岩淸水

心を潤す

大平正芳の経歴

2009年09月15日 09時55分49秒 | 人物

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 大平 正芳(おおひら まさよし、1910年(明治43年)3月12日 - 1980年(昭和55年)6月12日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。

衆議院議員(11期)、内閣官房長官(第21・22代)、外務大臣(第92・93・100・101代)、通商産業大臣(第31代)、大蔵大臣(第79・80代)、内閣総理大臣(第68・69代)などを歴任した。

 

生い立ち [編集]香川県三豊郡和田村(現観音寺市)の農家大平利吉・サクの三男として生まれる。兄2人、姉3人、弟妹がそれぞれ1人ずつの8人兄弟であったが、正芳が生まれた時長女は満1歳で、兄の1人も2歳半で既に亡くなっていた[1]。父利吉は学歴こそ無かったものの村会議員や水利組合の総代を務めていた。また利吉は書をたしなみ,和漢の古典にもよく通じた読書家で、正芳の読書好きや漢籍への造詣も父の影響を強く受けている。大平は「讃岐の貧農の倅」と称したが生家は中流に属していた。それでも子供6人を抱えた大平家の生活は苦しいもので、正芳も幼い頃から内職を手伝うなどして家計を支えていた[2]。

和田村立大正尋常高等小学校(現観音寺市立豊浜小学校)、旧制三豊中学校(現香川県立観音寺第一高等学校)に進んだ。当時、中学校に進学する者は学級で2、3人程度で、次男・三男には分けてやるものはないからせめて学業くらいは修めさせてやろうという利吉の気遣いからであった。兄の大平数光は高等小学校を卒業して家業を継ぎ、後に豊浜町長となって大平の地元での選挙活動を支援した。中学時代の大平は温厚で目立たない少年で、級友たちは後に政治家になった大平に当惑したという[3]。

1926年(大正15年)、三豊中4年の時大平は腸チフスに罹り4ヶ月間生死の境をさまよった。家計に負担をかけないため海軍兵学校を受験したが、受験前に急性中耳炎を患い身体検査で不合格となった。1927年(昭和2年)夏、父利吉が急死する。翌1928年(昭和3年)4月、経済的に恵まれなかったものの親戚からの援助や奨学金を得て高松高等商業学校(現香川大学経済学部)に進学[4]。

高商に入学した春、元東北帝国大学教授で宗教家の佐藤定吉が講演に訪れた際キリスト教に出会った。自身の病や父の死を立て続けに経験した大平はキリスト教に傾倒し、1929年暮れに観音寺教会で洗礼を受けた[5]。

卒業後の進路について大平は大学への進学を希望したものの経済的に厳しく断念せざるを得なかった。母は四国水力(現四国電力)への就職を望んでいたようであるが昭和恐慌の煽りを受け採用自体が無かったため進学も就職も決まらない状態にあったところ、桃谷勘三郎の食客となり桃谷順天館で化粧品業に携わった。大平は信仰の師である佐藤の発明した薬品を商品化するとのことで桃谷の誘いを受け大阪に出てきたものの、一向に商品化される様子はなく自身の生き方について葛藤する日々を過ごした[6]。

1933年(昭和8年)、再び学業に戻ることを決意した大平は綾歌郡坂出町(現坂出市)の鎌田共済会と香川県育英会の2つの奨学金を得て東京商科大学(現一橋大学)に進学した[7]。 大平23歳の時のことである。文京区千駄木に居を構える。在学中大平は経済哲学の杉村広蔵助教授、法律思想史の牧野英一教授らの講義を手当たり次第に履修した[8]。 なかでも経済思想史に強い関心をもった大平は2年に進級すると上田辰之助ゼミナールに参加した。恩師上田について大平は「経済学者というよりも、むしろ社会学者であり、社会学者である前に実のところ言語学者であられた」と評している[9]。 卒業論文は「職分社会と同業組合」[10]。 また、大平は「わたしの思想というものが仮にあるとすれば(杉村先生の思想が)それをつくるものの考え方の素材となっている」と述べ[11]、杉村の著書『経済倫理の構造』(岩波書店、1938年)は亡くなる直前まで大平の傍らに置かれていた[12]。 大学在学中も引き続きキリスト教の活動にも精力的に参加し、YMCA活動に従事した[13]。

 

