今回は、藤原定家の「おほぞらは 梅のにほひに 霞みつつ くもりもはてぬ 春の夜の月」という歌を取り上げてみたい。
さて、新古今和歌集には数多くの優れた歌が入っているが、なぜこの歌を選んだのか。その理由は、この歌の上の句に出てくる「梅のにほひ」という表現にある。本来なら人の目には見えないものを視覚化している点が、非常に面白いと感じたからだ。
この歌と、個人的に似ていると思うのは、菅原孝標女が詠んだ「あさ緑 花もひとつに 霞みつつ おぼろに見ゆる 春の夜の月」という歌だ。どちらも空に浮かぶ春の夜の月を詠んだものであり、第三句が「霞みつつ」、結びの句が「春の夜の月」という点でも共通している。
しかし、菅原孝標女が目に映っている(であろう)風景をそのまま表現しているのに対し、藤原定家は普通は見えない(定家も見えていないであろう)梅の匂いによって、霞んで見える大空を、比喩的に表現している。
現実の風景を描写する手段としては、このような手法は非常にトリッキーである。新古今集には、他にも春の月に関連する歌がいくつか収録されていて、源具親の歌「難波潟 かすまぬ浪も 霞みけり うつるもくもる 朧月夜に」もその一つである。だが、これも自分が見た(であろう)波にうつる朧月という風景を描写することによって、「波が霞んでいる」という事実を表現していると言えるだろう。
菅原孝標女や源具親の歌に見られる表現方法は、非常に具体的であるため、すんなりと彼女らが見ていた空を思い描くことができる。その一方、定家の手法では、彼が見た空を具体的に想像することは難しい。なぜなら「梅の匂いで霞む空」というのは、現実ではありえない、極めて抽象的な表現だからだ。
しかし、それゆえに定家の歌は「イメージ」として、私たちに突き刺さる。確かに、私たちは「梅の匂い」が空まで届くかどうかは知らないし、それで霞む空を見たこともないだろうが、「おほぞらは 梅のにほひに 霞みつつ」という詩句を見た瞬間、湯気のような、見えないはずの梅の匂いによって、揺らいでいる大空を想像することができる。それは、「あさ緑 花もひとつに 霞みつつ」と詠まれたときよりも、「霞んでいる」という事実を強烈に実感するだろう。彼は具体的な現実の風景ではなく、「霞んでいる」という普遍的なイメージそのものを、見事に詠みあげてしまったのだ。これは、一見すると抽象的でわかりにくそうに思える、独特な表現だからこそ、できたことであろう。
また、下の句は、「てりもせず くもりもはてぬ 春の夜の 朧月夜に しくものぞなき」という大江千里の歌を本歌取りしている。上の句によって提示された大空のイメージは、この歌に支えられることにより、矛盾した状態にある月の美しさをも巧みに表現していると言える。自家撞着的な歌としては、先ほどあげた源具親のものなど他にも例はあるので、ユニークとは言いづらいかもしれないが、上の句の独自性・斬新さによる表現効果を、さらに深く、強くしているという点で、決して無視することはできないだろう。
さて、新古今和歌集には数多くの優れた歌が入っているが、なぜこの歌を選んだのか。その理由は、この歌の上の句に出てくる「梅のにほひ」という表現にある。本来なら人の目には見えないものを視覚化している点が、非常に面白いと感じたからだ。
この歌と、個人的に似ていると思うのは、菅原孝標女が詠んだ「あさ緑 花もひとつに 霞みつつ おぼろに見ゆる 春の夜の月」という歌だ。どちらも空に浮かぶ春の夜の月を詠んだものであり、第三句が「霞みつつ」、結びの句が「春の夜の月」という点でも共通している。
しかし、菅原孝標女が目に映っている(であろう)風景をそのまま表現しているのに対し、藤原定家は普通は見えない(定家も見えていないであろう)梅の匂いによって、霞んで見える大空を、比喩的に表現している。
現実の風景を描写する手段としては、このような手法は非常にトリッキーである。新古今集には、他にも春の月に関連する歌がいくつか収録されていて、源具親の歌「難波潟 かすまぬ浪も 霞みけり うつるもくもる 朧月夜に」もその一つである。だが、これも自分が見た(であろう)波にうつる朧月という風景を描写することによって、「波が霞んでいる」という事実を表現していると言えるだろう。
菅原孝標女や源具親の歌に見られる表現方法は、非常に具体的であるため、すんなりと彼女らが見ていた空を思い描くことができる。その一方、定家の手法では、彼が見た空を具体的に想像することは難しい。なぜなら「梅の匂いで霞む空」というのは、現実ではありえない、極めて抽象的な表現だからだ。
しかし、それゆえに定家の歌は「イメージ」として、私たちに突き刺さる。確かに、私たちは「梅の匂い」が空まで届くかどうかは知らないし、それで霞む空を見たこともないだろうが、「おほぞらは 梅のにほひに 霞みつつ」という詩句を見た瞬間、湯気のような、見えないはずの梅の匂いによって、揺らいでいる大空を想像することができる。それは、「あさ緑 花もひとつに 霞みつつ」と詠まれたときよりも、「霞んでいる」という事実を強烈に実感するだろう。彼は具体的な現実の風景ではなく、「霞んでいる」という普遍的なイメージそのものを、見事に詠みあげてしまったのだ。これは、一見すると抽象的でわかりにくそうに思える、独特な表現だからこそ、できたことであろう。
また、下の句は、「てりもせず くもりもはてぬ 春の夜の 朧月夜に しくものぞなき」という大江千里の歌を本歌取りしている。上の句によって提示された大空のイメージは、この歌に支えられることにより、矛盾した状態にある月の美しさをも巧みに表現していると言える。自家撞着的な歌としては、先ほどあげた源具親のものなど他にも例はあるので、ユニークとは言いづらいかもしれないが、上の句の独自性・斬新さによる表現効果を、さらに深く、強くしているという点で、決して無視することはできないだろう。