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オペラで世間話

サイト「わかる!オペラ情報館」の管理人:神木勇介のブログです

オペラ公演、DVD、本の紹介・・・そして、音楽のこと

エンドラー 記 『カラヤン 自伝を語る』(白水社)

2008-05-11 | オペラの本
 2008年はカラヤン生誕100周年という記念の年であり、いろいろとカラヤンの名前が目に付くようになりました。
 あまりにも有名すぎて、カラヤンが好きというのもはばかられるくらいです。そして、これだけ非難の声を浴びせられる指揮者も他にはいないでしょう。私は、カラヤンのことは好きな方です。オペラの作り方にも共感します。総合力の高いカラヤンはオペラの似合う指揮者ではないでしょうか。
 けれど、かの大指揮者でもやはり修行期間はあります。

《当時わたしは、くりかえし自分に言い聞かせたものだ、学ぶんだ、学ぶんだ、見たり聞いたりするものについて、なにも言うな。ともかく口を閉ざして、仕事をしろ、そして学ぶんだ、と。専門の仕事を本当に身につけることを学ぶには、これが唯一正しい考え方だし、唯一の可能性だと思っている。》(39-40頁)

 本当に、私自身にも言い聞かせたくなるメッセージです。「口を閉ざして、仕事をしろ」とカラヤンが言うのですから、凡人はさらに努力しなければなりません。
 カラヤンにも不遇の時期がありました。ただ、そういったときに、きちんと勉強して、後で大活躍する人生に向けて貯金をしていたのです。

《わたしは両親の家で暮らしていたが、それからわたしたちは田舎に引きこもった。(中略)ずっと以前に指揮したことのあるすべての作品を、もう一度、徹底的に調べなおしてみた。食物は乏しく、人のことを心配してくれる人間もいなかった。それでも楽譜があり、音楽があった、そして、こうした時期もすぎてしまったとき、わたしはわたしの未来の課題に向かって、かつてより以上に真剣な、よりよい心がまえができていたのだ。》(102-103頁)

 人間は苦しい時期こそ、未来に向けて本当に強固な意志を育むときなのではないでしょうか。
 こうしてカラヤンは、帝王と呼ばれるまでの大指揮者となります。しかし、そのセンスは帝王という言葉の響きから感じられるような傲慢さからは程遠いものです。

《ちゃんとした主婦なら、自分の所帯に盗みがあれば気がつくものだ。(中略)大オペラ劇場の総監督としても持っていなければならぬものを、わたしに伝えてくれたのだ》(169頁)

 どちらかというと面倒見のいい、まめな指揮者だったのではないでしょうか。それが大きなオペラを振るときにも、精密さとして音楽に現れているのだと思います。

 私が本書を読んでいて、引っかかったのは、《わたしがかつて長いあいだ温めていた、六つの大オペラ劇場の提携というプラン》(165頁)というところです。なるほど、世界のトップのオペラハウスが提携をしたら、より良いオペラが制作できると思います。第一感として賛成でしたが、改めて考えてみると、オペラハウスそれぞれの個性が今以上にさらに失われていくような気もします。カラヤン的な考え方ですよね。

 次の企画もカラヤンのオペラに対する考え方が如実に現れていると思います。

《オペラの経営の場合、理想的な配役と十分な練習による上演を用意するのが、世界中いたるところでどれくらい困難なことになっているかがわたしにはわかっていた。そこでわたしはひとつ奮発して、ときおり演奏会形式の上演を、完全にわたしの望む水準でやってみようと思った。》(157-158頁)

 折しも、我が国の新国立劇場でも、新芸術監督の若杉弘の指揮による「コンサート・オペラ」という新たな形式による公演が中劇場で上演されることになりました。演目は『ペレアスとメリザンド』。日本のペレアス歌手として第一人者である近藤政伸(T)とフランスものを得意とする浜田理恵(S)のキャスティングで、理想的な音楽を構築することを狙いとしているようです。

 演出家としても徹底していたカラヤンですが、「完璧主義者」としてどこまでも理想を追い求めていました。
 カラヤン生誕100周年の今年、久しぶりにカラヤン・サウンドを堪能してみるのもいいかもしれませんね。


ダニエル・バレンボイム 著 『ダニエル・バレンボイム自伝』(音楽之友社)

