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オペラで世間話

サイト「わかる!オペラ情報館」の管理人:神木勇介のブログです

オペラ公演、DVD、本の紹介・・・そして、音楽のこと

二期会『皇帝ティトの慈悲』(2006年4月22日、新国立劇場)

2006-05-01 | オペラ公演
【有望な若手歌手】
 コンヴィチュニーが日本のオペラ歌手を使ってモーツァルトを演出する・・・モーツァルト・イヤーとして企画された公演の中でも最も興味深いこの二期会の『皇帝ティトの慈悲』。今年のオペラ公演ラインアップのうち、私が特に楽しみに待っていたものの一つでした。しかも、キャストには現在最高の若手歌手が揃っています。コンヴィチュニー自身も、

《小さな場所で、固定したメンバーでじっくりアンサンブルを作るのが最高です。有名な歌手たちは直前に来て、すぐにまた去ってしまう。しかも、今までやっていないことを受け入れようという柔軟性に乏しい。その点で、若い人たちが多い今回のプロダクションは嬉しいです》

と語っていたように、彼の演出を吸収して、そしてモノにできる実力を持った日本人の歌手が、どのような舞台を見せてくれるか、かなり期待していました。
 実際、その期待は裏切られず、私はとても満足しました。特にセスト役の林美智子(Ms)の出来は、おそらく客席は高い評価で一致していたのではないでしょうか。私は今までに彼女のオクタヴィアン、ツェルリーナの歌唱を聴いて注目していましたが、今回のセストはそれらを超えてすばらしい歌唱だったと思います。
 セルヴィーリア役の幸田浩子(S)も、最近の活躍どおりの実力を見せてくれました。ヴィテッリア役の林正子(S)は、演技がうまい。その役の性格などを自然な形で示してくれます。タイトル・ロールの望月哲也(T)も十分な出来だったと言えるでしょう。これだけ歌えれば、今の日本人テノールの中では申し分ありません。へたに外国人を連れてくるよりもよほどいいです。
 こういった日本人の優れた若手歌手を、コンヴィチュニーは、どこかヨーロッパのオペラハウスで仕事をするときに呼んだりしてくれないでしょうか。野球のメジャーリーガーではないのですが、オペラでもヨーロッパで注目される大きな舞台に、真に実力を持った日本人若手歌手が、もっと起用されることを望んでいます。

【コンヴィチュニー・ブランド】
 さて、肝心のコンヴィチュニーの演出はどうだったのか・・・。以前、NHK衛星第二で放映されたメッツマッハー指揮ハンブルク州立歌劇場の『魔弾の射手』の公演(録画1999年)でのコンヴィチュニーの演出は、それはもう大変なおもしろさで、この演出家に私は圧倒されたことがあります。
 今回の『皇帝ティトの慈悲』も、型破りな演出で、驚きの連続でした。これをどう評価すればいいのか・・・、実は私は悩んでしまい、このことがなかなか書けないでいました。よくわからない、と言えばいいのでしょうか。いや、正直に言えば、もし、この公演がコンヴィチュニーの演出だということを知らずに観ていたら、私は「また二期会の悪ノリが始まった」「まともにオペラを上演してくれ」「もう親父ギャグはやめてくれ」と矢継ぎ早に非難の言葉を浴びせていたに違いありません。「あの」コンヴィチュニーの演出だと思っているからこそ、これには何か深い意味があるに違いない・・・といって考えたのではないでしょうか。私のオペラ鑑賞も、所詮その程度でもあるのです。
 こうした考えのもとに、あの最初の照明も、トイレに入った皇帝も、幸田さんと呼ばれたセルヴィーリアも、コンヴィチュニーというブランドを付ければこれはまた実におもしろい演出だったと思います。本当に。
 音楽を止めたりしてまで何かをするのは、よほど演出家に説得力がなければ、なかなかできないことでもあると思います。客席にティトを座らせるのもそうでしょう。しかし、舞台すらまともに見えない新国の4階で観ていた私には当然何も見えず、フラストレーションがたまりました。

