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【雑】バートランド・ラッセル(高村夏輝訳)「哲学入門」12章 真と偽

2016-03-08 12:58:21 | ウェブログ
※ざっくりとしたまとめ


(1)真と偽

面識の知識には二極性はない
真理の知識には二極性がある


真であることだけでなく、偽であることも信じることができる

信念のいくつかは間違っているはず
ところが、間違った信念は正しい信念と同じくらい強く信じられている


「どうすれば、間違った信念を正しい信念から区別できるか」が難しい問題となる
「わたしたちが何かを信じているとき、どうすれば自分の信念が間違っていないと知ることができるか」が最も難しい問題のひとつであり、完全に満足のいく答えはけっして得られない


それに答える準備段階として、それほど難しくない問題がある

「真や偽は何を意味するか」という問い
「この信念は真か偽か」という問いはどういう意味なのか
「真とは何か」「偽とは何か」

これをこの章で考察する


(2)真理(の知識)の本性

真理(の知識)の本性を発見するために踏まえなければならない論点、
いかなる真理の理論も満たさなければならない要請がある

1真理の反対、すなわち虚偽を認めるような理論でなければならない

2真理を信念の性質とする

信念が全く存在しなかったなら、虚偽も存在しえない。
真偽は信念または言明の性質であり、それゆえ信念や言明を含まず、物質だけからなる世界には真も偽も含まれない

3信念の真偽はつねに、信念そのものの外にある何かに依存していると認めなければならない

例:「チャールズ一世は断頭台で死んだ」という信念
この信念が正しいのは、信念がそれ自体としてもつ性質のためではなく、「250年前に起こった歴史上の出来事」のためだからである。
逆に、「チャールズ一世はベッドの上で死んだ」という信念は間違っている
この場合もまた、信念が偽になるのは「はるか昔に起こったこと」のためであって、それ自体としてもつ性質のためではないからである

したがって、真偽は信念の性質であるが、信念とそれ以外のものとの関係に依存するのであって、信念がそれ自体として持つ性質には全く依存しない

3番目の要請から、「信念と事実の間の何らかの形式における対応から真理(の知識)は成り立っている」という見解がでてくる

  哲学者のいままでの試み・斉合性の難点の指摘


「真理(の知識)の本性は事実との対応からなる」という見解へ戻って来る

残された作業は、
・「「事実」で何を意味しているのか」
・「信念が真でありうるために、信念と事実との間に成立していなければならない対応はいかなる本性を持つか」

この二つを正確に定義すること。


(3)「項」と「関係」
求めるべきは、以下のような真理(の知識)の理論である
1真理には反対、すなわち虚偽があることを認め
2真理を信念の性質としながらも、
3真理は信念とその外部のものとの関係に完全に依存するとする

偽を認めなければならないので、信念は心と単一の対象との関係であるとすることは不可能である
そうすることができたなら、その対象こそ「信じられているもの」であると言えるだろう
しかしそうしてしまうと、信念は面識と同じく真偽の対立を受け付けなくなる、つまりつねに真になってしまうだろう
→「信念は、心と単一の対象との関係からなる」としない理論を探すほうがよい

関係が成立うるのはつねに二つの項の間であると普通は考えられている
しかし実は、つねにそうであるわけではない
二つ以上項がなければ成立しえない関係があることは明らかである

偽の命題を正当に認めようとするなら、私たちが判断したり、信念を持っているとき、
そこには三つ以上の項の間に成り立つ関係が含まれているとすべきである。

「「デスデモナはキャシオを愛している」とオセロが信じている」という信念がある場合、
「デスデモナのキャシオに対する愛」や「デスデモナがキャシオを愛するということ」といった「単一の対象」がオセロの心の前にあるのであってはならない


なぜならそうすると,偽の場合にも、そうした対象( 「デスデモナのキャシオに対する愛」や「デスデモナがキャシオを愛するということ」)があり、それはいかなる心からも独立に存在するとしなければならなくなる
(→論理的に証明することはできないが、これは可能なかぎり避けられるべきである)


したがって、「心が、命題に含まれる様々な対象すべてに対して、別々に関わる関係」として判断を捉えたほうが、偽の説明がより容易になる


「デスデモナ」「キャシオ」「愛すること」のそれぞれが、そこで成立している関係の項になっていなければならない、ということである
オセロもまたこの関係の項だから、結局ここには、四項関係が成立していることになる。


四項関係とは、オセロはデスデモナに対してある関係を持ち、それと同じ関係を、愛することやキャシオに対しても持っている、ということではない

「信じること」はオセロが三つの項に個別に関わるのではなく、三つの項すべてに一度に関わる関係。つまり「信じる」という関係の事例は一つしか含まれておらず、「信じること」が四つの項を縫い合わせているのである


したがって、オセロがその信念(「デスデモナはキャシオを愛している」)を抱いている瞬間に、実際に生じているのは、「オセロ」「デスデモナ」「キャシオ」「愛すること」の四つの項を「信じる」と呼ばれている関係が縫い合わせ、一つの複合的な全体にしているということなのである。
「信念」や「判断」と呼ばれているのは、こうした「信じる」や「判断を下す」という関係に他ならず、それによって心は自分以外複数のものに関係づけられる。
つまり、信じたり判断したりという「心のはたらき」は、そうした何らかのものたちのあいだに、特定の時点で信じるとか判断するといった関係が生じることなのである。


