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ヨブ記 外観

2021-10-21 22:45:01 | 日記
ヨブ記(文字バージョン)
ヨブ記は奥深く一風変わった書です。
舞台はイスラエルから遠く離れた ウツという地ですが詳細はわかりません。
主人公のヨブはイスラエル人ではありません。
著者も、いつの時代の話かも不明です。
これはおそらく歴史的な背景などに気を取られず、
ヨブと彼が受けた試練、そこから生まれた問いに読者を集中させるため、意図的に伏せてあるのでしょう。
ヨブ記の構成は明解です。
短いプロローグの物語で始まり、短いエピローグの物語りで終わります。
そこに挟まれた中身は難解なヘブル語の詩で、
ヨブと友人たちと呼ばれる4人の人物との対話です。
この対話に続く神からヨブへの語りかけが、このセクションの結論となっています。
ではその内容を見ていきましょう。
プロローグはヨブの人物紹介です。
彼は公正で神を畏れ非の打ちどころがない人でした。
それから突然場面は変わり、御使いたちが神の前に立っているシーンです。
これは旧約聖書でよく見られ、神が世界を治めておられることを表す描写です。
ここでサタンと呼ばれる者が登場します。
サタンはヘブル語で告発者とか検察官という意味です。
ここでのやり取りはまさに法廷劇のようです。
神がヨブを正しい人として紹介すると告発者は正しい人に報いるという神のやり方に文句をつけます。
ヨブが神に従うのは繁栄させてもらっているからだと言うのです。
彼を苦しめて初めて その正しさが本物かどうかわかると主張したのでした。
神が同意したためサタンはヨブを苦しめます。
多くの読者にとってこの箇所は驚きです。
なぜ神は正しい人が苦しむことを許されたのでしょう。
きっと最後まで読めばわかると思うかもしれません。
しかしどこまで読んでもこの書は、その問いに答えてくれないのです。
プロローグで提示されているこの書の本質的な問いはこれです。
神は正義のお方なのでしょうか。
また本当に正義に基づいて世界を治めておられるのでしょうか。
この書の一番最後で神はその問いに応答しますが、ヨブがなぜ苦しめられたのかについての答えはありません。
プロローグは苦しみ、途方に暮れ、妻にまで非難されるヨブの姿で終わります。
そんなヨブに知恵を貸そうとする3人の友人が近づきます。
テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルです。
彼らもヨブと同じようにイスラエル人ではありません。
彼らは古代の中近東の神観と、人間の苦しみの原因についての当時の最も優れた思想を披露します。
ここからがヨブ記のメインセクションです。
まずはヨブが口を開きます。
友人がそれに答えると、ヨブがまた友人に答え、それに対して別の友人が答えるというのがこのセクションのパターンです。
ヨブと3人のやり取りは三回繰り返されます。
彼らの論点は3つに要約されます。
神は本当に正義な方なのか。
神は正義によってこの世界を治めておられるのか。
もしそうならヨブが苦しめられるのはなぜなのか。
ということです。
友人たちは世界で起こるすべての出来事において、
神の正義の法則が働いているはずだという前提のもとに、議論を戦わせました。
つまり知恵がありよい人間で神を畏れている人には、いいことが起こる。
神が報いてくださるから。
しかし悪に傾き愚かで罪を犯すなら悪いことが起こるはずです。
神が罰を与えるから。
ヨブが一貫して主張したのは、自分は潔白だということ。
だからこの苦しみは神の罰ではないということです。
プロローグを読んだ読者はどちらもその通りだと知っています。
神ご自身がヨブは正しく非の打ちどころがないと言っていたのですから、
無実を訴えるヨブは神を責めます。
神は正義によってこの世界を治めていない、もしくは正義のお方ではないと言うのです。
しかし友人たちは同意しません。
神は正しい方だと主張します。
つまり神はいつも正義によって、世界を治めておられるので、
責めるべきは神ではなくヨブだというわけです。
罰を受けるからには、ヨブは何かとても悪いことをしたに違いないと彼らは考えました。
そこでこんな罪を犯したはずだと決めつけさえしました。
ヨブはことごとく反論していましたが、やがてうんざりして彼らに見切りをつけると直接神に訴え始めました。
ここで注意すべてはこの時のヨブは支離滅裂だったとことです。
彼だって神は正義の方だと信じていました。
しかし今や自分の悲劇と折り合いをつけることができません。
それで神は意地悪だと感情を爆発させることもします。
この世界における不当なことは、すべて神のせいだとさえ言いました。
しかしそれを口にした途端彼は震えあがりました。
なぜなら神が正義であることを、本当は切望していたからです。
そこで最後にもう一度自分の無実を主張すると、
神に向かって自分に直接説明してくれと訴えました。
ここで新たな人物が登場します。
ブズ人エリフです。
彼はイスラエル人ではないのですが、ヘブル語の名前を持っています。
