ーー 人と人 殺し合うのは 愚かしく 神話においては 聖戦にせん ーー
これが私の望むところで、以前の物語でも戦いは描きましたが、みんな「聖戦」にして来ました。
それらを少し振り返りますと、最初の「Syn」では医聖である秦天臣が原爆を落としたトゥルーマン大統領に戦いを挑みますが、結局はガンで死にかけている彼を救うコトとなります。
次の「Shu-Shan」ではより熾烈な戦いを描き、前世のターシャは1人で100人の人民解放軍精鋭部隊を手玉に取りました。
そこで彼女は最期まで「不殺生の戦い」を完遂し、トゥルクの父親である孫文徳も命を投げ出したコトで秀祥(シュウシャン)は無事インドへ逃れられました。
前作の「Say」でも「1 vs 100」を描きましたが、それはトゥルクに育てられた熊と人との戦いで、そこへ狼使いの少年(シヴァ)を参戦させるのは見送りました。
私が「人殺し」を描くコトに抵抗感を持つのは、それをすると来世で「修羅界」に転生すると仏教で信じられているからです。
日本人には「修羅界」と言ってもピントと来ないかも知れませんが、チベット人にとってそれは大きな問題で、彼等は人を殺すくらいならば殺される方が善いと考えます。
それほど「転生思想」は彼等の生き方に強く影響を与えており、人を射つ時には慎重に足を狙います。
3ヵ月の防衛戦で人民解放軍は多くの負傷者を出しますが、死者は出ておらず、その訳をターシャはネット動画で説明します。
逆に蜂起軍はすでに大半が殺され、それでも「不殺生の戦い」を貫こうとする姿勢に、世界から熱い声援が送られるコトを私は望みます。