2008-04-12 | オペラの本
 シカゴ交響楽団の音楽監督のポストについて、ゲオルグ・ショルティの自伝には客観的にその選考過程が描かれていたものの、選ばれた方のバレンボイムの自伝には次のような記述がなされています。

《彼(ショルティ)は私(バレンボイム)が後を引き継ぐのが自然だと考えていた。彼は私のオーケストラに対する称賛の思いを知っていたし、おそらく、団員たちが私に親愛の気持ちを持っていることも感じていたのだと思う。》(244頁)

 きっといろいろな事実があると思いますが、こちら側とあちら側と異なった角度から物事を眺めてみるのは、おもしろいものです。

 バレンボイムは、現在、円熟期に向かおうとする世界的な指揮者であり、本書は1991年(2002年に加筆)に書かれた自伝なので、まだまだその後の活躍部分があるはずです。しかし、これはこれで一つのバレンボイムの考えを提示した本として、彼の音楽を聴く上で参考になります。

 オペラについては、次のようなわかりやすい具体例を出しながら、なるほど思わせる指摘がありました。

《オペラでは、音楽の側のフレージング、アーティキュレーション、テンション、テンポ、音量といったものが不適切な場合には、演出家が自分の望むものに到達するのが難しくなることがある。また、歌詞の明瞭さ、および言葉のサウンドと音楽のサウンドの協調関係があまりにもなおざりにされている場合には、多くの問題が生じて来る。音楽のアーティキュレーションについても同様で、アーティキュレーションを無視するのは、句読点なしで……コンマもピリオドもコロンもいっさいつけずに……話すようなものである。当然、なにを言っているのかさっぱりわからないということになる。》(233頁)

 確かに時々、聴いていてわけのわからない音楽や、オペラの舞台でも音楽と演出がギクシャクした場面が見受けられることがあります。こうして言われてみれば、なるほど意味のわからない演説のような状態に似ているのだということに気が付きました。

 また、バレンボイムはバイロイト音楽祭でも活躍していますが、バイロイト祝祭劇場の作りが他の歌劇場と異なって、オーケストラ・ピットが客席から見えない形で舞台の下に潜り込むようになっている点について、その構造上の特徴だけでなく、それがどのように聞こえるのかも解説しています。

《単にピットが覆われていて、オーケストラと歌手たちの関係に大きな影響を及ぼすなにかがあるというだけではない。ステージの音響もまったく異なっているのである。この劇場はあまり大きくはなく、おかげで歌手の声は会場のすみずみまで届く。よそのいくつかの劇場のように、声をふりしぼる必要はない。そして、ピットが覆われた状態になっていることの利点ははっきりしている。声とオーケストラの結びつきを容易にし、サウンドが申し分なく溶け合うのである。》(231頁)

 バレンボイムの耳がこのように判断するのですから、まず正しい見解なのではないでしょうか。

 バレンボイムの耳は、実際に出ている音以上のものを聴き取ることができるようです。それはつまり、ただ目の前にあることを聴いているだけではなく、もっと深い聴き方を示唆しています。バレンボイムがオーディションでどのような聴き方をしているのか次のように語っています。

《本であれ、スコアであれ、なにかを読んでいるときには、意味を完全に汲み取るには行間を読まなければならない。オーディションで志願者の演奏を聴くときには、その時そこで演奏されている音符を聴くだけではなく、その才能が将来どうなるかということにも耳を澄ませなければならない。これもまた行間を読むことである……現在を見ることと将来を見越すことを同時に行うことである。》(267頁)

 こうして耳を澄まして聴いてみることが、音楽に限らず、私たちが生活する上でどれだけ重要で、かつ、そのように生きることによって、ただ表面の音しか聞こえていない人とどれだけ差がつくのか、改めて考えてみると恐ろしい気がします。


ゲオルグ・ショルティ 著 『ショルティ自伝』(草思社)

2008-03-10 | オペラの本
 ショルティはオペラ・交響曲、その他あらゆる分野で活躍した大指揮者ですが、いろいろな評論家の意見を耳にしても、なぜかはわかりませんが日本での評価はあまり高くないようです。私は好きな指揮者の一人ではあります。そのショルティの自伝ですが、これがかなり読ませる内容で、ショルティ・ファンでなくてもおすすめです。ショルティの辿ってきた人生が、偏りなくバランス良く語られています。あたかも彼自身の演奏のようです。

