島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、九州南部の大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主(後述)。後に剃髪して惟新斎[1](いしんさい)と号しため、惟新公との敬称でも呼ばれた。
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黎明期[編集]
天文4年7月23日(1535年8月21日)、島津貴久の次男として生まれる[2]。はじめ忠平と称したが、後に室町幕府15代将軍・足利義昭から偏諱を賜って義珍(よしたか)と改め、さらに義弘と改めた。
天文23年(1554年)、父と共に大隅国西部の祁答院良重・入来院重嗣・蒲生範清・菱刈重豊などの連合軍と岩剣城にて戦い、初陣を飾る[2]。弘治3年(1557年)、大隅の蒲生氏を攻めた際に初めて敵の首級を挙げた。だがこの時、義弘も5本の矢を受け重傷を負った[2]。
永禄3年3月19日(1560年4月24日)、日向国の伊東義祐の攻撃に困惑する飫肥の島津忠親を救う意味で、その養子となって飫肥城に入った[2]。しかし永禄5年(1562年)、薩摩の本家が肝付氏の激しい攻撃にさらされるようになると帰還せざるをえなくなり、義弘不在の飫肥城は陥落、養子縁組も白紙となった。
北原氏の領地が伊東義祐に奪われたため島津氏はそれを取り返すために助力したが、北原氏内部での離反者が相次いだため義弘が真幸院を任されることとなり、これ以降は飯野城を居城とすることになる[2]。
永禄9年(1566年)、義祐が飯野城攻略のために三ツ山城を建設中と聞き及ぶと、兄・義久、弟・歳久と共にこの完成前に攻め落とそうとするが、城は落とせずまた伊東の援軍と挟み撃ちにあい、義弘も重傷を負って撤退を余儀なくされた。
慶長3年(1598年)の秀吉死後、慶長4年(1599年)には義弘の子・忠恒によって家老の伊集院忠棟が殺害され忠棟の嫡男・伊集院忠真が反乱を起こす(庄内の乱)などの御家騒動が起こる。このころの島津氏内部では、薩摩本国の反豊臣的な兄・義久と、前記庄内の乱に際しても大坂に留まり親豊臣あるいは中立に立つ義弘の間で、家臣団の分裂ないし分離の形がみられる。義弘に本国の島津軍を動かす決定権がなく、関ヶ原の戦い前後で義弘が率いたのは大坂にあった少数の兵士でしかなかった。
慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝を討つために軍を起こすと(会津征伐)、義弘は家康から援軍要請を受けて1,000の軍勢を率い、家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じた。しかし元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、当初の意志を翻して西軍への参戦を決意した[7]。
だが石田三成ら西軍首脳は、わずかな手勢であったことからか義弘の存在を軽視。美濃墨俣での撤退において前線に展開していた島津隊を見捨てたり、9月14日(10月20日)の作戦会議で義弘が主張した夜襲策[8]が採用されなかったりするなど、義弘が戦意を失うようなことが続いた。
関ヶ原の戦いの島津義弘陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)
9月15日(10月21日)の関ヶ原の戦いでは、参陣こそしたものの、戦場で兵を動かそうとはしなかった(一説にはこの時の島津隊は3,000余で、松平・井伊隊と交戦していたとする説もある)。三成の家臣・八十島助左衛門が三成の使者として義弘に援軍を要請したが、「陪臣の八十島が下馬せず救援を依頼した」ため、義弘や甥の島津豊久は無礼であると激怒して追い返し、もはや完全に戦う気を失ったともされている。
関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。しかし14時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。その結果、この時点で300人(1,000人という説もあり)まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、豊久の説得を受けて翻意し、敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方で、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意する。島津軍は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。その際、旗指物、合印などを捨てて決死の覚悟を決意した。
島津隊は東軍の前衛部隊である福島正則隊を突破する。このとき正則は死兵と化した島津軍に逆らう愚を悟って無理な追走を家臣に禁じたが、福島正之は追撃して豊久と激戦を繰り広げた。その後、島津軍は家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。この撤退劇に対して井伊直政、本多忠勝、松平忠吉らが追撃したが、追撃隊の大将だった直政は重傷を負い忠吉も負傷した(直政はこのとき受けた傷がもとで後年病に倒れ、死去したとされている。また忠吉が負傷したのは開戦当初とする説もある)。しかし、戦場から離脱しようとする島津軍を徳川軍は執拗に追撃し続けた。
このとき島津軍は捨て奸(すてかまり)と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。その結果、甥・豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になったが、後に「小返しの五本鑓」と称される者たちの奮戦もあり、井伊直政や松平忠吉の負傷によって東軍の追撃の速度が緩んだことや、家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。義弘は摂津住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂らと合流、共に海路から薩摩に逃れたという。生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったといわれる。また、その一方で川上忠兄を家康の陣に、伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し撤退の挨拶を行わせている[9]。この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。