こんな命 どうでもいい
死んだってかまわない
そう思うことを、私は否定しない
自分がそうだから
だけど 自ら死ぬわけにはいかない
私を育てた、私のために 周りの目と戦ってくれた人への
「感謝」とは違う「責任」のようなもののために。
以下 命への思いに通ずるものがあります
ただ、とても残念に思うのです
今の若い方々は これを読んでどんなに感動しても
豊かに、平和に育っていて
過酷な世界を アニメの様にしか感じない・・
・・・痛みの感じ方が 我が身じゃない、と言うのかな?
そういう人があまりに多い気がする
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<長崎原爆の日>翌日生まれた子…原子野を歩き守り抜いた母
毎日新聞 8月9日(土)7時45分配信
長崎原爆の翌日、
なお多くの人が倒れた原子野に一人の男の子が産声を上げた。
福岡市早良区の日隈真寿男(ひぐま・ますお)さん(68)。
防空壕(ごう)の中で生まれ、消えそうな命を母が守り通した。
体をむしばむがんと闘いながら迎えた69年目の夏、
日隈さんは「感謝してもしきれない」
と亡き母への思いを改めてかみしめている。【平川哲也】
両手のひらに収まる赤ん坊だったという。
1945年8月9日、爆心地から約4.5キロ離れた長崎市西泊町。
自宅で閃光(せんこう)を浴びた母シヅさん(81年に70歳で死去)は、
逃れた防空壕で産気づいた。
暗い壕内で陣痛に苦しむ母に3~10歳の子どもたち5人が
ぴったり体を寄せ合い、夜明けを待った。
そして翌朝、小さな命は誕生した。
建設技師だった父松男さん(故人)は出征しており、
産後4日目で母は郷里の大分県を目指した。新しい命を懐に入れ、
幼子の手を引いて鉄道駅までの十数キロを歩いた。
焦土に水を求めるうめき声を聞き、
汽車では別の母親が息のない赤ん坊を背負うのを見た。
奇異の目にさらされたその母親は「死んでいて何が悪いの」と叫んだ。
そんな母の体験を、
日隈さんは家族で長崎に戻った戦後、10歳で聞いた。
きっかけは友人宅から持ち帰った写真だった。
母は強い調子で言った。「返しておいで」。
被爆死した遺体の写真だった。
母は初めて伝えた。
防空壕での出産、耳に残ったうめき声、
わが子を失った母親の悲痛な叫び--。
「多くの赤ちゃんが死んだのに僕は死ななかった」。
日隈さんは、8月10日に生まれた命の重さを知った。
同時に、乳飲み子を含む6人の子と原子野を歩いた母の強さを思った。
しかし、16歳で福岡県に移り住むと、
日隈さんが被爆者であることを意識する機会はなかった。
大学を卒業後、流通会社や製造メーカーに勤め、喫茶店も営んだ。
被爆者手帳は取得せず、同僚らに体験を語ることもなかった。
都さん(66)という伴侶を得て、2人の息子にも恵まれた。
だが母の死後、原爆が「追いかけてきた」。
会社の人員整理で職を失った翌年、60歳で前立腺がんが見つかり、
医療費が減免される被爆者手帳を求めた。
当初は原爆投下時に長崎にいたことを証明できなかったが、
母が生前受けていた被爆者を対象とした健康診断の
記録が決め手となって交付された。
「また母に救われた」。
戦後60年の節目でもあり、
福岡市の被爆者団体が募った証言集に母への思いを寄せた。
それから9年がたった今夏、
次世代に体験を伝えようと再び手記を書き始めた。
この間にはがんを再発し、心臓病も患った。
そしてこの夏、政府は集団的自衛権の行使容認にかじを切った。
「何キロも歩く反戦デモには参加できない。
書くことは、私に残された唯一の反戦運動なのです」。
それが亡くなった乳飲み子たちへの、
そして母への手向けになると考えている。
私は こういう話を 我事のように受け取る
そういう風にしかできない
この記事は 痛い
でも ご近所で聞く噂話では
90才を過ぎた人たちが受け取っている遺族年金
「なんとしても生きていてもらわなきゃ困る」と
笑顔で話す子や孫たち
痛くもない昔の戦争が若者の小遣いなのだそうだ
これは 悲しい
死んだってかまわない
そう思うことを、私は否定しない
自分がそうだから
だけど 自ら死ぬわけにはいかない
私を育てた、私のために 周りの目と戦ってくれた人への
「感謝」とは違う「責任」のようなもののために。
以下 命への思いに通ずるものがあります
ただ、とても残念に思うのです
今の若い方々は これを読んでどんなに感動しても
豊かに、平和に育っていて
過酷な世界を アニメの様にしか感じない・・
・・・痛みの感じ方が 我が身じゃない、と言うのかな?