 ショルティはデッカに膨大な録音を残しましたが、こんなふうに言ってもらえると、安心して聴くことができます。

《私は録音してから発売の許可をだす前に、注意深く自分のレコードを聴く。》(260頁)

 ショルティの録音なら、ファースト・チョイスとしても無難なところではないでしょうか。

 オペラについて、例えば、生前に直接R.シュトラウスに会い、何を教授されたのか貴重な記述もあります。

《私はシュトラウスに、「ばらの騎士」のいくつかの部分について、テンポはどうあるべきか尋ねた。彼は万能の解答を与えてくれた。「かんたんだ」彼は言った。「私はホフマンスタールの台本を朗読するときの感じで曲を書いている。自然な速度と自然なリズムで。台本を声にだして読んでみれば、正しいテンポがわかるよ」》(103頁)

《彼はオックスのワルツは、一小節を三つにではなく一つで振れと言った。「クレメンス・クラウスの真似をしてはだめだ。彼はワルツを三つに振る。だが、一つで振ってごらん。そのほうがフレージングが自然になる」》

 これは『ばらの騎士』を聴くにあたって、よく考えてみなければならない点です。ついショルティの指揮した『ばらの騎士』のDVDを見てみたくなりますよね。

 また、こういう自伝にはショルティの情報だけでなく、他の種類の情報が散りばめられているところも魅力的です。例えば、シカゴ交響楽団のショルティの後任として、クラウディオ・アバドとダニエル・バレンボイムの二人が候補に挙がったようですが、ここでオケのメンバーの投票に関する記述の中でなかなか興味深い記述があります。

《メンバーに投票してもらった結果、アバドはリハーサルのときに細部にこだわりすぎ、オーケストラに作品全体の捉え方を示唆しないという理由で退けられた。七対三の割合で、バレンボイムがアバドを抑えて選ばれた。》(232頁)

 別にこの部分を引用して私がアバドを否定しているわけではありません。個人的にアバドは好きですが、こんな記述にその指揮者の性格というか特徴が現れています。

 本書の最後の部分には、ショルティの音楽に関する解釈が各作曲家ごとに載っています。例えば、バッハの『マタイ受難曲』について、
《私はこの作品を宗教曲であると同時に、徹頭徹尾苦しみぬく人間の悲劇を描く「オペラの形をとらないオペラ」と捕らえている。》(267頁)
という具合です。こういうことはなかなか聞く機会がないので、この最後の部分だけでもこの本を読む価値があります。

 処世訓にも満ちています。私が一番いいなと思ったのは以下の記述です。

《生涯をとおして、私は良き音楽家になりたいと願ってきた……たんに成功を目指したのではなく、自分の才能を開発し向上させたいと願ったのだ。》(261頁)

 単に、あれになりたい、こういう賞を得たいという目標を掲げていると、それを獲得したときにそれで自分を見失うことにもなりかねません。ショルティのように成功した人にとってはまさにそうでしょう。具体的な目標を立てることも大事ですが、「良き音楽家になりたい」とか「自分の才能を開発し向上させたい」といった目標の方が、自分が思っていたよりも前の方に自分を進めてくれるのではないかと思います。

茂木健一郎、江村哲二 著 『音楽を「考える」』(ちくまプリマー新書)

2007-09-01 | オペラの本
 脳科学者の茂木氏と、現代音楽の作曲家である江村氏の対談。新書という形でやさしい言葉を使いながら、クラシック音楽を取り巻く現状について語り合っています。

 これがなかなかよくできているのです。音楽の本質まで到達しようとしています。

 特に私が驚いたのが、この記述です。

《(江村)聴衆という立場であっても、音楽と対峙するという意味では作曲家や演奏家といっしょであって、自分の音楽を探そう、創ろうとしているのです。だから聴くということ、音楽鑑賞ということは非常にクリエイティブな仕事です》

 「聴く」という行為を、「作曲する」や「演奏する」と同列に、しかも納得のいく説明を受けたのは、これが初めてだと思います。

《(江村)楽譜を通じて自分が聴きたい音楽、自分の表現、自分のショパンというものを一生懸命探している。そうして生み出されたものが本物の演奏です。だから演奏家も、とてもクリエイティブな仕事です。作曲だけがクリエイティブなのではありません》

