歯科医物語

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結核、炭疽、コレラを究明 「細菌学の父」ロベルト・コッホ

2021-09-22 10:04:50 | ☆医療・歯科(口腔外科)医療について
結核、炭疽、コレラを究明 「細菌学の父」ロベルト・コッホ
9/22(水) 9:05配信



人類を苦しめてきた病気の原因となる細菌を発見した「細菌ハンター」

1900年頃、研究所で顕微鏡をのぞき込むロベルト・コッホ。(SUDDEUTSCHE ZEITUNG PHOTO/AGE FOTOSTOCK)
 結核は、何千年にもわたって人類を苦しめてきた。インドでは3300年前、中国ではその1000年後に、結核の存在が文献に記されている。古代ギリシャの医者、ヒポクラテスは「当時流行していた病気の中で最も重大なもの」と呼んだ。1680年、英国の作家ジョン・バニヤンは、結核を「死をもたらすあらゆる者の中の船長」と位置づけた。 ギャラリー:腸チフスのメアリーから不遇の天才医師まで「感染症、歴史の教訓」 画像20点  19世紀の欧米では結核が猛威をふるい、7人に1人が死亡したと推定されている。プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』、ドストエフスキーの小説『罪と罰』、ムンクの絵画『病める子』など、当時の偉大な芸術作品のなかでも取り上げられたように、結核は社会に大きなショックを与えた。  1882年3月24日、人類の結核との闘いは、ベルリンの生理学協会の小さな会議室で転機を迎えた。38歳の医師であり微生物学者でもあるロベルト・コッホが、200以上の顕微鏡標本を用いて、結核の原因となる細菌「結核菌」を発見したのだ。彼の目覚ましい業績の最後を飾ったこの発見により、コッホは、感染症との長い闘いにおける貢献をたたえられ、ノーベル賞を受賞した。

最初の成功

 1843年、コッホはプロイセン王国の鉱山町クラウスタール(現在のドイツの一部)で13人兄弟の3番目として生まれた。活発で頭が良く、好奇心旺盛な子どもだった。5歳のときには、家にあった新聞を使って独学で読むことを覚えたという。  ゲッティンゲン大学で医学を学んだコッホは、1866年に博士号を取得。複数の病院で働きながら、1867年には結婚、1868年には父親になった。1870年、普仏戦争時にはプロイセン軍の外科医に志願した。  終戦後、コッホは現在のポーランドのヴォルシュティンで地域担当医の職に就いた。患者の多くは農民で、家畜を死に至らしめる炭疽症にかかっていた。4年間で528人と、5万6000頭の動物がこの地域で亡くなった。  コッホは忙しい診療の合間を縫い、診療所に仮設の実験室を作って炭疽症の謎解きに挑んだ。  調査には最新の疫学研究の成果が活かされた。ゲッティンゲン大学におけるコッホの教師の一人、フリードリッヒ・グスタフ・ヤコブ・ヘンレは、1840年に「感染症は微小な生物によって引き起こされる」と主張していた。1860年代初頭には、フランスの生物学者ルイ・パスツールが、そうした小さな病原菌によって感染が起こることを証明した。しかし、それぞれの病気の原因となる細菌を特定して分離することは、はるか遠い望みのように思われた。  コッホはまず、炭疽症が発生している農場を訪れて、ウシやヒツジの様子を観察した。そこで彼は、健康だったウシの血液が黒っぽいペースト状になり、数日でそのウシが死んでいく様子を目の当たりにした。病気のウシやヒツジに接した人も体調を崩し、その多くが肺炎で死んでいった。  死んだウシの黒い血を顕微鏡で見てみると、健康な動物の血にはない、細長い米粒のような形をした構造物があった。それは、1850年代に初めて観察されていたものの、炭疽症の原因菌として科学的に証明されていなかった「炭疽菌」だった。  この細菌が病気の原因であるかどうかを確かめるため、コッホは独自の実験方法を考案した。まず、感染した動物の血液を木片に染み込ませた後、ネズミの尾の付け根に小さな切り込みを入れ、そこから体内に木片を挿入した。翌朝、ネズミは死んでいた。コッホが死体を解剖すると、血液中に同じ棒状の微細な構造物が見つかった。  コッホは、この棒状のものが病気の進行に重要な役割を果たしていることを発見しただけでなく、細菌を含んだ血液が新たな対象を感染させることができるのは2日間のみだということも突き止めた。さらに、炭疽菌が活動と休眠のサイクルを繰り返していることを明らかにした。炭疽菌は棒状の細胞の中に芽胞を発生させ、土の中で何年も眠ったような状態を保つことができる。そして、条件が整うと再び「死の細胞」に成長し、土の上の草を食む動物に感染する。病気になる個体もいれば、ならない個体もいるのはこのためだ。  3年間の苦心の末、コッホは1876年、ドイツを代表する植物学者フェルディナント・ユリウス・コーンをはじめ、ブレスラウ大学の同僚たちに研究成果を披露した。コッホは3日間の発表で、炭疽菌の生活環を明らかにし、この菌が炭疽症の原因であることを証明した。出席者の一人は、次のように熱弁した。コッホが学術的な訓練を受けていないにもかかわらず、「すべてを自分でやり遂げた......これは病理学の分野における最大の発見だ」。先駆者たちが、細菌が原因であるとの説を提唱した後、特定の細菌が特定の病気の原因であることを突き止め、医学における細菌学を立ち上げたのはコッホだったのだ。


