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第一テサロニケ 

2021-02-03 11:52:14 | 日記

Ⅰテサロニケの概観
テサロニケの手紙第一。
これはパウロが一番最初に書いた手紙と思われ、その背景は使徒の働きに記されています。
パウロが同僚のシラスと共にギリシャのテサロニケへ行き、イエスについての良い知らせを宣べた一か月後、多くのユダヤ人とギリシャ人がイエスに忠誠を誓い、そこでの最初の教会を形成しました。
しかし問題も起きていました。
よみがえりのイエスこそ世界の王だというパウロの発言が疑惑を呼び、テサロニケのクリスチャンたちもイエスを王だと主張すると、ローマ皇帝への反逆罪で訴えられたのです。
これが厳しい迫害に発展し、パウロとシラスはテサロニケから逃げざるを得なくなりました。
二人はテサロニケの人々を愛していたのでこれはつらい決断でした。
パウロは後にテモテから、テサロニケ人は迫害にも負けずによくやっている、成長していると聞きこの手紙を通して彼らとつながろうとしました。
この手紙は大きく二つのセクションに分かれています。
前半(1-3章)では、彼らのイエスに対する誠実さを賞賛し、後半(4-5章)ではイエスに従う者としてますます成長し続けるように励まします。
そしてこの二つのメッセージを囲むように、3つの祈が記されています。
この手紙の構成は美しく、感謝の祈りで始まり、二つのセクションをつなぐ忍耐の祈りがあり、最後を締めくくる希望の祈りで終わっています。
パウロはまずテサロニケ人の信仰、他者への愛、そして迫害にも負けずイエスへの愛と希望を持ち続けていることについて感謝の祈りを捧げています。(1:1-5)
次に(1:6-10)テサロニケ人が信仰を持つに至った経緯を記します。
彼らはたくさんの偶像を礼拝していて制度的にも実践的にも、ギリシャとローマの神々を拝む文化に浸りきって暮らしていました。
そんな彼らが偶像を捨て去り、生けるまことの神に仕えるようになり神の子が天から再び来るのを待っているとパウロは語ります。
テサロニケのような街で、創造主であるイスラエルの神と、王であるイエスに忠誠を誓うことは犠牲が伴います。
地域では孤立し家族の怒りも買うでしょう。
しかしテサロニケ人たちは、自分たちのために死んだイエスの圧倒的な愛と、彼がまたこの世に戻ってこられるという希望は、その犠牲に値すると思ったのです。
それから(2:1-12)パウロはテサロニケでの使命と、その他の人々と築いた友情を非常に親密な関係にたとえて語ります。
彼らはパウロを自分たちの子どものようにみなし、パウロは彼らの母のようにあるいは父のようになったというのです。
パウロはあなたたちを愛しているから神の良い知らせだけでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと言っています。
パウロのこの姿はクリスチャンのリーダーとは、力や支配力によってなるものではないことを教えてくれます。
必要なのは相手との健全な関係そして謙遜と愛をもって仕える姿勢なのです。
パウロは自分は一度も金銭を要求したことはなく、ただイエスの名において愛し仕えたと書いています。
次(2:13-16)にパウロもテサロニケ人も受けている迫害について述べています。
イエスがご自分の民に拒絶されたように、パウロも自分の同胞であるユダヤ人に拒絶され、テサロニケ人もまた同胞のギリシャ人に迫害されています。
パウロはこれらの苦しみが、イエスの生と死の物語に連なるものであると言い、そこに慰めを見出しています。
次に(2:17-3:10)パウロは、自分とシラスが逃げたあとにテサロニケ人たちが受けた苦しみについて聞いた時、どんなにつらかったかを打ち明けています。
彼はテサロニケ人を励まし、様子を見させるためにテモテを派遣しました。
そして彼からテサロニケ人たちがよくやっていると聞いて喜びました。
彼らはイエスに忠実で神と人への愛に満ちていたのです。
そしてパウロが彼らに会いたがっているのと同じくらい、彼らもパウロに会いたがっていました。
パウロは忍耐を求める祈り(3:11-13)をもって前半を閉じますが、祈りの中で後半で語る内容も紹介しています。
