「生」 谷川俊太郎
生きるのと生活するのを分けることが出来たのが、私の青春でした。そういう観念を抱いたのが幸運だったのか不運だったのか。生活から離れた生なんてありえないと今の私は思いますが、詩に求められているのは、もしかするとそういう瞬間なのではないかとも思います。生活を成り立たせている、あるいは縛っているさまざまな事実だけが現実ではない、その底になまなましい生の現実が隠れている。生活の衣装をはぎとって、裸の生と向き合うのは恐ろしいけれど、甘美でもあります。ですがほんとうの生とは、そんな意識の介在を許さないものかもしれない。「生きていてよかった」というような、通俗的な感慨の表現がどこかうさんくさく、気恥ずかしいのは、生きることの手ごたえはそんなひとことで言えるほど、やわなものでもうすっぺらなものでもないということを、私たちがちゃんと知っているからではないでしょうか。ほんとの生はもっと無口で不気味だと私は思います。
私の作に「生きる」というのがあって、これは予想外に多くの読者に恵まれているようです。ここでは私は生きることの手ごたえを現在の一瞬に求めようとしていて、過去と未来はほとんど無視されていると言ってもいい。つまり歴史から浮揚出来る一瞬とも言うべきときが人間にはあって、詩は基本的にそういう時間とも言えない瞬間に属している形式ではないか。それは日常の目から見れば非現実的な瞬間ですが、そういう瞬間に励まされながら、人間は長い一生を生きるものでもあると思います。「いま生きていること」という何の主張も含まない語句が、ある力をもった断言のように聞こえるのは、刻々と過ぎ去る「今」を意識することもまた、歴史のひとつの意識の仕方だからでしょうか。
「ことばめぐり」より「生」
掲載:「国文学」 1995年11月
収録:「ひとり暮らし」 2001年 草思社刊
(※文庫版「ひとり暮らし」 2010年 新潮社刊)
生きるのと生活するのを分けることが出来たのが、私の青春でした。そういう観念を抱いたのが幸運だったのか不運だったのか。生活から離れた生なんてありえないと今の私は思いますが、詩に求められているのは、もしかするとそういう瞬間なのではないかとも思います。生活を成り立たせている、あるいは縛っているさまざまな事実だけが現実ではない、その底になまなましい生の現実が隠れている。生活の衣装をはぎとって、裸の生と向き合うのは恐ろしいけれど、甘美でもあります。ですがほんとうの生とは、そんな意識の介在を許さないものかもしれない。「生きていてよかった」というような、通俗的な感慨の表現がどこかうさんくさく、気恥ずかしいのは、生きることの手ごたえはそんなひとことで言えるほど、やわなものでもうすっぺらなものでもないということを、私たちがちゃんと知っているからではないでしょうか。ほんとの生はもっと無口で不気味だと私は思います。
私の作に「生きる」というのがあって、これは予想外に多くの読者に恵まれているようです。ここでは私は生きることの手ごたえを現在の一瞬に求めようとしていて、過去と未来はほとんど無視されていると言ってもいい。つまり歴史から浮揚出来る一瞬とも言うべきときが人間にはあって、詩は基本的にそういう時間とも言えない瞬間に属している形式ではないか。それは日常の目から見れば非現実的な瞬間ですが、そういう瞬間に励まされながら、人間は長い一生を生きるものでもあると思います。「いま生きていること」という何の主張も含まない語句が、ある力をもった断言のように聞こえるのは、刻々と過ぎ去る「今」を意識することもまた、歴史のひとつの意識の仕方だからでしょうか。
「ことばめぐり」より「生」
掲載:「国文学」 1995年11月
収録:「ひとり暮らし」 2001年 草思社刊
(※文庫版「ひとり暮らし」 2010年 新潮社刊)
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