大蔵省時代 [編集]1935年(昭和10年)、高等試験行政科試験合格。特に官吏志望だったわけではなく、学校時代から別子銅山の煙を見て育ち、また川田順を愛読していた大平は住友系の企業への憧れを持っていた。ところが当時大蔵次官だった同郷の津島壽一に挨拶に行った折、「ここで採用してやる」という型破りな方法で大蔵省への採用が決まった[14]。1936年入省、預金部に配属。以後、税務畑を中心に以下の役職を歴任した。

1937年(昭和12年) - 横浜税務署長[15]。当時東京税務監督局直税部長であったのが池田勇人であり、以後しばしば部下として会う。
1938年(昭和13年) - 仙台税務監督局間税部長。どぶろく退治に尽力。
1939年(昭和14年) - 興亜院にて大陸経営にかかわり、1939~40年に張家口の蒙疆連絡部で勤務した他、帰国後も頻繁に大陸に出張[16]。
1942年(昭和17年) - 本省主計局主査(文部省・南洋庁担当)。大日本育英会(後の日本育英会、現独立行政法人日本学生支援機構)の設立に尽力した[17]。
1943年(昭和18年) - 東京財務局関税部長。なお、この時の仕事として幾分誇らしげに挙げていたのが国民酒場の創設である。戦時下の耐乏生活による国民の疲れを癒すことが目的だった[18]。
1945年(昭和20年) - 津島壽一大蔵大臣の秘書官[19]
1946年(昭和21年) - 初代給与局第三課長[20]
1948年(昭和23年) - 経済安定本部建設局公共事業課長[21]
1949年(昭和24年) - 池田勇人蔵相秘書官。以後1952年まで務める[22]。秘書官時代、大平は安岡正篤に歴史上一番偉い秘書官は誰かと質問したところ、安岡は織田信長の草履取りで信長の欠点を知り尽くした豊臣秀吉であると答えた。大平は「貧乏人は麦を食え」に代表される欠点だらけの池田に仕えることで政治家になるための経験を積んだという[23]。
1950年(昭和25年) - 国税庁関税部消費税課長兼任

 

政治家としての活動 [編集] 池田側近として [編集]1952年(昭和27年)、大蔵省時代の上司だった池田勇人の誘いを受け、大蔵省を退官し自由党公認で衆議院議員に立候補し当選[24]。以後、連続当選11回。

宮澤喜一や黒金泰美らと池田勇人側近の秘書官グループと呼ばれる[25]。1960年(昭和35年)に第1次池田内閣で官房長官に就任[26]。「低姿勢」をアピールする同内閣の名官房長官と評された[27]。第2次池田内閣・同第1次改造内閣でも官房長官を務め、続く第2次池田再改造内閣で外務大臣[28]に就任した。外相時代は韓国との国交正常化交渉を巡って、金鍾泌中央情報部長との間で最大の懸案であった請求権問題で合意(いわゆる「金・大平メモ」62年11月12日)、日韓交渉で最も大きな役割を果たした政治家である[29]。

 原子力・核問題への対応 [編集]また、主として外相時代に日米核持ち込み問題において、当事者としてアメリカとの核密約の取り交わしに関わる。外相時代にはキューバ危機の煽りで在日米軍・自衛隊が臨戦態勢を取るなど、核・原子力関連の問題が多かった。1963年1月にはエドウィン・ライシャワー駐日大使を通じて原子力潜水艦の寄港申し出でがあり、世間でも議論の的となった。この件については1年8ヶ月かけて日米で技術的な照会や、原子力委員会での審議を重ねた後閣議で承認されたが、大平の秘書官を勤めた森田一によれば、実際には1963年4月にライシャワーから密約の存在を伝えられ苦悩していたと言う[30]。

なお、核密約の方は大平もまた、公にその存在を公表することは無かったのだが、自民党の機関誌『政策月報』にて核・原子力関係の問題について語っている。その中で社会党が取っていた原子力技術全般への反対姿勢を核アレルギーを感情的に煽っている旨批判している他、原子力に対しての認識として次のように述べている。

 