【その他雑感】
 二期会は、こういう演出を実現させるのに、コンヴィチュニーと相性が良かったとも言えるかもしれません。
 また、今回のような公演なら、もしモーツァルトが観たら、きっと大喜びしたのではないかと、ふと感じました。
 最後に、火事の被害を受けながら公演を支えたスダーン指揮の東京交響楽団にも大きな拍手を送りたいですし、調子の悪かった(笑)照明も、実に多彩な画面を創り出していたということを付け加えておきたいと思います。

【データ】
モーツァルト「皇帝ティトの慈悲」
2006.04.22 Sat. 15:00 新国立劇場(大)
スダーン(指揮) コンヴィチュニー(演出)
東京so.二期会cho.
ティト:望月哲也 T / ヴィテッリア:林正子 S / セルヴィリア:幸田浩子 S / セスト:林美智子 Ms / アンニオ:長谷川忍 S / プブリオ:谷茂樹 Bs


新国立劇場『運命の力』(2006年3月21日、新国立劇場)

2006-03-27 | オペラ公演
【底辺に流れる敬虔さ】
 今回の新国立劇場の『運命の力』は、私にはすぐに評価できるというものではなく、何か引っかかるものがありました。マイナスの意味で言えば、私は何か苛立ちを感じていたのかもしれません。しかし、私には様々な刺激があり実に興味深いものでした。
 それを顕著に現しているのが、レオノーラ役を歌ったアンナ・シャファジンスカヤ(S)です。声量は十分で迫力満点なのですが、その歌唱は少し雑です。この力強い声を聴いていて、私は一体何に自分が苛立っているのかと思っていて、ふと気が付いたことがありました。それは、このレオノーラという役の持つ信仰心、敬虔さといったものが感じられなかったことです。
 『運命の力』は一面的には復讐劇として捉えることができるでしょう。運命に翻弄されながら、レオノーラは父、兄を失い、そして自らも兄に殺されることになります。こうした恐ろしく、血なまぐさい展開は、あたかもこのオペラに、終幕へと向かう迫力だけを求めがちになります。しかしこのオペラには、時代の移り変わりを強く意識しながらも、その底辺にキリスト教の深い信仰心が脈々と流れているのであり、「動」の中に大切な「静」を表現することが求められるのではないでしょうか。シャファジンスカヤのレオノーラは、私のレオノーラ像とは違う位置にありました。

【求める方向性の違い】
 さて、このように私は理解したのですが、インターネットで今回の公演の評判を調べてみると、シャファジンスカヤのレオノーラは総じて評価が高く、私の目もふし穴だなあとがっかりしていたところ、ひとつ、クラシック・ジャパンの「即評」というブログにおもしろい評論を見つけました。
 音楽ジャーナリストの香原斗志氏は、「ヴェルディらしさ」というような論点から次のように言っています。

《アンナ・シャファジンスカヤは、確かに、このところ数少ないドラマティック・ソプラノの大器であり、質量がありスケールの大きな声には感嘆させられる。しかし、こと表現に関しては、本来、ヴェルディの要求は、少し違ったところにあったはずだ。ドラマティックにしてなお柔らかいレガートなフレージング、メッツァ・ヴォーチェを駆使した強弱の効果…。それをヴェルディはスコア上でも明らかに求めているが、彼女はそういう点には意外なほど無頓着であった。》

 私は、感覚的に捉えていましたが、香原氏は技術的です。この後、音楽面について次のようにも述べています。

《同じ傾向は、井上道義の指揮についても言える。遅めのテンポで、おどろおどろしい情念を含んだ、この作品ならではの陰影を描き出すとともに、局所的には旋律を丁寧に浮かび上がらせていたが、それが総体として、これまでヴェルディらしい音楽だといわれてきた、くっきりとしたラインを描いた奔流となるには至らない。それは、これまである人たちが、ヴェルディ作品には不可欠と考え、求めてきた味付けを抜き取り、作品が育まれた文化的土壌から切り離して抽象化した〈運命の力〉だった。》

 こうした言及をしても香原氏は、客席が今回の公演に拍手を送っていたことを認めた上で、「(ヴェルディ)らしさ」に欠けた演奏の意味や是非について問題提起をしています。今時の音楽評論家には見られない柔軟な考え方です。

