真の動物福祉牧場を目指して

長崎クリスチャンとヒマラヤ転生女神の物語

この物語は私が22歳の時、イランのタブリーズという街で急性腹膜炎になり、九死に一生を得た時に思い付いたものです。(一月ほど入院 モルヒネの後遺症で不眠症も一月続く)
人はいつ死ぬか分からないから、自分が生きた証を残したいと考え、当時イランでは反イスラエルのデモが起こっていて(核施設を爆撃された)、日本人として反核を訴える物語を書く事が、拾った命を有意義に生かす道だと考え、不眠症のハイな意識の中で物語を紡ぎました。

長崎クリスチャンの被爆物語は幾つか映画化され、アニメ映画も作られていますが、なかなか日本の外まで反響が及ぶ作品には成っておりません。
それはストーリーが些か内向き過ぎるからに思え、もっとグローバルな歴史と絡める事で、かつての長崎クリスチャンの存在は現代人にも大きく訴える力を持つだろうと思いました

ヒマラヤ転生女神については、その22歳の旅で二回目のヒマラヤ越えをし、当時も今も行くのが最も難しい聖地と言われるカイラス山にこの時巡礼し(検問超えや賄賂も必要)、チベット仏教に特別な興味を持っていた時期だった事から、ぜひ長崎クリスチャンの物語にトゥルク(転生女神)を招きたいと思い付きました。

ここで少し女性トゥルクについて解説しますと、彼女たちの役割はダライ・ラマの相談役(秘書)であると共に、女性としての目であり声でもあって、遠くに使者として送られる外交官であると共に工作員でもある。といった存在です。
結婚については本人の意志に任されており、歴代ダライ・ラマは子供を持つ母としてのトゥルクを重用して来ました。
トゥルクとしての認定基準は男とは大きく異なり、もっぱら器量の大きさ(良さ)から子供の頃に選ばれて、各地から集められたトゥルク候補がダライ・ラマの住むポタラ宮で修行をし、才覚が認められる事で認定されます。

そんなトゥルクと日本を結びつけるのは旅人しかなく、同じ時(1914)にヒマラヤの東と南から4人の旅人がラサを訪れます。
日本の旅人は長崎クリスチャン村の出で(慎語19才)、同い年の中国人(天臣)と共に旅しており、彼は長崎に亡命して来た貴族階級の子供です。
一方南からは、インド生まれのイギリス人で徴兵されるのが嫌になって逃れて来たジョンと、彼とは幼なじみの数奇な運命を持ったインド青年ガネシヤが加わります。
ちょうど同い年くらいのトゥルクが彼ら4人の旅の案内役となり、彼女は4人の中から慎語を結婚相手に選び日本にやって来ます。

その選考の過程は、当時のインドではイギリス式モノカルチャー(輸出商品作物しか作らせない)により多くの餓死者が出ており、そうした飢えた難民が押し寄せ「宇宙で最も邪悪な場所」と呼ばれていた当時の首都カルカッタにおける、トゥルクが主導となっての救済活動において選考が行なわれます。
この選考には食糧援助をするブータン王も加わったりして(実際にブータンは食糧援助を行った)、大立ち回りの末に一行はインドを追われ、東南アジアをへて日本の長崎に落ち着きます。

当時は世界中で革命だの独立闘争だの、ガチに国どうしの戦争も頻発しており、平和主義者は安住の地を求めて旅をする運命でした。
長崎クリスチャン村はそうした人達のシェルターとなり、ロシアや中国の革命から逃れて来た人々、インドやベトナム、フィリピンなどの独立闘争による亡命者、またはそうした革命や植民地の惨状に絶望して、平和な土地を探し求めるのヨーロッパの若いカップルなどが集まります。
こうした多様な人々を受け入れられたのは、当時の長崎クリスチャンが長年の弾圧を乗り越えて、世界大戦の合間にも関わらず東洋一と賞される教会とコミュニティーを作り上げ、日本の仏教とキリスト教のうまく融合した、慈悲と寛容の精神に溢れていたからです。
こうした文脈で、物語は登場人物がそれぞれの家庭と町づくりに貢献して行くストーリーへと続きます。
続きは今度は最後まで語る予定で、主人公(慎語)の母親(お清)と嫁(名前未定)を軸にして物語は進んで行きます。


名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る