<< 大平 (注:寄港申し出が)非常にショッキングなできごとのように取り上げられたので、わたし自身も多少驚いたのでございます。しかし、民主主義の政治においては、われわれ政治をやる者がこう思うからというだけではいけないので、やはり国民全体が理解し、それに協力するという雰囲気ができ、それで政策が実行に移されることが望ましいし、またそうすべきでございます。(中略)その論議は事実を踏まえた上で公正に行われるべきだと思います。
大平 核兵器とか言いますと、一般の受ける印象は非常に悪魔のようにつよい。(中略)核兵器と言う、みんなが悪魔みたいにみているものの持っている戦争抑止力というものに依存しておるということだから、これを一がいに平和の敵であるというような考え方は、非常に危険な考え方になるのではないだろうか。
大平 日本は一番、パブリックリレーション(広報・相互理解)の面で弱いですね。
大平 今日、原子力潜水艦の安全性というようなことから、今度は議論の焦点が最近はサブロックに移ってきたようだけれども[31](中略)事態が進みまして、こういったものの寄港問題が新しく出てくれば、それは事前協議の新しい問題として出てくるわけでございまして、いまの問題に関する限りは全然関係のない論議じゃないか。こういう論議に反対論の論調が集中してきたということは、逆に見れば本体のほうにあまり問題がなくなっているのではないかという感じがするのですね[32]。

— 大平正芳 西脇安[33]「原子力潜水艦寄港問題を語る 対談」『政策月報』1964年9月
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なお、寄港承認直後にも、サブロック問題に絡んで当時取り交わし済みだった核密約の再確認を行ったことが、21世紀に入ってから報じられている。小泉純也防衛庁長官ら新任閣僚が、同ミサイルの配備を事前協議の対象となると指摘した為、米側が危機感を募らせていたからであった[34]。

 

宏池会会長 [編集]次の佐藤政権では政調会長を務めた後[35]、第2次佐藤内閣の2度目の改造内閣で通商産業大臣[36]、第1次・第2次田中内閣で再び外務大臣[37]、第2次田中改造内閣・三木内閣で大蔵大臣を務めるなど[38]、内政外政にかかわる要職を歴任した。

1971年(昭和46年)、「大平クーデター」で前尾繁三郎にかわって宏池会会長に就任[39]、名実ともにポスト佐藤時代のリーダー候補として名乗りをあげた。以後1980年の死去まで派閥の領袖の座にあった。

「三角大福の争い」となった1972年(昭和47年)総裁選では3位につけ[40]、その後も田中角栄と盟友関係を続ける[41]。田中内閣で外務大臣だったときに中国を訪問、それまでの台湾との日華平和条約を廃し、新たに日中の国交正常化を実現させた[42]。

その後、1974年(昭和49年)12月の田中金脈問題で田中が総理を辞任すると、蔵相であった大平はポスト田中の最有力候補となり田中派の後押しを背景に総裁公選での決着を主張。しかし、椎名裁定により総理総裁は三木武夫に転がり込んだ[43]。その裁定には、田中から「うまく負けたな。五十一対四十九で君の負けだ」と述べられた。三木内閣では引き続き蔵相を務めるが[44]、このときに10年ぶりの赤字国債発行に踏み切り、以後、日本財政の赤字体質が強まったことが後年の消費税導入による財政健全化への強い思いへとつながっていく[45]。

1976年(昭和51年)の三木おろしでは再び総裁を狙うも、最終的に福田赳夫と「2年で大平へ政権を禅譲する」としたいわゆる「大福密約」の元で大福連合を樹立[46]。福田内閣樹立に協力し、自民党幹事長ポストを得て、福田首相・大平幹事長体制が確立した[47][48]。保革伯仲国会では大平幹事長は「部分連合(パーシャルれんごう)」を唱えて野党に協調的対応を求め、国会運営を円滑化に努める[49]。

 

 総理大臣就任 [編集]1978年

(昭和53年)の自民党総裁選挙に福田は「大福密約」を反故にして再選出馬を表明、大平は福田に挑戦する形で総裁選に出馬する[50]。 事前の世論調査では福田が有利だったが[51]、田中派の全面支援の下、総裁予備選挙で福田を上回る票[52]を獲得[53]。この直後の記者会見で、「一瞬が意味のある時もあるが、十年が何の意味も持たないことがある。歴史とは誠に奇妙なものだ」と発言し[54]、「大福密約」の無意味さについて触れている。この結果を受けて福田は本選を辞退、大平総裁が誕生し[55]、1978年12月7日に第68代内閣総理大臣に就任した[54]。


総理在任中の政策 [編集]
1980年1月1日、アンドルーズ空軍基地にて大平は直属の民間人有識者による長期政策に関する研究会を9つ設置し、内政については田園都市構想、外交においては環太平洋連帯構想や総合安全保障構想などを提唱した[56]。