《文化的伝統も物理的な距離も西洋から遠く隔たった我々日本人がオペラを再現する際に、常につきまとう永遠の問いである。もちろん、作品を「らしさ」という曖昧な文脈から切り離し、「世界標準」ともいうべき共通言語でくるんでも構わないという考え方もあるだろう。》

 この論点に従えば、要するに私は直感的に「らしい」演奏を期待していたようです。少し頭が固かったのかもしれません。このようなオペラの演奏に関する問題はこれからも何度となく考えていかなければならないと思います。

【その他の評価】
 注目していたエミリオ・サージの演出は、最初、立体的な舞台転換や構成など期待を持ちましたが、終幕に向かうに従って、あたかも常に赤く血に染まっていたかのような色づかいに象徴されるように、「運命」を表面的になぞったドラマとなってしまったことが残念です。
 アルヴァーロ役のロバート・ディーン・スミス(T)の声色は私の好みでした。
 新国立劇場合唱団は健闘していました。

 それにしても、いつか、底流を感じられる(「らしさ」を感じられる)『運命の力』の公演にも、出会えたらいいなと思います。

【データ】
ヴェルディ「運命の力」
2006.03.21 Tue. 15:00 新国立劇場(大)
井上道義(指揮) サージ(演出)
東京so.新国立劇場cho.
レオノーラ:シャファジンスカヤ S / ドン・アルヴァーロ:ディーン・スミス T / ドン・カルロ:ロバートソン Br / プレツィオジッラ:坂本朱 Ms / グァルディアーノ神父:コルホーネン Bs / フラ・メリトーネ:晴雅彦 Br / カラトラーヴァ侯爵:妻屋秀和 Bs / クッラ:鈴木涼子 Ms / マストロ・トラブーコ:加茂下稔 T

東京室内歌劇場『オルフェーオ』(2006年2月19日、紀尾井ホール)

2006-02-26 | オペラ公演
【オペラの第一歩】
 古典から現代作品まで幅広く取り上げて意欲的な舞台を手掛けている東京室内歌劇場が、紀尾井ホールで共催公演するシリーズの一貫として、モンテヴェルディの歌劇『オルフェーオ』を上演しました。『オルフェーオ』と言えば、現在、上演されるオペラの中では、最も古い作品。オペラの第一歩と言ってもいいでしょうか。この古典的名作を堪能しようとゆったりとした気持ちで鑑賞に臨みました。

【小ホール・オペラの醍醐味】
 普段、劇場や大ホールでオペラを観ていると、紀尾井ホールのような客席数800席のシューボックス・タイプのホールで、きめ細やかな舞台を味わうことは、これもまた実に贅沢だなと感じます。今回の鈴木敬介演出の『オルフェーオ』は、動きの少ない中で、このオペラの豊かな叙情性を活かし、落ち着いたいい演出だったと思います。
 でも2階バルコニーに「音楽の精」役がずっと表に出ていたのは大変そうでした。その割に、あまり効果がないような気もしたので、この演出はなくてもよかったかもしれません。

【脇役の充実vsタイトルロール】
 贅沢といえば、歌手陣。この東京室内歌劇場は、いつも日本のトップクラスの歌手で末端の役まで固めていて、しかも2日公演にもかかわらずダブルキャストになっています。一体、どういう予算で運営しているのだろうかと不思議に思いますが、贅沢なのは客席にとってうれしい限りですので、文句はありません。ただほんの少しの出番だったり、衣裳も似ていたりして、誰が何の役を演じているのか少し不明瞭になりました。ここは字幕で役名に触れるよう配慮するなど、工夫してほしかったところです。
 贅沢な脇役に比べて、最初から最後まで永遠と歌い続けるタイトルロールは、今回のチケット代程度にお金を取って聴かせるには多少無理があったかもしれません。人選の問題なので惜しい気がします。

【データ】
モンテヴェルディ「オルフェーオ」
2006.02.19 Sun. 14:00 紀尾井ホール
若杉弘(指揮) 鈴木敬介(演出)
東京室内歌劇場アンサンブル
音楽の精:波多野睦美 S / オルフェーオ:石崎秀和 Br / エウリディーチェ:大島洋子 S / 使者のニンフ:森永朝子 Ms / 希望:栗林朋子 Ms / プロセルピーナ:山口道子 S / プルトーネ:若林勉 Br / アポッロ:樋口達哉 T

