。
単に同時代に生きた人間にしか理解されない(理解される必要があるかも謎だが)だろう、っていう漠然とした感覚。
時代背景に影響を受けすぎというか、そういう部分が大きい気がする。

本人が見たら怒るかもしれない、そんな感想。

「死んだ男」について

2009-04-10 02:48:06 | 読書全般
これ。鮎川信夫の詩。
彼は戦後詩の代表とも言える詩人で、「死んだ男」は戦後詩の始まりとさえいわれる。教科書にも用いられるくらいには有名。国語の便欄でも探せばちゃんと載っていると思う。

この詩をどう読もうが、そんなのは個人の勝手なので、好きに解釈すればいい。ここでわたしが行う不必要な説明も、自己中心的な活動の1つに過ぎない。だから、暇つぶしにでも気楽に読んでほしい。

結論から言うと、わたしが書きたいのは4段落目についてだけだったりする。

  いつも季節は秋だった、昨日も今日も、
  「淋しさの中に落葉がふる」
  その声は人影へ、そして街へ、
  黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。

この「いつも季節は秋だった」が実はずっとよくわからなくて、でもふと読み返した今、感覚的に理解できた気がしたから残しておきたいと思ったのである。
なぜ「常に秋でなければならなかったのか」。それは「秋は冬にしか到達できない」という、自明すぎる理由だったのだろう、と。だから、「冬」ではいけなかった。物悲しさだけなら、秋よりも冬のほうが勝っているけれど、「冬は春になってしまう」から。
また、「淋しさの中に落ち葉がふる」という、秀逸な表現も「秋」でなければ出てこなかっただろう。落ち葉がはらはら落ちていく様子は、涙がこぼれていく姿と重なるし、どんどん地につもって重くなっていくイメージは、言いようのない哀しさを増幅させる気がする。
歩み続けているのは執行人であろうか。

というわけで、言いたいことはこれで終わりなんだが、「お前が全体をどう読んでるのか言えよ」「文学部でおまえ何してんの?」という奇特つーか暇人、もしくは学校の授業でやらされて困っている人や、文学部の日本文学科に興味のある人が万が一にもいるかもしれないので、暇だし適当に置いとく。まあ文学部なんて時代でもかなり違うんだけど、おいらはこういうことしてますよ程度。

詩の核をなすのは、「M」という人物とその死。Mが戦争で死んだことが、第二段落目のやりとりと、最終段落から読みとれる。また、第三段落目から、Mと発話者が何らかの文芸作品の創作に携わっていたことがわかる。「活字の置き換えや神様ごっこ――」という表現から、おそらくは詩であろう。
(推測だけじゃんって思うかもしれないけど、鮎川とともに詩作をしていて、尚且つ戦争で死んだMなる人物は実在するので、別に妄想ってわけでもないらしい。ただ、そういう予備知識を知らないで読む人が殆どだろうし、そんな知識がなくても普通にそういう風に考えられるから、まあどうでもいいよねって話。発話者イコール鮎川、というのも厳密には違うと思うし。)

最初に出てくる「遺言執行人」が具体的に何を指すかは、いまいちわからない。が、これを教科書は問いとして出すから始末が悪い。コトバ通り受け取れば「死後の決定に関して実際に色々する人」。ちなみに「遺言執行者」というのは現実にもあるらしいので完全な造語というわけでもないらしい。
この詩で死んでいるのはMなので、おそらくはMの遺言執行人であり、Mの遺言とは最終段落で書かれた「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」だろう。
(これを発話者のものだとすると、「さよなら」と別れを告げているにも関わらず、「Mよ」と呼びかけることになってしまうので、おかしい。)
それを執行するとはつまり、「太陽や海でさえ信じられないんだから、もう何も信じられないね」ってことなんだろうと勝手に思っている。

第二段落目。戦争にいく前のMと発話者のやりとりだろう。「「実際は、影も、形もない?」/――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった。」の二行はそこそこ重要かもしれない。発話者は少なくても「死にそこなった」のであり、またそのことによって自分が、さらには人間が、「実際は影も形もない」存在であることを現実において思い知らされたのである。
死んでしまったMと生き残った自分、という対立および差異化がここでなされていることにも注意したい。

