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ライシャワー事件

2010年03月28日 08時54分12秒 | 言葉の説明

 ことばの説明

 

ライシャワー事件【言葉の説明】 ライシャワー事件 アメリカ合衆国

 

ライシャワー事件

1964年(昭和39年) 3月にアメリカ大使館門前で統合失調症患者にナイフで大腿を刺され重傷を負った。この時に輸血を受け「これで私の体の中に日本人の血が流れることになりました」と発言し多くの日本人から賞賛を浴びたが、この輸血が元で肝炎に罹る。その後、これがきっかけになり売血問題がクローズアップされ、その後日本において輸血用血液は献血により調達されることになる。この事件は 「ライシャワー事件」 と呼ばれ、精神衛生法改正や輸血用血液の売血廃止など、日本の医療制度に大きな影響を与えた。

その後 3ヶ月の入院を経て回復し退院し(その後ハワイ州ホノルルの病院に再入院した)一時は辞任を考えたものの、「今退任し帰国すれば日本人は事件の責任を感じてしまうだろう」 と考え留任することを決め、その後も駐日大使として活躍した。
(wikipedia)

 

 

辞 任

しかし、ベトナム戦争が本格化し日本人の対米感情が悪化しつつあった上に、ベトナム情勢に対する本国の政策に違和感を覚え、1966年(昭和41年)7月にワシントンD.C.に帰国した際にジョンソン大統領に辞任の意向を伝えた。ジョンソン大統領からは極東問題担当の国務次官への就任を依頼されたが拒否し、同年7月25日に辞任を発表、8月19日に東京国際空港から帰国した。

§帰国後[編集]

マサチューセッツ州の自宅

大使を辞任して帰国後、ハーバード大学教授に帰任、南ベトナムへの干渉や中華人民共和国の承認、沖縄返還、対韓国政策の再考などに関し精力的に発言[2]し、さらに日本を始めとする極東問題の専門家として歴代政権やヘンリー・キッシンジャー、教え子のズビグネフ・ブレジンスキーなどのアメリカの外交関係者、さらに中曽根康弘首相や韓国の野党指導者の金大中(その後大統領)に対しても様々な助言を行った。また、佐藤栄作のノーベル平和賞受賞(1974年)に際しては、佐藤の受賞の推薦文を記述した。

なお、1973年(昭和48年)にハーバード大学日本研究所所長に就任した他、同大学の東アジア研究評議会理事、OECD理事やアジア基金理事など数多くの役職を務め、日本及びアジア研究者として日米間を緊密に往復しつつ活躍した。

1964年(昭和39年)には上記の襲撃事件により肝炎に罹患、大使退任後も度々の発症に悩まされていた上、1975年(昭和50年)2月には脳卒中に見舞われたほか、1983年(昭和58年)には脳内出血にも見舞われた。しかしその後回復を見せ、1980年(昭和55年)10月に定年で退職するまでハーバード大学日本研究所などで活躍したほか、その後も多数の著書を出し続けた。なお、ハーバード大学日本研究所は、ライシャワー退職後の1985年(昭和60年)にライシャワーの業績をたたえて「ハーバード大学ライシャワー日本研究所 (RIJS)」と改称された。1987年(昭和62年)冬に、公式訪米中の皇太子明仁親王・同妃美智子がライシャワー邸に滞在した。

 

 

 

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