(4)「真なる判断を偽なる判断から区別するのは何か」

ここで以下のように定義する
心:判断の「主体」(オセロ)
残りの項:「対象」(デスデモナ、キャシオ、愛すること)
主体と対象をまとめて:判断の「構成要素」

また、判断するという関係には、「向き」「方向」と言ってよいものがあることを押さえておく
比喩的に言うなら、判断は、その対象をある順序に並べるものである。
(二つの判断が同じ構成要素から成るとしても、「判断するという関係」が要素を違う順序に並べるなら、それら二つの判断は異なるものになる)

私たちは「判断する」や「信じる」と呼ばれる関係を、主体と対象を一つの複合的な全体へと縫い合わせるものとした。この点(主体と対象を一つの複合的な全体へと縫い合わせる点)では、判断とその他全ての関係はまったく変わらない。(関係はひとつの複合的な全体を存在させる。)

さらに「信じる」というはたらきがある場合には、「「信じる」という関係」によってひとつにされた複合物が存在し、その関係の「向き」によって、主体と構成要素となる諸対象が特定の順序に並べられているのである。


「オセロの「デスデモナはキャシオを愛している」という信念」の場合
主体と対象からなる複合的全体を統一しているのは、関係「信じる」である
→この複合的全体におけるセメントは関係「信じる」

さらに、仮に、この信念が真であるとすると、そのときには「デスデモナのキャシオに対する愛」という別の複合的な統一体が存在し、それは信念の対象だけを信じられているときと同じ順序でまとめることにより構成されたものだ。
この場合、 信念中では対象の一つでしかない関係「愛している」がそれ以外の対象を一つにする役割を果たしている
→この複合的全体におけるセメントは関係「愛する」


一方、信念が偽であれば、その対象だけからなる複合的な統一体は存在しない。


(5)結論
したがって、信念が真であるのは、信念と関連したある複合物に信念が対応するときであり、そうでないなら偽なのである

信念が二つの項とひとつの関係で並べられているとする
この場合、もし二つの項がその順番どおりに関係によってひとつにされ、複合物になっているのであれば、その信念は真である、そうでなければ偽である


こうしてわたしたちが求めていた真と偽の定義ができあがる

「判断する」あるいは「信念を持つ」とは、心をひとつの要素とする複合的な統一体であり、心以外の構成要素が複合物を作るかどうかでその真偽が分かれる
心以外の構成要素が、信念中と同じ順序で複合物を作るなら真であり、さもなければ偽である

(1)での問題提起
「真や偽は何を意味するか」という問い
「「この信念は真か偽か」という問いはどういう意味なのか」
「真とは何か」「偽とは何か」

(2)で残された作業
「真理(の知識)の本性は(信念と)事実との対応からなる」という見解において

「「事実」で何を意味しているのか」:心以外の対象で構成された複合的統一体

「信念が真でありうるために、信念と事実との間に成立していなければならない対応はいかなる本性を持つか」:
信念が真であるときとは、心以外の対象だけを含む複合物があり、その複合物が信念に対応しているときである。この対応が真理を確かなものとし、対応が欠けているなら偽であることになる。


したがって、真偽が信念の性質だとしても、それはある意味で信念の外にある
というのも、信念が真であるための条件は、信念あるいは(一般に)心を全く含んでおらず、信念の対象だけを含むからだ


心がある信念をもつとき、「正しく信じている」と言えるのは、
・心以外の対象だけを含む複合物があり、
・その複合物が信念に対応しているときである

この対応が真理を確かなものとし、対応が欠けているなら偽であることになる

こうして私たちは
a信念は存在するためには心に依存し、b真であるためには心に依存しない
という二つの事実を一度に説明したことになる

「オセロは「デスデモナはキャシオを愛する」と信じている」という信念の場合

「デスデモナ」「キャシオ」は対象項、「愛する」を対象関係とする
さらに、対象項が「信念と同じ順序」で対象関係によって一つに「デスデモナのキャシオに対する愛」という複合的な統一体があるなら、この複合物を信念の対応事実と呼ぶことにする

信念は対応事実が存在するなら真で、なければ偽である
(つまり、この信念は偽である)

心は真偽を生み出さない。
心が生み出すのは信念であって、いったん生み出した信念を (特殊な場合を除いて) 真にも偽にもできない。
信念を真にするのは事実であり、この事実はいかなる仕方でも(例外的な場合を除けば)信じている人の心を含んでいない。


真偽で何を意味しているのかが決まったので、次に、信念の真偽を知る方法にはどんなものがあるのかを考えなければならない。

この考察は次の章で



※「オセロー」
シェークスピアの四大悲劇のひとつ

将軍であるオセロはデスデモナと愛し合い、デスデモナの父の反対を押し切り駆け落ちして結婚をする
二人は強い信頼と愛情に結ばれた夫婦だった

あるとき、オセロは自分の部下であるキャシオを昇格させるが、キャシオの同僚であるイアーゴは、その昇格を妬ましく思い、キャシオをおとしめようと企む

そこでイアーゴは巧に罠を仕掛け、オセロにデスデモナがキャシオを愛していると錯覚させる
嫉妬に狂ったオセロはついにイアーゴにキャシオを殺すよう命じ、自らデスデモナを殺してしまう

しかし、デスデモナを殺したあと、イアーゴの企みは明かされ、真実を知ったオセロはデスデモナの死体の上で自殺する



※なんだかんだで,不倫おじさんの長々とした口説き文句と言い訳にきこえてきて,まあ,それはそれで好き

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※春休み期間なので,貸出期間が長くてうれしい
※しかし読書会等の関係で,しばらくラッセルとレイモンドカーヴァーしか読めない

※いしいしんじ「よはひ」