まずテサロニケ人たちの愛を増し加えてくださいと祈り、また王であるイエスの再臨に希望を置いている彼らを強めさらにきよくしてくださるようにと祈っています。
手紙の後半(4:1-8)は彼らの生活をイエスの教えと一致させるようにというパウロの励ましで始まっています。
具体的には聖なる者となることを追い求め、性的にも聖くあれということです。
彼らを取り囲む性的に放縦な文化とは対照的に、彼らはイエスの教え通り結婚という聖なる契約関係の中でのみもたれる、性の美しさと力強さを味わうべきものなのです。
性的な罪はその人の品格を損なうので、神はそれに対して厳重に警告されているとパウロは言います。
イエスに従うということは心を決めて他者を愛し仕えることを意味します。(4:9-12)
だからクリスチャンは働き者として信頼を得るべきで、それも金儲けのためではなくしっかりと経済的に自立し、また貧しい者に惜しみなく与えるために働くのだとパウロは教えます。
そのあと(4:13-18)パウロはイエスが再び来られる時のことについて、テサロニケ人たちの疑問に答えています。
教会の中におそらく信仰のゆえに殺されたのであろう人々がいて、彼らの近親者たちはイエスが再臨される時に何が起こるかを知りたがっていたのです。
パウロは嘆きや喪失感はあるが死でさえも、クリスチャンをイエスの愛から引き離すことはできないと明言します。
王として戻って来られる時イエスは死んだ者も生きている者もご自身のもとに呼ばれます。
パウロはここで興味深い表現を用いています。
本来はローマの支配下にある街が、皇帝を迎えるために代表団を派遣して歓迎する時に使うことばを、王であるイエスの到来を描くのに使っているのです。
イエスもまた彼を出迎えて歓迎する代表団と空中で会い、義と平和の王国を打ち立てるためにこの世界に戻って来られます。
パウロはこの希望があるからこそ(5:1-11)イエスに忠実でいられることをテサロニケ人に伝えようとしています。
そしてまた平和と安全をもたらすのは皇帝だというローマのプロパガンダを茶化しているのです。
ローマの平和とは敵を奴隷にし、軍隊によって制圧する暴力によってもたらされます。
しかしイエスが王として戻って来られる日には、このような不正を裁かれるとパウロは警告しています。
王であるイエスに従う者は、未来のその日がすでに訪れているかのように今を生きるべきです。
たとえ人間の罪という闇に覆われていても、天にある神の御国の光がこの地上でも、夜明けのように輝き始めているので、しっかりと目を覚ましていなければなりません。
これらのことを勧めたのち、パウロは手紙の冒頭と同様に希望に満ちた祈りを捧げ、神が彼らをきよさで満たし、彼らが王であるイエスが戻られる日まで神に献身的で、責められるところのない者として保ってくださるようにと願います。
第一テサロニケは王であるイエスに従うなら、世の常識とは違うきよい生き方をすることになると教えてくれます。
このことは時に周囲からの誤解や反感を買います。
しかしイエスに従う者はそういう敵意や反発に対して、愛と優しさと寛容をもって応えるべきです。
そしてそいういう生き方はイエスの復活によってすでに始まっている、来たるべき王国の希望から生まれるのです。
きよさと愛と未来への希望を語る書。
これがテサロニケ人への第一の手紙です。


2021年2月3日 カレンムーアの心からの祈りより

2021-02-03 07:29:52 | 日記
2021年2月3日
カレンムーアの心からの祈りより
《知恵について》
箴言1:7
主を恐れることは知識の初め。
愚か者は知恵と訓戒を蔑む。
愛する主よ、この世で知恵と見なされていることが、本当の知恵であるとは限りません。人を学歴で判断するような間違いは、よくあることです。
人生について学べば学ぶほど、自分には知らないことばかりだということが分かります。あなたは、知恵を教えるために箴言を与えてくださいました。箴言は、あなたが求めておられること、そして、さまざまな状況でどのようにふるまうべきかを、教えてくれる書です。
今日、賢く行動し、賢く選ぶことができるよう、わたしを助けてください。あなたに感謝し、賛美します。アーメン。
アウグスティヌスの言葉
知恵には忍耐が伴う。