新国立劇場『コジ・ファン・トゥッテ』(2006年2月11日、新国立劇場)

2006-02-13 | オペラ公演
【コジ・ファン・トゥッテの普遍性】
 そもそも『コジ・ファン・トゥッテ』は、普遍的なテーマを扱っていて、その人工的な話の展開からか、読み替えることも容易であるとみえて、様々な演出が施されることが多いオペラです。そのためか、やたら現代的に塗り替えられて、これは経費を削減しただけではないかと思わざるを得ないような読み替えも見受けられます。そういうときは必ずと言っていいほど、フェルランドとグリエルモのアルバニア人への変装が、ただただ奇抜な格好となります。本当にスタンダードで気持ちのよい『コジ・ファン・トゥッテ』に出会えないかな・・・とよく思います。
 
【結末への道程】
 そんなふうに思いながら、新国立劇場の『コジ・ファン・トゥッテ』を観てきました。昨シーズンのプレミエを逃していたので、舞台写真は見たことがあるという状態で、楽しみにしていました。コルネリア・レプシュレーガーの演出は、読み替えを行っていましたが、やりすぎでもなく、やらなすぎでもなく、バランスの取れたいい演出だったと思います。ただ、これといって特筆すべき点も見いだせず、何となく終幕となった・・・という味の薄さが気になりました。
 一点だけ引っかかったのは、最後にフィオルディリージとフェルランドが結ばれるという結末。別にそれはそれで構わないのですが、そのような結末にするのであれば、そこまでに物語を作っておいてほしいのです。違和感なく結末を迎えられるように幾重にも仕掛けを施しておいてほしかったと思います。ラストを小手先でいじって、はいユニークでしょと言われても、何となくスッキリしません。

【充実した音楽】
 演出面の味気なさに比べて、音楽面は、とても良かったと思います。オラフ・ヘンツォルト指揮の東京交響楽団は、モーツァルトの美しい音楽を体現していました。
 歌手陣では、ドン・アルフォンソ役のヴォルフガング・シェーネ(Br)が、豊かなデュナーミクに、変幻自在の声色を使い分け、実に巧い老哲学者を演じていました。こういう歌手に出会えるとうれしくなります。彼がタイトルロールを歌ったメンデルスゾーンの『エリア』のディスク(リリング指揮、バッハ・コレギウム・シュトゥットガルト)もなかなか聴かせくれます。
 グリエルモ役のルドルフ・ローゼン(Br)も堅実であり、柔軟であり、十分な歌唱。ドラベッラのエレナ・ツィトコーワ(Ms)は、2003年10月の『フィガロの結婚』のケルビーノ役で聴いたことがありましたが、今回のドラベッラを演じた姿の方が似合っていたと思います。声にも伸びがありました。また、今回の演出では最後にカップルとなるフィオルディリージ役のリカルダ・メルベス(S)とフェルランド役の高橋淳(T)も、それぞれいい声が出ていたと思います。
 忘れてはならないのが合唱。あのいかにも演技っぽい動きや女性の衣装のチープさには目をつぶって、とてもいい歌声を聴かせてくれました。
 モーツァルト・イヤーの『コジ・ファン・トゥッテ』。いいモーツァルトを聴いたなと素直に思える公演でした。

【データ】
モーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』
2006.02.11 Sat. 15:00 新国立劇場(大)
ヘンツォルト(指揮) レプシュレーカー(演出)
東京so.新国立劇場cho.
フィオルディリージ:メルベス S / ドラベッラ:ツィトコーワ Ms / フェルランド:高橋淳 T / グリエルモ:ローゼン Br / デスピーナ:中嶋彰子 S / ドン・アルフォンソ:シェーネ Br

新国立劇場『アンドレア・シェニエ』(11/23)