彼もヨブや3人の友人と同様に神は正しい方で、正義によってこの世界を治めておられると考えていました。
しかし人が苦しみを受ける理由については、他の人たちより深い考えがありました。
それは過去の罪に対する罰ではなく、将来罪を犯さないための警告かもしれない。
あるいは、人格を練り上げたり何かを学ばせるためかもしれないと、エリフはヨブが苦しみを受けた理由はわからないけれども、一つ確かなことは彼が神を不正な方だと非難したことは間違っていると言いました。
ヨブはエリフに答えることもなく、対話はそこで終わりました。
古代人の知恵は出尽くしましたが、疑問は解けなかったのです。
その時突然嵐の中に神が現れヨブに直接語りかけられます。
まず神は不正な方でこの世界を治める能力がないというヨブの訴えに答えるため、ヨブを世界のバーチャルツアーに連れ出し、
それらの秩序や起源についての質問を浴びせ始めます。
神が地球を創造し星座を造られたとき、ヨブはそこにいたでしょうか。
ヨブは太陽に昇れと命じたり、天気をつかさどることができるでしょうか。
ヨブには思いもつかない自然界の細々した一切のことに、神の目は行き届いているのです。
神は更に詳細を語ります。ヤギの住処や鹿が仔を産むときの様子、
ライオンやろばが餌を得る方法について。
これはどういうことでしょう。
ヨブと友人たちは、ある公式に沿って神が正義をもって世界を治めていると考えました。
しかしそれだけではなく、彼らは自分たちが世界で起こるすべてを把握できるという前提のもと、神がどのように正義を行使するかについて語れると思っていたのです。
しかし神が見せた世界の様々な事象は、彼らの前提を打ち砕きました。
この世界は広大で複雑な仕組みがあり、神の目はそれらのすべてに注がれているのです。
ヨブが知っていることなどほんのわずかに過ぎません。
ヨブは非常に小さな世界観から、神は不公平だと主張しましたが、それは神の無限の視点に立たないとわからないことだったのです。
もちろんヨブはそんな非難などできるはずのない存在でした。
この後神はヨブに自分たちが言っていたようなこと、つまりすべての罪に一瞬ごとに、正義の原則に従った罰を与えるような仕事を1日でもいいからやってみたいかと尋ねました。
この世界で正義を実行するということは、非常に複雑で簡単に白黒つけられないのです。
それから神は二つの被造物について語り始めます。
ベヘモテとレビヤタンです。
これはカバとワニを詩的に表現したものだという説もありますが、恐らく古代の中近東の神話で良く知られている生き物を指していて、これらは他の聖書箇所にも登場する。
神の良き世界に存在する無秩序と危険の象徴です。
しかしこれらは悪の存在ではなく、神はこの被造物を誇っています。
かといって安全な生き物でもありません。
つまり神が造られた世界は素晴らしく良いものですが、完全ではなくいつも安全とは限らないのです。
この世界は整った美しいものではありますが、時には猛々しく危険なものでもあるのです。
この二つの生き物の様に、ここでもう一度ヨブの苦しみから生まれる疑問を振り返ります。
天災であれ人災であれ世界にはなぜ苦しみがあるのでしょうか。
神はその問いには答えていません。
神がいわれたのはただこの世界はとても複雑で、
少なくとも現時点では苦しみを
避けられる場所ではないということ それだけでした。
ヨブは神の正義に質問を呈しました。
それに対し神は、ヨブにはそんなことを言えるほどの知識はないと応じられました。
ヨブは満足のいく説明を求めましたが神が求められたのは、
ただご自分の知恵とご性質に信頼することでした。
ヨブはそれに謙遜と悔い改めをもって応えました。
神を責めたことを謝罪し分を越えたことを認めました。
そして突然エピローグで終わります。
まず神はヨブの友人たちは間違っていたと言います。
彼らの正義についての考えはあまりにも単純で、神の知恵やこの世の複雑さには及びもつきませんでした。
それに対してヨブの神観は正しかったとされます。
しかしヨブは性急に結論を出し間違えていました。
それでも神はヨブの葛藤をよしとされたのです。
ヨブは自分の感情や苦痛を神の前に正直にさらけ出しぶつかっていきました。
それは苦しみの中で祈る姿勢として正しかったと神は言われたのです。
ヨブは良い行いへの報いとしてではなく、
ただ神からの恵みとして健康、家族、富をもう一度与えられます。
これがこの書の結末なのです。
ヨブ記はなぜ善良な人々に悪いことが起こるのかという疑問には答えてくれません。
むしろ苦しみに遭うときその理由を突き止めようとするより神の知恵に信頼するようにと語りかけています。
理由を問い始めるとヨブの友人の様に神を単純化してしまうか、
ヨブのように乏しい知識のまま神を責めてしまうものなのです。
だから自分の苦しみや嘆きを正直に神様の前に持って行き、
神さまが愛をもって取り計らってくださると信頼しなさいと勧めています。
これがヨブ記です。
 
 


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