大平政権期の世界は、1978年に発生したイラン革命と第二次石油危機の余波、1979年(昭和54年)のソ連のアフガニスタン侵攻などといった事件によって、「新冷戦時代」と呼ばれる環境にあった。このような情勢への対応として、大平は日米の安全保障関係を日本側から公の場では初めて「同盟国」という言葉で表現し[57][58]、米国の要望する防衛予算増額を閣議決定した。また「西側陣営の一員」として1980年のモスクワオリンピック出場ボイコットを決定するなど、福田前政権の「全方位外交」から転換し、後の中曽根康弘政権へと継承される対米協力路線を鮮明にした政権であった[59][60]。

また、環太平洋構想によってアジア太平洋地域の経済的な地域協力を模索したり[61]、総合安保構想によって地域経済やエネルギー供給などを含む包括的かつ地球規模での秩序の安定化を図る安全保障戦略を模索したりするなど[62]、「国際社会の一員」としての日本の役割を意識した政策を打ち出した。

 

四十日抗争と衆参同日選挙 [編集]政権基盤が強固ではなく田中角栄の影響が強かったことから、大平内閣は「角影内閣」と呼ばれた。大平を支える田中派など自民党主流派と福田を支持する三木派らの反主流派との軋轢は大平の総理就任後も続いた。1979年衆院選では大平の増税発言も響いて自民党が過半数を割り込む結果を招くと[63]、大平の選挙責任を問う反主流派は大平退陣を要求するも、大平は「辞めろということは死ねということか」として拒否。ここに四十日抗争と呼ばれる党内抗争が発生し[64]、自民党は分裂状態になった。

選挙後国会の首班指名選挙では反主流派が福田に投票した結果、過半数を得る者がなく、決選投票では、大平派・田中派・中曽根派渡辺系・新自由クラブの推す大平と、福田派・三木派・中曽根派・中川グループが推す福田の一騎打ちとなった結果、138票対121票[65]で大平が福田を下して[66][67]、第2次大平内閣が発足した[68]。

しかし、これによって自民党内にはかつてない「怨念」が残り、事実上の分裂状態が続いた結果、第2次大平内閣は事実上の少数与党内閣の様相を呈した。翌1980年(昭和55年)5月16日、社会党が内閣不信任決議案を提出すると、反主流派はその採決に公然と欠席してこれを可決に追い込んだ。不信任決議案の提出は野党のパフォーマンスの意味合いが強かったため、可決には当の野党も驚き、民社党の春日一幸委員長は不信任決議案が可決された後、「切れない鋸を自分の腹に当てやがって」と野党の未熟ぶりを嘆いたという。大平は不信任決議案の可決を受けて衆議院を解散(ハプニング解散)、総選挙を参議院選挙の日に合せて行うという秘策・衆参同日選挙で政局を乗り切ろうとした[69]。なお、この時同時実施された選挙は第36回衆議院議員総選挙と第12回参議院議員通常選挙である。

 急死 [編集]総選挙が公示された5月30日、大平は第一声を挙げた新宿での街頭演説の直後から気分が悪くなり、翌日過労と不整脈で虎の門病院に入院した。大平は年明け以降、休日が3月22日と翌23日の私邸での休養だけで多くの外国に訪問するなどの激務、70歳という高齢、心臓に不安があり、以前にもニトログリセリンを服用することがあるなど肉体は限界に来ていた[70]。なお、ニトログリセリンの服用は公表されていなかった。

大平入院により、反主流派の中川一郎は健康問題をかかえた大平ではヴェネツィアサミット出席が難しいことを理由に進退を決すべきと発言し、河本敏夫は大平の全快を祈ると前置きしつつも国際信義上サミットの出席は早めに決すべきと記者会見で語り、暗に大平退陣を要求するなど反主流派の一部から大平退陣の声があがった[71]。

また、6月9日には大平派の鈴木善幸が大平の後は話合いによる暫定政権が好ましいと記者団に語るなど大平派からも大平退陣について発言する動きがあがった。この鈴木発言を新聞でみた大平は「浅薄な腹黒者、不謹慎極まりない」と激怒したと言われている。大平本人は近日中に退院しサミットに出席する心づもりだったとされ、官僚時代からの盟友であり官房長官の伊東正義等にも話している。