原因究明
 1880年、ドイツ政府はベルリンに新しい細菌学研究所を開設し、コッホが所長に任命された。設備の整った実験施設と熟練した研究助手を得たコッホは、より良い条件下で研究することができるようになった。例えば、研究チームは細菌の純粋な培養液を作るためのプレート技術を完成させた。汚染されていない培養液を使えば、その中に含まれる細菌だけが病気を引き起こすことを示せる。画期的な進歩だった。  コッホのキャリアの中で最も重要と言っていい結核の原因究明に、この技術は欠かせないものだった。コッホはまず、結核に感染した人間の組織を培養し、その組織のサンプルを217匹の動物に注射した。その結果、動物たちは病気になったばかりか、人間の組織から採取したのと同じ菌に感染していることが分かった。こうして結核菌の正体が判明したのである。  1882年3月、コッホがベルリンの医学界に研究成果を発表したとき、人々は技術的な進歩にも驚愕した。純粋な試験用培養液の使用、細菌を視覚的に識別しやすくするための標本の新しい染色法、そして結果を共有し確認することを可能にした、世界初の細菌の写真撮影などだ。  コッホは病気の原因となる細菌を特定するための研究を続け、1883年にはコレラの発生を調査するためにエジプトとインドを訪れた。コレラは汚染された水を介して感染することが知られていたが、コッホの技術により、その細菌を分離・同定することが可能になった。コッホが「コンマのように少し曲がっている」と表現したこの細菌は、後に「ビブリオ・コレラ(コレラ菌)」と名付けられた。  コッホは、人を死に至らしめる感染症の原因を突き止めるだけでなく、治療法を見つけることができると信じていた。1890年、彼は結核の治療薬を発見したと発表した。結核菌から抽出したその物質を、コッホは「ツベルクリン」と呼んだ。このニュースは世界中の人々に大きな希望を与えたが、ツベルクリンは大きな期待外れに終わった。効果がないどころか、患者を死なせてしまうこともあったのだ。今日に至るまで、完全に有効な結核のワクチンは見つかっていないが、ツベルクリンは結核の検査に欠かせないものとなっている。  それでも、コッホが確固たるものを残したのは事実だ。結核の原因が突き止められたことで診断が可能になり、衛生状態を改善することによって蔓延を防止し、治療法を探すのが早くなった。また、コッホの画期的な研究は、すべての科学者が採用できる貴重な方法論も生み出した。  これらの法則は「コッホの原則」と呼ばれ、病原体である細菌を特定する際のチェックリストとなっている。まず、当該の病気のすべての症例でその細菌が発見されなければならない。次に、感染した宿主からその細菌のサンプルが採取され、純粋培養されなければならない。さらに、その実験室で培養された細菌を健康な被験体に接種して、同じ病気が発症しなければならない。最後に、実験で感染させた被験体から、同じ細菌を採取できなければならない。  コッホは多大な功績を認められ、1905年にノーベル医学・生理学賞を受賞した。米国の微生物学者ポール・デ・クルイフが『微生物ハンター』の中で述べているように、コッホは医学を、「馬鹿馬鹿しいでたらめ」から「迷信ではなく科学を武器とした知的な闘い」へと発展させたのである。

 

 
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