そういう人があまりに多い気がする
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<長崎原爆の日>翌日生まれた子…原子野を歩き守り抜いた母
毎日新聞 8月9日(土)7時45分配信
長崎原爆の翌日、
なお多くの人が倒れた原子野に一人の男の子が産声を上げた。
福岡市早良区の日隈真寿男(ひぐま・ますお)さん(68)。
防空壕(ごう)の中で生まれ、消えそうな命を母が守り通した。
体をむしばむがんと闘いながら迎えた69年目の夏、
日隈さんは「感謝してもしきれない」
と亡き母への思いを改めてかみしめている。【平川哲也】
両手のひらに収まる赤ん坊だったという。
1945年8月9日、爆心地から約4.5キロ離れた長崎市西泊町。
自宅で閃光(せんこう)を浴びた母シヅさん(81年に70歳で死去)は、
逃れた防空壕で産気づいた。
暗い壕内で陣痛に苦しむ母に3~10歳の子どもたち5人が
ぴったり体を寄せ合い、夜明けを待った。
そして翌朝、小さな命は誕生した。
建設技師だった父松男さん(故人)は出征しており、
産後4日目で母は郷里の大分県を目指した。新しい命を懐に入れ、
幼子の手を引いて鉄道駅までの十数キロを歩いた。
焦土に水を求めるうめき声を聞き、
汽車では別の母親が息のない赤ん坊を背負うのを見た。
奇異の目にさらされたその母親は「死んでいて何が悪いの」と叫んだ。
そんな母の体験を、
日隈さんは家族で長崎に戻った戦後、10歳で聞いた。
きっかけは友人宅から持ち帰った写真だった。
母は強い調子で言った。「返しておいで」。
被爆死した遺体の写真だった。
母は初めて伝えた。
防空壕での出産、耳に残ったうめき声、
わが子を失った母親の悲痛な叫び--。
「多くの赤ちゃんが死んだのに僕は死ななかった」。
日隈さんは、8月10日に生まれた命の重さを知った。
同時に、乳飲み子を含む6人の子と原子野を歩いた母の強さを思った。
しかし、16歳で福岡県に移り住むと、
日隈さんが被爆者であることを意識する機会はなかった。
大学を卒業後、流通会社や製造メーカーに勤め、喫茶店も営んだ。
被爆者手帳は取得せず、同僚らに体験を語ることもなかった。
都さん(66)という伴侶を得て、2人の息子にも恵まれた。
だが母の死後、原爆が「追いかけてきた」。
会社の人員整理で職を失った翌年、60歳で前立腺がんが見つかり、
医療費が減免される被爆者手帳を求めた。
当初は原爆投下時に長崎にいたことを証明できなかったが、
母が生前受けていた被爆者を対象とした健康診断の
記録が決め手となって交付された。
「また母に救われた」。
戦後60年の節目でもあり、
福岡市の被爆者団体が募った証言集に母への思いを寄せた。
それから9年がたった今夏、
次世代に体験を伝えようと再び手記を書き始めた。
この間にはがんを再発し、心臓病も患った。
そしてこの夏、政府は集団的自衛権の行使容認にかじを切った。
「何キロも歩く反戦デモには参加できない。
書くことは、私に残された唯一の反戦運動なのです」。
それが亡くなった乳飲み子たちへの、
そして母への手向けになると考えている。
私は こういう話を 我事のように受け取る
そういう風にしかできない
この記事は 痛い
でも ご近所で聞く噂話では
90才を過ぎた人たちが受け取っている遺族年金
「なんとしても生きていてもらわなきゃ困る」と
笑顔で話す子や孫たち
痛くもない昔の戦争が若者の小遣いなのだそうだ
これは 悲しい