2005-11-28 | オペラ公演
【演出家アルローの挑戦】
 新国立劇場はヴェリズモ・オペラの名作、ジョルダーノの『アンドレア・シェニエ』を取り上げ、その演出にフィリップ・アルローを起用しました。
 確かにアルローは、2003年11月に同じく新国立劇場で『ホフマン物語』を演出し、このときは『ホフマン物語』の3つの世界観をうまく描き出し、公演を成功に導きました。しかし、『アンドレア・シェニエ』はヴェリズモ色の強いイタリア・オペラ。果たしてアルローの持つ独特の色彩感覚が通用するのだろうかと不安になりました。へたをすれば、ただの安い舞台になることが容易に想像できます。
 アルロー自身も《現代か、逆に18世紀以前の作品に興味がある。一つの「型」が完成した19世紀イタリア歌劇には関心がない》と語っています。確かにアルローの演出を見てみれば、ヴェリズモ・オペラとは相性が悪いと誰もが感じるに違いありません。その上で、今回の演出をあえて引き受けた彼は、《自分と闘って、新たな美学を打ち出す》という意気込みを見せていました(日経新聞インタビューより)。
 
【一線を越えた演出】
 そして、今回の演出ですが、私は結果が出たと思います。ヴェリズモ・オペラもこのような見せ方ができるのか、と感心しました。
 まずフランス革命期の断頭台をイメージさせる斜めの切り込みを利用したセンスのいい舞台の作り。また、さすが“色彩の魔術師”との評判が高い照明や映像の技術。全体の色調を白で統一しておくなど用意周到です。さらに全4幕にそれぞれ絵画のイメージを下敷きにしておき、理論武装も施されています。
 評価の分かれるところは、幕の最後で使った音響効果でしょうか。やはり音の効果はオケの音で勝負してほしい、そこまで演出が踏み込んでいいのか、と良し悪しの判断が難しいところです。また、ラストシーンで、シェニエとマッダレーナの名前が呼ばれる場面、そこでもマイクを通した声を使っていました。急に異質な声が現れる点で、強調されて効果的なのか、それとも音の流れが滞って邪魔なのか・・・私は少し引っかかりました。
 ただこのラストシーンに向かっての演出はすばらしいと思いました。オペラの原型を崩しているのにもかかわらず、違和感はありません。公演プログラムでアルローが《現代の我々が何を成すべきなのか・・・具体的なメッセージを受け取って頂ければと思います》と述べているように、子供たちを使って直接的なわかりやすいメッセージを発信していました。

【新国立劇場の運営方針】
 アルローの演出は成功だったと思いますが、それ以前にやはり私には新国立劇場の意図がよくわかりません。『ホフマン物語』の再演はわかります。しかし、なぜ『アンドレア・シェニエ』の演出をアルローに任せたのか。新国は実験の場ではないと思います。あの『フィガロの結婚』で始まったノヴォラツスキー芸術監督体制ももう少しで終わるので、そのときに改めて考えてみたいと思います。

【目玉歌手が降板】
 本来、ジェラール役はカルロス・アルヴァレス(Br)の予定でしたが、代わってセルゲイ・レイフェルクス(Br)が歌いました。はっきり言って、レイフェルクスほどの歌手が代役でなければ、私は払い戻しをしていたところです。
 マッダレーナ役のゲオルギーナ・ルカーチ(S)は堅実な歌唱。欲を言えば、マッダレーナの弱さも表現してほしかったです。タイトル・ロールのカール・タナー(T)に関しては、新国立劇場2003年11月の『トスカ』での出来を考えれば、なぜまた起用することにしたのか疑問が残りました。それから、ルーシェ役を歌った青戸知(Br)は焦点の定まらない歌唱。いい歌手と思っていただけに、少し不満が残りました。次に期待します。
 ミゲル・ゴメス=マルティネスの指揮は重かった。ヴェリズモ・オペラなので軽いのは嫌なのですが、そういう意味の重たさではなく、音楽が前に進まない意味の重たさでした。

【データ】
ジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』
2005.11.23 Wed. 15:00 新国立劇場(大)
ゴメス=マルティネス(指揮) アルロー(演出)
東京po.新国立劇場cho.
アンドレア・シェニエ:タナーT / マッダレーナ:ルカーチS / ジェラール:レイフェルクスBr / ルーシェ:青戸知Br / 密偵:大野光彦T / コワニー伯爵夫人:出来田三智子S / ベルシ:坂本朱Ms / マデロン:竹本節子Ms