第三段落目。「昨日のひややかな青空」が遺言「海も信ずるに足りない」と被る感じがすると同時に、後ろ三行の詩作をしていた頃の回想とも重なる(だから「昨日の青空」でなければならないのだろう、と)。
そこから逆接が続き「何時何処で/きみを見失ったのか忘れてしまった」と発話者は言う。青空が残っている「のに」見失ってしまった、という繋がり方から、青空はやっぱり思い出のほうなんだろう。思い出はあるのに、本人は既に死んでしまっているのだから。
「遺言執行人がぼんやりと姿を現す」ことは「全ての始まり」だと言っているのに、青空を遺言云々の隠喩と捉えてしまうと意味が通らなくなる。

また、刃物に青空が残っている、という表現が興味深い。断片化されてしまった過去、切り裂かれてしまったもの、というイメージをわたしに抱かせる。「ぼくたちの古い処方箋だった」という呟きが過去形である点も見逃せない。発話者にとって、詩作は「病をなおすための薬をつくる」ものではなくなった。じゃあ何になったかと言えば、結局それは「遺言執行」に他ならないのではないだろうか。
(「詩作=遺言執行」という捉え方をしている人はたぶん相当数いて、だからこそこの詩が「戦後詩のはじまり」だとか「代表」とされるんだろうと思う。)

4段落目は先に書いた。

最終段落、Mの最期のシーン。誰もいなかった。怒ることも哀しむこともできず、不満に思うことさえ不可能だった。そんな風に突然、避け難い運命に晒されたMは「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」という遺言だけを残して死ぬ。
それに対し、発話者は死んでしまったMに「きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか」と問いかけるのである。この問いかけに意味があるのか、と聞かれたら、正直「ない」気がする。けれど、やはりこの一言は必要不可欠なんだろう。これがないと、なぜ今になって遺言を完遂しようとするのかわからなくなってしまうから。


さて、ここまでぐだぐだ自分勝手な妄想をまき散らしたけど、この詩が戦後詩の代表になりえるのは、「M」という人物が戦死者全員と重ねられるからなのだろう。戦死するということは、「抗いがたき運命に敗北した」とも言い換えられる。本来なら一瞬で、コトバ一つ残せぬまま呆気なく死んでしまったであろうMに、「遺言を言わせる」ということ。その悲劇がこの詩の中心なのである。
また、「遺言執行人」とは発話者ではなく、むしろM(戦死者)の亡霊のように思われる。言いすぎてしまえば、「詩を書かせようとする何らかの力」。
だから「黒い鉛の道」を歩き続けてきたのは、執行人というよりむしろ「詩」や「詩作という行為」そのものであるかのようにさえ感じている。

コトバは間違いなく無意味で、少なくてもわたしはコトバが持つ特別な力とやらを信じない。伝達性など内包していないとさえ思っている。こうしてバカみたいな文章をかいているときでも、メールでやりとりしているときでも、しゃべっているときでさえ、誰かに伝わっていることを想定していない。
それでも、そんな不器用な存在を用いて「太陽や海ですら信じられないのだから、何も信じられるものなどない」という遺言を為そうとすることの意味。むしろ、「コトバが無力であるからこそ、の方向性」をこの詩から漠然と思う。

『殺人病ファイル』

2008-11-11 04:00:38 | 読書全般
レポート用に図書館で資料を探してたら見つけた。
手にとって少し読んだら面白そうなので借りてみた。

そこらのホラー小説より怖かった。
現実怖すぎだろう。

有名な病気、例えばインフルエンザとかペストとか
そういうのものっているけれど
あまり知られていないような病気も色々書かれている。
載せられた病気56種は、「どれだけ危険か」を基準に選ばれており、
どれも人間の生命に関わる重大な病気である。
それだけに、ワクチンの偉大さ、医療の発達の凄まじさを感じることができる。

これらの病気に殺されずに生きている自分って存在は
実は奇跡なんじゃないだろうか、とさえ思う。

旅行する前にはぜひ読んでおきたい1冊。
パンフレットに載ってるかもだけど、予防接種は大事。

名前だけ知っていても、恐ろしさを知らないと軽視しがち。
1度の流行で2000万人以上殺したインフルエンザとか強すぎでしょう。
狂犬病とか、日本のように見かけないほうが稀でしょう。
死ぬ寸前まで意識があるボツリヌス中毒とか地獄でしょう。

