意味不明な話をするザクロ母。
不明な話を聞くのはストレス。
主語や目的語や述語がポロポロ抜けている。
「てにをは」が滅茶苦茶。 ←「てにをは」を的確に使えば、語順や主語などの脱落はあまり問題とならない。
「こそあど」も滅茶苦茶。
論理的に成立しない。
矛盾だらけ。
感情的な話の運びと結論。
要するに「考える」ということをしない人なのだ。
「思って」いるだけ。
「思う」のは自由だが、相手があれば「わかるように説明する」義務が生じる。
~キリスト教系掲示板より~
> 私にとって「恵まれる」という言葉と「ギフト」は違いますよ。
> 何故、違うか。
> 感覚的に違うと捉えているからです。
これで議論になるのなら世の中簡単でよいですね。
「キリスト教は間違っていますよ。
なぜ、間違いか。
感覚的に間違いだと捉えているからです」
という人が出てきても、あなたはOKですか。
そういう没論理的な人と良識とやらを持ってあなたは議論ができますか。
分からない点に説明を求めると、逆ギレ。
怒られて更にイヤな思いをする私。
「私が嫌な思いをする」からストレスを感じるだけではない。
わからない私が罪悪感を感じるし、
説明を求めれば、母は嫌な思いをする。 ←不条理だが、嫌な思いをしているのは事実だ。
「母に嫌な思いをさせる」自分が嫌なのだ。
自己嫌悪に陥る。
こうして、
いつも罪悪感を植えつけられてきた。
説明を求めれば
母「なんでわかんないの?!
そんなことじゃ働けないよ! 嫌われるよ!」
「あんたは頭がオカシイ」
などと、訊ねる行為すら否定。
訊ねる事が恥だと刷り込まれる。
間違った恥の概念。
本当に恥ずかしいのは、
人に嫌な思いをさせても気づかないことじゃないですか?
指摘されても気づこうとしないことじゃないですか?
逆ギレして、より一層相手を追い詰める事じゃないですか?
そんな自分を改めない事じゃないですか? ←まあ、気づいてないんだから改めようがないが。
私はフツウじゃないのだ。
私はオカシイのだ。
嫌われる人間なのだ。
・・・・・こう刷り込まれてきた。
わからないことは、罪ですか?
訊ねることは、恥ですか?
オカシイとか頭がオカシイとか変人っていうのが十八番。
でた~~~っ!!
またかよっ!! っていう感じ。 ←でも今は否定する元気すらない。
自分が理解できない事があると、速攻で「オカシイ」を連発。
(でも、相手を理解できない場合は、自分はおかしくない。) ←ダブルスタンダードってやつ。
その言葉、使わないで欲しい。
すごく傷つくので「オカシイ」はやめてください。
嫌なんです。
とにかく。
そんな言葉、使わないで!