「ある紅衛兵の告白」はそうした心の傷みを乗り越えて書かれており、優れた文学作品と言えるノンフィクションです。
そこでは親を批判して死に追いやり精神を病んでしまった親友が描かれ、彼のような犠牲者を無数に生んでしまった共産革命を、厳しさと寛容さを織り交ぜて総括しています。
厳しく批判する事は、それが個人に向けられる場合は吊し上げになってしまいますが、体制を批判するならば逆に個人の権利を守る事となり、寛容な批判となり得ます。
体制批判が許されない専制国家では、個人批判ばかりが尖鋭化して文革の悲劇を生み、その過ちを総括した前書は発禁にされてしまいました。
中国の体制はもう世界革命を推進しようとはしてませんが、そのぶん内向きになり愛国心を子供達に植え付けようとしており、こうした本はその邪魔になると見なされた様です。
愛国心を持つ事は、それが排他的で独善的なモノでなければ問題ありませんが、中国はまだ疎外教育の影を引きずっている感があり、それは彼等が海外で逆に疎外される要因になっています。
海外の中国人は自分達のコミュニティーに引きこもる傾向が強く、かつては日本人もそうでしたが、これは単にシャイで言葉が不自由だったからで、中国人は特異なアイデンティティ故なので訳が違います。
このアイデンティティは体制に押し付けられたモノで、残念ながらそれは真実の歴史を総括できておらず、疎外教育のもたらした紅衛兵達の悲劇も総括されておりません。
チベットの占領と統治も総括されておらず、過度に理想化された革命の歴史を批判する事は未だに許されておりません。
勿論、中国の外では多くの亡命者によって「1984年」のチベットの状況は証言されていますが、その闇に閉ざされた高原の歴史を知る中国人はまず居ません。
こうした状況を生んだ要因は、恐らくはとても多くの人々の心の傷みが重なり、それが乗り越えらない壁になっているからだと思います。
そこで、この革命の心の傷を深く負った曹希聖に総括させ、それを意識不明の状態になってからも更に深く続けてもらいます。
希聖と行善は再び世を忍ぶ夜行の身となり、希聖は手押し車でチベットへ運ばれます。
彼は行善にチベット式の葬儀を頼んでおり、それに応じて行善は希聖の為に「チベット死者の書」を読み聞かせます。
これは49日もの永きに渡る葬儀で、死後にこそ人は解脱のチャンスを得るとして大事に行われています。
希聖はこの行善の導きにより傷ついた心を解き放つ、そんなシーンを描きたいと思います。