一時は記者団の代表3人と数分間の会見を行えるほどに回復したものの、6月12日午前5時過ぎ容態が急変し、志げ子夫人以下家族たち、伊東正義、田中六助自民党副幹事長に看取られながら5時54分死去[72]。70歳3ヵ月、突然の死だった。死因は心筋梗塞による心不全。

死去前夜、7時半頃桜内義雄幹事長が選挙情勢について報告に訪れ、その後伊東官房長官とも30分程話し、そして午後9時ごろ娘婿で秘書官の森田一がヴェネツィアサミットの準備に当らせるため佐藤秘書官をヴェネツィアに派遣することを報告した際に返した「そうか、わかった」が最期の言葉となった。

大平の死によって権限は、首相権限は伊東正義官房長官が首相臨時代理として、自民党総裁権限は西村英一自民党副総裁が総裁代行として、ヴェネツィアサミットには大来佐武郎外務大臣が代理出席し、3人に分かれた。

48年ぶりの現職総理の死去[73]という想定外の事態は状況を一変させた。自民党の主流派と反主流派は弔い選挙となって挙党態勢に向かった。有権者の多くも自民党候補に票を投じた。これは同情票[74]として分析されており、大平を伝記で好意的に評価している福永文夫などもこの観点で記述し、野党の一つ、社民連もその党史にて自民党が弔い合戦に努めたことを敗因に挙げている[75]。結果、自民党は衆参両院で安定多数を大きく上回る議席を得て大勝した[76]。大平の選挙区であった香川2区も娘婿の森田一が補充立候補で急遽出馬し、当選を果たした。

なお、この選挙については上記のような「同情票」といった見方が少なくないが、今日の政治学では77年参院選から始まった自民党の党勢回復の一環であったと位置づけるものが多い[77]。また、選挙当時から既にそのような見方をするものも少なくなかった。例えば、ポール・ボネの名で週刊ダイヤモンドに時評を連載していた藤島泰輔は、マスコミが「自民党単独過半数割るか?」「連合政権時代来るか?」との見出しをつけた結果、保守系の浮動層が社公連合政権構想などの野党連合政権の成立に危機感を覚えたからであり、「ムッシュ・大平の急逝によるものではなく、LDP[78]が国民の信任を得たということに他ならない」と結論している[79]。後年この観点で書かれた政治史もある[80]。実際、前田和男は、一例として毎日新聞が1980年1月12日の社説で「民主連合政権」期待感を滲ませる社説が出たことを紹介している[81]。また、社民連も野党連合の内実は脆弱なものであり、協力関係が「三年後に備えた話し合いのスタートにすぎ」なかったことも敗因に挙げている[75]。


 評価 [編集]
1980年1月1日、アンドルーズ空軍基地にて妻の大平志げ子(後方)と演説や答弁の際に「あー」、「うー」と前置きをする事から「アーウー宰相」の異名を取る[82][83]。また、その風貌から「讃岐の鈍牛」とも呼ばれた[84]。あーうーについては、自信が「戦後で一番長い間外務大臣をやらせていただきましたが、外務大臣の答弁は下手に言えないので、あーといいながら考えて、うーと言いながら文章は考えてその癖がついてしまったが、悔いはない」と発言している。

大蔵省の出身であり、蔵相時代の赤字国債発行や一般消費税への強いこだわりなど、財政家としての側面は広く知られているが、池田内閣時代の日韓交渉や、田中内閣時代の日中国交正常化交渉といった重要な外交交渉で大きな役割を果たし、戦後日本を代表する外政家といえる。大平内閣においては「環太平洋連帯構想」が著名であり、今日のAPECを始めとするアジア太平洋における様々な地域協力へと受け継がれている。なお、専任の外務大臣としての在職日数は戦後最長である(総理大臣との兼任を含めると吉田茂が1位)。

朴訥で謙虚な人柄だったが、「戦後政界指折りの知性派」[85]との評が一般的であり、学問や人間の知的活動への畏敬の念を、政治の場にあっても終生失わなかったとされる[86]。財政問題への取り組みや、「総合安全保障」の提唱、1960年代の外相時代から、自衛隊も含めた積極的な国際貢献を唱えたことなど、その政治思想や経済観の先見性は今日顧みられることが少なくない。2008年頃から伝記、評伝、回想録や大平自身の著作集などが相次いで刊行され、静かなブームとなっている(2010年5月1日朝日新聞、5月2日読売新聞)。

Wikipedia よりの抜粋、編集です。

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