ナメクジはカルシウムが豊富でも食べてはいけません。

テクノゴシックとかラノベとか

2008-10-08 02:51:27 | 読書全般
茶番の一つとして、本を読んでみた。
『テクノゴシック』。図書館で借りただけなんだけど、普通に面白い。
そこそこ良いお値段なので貧乏学生が買うには躊躇してしまうが
古本屋で見付けたらぜひ手にとりたい一冊であった。
ぎんぎらぎんの装丁は目立つ。

内容は要するに「最近よくきくけどゴシックってなんだぜ?」って本。
セクシャリティの問題が多めに取り上げられているので
一部の人は拒絶反応を起こしそうだが
マトリックスだとかイノセンス(攻殻機動隊のあれ)だとか
有名な作品についても書かれているので興味がある人にはオススメ。
音楽とか、そっちのほうから切り込んで行った読み方は面白いな。
人狼とか吸血鬼についても書いてあるよ!

あとはマリみての新刊読んだ程度。
相変わらずマリみては面白いが
百合とか何処へいったんだという感じである。
面白いからいいんだけどさ。

次読むのは『詩とは何か』かなぁ。
でも読み返したい本もあるしなぁ。
ネットしてないで読めって話ですよね。

まんどくせ。

積んでるのを解消しないとたまるばかりである。

アオイシロ 「-花影抄-(かえいしょう)」

2008-09-09 16:19:37 | 読書全般
買いました。
マンガです。全3巻。

百合を期待すると悲しくなる作品でした。
アカイイトのキャラも出てくるけど、ただのオマケ感いっぱいでした。

ストーリー的にはどうなんだろうな。
ラスボスがゲームと違ってラスボスらしくなってたのは良かった。

過去に連載されてた「アカイイト-花影抄-」が面白かったです。
収録されてたんで読んだんですが、百合だし猫又出てくるし(あの

絵は綺麗だけど、顔の描き分けをもう少ししてくれると嬉しいなぁ。

詩「むじゅん」を読んで。

2008-09-02 17:11:44 | 読書全般
吉原幸子の作品。
「毒虫飼育」と同じでゼミの選抜課題用に書いたやつ。
字数制限がきつくて色々大変でした。
書きなおしたいなぁ。

読書感想文に悩んでいても、うつして出さないでください、本当にorz
著作権は放棄してません。恥ずかしくて出来ません。

***

 私が好きな文学作品に「むじゅん」という詩がある。これは、現代日本の代表的な女性詩人、吉原幸子が晩年に書いたものだ。
 この詩の大きな魅力は二つある。その一つは「内容」だ。タイトル通り、矛盾している詩の中に、吉原幸子の痛々しいほどの優しさを見ることができる。彼女は前半部分で、夕日で赤く染まった雪山や、楽しげに歌っている子供たちを見て、「わたしはまもなくしんでゆくのに/せかいがこんなにうつくしくては こまる」と嘆く。しかし、後半では一転して、戦争の悲劇が今、目の前で行われているかのように、痛々しい表現を並べ、「みらいがうつくしくなくては こまる!」と叫ぶのである。あまり戦争に関する詩を書いていない詩人の作品だけに、ここに込められた、不毛な時間には戻ってはいけない、愛する子供たちや世界を守らなければならない、という緊張感は、並大抵のものではない。私は戦争を経験してはいないが、東京大空襲の話をよくしてくれた祖母も、こんな気持ちだったのだろうか、と思うと胸が痛む。
 もう一つの魅力は、「平仮名のみで書かれている」ということである。そのため、まるでこの詩は、字を書くことを覚えたばかりの子供が書いているようにも思える。それが、かえって物悲しい。「人は老いるにつれて、子供に戻っていくのよね」という恩師の言葉を思い出してしまう。脳を含めた身体は衰え、自分で自分の世話もできなくなり、それでも親として、母として、子を大切に思っているということを、子供に戻りつつある中、必死に綴っている。そんな風に見えるのである。
 ここまで、自分なりにこの詩の魅力を述べてみたが、結局、普遍的とも思える、親が持つ子への切実な思いに、「むじゅん」の最大の魅力はある、ということなのかもしれない。親による子の殺人が多く発生している昨今において、色々と考えさせられる詩である。