 私は声楽を専攻して、オペラや歌曲を歌ってきましたし、大学では作曲の先生に無理にお願いして見てもらっていました。そして、「作曲だけがクリエイティブなのではない。演奏も、鑑賞も、同じ土俵にあるのではないか」ということを実感していたものの、それを言語化することはできませんでした。

《(茂木)われわれは聴くことと創造することをとうしても非対称のものと考えがちだけれども、実はつながっている。聴くことは、決して受け身ではなく、自分にぴったりと合ったなにものかを探すという意味を考えると、かなり創造的な行為になりますね》

 これだけでも、この本を読んだ価値がありました。もやもやしていたものが消えて、気持ちがよくなりました。やさしい言葉でわかりやすく書かれているので、ぜひ多くの人に読んでほしいと思う一冊です。


中村紘子 著 『コンクールでお会いしましょう』(中公文庫)

2007-08-05 | オペラの本
 日本で最も有名なピアニストの一人である著者による、コンクールとは何かを考える恰好の本です。

 著者は多くのコンクールの審査員を務めてきました。実体験に基づいたノンフィクションのおもしろさがこの本にはあります。

 まず「はじめに」を読んで、私は非常に驚きました。ものすごくうまい文章なのです。こんなにきれいにまとまった文章は、めったに遭遇しません。全体を通して、構成が美しいのです。

 天才ピアニストは、何をやらせても一流なんだなと思わせます。大変失礼ですが、こういう文章を書く人のピアノはうまいだろうなと思ってしまいます(事実、もちろんピアノがうまいのは言うまでもありません!)。

 この本の中では、数々の天才ピアニストの逸話が紹介されていますが、著者ご本人も十分、天才であったわけです。例えば、こんな記述があります。

《突然私事にわたって恐縮ですが、私も子供のころはちょっとした天才少女で、読譜力、暗譜力、記憶力といったもので先生をはじめ周り中を驚かせました。十五歳ぐらいまででしょうか、そのころただ一度聴いただけの曲を、たとえば歌曲ならメロディだけでなくその時意味も分からずに聴いた歌詞までも、私は一言一句残らず今でも思い出すことができます》

 私が子供の頃は、漢字を覚えるのに苦労し、ゲームをやっては友人に負け、天才的なヒーローの出てくるマンガを読んでその気になっていたことを思い出すと、そもそも違ったんだなあと、少し安心感すら感じます。

 この天才エピソードの中で、私が一番驚いたのはバレンボイムです。

 バレンボイムは17才のときすでに、いつでも即座に予行練習なしに弾ける曲が300曲以上、ピアノ協奏曲14曲となっており、さらに彼は40代になっても、こうしたレパートリーを上着のポケッとから無造作にカードを引き出すように気負いもなく演奏したのだそうです。

 私の自転車みたいな感覚なのでしょうか。私も自転車なら、しばらく乗っていなくても、小さい頃と同じようにいつでも乗ることができます。いや、ほんとに天才はすごいですね。羨ましい限りです。

 コンクールについての本なので、例えばその採点方法などの話も書かれています。こうしたことに興味がある方も楽しめるのではないかと思います。

 私が考えさせられたのは、「名演」に飽きてしまったのか、という問題提起です。

《アメリカをはじめとする豊かな社会、成熟した社会では、伝統的クラシック音楽における「ただの名演」に飽きてしまったのではないか。(中略)とんな名演も繰り返されれば「刺激の閾値」を超えてしまって、より新しく強い「プラスアルファ」がなければ感動を誘いにくくなってしまう……》

 ここでいう「プラスアルファ」とは、何らかの感動を呼ぶ人間ドラマがその背後にあって感動に至るという意味で、例えば、映画の主人公が弾いたピアノなどに感動する、ストーリーの流れの上にある音楽に感動する、といったようなことです。

 そして著者は、いろいろな考えを提示しながらも、最後は肯定的です。

《もちろん、そんな「プラスアルファ」による感動なんて本当の音楽的感動ではない、と否定することもできましょう。(中略)ここで、その音楽的素養や知識によって音楽的感動のホンモノニセモノなどといった差別をするのは、時にクラシック音楽ファン独特の「オゴリ」とでもいいましょうか、例の教養主義的な独善となる危険をはらんでいるのではないでしょうか》

 まだまだ私自身もわからないことが多いのですが、この本は著者の考えがストレートに伝わってきて、とても刺激的です。